偽りの自分

偽りの自分は名声に飢える

著名人に憧れるのはそこが桃源郷に見えるから

偽りの自分は常に何かに飢えています。偽りの自分は不足感製造機です。それゆえ偽りの自分は他人から称賛されることを望みます、他人から称賛されたら何かを得ることができるのでは?もしかしたらこの不足感を満たすことができるのでは?そう考えます。そして名声をすでに得ている著名人などはこの不足感を超越しているはずだ、この不足感を解決しているはずだと都合よく思い込みそこに憧れます。ですが自分の存在こそが不足感製造機なのですからその自分が何を手に入れようと不足感の製造とは何も関係がありません。

不足感の製造を止めろ!

偽りの自分が一番気づかなくてはならないことは「不足感の製造を止める」これに尽きます。不足感の製造を止めることなく名声、収入、安定を得ても何も解決にはなりません。何を得ようと次から次へと湧いてくるこの不足感が止まらないならば無限地獄は永続します。答えを言えば偽りの自分が本当の自分に戻らなければこの不足感解消ゲームが終わることはないのです。

偽りの自分がこれが偽りだと気づくには

偽りの自分が、、この偽りに気づくにはどうしたらいいのでしょうか?これが偽りであると気づくためにはこの偽りの自分を消してしまうことが一番です。自分を消す?意味不明に聞こえるかもしれませんが実は簡単です。無我夢中でゲームにのめり込む子供は自分を忘れています。実際にこのとき自分がいません、自分とは思考ですから。要は何かしらの作業、タスクに無心になって取り組むときこの偽るの自分を消せます。損得勘定、要領、利害を一旦忘れてその行為に入り込むことに意識を向けます。全ての行為を書道の達人のように入り込んでいきます、すると1日の中で無我の時間が増えていきます。偽りの自分がいなくなる時間が増えます、これを積極的に行うのです。損得を優先すればこれはできません、無心になる、無思考になる、、これを最優先することで皮肉にも自身が得そのもになります。利害を考えて一所懸命になるかどうかを考えるのではなく一所懸命に最初になってしまう、そうすることで利そのものなれます。

偽りの自分同士が争い合うこの世界

争いには参加しない

人の争いに参加する必要はありません。争いとは偽りの自分同士が不足感を埋め合うために行っているものです。自身から湧いてくるこの無限の不足感をいかに埋めるか、その解消のために争っています。ですからこの争いは無駄です。一時的には何かしらの不足感を解消できるかもしれませんがそれは何の根本的解決にも至らずまた次の争いに進みます。地球上で戦争が終わらない理由はここにあります。

争いを発見したら思い出す

争いとは自身から生まれる不足感を他人を使って埋めようとする行為です。本人は相手の非難すべきポイントを上げへつらいだから争うのだとそれを正当化しますが実はその目的は自身から湧いてくる不足感をそこで埋めようとしているのです。不足感を生み出しているのはこの偽りの自分を本当の自分だと勘違いしていることにあります。ですから争いに入るのではなくそこから本当の自分を見つけることに入ります。人の争いを見るときはそのような視点で眺めればそこから悟りに入れます。

偽りの自分を維持するのは大変

この心身こそは自分である、この体の中に自分がいる、、この発想を維持するのは大変です。なぜならばそれは偽り、錯覚だからです。この思考、プログラムを維持するのは大変だからこそ人は争うのです。争うことでこのメカニズム、プログラムを維持するのです。これは神の夢であり、神はこの夢の中で人間に扮しています。役にのめり込んでいます。ですが所詮は役ですからこれは危ういことでもあります。この体があるという錯覚はリアリティーがあり勘違いするには最高のアイテムです、五感という疑いようのない感覚がこれをよりリアルにします。ですがこの心身こそが自分であるという発想はどこまで行っても予想の範疇を超えることができずだからこそ人は争いを通じてその疑念を隠します。

偽りの自分を見守る本当の自分

偽りの自分は常に愛で守られている

人間はなぜ愛に飢えるのでしょうか?なぜ愛に渇望するのでしょうか?それは本当の自分は「愛」そのものだったからです。「愛」そのものであった自分自身が仮の姿として今人間をしています。仮の姿の自分、偽りの自分は、愛そのものであった自分を本質的に覚えていてそこに帰りたいと愛を求めるのです。誰かに愛されたい、、愛が欲しいとなるのです。ですが他人からもらえる愛は条件付きの愛でありその目的は達成できません。今自分自身を演じている本当の存在こそが「愛」であり実は愛を求める必要はありません。本当の自分が愛そのものであることを思い出すこれだけです。

愛に飢える、愛を探し求める

両親からいっぱいの愛情を受けたにも関わらずグレてしまう、愛に飢えて異性に走る、、、これはいつでもあります。両親から受ける愛は実は条件付きの愛です、両親は自身を勘違いしています。両親はこの心身こそを自分自身であると勘違いしていますから常に不足感で飢えています。そんな両親から無慈悲な愛、本当の愛をもらえることはありません。どんなにそれが美しく、深い愛に見えてもやはりそれは見返りを求めた愛なのです。自身を人間であると信じている限りはこの呪縛からは逃れられないのです。

人間から本当の愛をもらうことは不可能

人間とは不足感製造機です、不足感発生器です。この人間から愛をもらうというのは不可能です。本人が自身の不足感をいかに埋めるかで必死なのになぜ人に愛を与えることができるのか?という話です。赤ちゃんに対し母親が愛を注ぐことができるのは赤ちゃん自身が神だからです、人は神を目の前にした時にそのままで感動します。母親は愛を実はもらっているのです、目の前の神から。人間扮する神が言葉を覚えていくに従い自己主張が強くなっていきます、すると母親は子供に対し条件付きの愛しか与えれなくなるのです。勉強したら愛してあげる、いい子にしていたら愛してあげる、学校の先生の言うことを聞いたら愛してあげると。

相手を攻撃したい欲求が湧くのは、、、

攻撃することで偽の自分を確認する

「この心身こそが自分だ」これは偽りの自分です。この偽りの自分は時に他人を攻撃することで自分を確認するという手段をとります。他人を攻撃しますとその他人はこの偽の自分に対して反応をします。「何をいうんだ?」「なんて酷いことを、、」と何かしらの反応をしてくれます。こうして偽りの自分は自分の存在を証明して安心するのです。自分が偽りであると分かっているからこそこの偽りの自分は他人を利用して安否を確認します。世の中から今後も犯罪がなくならないのは、自我の延命処置のために他人を攻撃するというやり方ゆえです。

攻撃しても反応してくれない他人は用無し

偽りの自分は誰かれ構わず攻撃することはしません。ちゃんと攻撃に対して反応してくれる他人に絡みます。反応をしてくれない他人は自分の証明にならないからです、反応をしてくれるからこそ自分が居ることを証明できます、偽りですが。もしも自分の存在に絶対的な自信があるのならばわざわざ絡むなどのことをしなくていいでしょう。その存在が偽りだからこそ他人に絡んで安心したいのです、一瞬でも。

自分の存在が偽りであることは神(本当の自分)が一番よく知っている

これは神の夢です、神が見る夢です。神はこの夢の中で人間(主人公)を作りこれを自分であると勘違いすることでこの夢を永続させます。神がわざわざ人間に扮しているのですからこの存在が偽り、仮の姿であることは誰よりもよく理解しています。だからこそこの勘違いを永続させるために他人を利用するのです。人間としての自分に絡んでくれ、反応してくれ、過剰なまでに反応して欲しい、、、これが他人を攻撃したい欲求になります。