俯瞰と自我の粘り

無我とは俯瞰

自分をいかに活躍させるか、、そのために沢山勉強して沢山学んで、、、俯瞰して俯瞰して無我に近づいていく、大いなる存在に近づいていく、気づきの意識に近づいていく。。。だから人のことを客観的に見えるし、、観察力もつく、、、つまり悟っていくのです。ところが同時に自我は、、その観察する力を「俺」がやったと引き戻す、この観察は俺のものだ、、と引き戻す。。綱引きをします、、自我が暴れます、、、そっちに行っても俺はいるぞ!!!!です。俺をどうしてくれる????です。

俯瞰俯瞰俯瞰

俯瞰すればするほどに、、小さくなってしまった自我は、、、離れてしまった自我は、、その能力を俺のものにしようと暴れます。全能力は俺なだから、、、この能力を持った俺は、、もっと評価されるべき!!!!と激しく訴えます、、これしか自我が生き延びる方法はないからです。だから自我も死ぬ気です、必死です。。。半端ない大暴れです。俯瞰して自我を小さくできたからこそ、、その小さな自我は半端なく暴れるのです。おい!!!俯瞰してっけど、、その俯瞰って絶対に俺がやってんだからな。。。。です。

最後の落とし前

ということで最後の落とし前です、、、、、最後の決戦です。。。「お前は絶対にやってない」を証明しましょう、お前は俯瞰どころか、、、何もしていないのだと。認識は、、、、その場で起こります。現象はその場で認識されます。気づきはその場でしか起こり得ないのです。俯瞰とは認識です、、その認識はその場所で起こるのです。神が神として全現象を認識しその認識をこの体の中の意識がやっている、、という誤解を作り上げたのです。

体は何もしていないのか????

体も光を音を熱を言葉を認識できます、、認識はできるのです、、、ですがその認識は、、、この体ではなくこの体の中の空が起こします。。ここは説明が難しくなります。この体は光、音、熱とは同次元にあります、よって同次元の存在が同次元を認識することができません。ゆえに本質的には我々が思っているような気づきではないのです。本当はこの体の中の空が認識を起こすのです。