偽りの自分を見守る本当の自分

偽りの自分は常に愛で守られている

人間はなぜ愛に飢えるのでしょうか?なぜ愛に渇望するのでしょうか?それは本当の自分は「愛」そのものだったからです。「愛」そのものであった自分自身が仮の姿として今人間をしています。仮の姿の自分、偽りの自分は、愛そのものであった自分を本質的に覚えていてそこに帰りたいと愛を求めるのです。誰かに愛されたい、、愛が欲しいとなるのです。ですが他人からもらえる愛は条件付きの愛でありその目的は達成できません。今自分自身を演じている本当の存在こそが「愛」であり実は愛を求める必要はありません。本当の自分が愛そのものであることを思い出すこれだけです。

愛に飢える、愛を探し求める

両親からいっぱいの愛情を受けたにも関わらずグレてしまう、愛に飢えて異性に走る、、、これはいつでもあります。両親から受ける愛は実は条件付きの愛です、両親は自身を勘違いしています。両親はこの心身こそを自分自身であると勘違いしていますから常に不足感で飢えています。そんな両親から無慈悲な愛、本当の愛をもらえることはありません。どんなにそれが美しく、深い愛に見えてもやはりそれは見返りを求めた愛なのです。自身を人間であると信じている限りはこの呪縛からは逃れられないのです。

人間から本当の愛をもらうことは不可能

人間とは不足感製造機です、不足感発生器です。この人間から愛をもらうというのは不可能です。本人が自身の不足感をいかに埋めるかで必死なのになぜ人に愛を与えることができるのか?という話です。赤ちゃんに対し母親が愛を注ぐことができるのは赤ちゃん自身が神だからです、人は神を目の前にした時にそのままで感動します。母親は愛を実はもらっているのです、目の前の神から。人間扮する神が言葉を覚えていくに従い自己主張が強くなっていきます、すると母親は子供に対し条件付きの愛しか与えれなくなるのです。勉強したら愛してあげる、いい子にしていたら愛してあげる、学校の先生の言うことを聞いたら愛してあげると。

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