偽りの自分

行動から観察へ

何かをしなければの終焉

私たちは、、幸福になるためにやるべきことをやってきました。そしてやるべきことをしっかりとやる人が評価称賛を受けやるべきことをやらない人は評価称賛を受けないという社会を作り出したのです、見かけ上。つまり言葉だけでなくしっかりと行動する人が評価を受けるということです。ですから我々は苦しい時、、、やるべきことを一からやっていこうと、、こうなります。ですが残念ながらやるべきことを一生やっていっても本当の苦しみは消えないのです。

本当にやるべきこと

我々がこれから本当にやるべきことは「観察です」ただこれだけ、、これだけ????そうです。何を観察するのか????ただエゴの活動、自我の動き、、を観察するだけです。なぜそんなことでいいのか????それはこの苦しみを生み出している、、大元は、、、、世間でも社会でも友人でも知人でも配偶者でもなく、、、エゴなのです。えええ????そうです、、どんなに社会を政治を会社を毒しても一生この苦しみは癒えないのです。なぜか????それはこの苦しみとは、、私という感覚こそが作り出しているからです。

エゴは観察されるのを一番嫌う

エゴは実は観察されるのを一番嫌うのです、なぜか????観察するのは誰ですか?????エゴをエゴが観察するのは不可能ですよね????そうです、、エゴを観察するのは間違いなく自分じゃない「何か」なんです。何かにしか「自分」を観察できないんです、構造上。だから観察なんです。自分が自分として何かやるべきことをやる!!!その時代は終わりです。何かとして「自分」を観察する、、、これによって何かは「自分」という感覚を徐々に手放していきます。

松本人志のスキャンダルに慄く芸人

そのぐらいいいじゃん

有名人になったんだから、、、これだけTVで活躍してるんだから少しぐらいいいだろ????これが活躍しているタレントの本音でしょう。こんなに頑張って活躍できたんだからちょっとぐらい大目に見てよ、、、です。ですが残念、、周囲の自我は、、、芸能人だからこそ、有名人だからこそ、、、彼らのスキャンダルを待っています。自我とは恐れの塊です、、本当は無いにも関わらずフェイクで存在を誇示しています。ですからいつその事実を見抜かれるか気が気じゃないのです。パチモンのグッチを友人にプレゼントした際に、、いつバレるかを気にしている状態です。ですから自我とは恐れ慄く存在なのです、正式には全体が自我というパチモン劇場を上映しながならも同時にバレることを恐れている感覚です。どちらにしても怖いが常にあるわけです、バレルのが。バレてこの世に生存できなくなるのが。

だから人の失墜に安心しかつ怖がる

だからだから大物芸人の失墜に、、「自分じゃなくて良かった」という安堵感が起こると共に、、「次は自分か????」の恐怖心が襲います。つまり全く救われていないのです。「主人公がついに消滅させられるか????と思っていたら、、違う大物だった、、、」の巻です。大物芸能人のスキャンダルが続けば続くほど自分じゃなくて良かった、、が起こり、、、同時に次は自分か????が起こるのです。ですがここで重要なのは自我がその感情を作り出し、、それに恐れているのではないのです。自我という感覚が、、この世界に恐れを生み出し、、それを全体が気づいているのです。

なんのことはない

なんのことはない、、全体から生まれた自我という感覚が、恐れをこの世界に生み出しそれに全体が気づいています。自我が恐れを感じているんではないんです、自我を生み出した全体が恐れを感じているんです。もちろん全体は全体ゆえに「全体が」という感覚はないんです。どちらにしてもただ「自我の存在」「恐れの感情」が起き続けているのは確かです。

結局のところどうすればいいの????

どうもしなくていいのです、、、松本人志のスキャンダルでなぜ周囲の芸人が慄き、、これを見ている大人が「ホッとしなおかつ恐れるか」の真相に気づけばいいのです。これによって自我があるという「感覚」が薄れ、、それと同時に本当の安堵、平和が訪れます。芸能人のスキャンダルに反応するのは実は自我肥大による病気のようなものです。

思考と感情を無視する

「個人」とは思考感情発生機

個人が何かをやらなくてはならい時「思考感情」が大発生します。なぜか????個人としての何かをするということが既に苦痛を生み出すからです。個人というのは苦痛発生できであり、、だからこそその個人が何かをやらなくてはならいということこそが実はストレスなのです。ですから個人が何かをしなくてはならない時の思考感情は本当の苦しみとは種類が異なるため相手にしなくていいのです。

本当の苦しみは「個人」こそが作る

本当の苦しみは、、個人の活動ではなく、、、、個人という概念、感覚こそが作り出しています。ですからここといつ折り合いを付けるかが重要になります。個人とは何か???私とは誰か????という疑問に向き合うことこそが最重要になります。それをしないで、、活動のストレスを快楽で一時的に解消し続ければ、、本当のストレス解消には絶対に辿り着けないわけです。

便宜上作り出した「自我」を

生きていくために便宜上作り出した「私」というアイデアがまさかの真実であるかのように感覚としてこの体に染まり切り、、なぜ今苦しいかさえ分からずに陥っているのが世の中の「大人」です。無意識の自我の染色、無意識の自我の潜伏をもう一度、、有意識に戻します。自我という存在を意識的に意識するのです。自我を意識的に意識するのは意識「本当の自分」ですから、、ようやくここで「本当の安堵、本当の安らぎ、本当の平和」が訪れるのです。その時人は、、救われます。一筋の光を見るのです。

スーパースターの崩壊

俺がこんなことできるか???

どのスポーツでもスーパースターって存在します、チームのエース、球界のエース、、、ですが案外スーパースターの最後って残念な時があるんです。周囲が異様に気を使わなくてはいけない、、、周囲にスターが怒鳴り散らす、、監督の言うことに文句を言うようになるなど、、、、、これって説明が非常に簡単なんです。「スーパースターって多くの場合はかなりストレスフルなんです」なぜ???????みんなからチヤホヤされてなぜ?????最高でしょう!!!!違うんです、、、全く違うんです。。。。

「偽りの自分」が最最最強モード

結論から述べれば、、、スターとは、、、、、偽りの自分が最最最強モードなんです、、、人気者になればなるほど、、、自我はそれを自分の手柄にするんです、、、、、ですから自我が肥大化します。。。俺は特特特の特別だと。この世界は俺中心に回っているんだと。。。。なぜ手柄にするのか????簡単です、、本当は違うからです。本当は自我など存在しないのです、、、だから手柄をとったのは俺というイメージは最強なんです。自我を維持するには。

いつもイライラ

大御所タレント、大御所芸能人、カリスマ経営者、、、なんかイライラしているイメージないですか???????ありますよね!!!!そうですその通りなんです。彼らの多くは苦しくて苦しくもう耐えられないぐらいに苦しいんです。なぜ????それは自我が強烈にのさばっているんです。この快挙、この功績を得たのは「俺」だと。そして自我=分離感、孤独感、絶望感ですから、、、、イライラが止まらないわけです。功績をまんまと自我に奪われてしまったのです彼らは。

ウイルス感染

言ってみれば、、強烈なウイルスに感染している状態んです。自己増殖し尽くしているんです。一時的に解放されてストレスが減っても、、周囲がスター扱いすることで、、、「自我」というウイルスは途端に自己増殖を始めます。あの人は我が強いよね!!!と表現する時、、我って何????どこにあるの????って話ですが、、、感じますよね!!!強烈な自我をその人から。それはその人がその体の中に強烈な自我を感じているからです。

仕事に行きたくない

行きたくない!!が湧いてきたら

あー仕事に絶対に行きたくない!!!が湧いてくる時ってあります。その時にポジティブシンキング、、ポジティブシンキング、、、はしんどい。。。。ではなぜ仕事に行きたくないか???を冷静に観察してみましょう。先ず「仕事に行きたくない!!」というのは誰の感情なのでしょうか???間違いなく自分の感情ですよね????その主語は「私」です・I FEEL PAIN ABOUT WORKです。つまりこの痛みは私が作り出したのです。ではなぜ私は仕事が嫌いなのでしょうか????それは仕事をするのが「私」だからです。友人が仕事をするなら嫌じゃないんです。私だから嫌なんです。当たり前ですけど。。。じゃあ「私」がこの世界から居なくなれば当然嫌な感情も生まれないということですよね????大正解!!!

究極の解決

この世界に私がいるという錯覚を強く強く感じている人ほど、、「仕事に行きたくない」が湧きます。「私がいる」の感覚が薄ければ薄いほど実はこの感覚は薄くなります。「この体この思考この感情が私」というのは錯覚なんですね。生まれてきてあとから作り出したアイデアなんです。逆に言えばこのアイデアがあるから「働かなきゃ」が起こるんです。ですがこのままだと本当に苦しいんです。そこで真実に戻ることを選んでいきます。

自我が強いだから働く

なぜ人は働きに行くのか????それは自我が大きく作用します「この体この思考この感情は私」が埋め込まれれば、、この体を私が守らなくては???という思考が湧くんです。すると私は仕事をしなきゃ!!!が湧くんです。。だから就職できたんです。と同時に私で居るのは苦しいんです、辛いんです。圧倒的に自分を意識しないといけない仕事は辛いんです。これが自我のジレンマです。

自己超越

自己超越という言葉があります、大変上手い言葉です、自我の終焉、、、これは辛いんです自我にとって。自己超越とは自己自我を俯瞰するもう一つの自分を作りことです、実際には自我自己を俯瞰する意識を持つことです。自我であり続けるのは辛いんです、そこで自我というのは「この体この思考この感情は自分」という概念感覚ですから、、、そのことを意識し続けるのです。つまり意識が自我になりきらない状態を作るのです。仮面ライダーになりきらない子供みたいなものです。すると、、突然、、、安堵感が漂い始めます、、お風呂に入っているような緊張が溶ける感覚が起こるのです。

火事場のクソ力

別にこれは決して無理ゲーの話ではないのです。家事になれば誰でもそれは経験できます、非常事態になれば誰でも簡単にこのゾーンに入っています。自分というものに意識が向かなくなり、、、火事そのものに意識が向くと何故か平和な感覚が訪れ、、家事の対処に集中できるのです。非常事態そのものに意識が完全集中すると平和が訪れるのです。つまり苦しみを起こす「自分」に意識が向かないことで急激にノーストレスが起きます。

意識が意識に意識する

意識が思考に意織する

我々の多くは「意識が思考に意織しています」これが一般的な人間の在り方、、意識が「この体この思考この感情こそが自分」という概念を意織しています。その結果その概念がそのままここでイメージ化されイメージの世界に入り込むのです。と同時に分離感、孤独感、不足感という憤りが発生しそれも意織が意織します。結果その憤りを概念としての「私」が解決する動きが起こり、、思考というプログラムが落ちない状態にはいります。これが苦しみのメカニズムです。

一方

一方このメカニズムに気づきが起きた意識は、、思考に立ち上がりに対し、、思考で解消しようとするのではなく、、この思考が落ちるのを待つという解決策を取ることができるようになります。「この体この思考この感情は自分」という思考感覚が起こす不快感を、、意識として観察するという方法です。その結果思考が立ち上がっても不快感が起きない、、という状態になります。意識が思考の立ち上がりと同時に意識に意識が向くからです。意識が意識に意識が向くと、、安堵、平和、喜びの状態になります。これは感情とは全く違い本質そのものです。

苦しい時こそ

苦しいな、、嫌だなー、しんどいなーーーこの時確実に意識が思考に意織しているはずです。やりたくないバイト、相手をしたくない仕事パートナー、、、その時思考がフル回転してこれを解消しようとしますが、、、回転すればするほどにストレスが増すのを感じてください。そうではなく「苦しい、嫌だ、しんどい」が湧くのは対象に意識が意織していて「意織」では無くなっていることに気づきます。すると、、意織としてただ現象に気づくという新しいスタンスが生まれるのです。

子供に嫌なお使いをお願いすると

子供に「卵買ってきて」これをお願いした時に、、「嫌だー、、嫌だー」と本気で泣き出す子供がいます。これ「嫌なお願い」に対して湧いてくる思考を掴み取り、その思考に思考を重ね、湧いてくるさらなる感情を掴み取りさらに思考するという、、思考感情連鎖を野放しにしているのです。これによって意識が意識に意識できない状態、、つまり安堵から程遠い状態に入っているのです。

悟りのイメージ

あの人は悟ってるよね!!!そのような時人はその人に対して「感情がないフラットな状態」を感じているはずです。それは半分正しい解釈です、実際には意識が感情思考に意識せず、意識が意識に意識している状態を保持しているのです。ですから感情ではなく本質を味わっているのです、ただし味わっている「私」は居ませんが。

なぜそんなことを???

成功者に限って

なぜあの有名人がそんなことを????それっていっぱいありますよね!!!一般人よりも100倍恵まれているように見えるにも関わらず、、、なぜそんなバレることがわかるようなミスを。。。です。答えは簡単です、、「苦しみ」の根本原因を解消せずにストーリー上の解決ばかりを図りそれでも解決しないから自暴自棄状態に入っているのです。つまり誰か頼むから止めてくれ!!!です。

お酒がどんどん強くなる感じ

最初は少量で飲んでいたにも関わらず収入が増えることで良いお酒をガンガン飲めるように、、ところが毎晩飲んでいたら、、、、飲んでも飲んでも簡単には酔っ払えなくなっていく。そして毎晩毎晩潰れるまで飲んでしまう。「苦しみ」の根本原因に手を付けずに「私」が解消しようとすれば多くの人は全く同じパターンに入っていきます。

苦しみを刺激で解消しようとする試み

人間にとって娯楽とは「苦しみ」を一瞬忘れさせてくれる刺激です。本当は一切苦しみは片時も解消されていないのです。何か大きなモノを得たという錯覚で「意織」を騙しているのです。これは完全に騙しですから同じ手口では効果が無くなっていきます、結果より大きな騙しが必要になり、、最終的には止められなくなるのです。海であることを忘れた波は常に不足感を感じています、、その波がお金を手に入れた瞬間、、不足感が無くなったような錯覚を得るのです、、ですがお金を得ても海に戻るわけではないので、、根本の不足感が癒えるわけがないのです。ですからこの手口は二回目以降効果が薄くなります。意識を別の代替品で騙す方法です。

悟りすらも獲得しようとする自分

多くのことを成し遂げてきた、だから悟りも

私は獲れるものは全部得てきました。学歴、スポーツ、社歴、結婚、キャリア、財産、地位、名声、、、、だから私は最後悟りも獲得します。私って感覚を無くせば悟りを開けるんですよね????じゃあやったります。思い切っきりこれって自分が成し遂げようとしています。残念がら悟りはその個人が消滅することなんです。全部を成し遂げてきたこの最も親しい自分という感覚が抜け落ちることです。

自分って感覚はどこにあるんだろう????

そういえば自分って感覚はどこにあるんでしょうか?????目の奥????当然この体とリンクしていますから体に緊張といて残っているはずなんですよね。この感覚、この感覚が抜け落ちない限り、、どうしても私が悟りを開こうとしちゃいます。どんなにあらゆる情報を集めてもそれを集めている自分という感覚が残っていれば自分が肥え太るだけです。

自分が悟りたい、、は自分を強化する

悟りって何だ????覚醒って何だ????ノンデュアリティって何だ????追求すれば追求するほどに探求すれば探求するほどに、、、緊張感が出ますよね、、、その時に自分が居るって感覚は強化されているはずなんです。例の目の奥???あたりにあるやつです。体の緊張感が「この体この思考この感情は自分」という感覚を保持していますから、、それに気づき手放す必要があります。

私を取るか至福を取るか

私は至福を取れない

ノンデュアリティ、悟り、解放、、、、これらの言葉は魅力的に聞こえますね。。。。ですがこの言葉には、、私は到達できないのです。私こそが非ノンデュアリティ、非悟り、非解放を作る出す大元だからです。ですから私が解放に至る、私が悟る、私が目覚める、私が至福に至る、、、、というのは無理ゲーです。至福とはまさに私という概念、感覚が抜け落ちた状態、世界のことです。

でも確実にありますよね???

私っていう感覚、自分っていう感覚って確実にありませんか???体の奥、目の奥、、、個人差はあるんでしょうが。。。。この感覚が無くなるってありえるんでしょうか????この感覚がある限り、、至福ってありえないんです。なぜならばこの感覚こそが憤り、違和感、孤独感、分離感を生み出す張本人だからです。この感覚を所有しながら至福とか安堵とか平和とかありえないんです。

WE ARE THE ONE

無理無理、、、だって私という感覚がありますよね?????この私の感覚が孤独、分別、差別を作り出して居るんですから、、、、、みんなが一つなんて感覚を感じれるわけがないんです。この体の中に自分っていう感覚が抜け落ちた時に全てが理解できます、安堵、平和、歓喜そのものです。

あなたが絶望的なのは実は頭が良い

自殺願望

生きていてもいいことないし早く死んだほうがマシかも、、、結局生きるっていつまで経っても大変だからそんなに長生きしたくないかも、、、、死に対して実は肯定的な人って多いんです。ですがこれって決して自暴自棄とかそんな浅いものではないんです。この「私」この「自分」という存在は絶対に絶対に真の安らぎには到達できないんです。そうなっちゃてるんです、構造上。この世界から安らぎ平和を消し去っているのはこの「私」「自分」という感覚なのです。

自分が居なくならないと結局無理じゃね???は正しい

死ななきゃこれは解決しない、、という考え方は実は的を得ているのです。この体の中に自分という感覚をしっかりと持ったまま真の安らぎには到達できないんです。ですが死なないとこれは解決できないというのは実は真実ではありません。この体の中に自分が居るという感覚を手放してしまえば、、もう苦しめないということになります。ではどうやったらこの感覚を手放せるのでしょうか?????

「麻原彰晃は神だ」という洗脳

オウム真理教の問題が起こった時に注目されたのは信者の洗脳でした。「麻原彰晃は偉大な神だ」のような洗脳が信者にガッツリと入っていてこれが取れないのです。信者は彼を人間ではなく神と信じ切っていたのです。これは実は人間も同じ、この体の中に自分が居るという感覚は実は洗脳なのです。この洗脳があまりに強固なゆえに取れないのです。だから長生きしたくない、、という人が居るのです。

真実はシンプル

真実は大変シンプルです、、この体の中に自分が居るという洗脳が嘘を嘘で塗り固めるために、、複雑怪奇になっているのです。本当は至ってシンプル、、シンプルすぎて信じられないくらいなのです。ですから真実を理解するのは理屈上は全く難しくないのです。分かっちゃえば分かっちゃうということ、そして一度真実に関心が向けばもう戻ることはないでしょう、なぜならば他に関心が行くことに興味がなくなるからです。