真我
全ての現象の体験者は「私」ではなく真我です。「私」は体験者にはなり得ません。なぜならば、、私こそが体験される側だからです。「私」が体験されるのです。だから私は何も体験できません。周囲の人間全員の自我は何も体験できません。何一つ体験は起こり得ません。全体験は真我の体験です。そういう意味では「体験」という言葉自体が矛盾を抱えています。ですが周囲を見渡せば「体験者ー私」で溢れかえっているでしょう。誰が今回の旅行体験者?????私です!!!が当たり前なのです。
じゃあじゃあ
「私」はじゃあ何をやっとんのですか???私の役割は何ですか????私が体験者じゃないのだとしたら何なんですか???存在意義ないじゃないですか!!!!!となります。そうです、、存在意義は全くないのです。だって体験してないんですから。。。ですがコミュニケーションにおいて名前は必要です、人格には名前があったほうが便利です。だから名前はあっていいんです。ですがその名前が指し示す体、人格、私は体験者ではありません。
では、、、、
今日この瞬間から体験者「わたし」は完全にお役御免になり、、体験者「真我」が思い出されました。体験者真我はではどこでこの全てを体験しているのか????この幻想の世界の外で体験者真我はこれを体験します。だから真我は体の中に住んでいません。真我の影がこの世界ですから、、影の中に真我は入り込んでしまったら影は消えてしまうのです。真我が影を見ます、真我が影を感じます。真我がこの個人ストーリーを体験します。
感情
このことが分かろうとも、、、感情は起こり続けます。何もなかったかのように怒りが起こるでしょう。。それを体験者真我として味わい尽くします。個人ではなく真の体験者真我としてこれを味わい尽くすのです。それは感情をストーリーに逃げることを避けます。三倍返しだ!!!!というストーリーへの逃避とは違います。これは真我があるがままに感情を感じるという全く違う展開が起こるのです。その瞬間次のストーリーに感情が逃げることなくここで感情が消化されていくのです。寂しい、、、だから友人をいっぱい作って、、、、じゃなく、、、寂しいを真我として味わい尽くすのです!!!