神が見る夢

存在として存在する

ただそれだけで至福

存在として存在するってどういう意味なのか????そこには個人という概念、自分という概念、私という思考、我という観念が起きていない状態です。その思考が起きなければそこには存在として存在する以外にありません。そんな場所どこにあるんですか???どこにもないですよ、ここです。このこれです。

目の前の人

目の前に人(これも概念)が居れば、、この人の名前は何々で、、、という思考が湧いてくる、、湧いてこなければ、、これはこのまま、、、ただ存在が存在としてあるだけ。湧いてきてこそに意味をつけるからストーリーが始まる。その人が居て私が居る、、、というストーリーが始まる。始まったとしてそれはそれで何も問題はありません。この事実を理解するだけ。

思考が湧けばストーリーに、思考が湧かなければ存在のみ

本当はこれだけです、本当にこれだけ、、、そこから思考が湧いてきてその思考が読み取られ意味が生じる、、そして湧かなければ存在だけがここにある、、存在が存在するだけ。思考が起きた時に何が起きるか理解できますとその後に思考が湧いてこなくなります。事実を事実と認識できますと、、存在が存在するだけの世界になります。

私は何にも巻まれない

全ては私の中で起こっている

問題というのは対象があってそれがこの見かけ上の私に関係することです。台風が私の家を直撃する。酔っ払いが私に絡んでくる、、、などなどです。例えを上げればキリがないでしょう。悟ればこれがどうなるか????全ての現象は私の中で起こるのです、、私というスペースの中でただ現象が起こるのです。例えば誰かがこの見かけ上の私に殴りかかってきても、、それがただ私というスペースの中で起きました。なぜそうなったか???なぜそうなったかを今考えることでストーリーが立ち上がるのです。

真実の中にストーリーを立ち上げる

真実の中では何も起きていないのですが、、ここに思考を起こせば、、ストーリーが展開します。なぜ???どうして????という思考が起こることでストーリーが始まるです。どうして殴ったんですか????これを相手に聞くことで、、、「こうこうこういう理由だ」という言葉が湧き上がり、、それまでの経緯が今誕生するのです。このスペースで起きていないことは何も起きていませんから本当は何も経緯はないのです。私というスペースが感知できない事象は存在しません。

警察官が問いただせば

警察官が相手に「なぜ殴ったんだ???」と問いただせば、、「ムシャクシャしていた」みたいな回答を得るでしょうが、、その事実はこの空間では起きていないのですから起きていないのです。私というスペースがその事実を認識していないのですから。そして私がこの男性から殴られたという解釈が起こった時にだけ「腹立たしい」という感情が湧くのです。本当は「痛い」、、が起きただけ、、それだけです。それ以外は全て思考が作り出したストーリーです。

自作自演

このドラマは、、

このドラマは完全無欠の中で繰り広げられるわけですから不幸になるには間違いなく自分の力でなるしかないんです。本当の主人公は完全無欠至福歓喜平和ですし実はその中(本当の主人公)でしかこのドラマは上映できないんです。ですから気を抜けば至福に逆戻りです。つまり偽りの自己を維持することでしか苦しみを感じることはできないのです。だから偽りの自己がやるべきことは「偽りの自己」を維持するこれだけです。

気を抜いたら至福に戻ってしまう

今映画を上映している映画館は「至福平和歓喜」しかない場所です、、この中で至福平和歓喜以外になることは絶対に絶対にできません。もしもこの中で苦痛をかんじることが可能だとすれば上映中の映画の中だけなのです。映画というフィクションの中だけは苦痛を感じることができます。そのために重要なこと「この体この思考この感情のみが自分」という役に入り込むことです、ここを頑張ってもらわないと苦痛を感じることはできません。

偽りの自己が嘘なのは明白

完全無欠の存在(映画館)において上映中以外は平和歓喜至福しかありません。映画の中に入り込むためには「自身はこの体この思考この感情である」という思考が湧き続けるしかないのです、、、これが湧かない時は平和至福歓喜に戻ってしまいます、つまり上映外に。上映内、映画の中に留まるためにはどうするか?????「この体この思考この感情が自分」というデフォルトを一切崩すことなくこの映画の中で彷徨い続けてもらうしかないのです。何があってもこのデフォルトを崩したら終わりです。逆に言えばこの初期設定をしっかりと維持してもらえれば何をしようと何を達成しようとどんな裕福な生活をしてもらおうと全然問題は起きないのです。

偽りの自分に気づく????

ただしここで問題が起こります、、見かけ上の全ての豊かさを手に入れても至福歓喜平和に至れない「偽りの自分」は、、、この延長線上には至福がないことに気づいてしまいます。だって今までの努力が全くもって結果を出していないからです。ではここから「偽りの自分」をどうやって維持するのか????そこで役に立つのがスピの世界なんです、霊的向上、霊的進化です。しかしそこまでくると半信半疑、いやーこれって今までと同じだろ???です。

この辺りから

この辺りから、、、、自分って存在をやっている限りは無理では???という疑問が起き始めます。どうやら悟りってジャンルに入り込まないと難しいんじゃん????となっていきます。観念がそうなりますからそれらの情報が徐々に入ってくるのです。最初の内は玉石混交、、、な情報ばかりですが徐々に真実に近づく内容が集まり始め、、、最終的にこの偽りの自分が壊れ始めるのです。

真実を知るだけで思考が湧かなくなる

分からないから思考の連打が始まる

なぜ????苦しいんだ??なぜストレスが溜まるのか????考えても考えて思考が止まらないのは?????本質は至福を求めてうるからです。至福生まれ至福育ちの本質は、、そこをしっかりと覚えています。幼少期の至福に包まれた感覚これをしっかりと覚えています本質が。その本質の中にこの私(体と思考)が突如誕生し、、急に雲行きが怪しくなってきました。なんだか知らないがストレスが溜まる????

イヤだイヤだ病

おもちゃをあげても直ぐに捨ててしまう、、全部イヤだイヤだ、、、が始まる。。子供のこんな光景みたことありますよね????お母さんもどうしていいか分からない。。。。至福しかしらない本質に自我が芽生えていくことで、、同時に憤りを感じるようになるのです。自我とは思考です「この体この思考は自分」という思考です。この思考が湧き上がるたびに、、それは体に反応し「憤り」を感じるようになっているのです。星飛雄馬の強制ギブス、、これが自我です。

本当は誰だ????

このドラマ、この映画をみているのは本当の私なんです。本当の私が今このドラマを見ているんですから、、「本当は誰なんだ????」という疑問は常に実は起き続けています。ですがそれが深い深い場所で起きているから気づかない、、だから憤りだけが起こり続け、、その憤りがあらゆる感情に変容しているのです。幼児のイヤだイヤだ病、中学生の反抗期、高校時代の酒、タバコ、大学時代のギャンブル中毒、、などなど。

「この体この思考が私」という偽情報を信じる本当の私

世界80億人が「この体この思考が私」という思考を信じていようと、、この夢を見ているのは本当の私ですから、、、「本当の私は誰だ???」は常に常に起こるのです。本当の私は「この体この思考が私」になる前の感覚をしっかり覚えていますから、これがフェイクなのは分かっているんです。だから思考が湧き出し湧き出し次のアクションを求めるのです。

本当の私とは???

本当の私とは「この体、この思考が私」という偽情報が起こるスペース、スクリーンです。そしてその偽情報に気づく存在です。そしてこの体、この思考を起こす場所です。そしてこの体、この思考以外の現象の全てを起こす場所です、そしてそれに気づく存在です。この大いなる存在の中で私劇場が起きているだけなのです。「この事実を理解する」が起きた時に、、思考の荒波が止まります。「憤り」が消えるのです。

アフリカから来た転校生

学校に行ったらビックリ

大草原が広がる大地に住んでいたアフリカの青年がたまたま東京の学校に通うことに。その青年がクラスに入ってみた印象はどうでしょうか???恐らく「重苦しい」でしょう。なぜ日本の学生はこんなに一生懸命勉強しているんだ??しかも楽しそうじゃない。なぜこんなに先生の意見をそのまま聞くのか???しかも楽しそうじゃない。なんで学校終わりに運動を強要されているんだ???しかも楽しそうじゃない。

現実を知らないからさ

その青年が日本の学生にそれを伝えると「それは君がまだ現実を知らないからさ」と回答を受けるでしょう。今に分かるよと、、、、ではこの青年が認識してる世界、、そして日本の学生が認識している世界、、どちらが本当の世界なんでしょうか????この青年が認識している世界です。なぜ言い切れるか????真実には至福しかないからです。緊張なんてないんです、、緊張を起こすことができるのは「思考」のみです。思考とはイメージ、概念、幻想です。そうです幻想の世界でしか緊張、重苦しさを起こすことはできなんです。

夢の中にどっぷり

夢の中に浸かってのは日本人の方なんです、幻想の世界に閉じ込めらえているのは日本人の方なんです。その日本人がアフリカの青年に「君は現実を知らないからさ」という言葉を伝えますが、、、嘘です、、真実は至福しかないのですから、、、緊張、重苦しさ、不安の中に居る日本の学生こそが、、言葉が作り出した夢、幻想、ドラマに住んでいるんです。

本当は何も起きていない

解釈の世界の住民たち

悟りが起きるとビックリします「本当は何も起きていない」のです。朝起きて目を覚ました。景色が視界に入ってきます、、、ただあるだけがあります。外で鳥の声が聞こえます、、、本当は、、ただ何かが起きただけです。お腹が空いてパンを食べます、、、本当はただ何かが起きただけです。我々は直ぐに主語述語の世界に入りますが、、本当は何も起きていないのです。主語述語の世界を勝手に意味づけして作っているのです。

朝コーヒ豆を擦って火を入れコーヒーを出す

これは大人にとってはこの事実は起きています。ですが犬がこれを見た時には、、何かが起きただけ、、起きたすらも言葉ですから、、犬にはそうも映っていない。人間は真実としてそれが起きたと本気で信じている。ですが本当は何も起きていないのです。

何を言いたいのか????

我々があらゆる物に名前を付けて名前を呼び合って生活するようになったのは何のためですか????それはその方が便利だったからです、、それだけですよね!!!!幸せになるためにじゃないですか????違うんです!!!!最初は至福しかなかったんです、人間には。だから幸福になるために名前なんて付けてないんです。たまたま便利だったからなんです。つまり言葉は便利になるためのもの、終わりです。

不幸は言葉が作り出した

私って全然最近ツイテなくて、、不幸な感じ。。。違うんです、、これは言葉で持ってドラマを作り出し不幸を感じているんです。言葉を真に取りすぎています。本当は何も起きていないんですから至福でしかないんです、本質は至福ですから、、そこに言葉で毎日毎日ドラマを作り出し、、みんなで不幸病になっているんです。最近の政治はこうでああで今後相当景気が冷え込むみたい、、、、、というドラマを言葉で作り出す心配を味わうというドラマです。

見なければいい

そういう不安ドラマ、不幸ドラマ、孤独ドラマに飽きたならば見なくていいんです。周囲であらゆる言葉が飛び交いますが、、無視してください。ドラマの話ですよね????で終わりです。そのドラマが好きならば聞いてください。好きなドラマじゃないのならば聞かなくていいんです。本当は至福しかなくて、たまたま便利だからと言葉が発達し、、その言葉が一人歩きをして、、本当にドラマ(主語述語の世界)が実在するかのうように思い込み始め、、、不安症、孤独症に陥らないでください。

偏見の塊=観念

夢を夢たらしめるもの

これは夢です、完全に夢です。我々が幼かった頃、、一日という概念すらありませんでした、、起きて目に映る何かと戯れ、気づけば寝ていて気づけば起きていて、、寝ようという動機もなく、、自分という存在すら居ない、、、時間という概念もない、、、ただ「在る」をやっていたわけです。ところが言葉を覚え始めた頃から全ての目に映る何かに「これは何???」を連発するようになるのです。そして目に映るすべてに名前を付けていき、、徐々に徐々にただ「在る」の世界から夢の世界、ドラマの世界が浮かび上がっていくのです。

自我は比べるのが大好き

あらゆる何かに名前を付け終わると、、、今度はどっちが強い、どっちが好きか???とそれらを比べることを覚えていきます。「私」と「妹」どっちが好き????「アンパンマン」と「バイキンマン」どっちが強い???と分離した確固を比べるということを始めていきます。こうやって強弱、優劣、短長をそれぞれに付けながら関係性を築いていくわけです。この延長線上で我々は人間に対しても優劣、強弱、老若と比較していきます。本当はたった一つのエネルギーに無理くり名前を付けさらに比較するということをやります。

この偏見がそのまま観念になる

この偏見の寄せ集めが観念になり、、その観念を通して我々はこのたった一つのエネルギーを完全に分離比較して見るというドラマを生きることになるのです。その結果あらゆる思考、感情が湧き上がりそれを「私」が回収していきます、見かけ上。幼児を除けば人類全員が偏見を寄せ集めた観念を所有しそれを通じてたった一つのエネルギーである世界を独自の世界(夢)に置き換えて見ているのです。

そう見えているだけだ

この事実が理解できてきますと、、見えている物に対し、、、それをそのまま信じるのではなく、、、今はそう見えているんだな、、、という俯瞰した感覚が芽生えてきます。例えばある人に対し嫌悪感を抱いても、、今はそう見えているんだな、、、と一呼吸置けるのです。そう見えているのは私の観念がそうさせているという感覚を持てるのです。私を取り巻く環境がこう見えているということは私がそういう観念を持っているからだ、、、という真実に照らした生き方ができるようになるのです。そして我々は真実そのものですから真実にやがて吸収されていくのです。

スクリーンが何かを成し遂げたいなど思うはずがない

全体、スペース、スクリーンはそのままで完全

我々の本質はこの現象を映し出すスクリーン、スペースです。この全体であるスクリーン、スペースが何かを成し遂げなきゃ、、、などと思うはずがなく、、、それらの感情、思考は「私が居る」という洗脳が生み出したものです。つまり完全なる現象です、その思い自体が。スクリーン、スペースは我々の本質、本性なのですが、、もしも脱洗脳、アンインストールが成功し「私が居る」がないのならば、、何かを成し遂げたいという思考は湧いてこないでしょう。何かを成し遂げたいという思考の現象は「私が居る」という洗脳とセットです。

在る、在る、在る、、、、からこの私が在るへ

在るという感覚、、これは幼児ですら持っています、、、在るは動物も持っているはずです。在るという感覚、、、これだけは失うことのない感覚なのです。在る=仏性、キリスト意織、神意識です。この在るという感覚と、、、この体が在る、、、という気づきが起き、、、次のこの体として在る、、、、この私(体)として在る、、、と洗脳が進んでいきます。最後は私は〇〇という名前で在るになります。気づきの全てを、、この私が気づいた、、になっていくのです。すると同時に不足感、違和感、分離感が湧き起こり、、それを埋めるために解消するために、、、何かを成し遂げなきゃ、、、が生まれます。

スクリーンに何かが上映された瞬間、気づく、在るが生まれる

スクリーンに何かが上映される、スペースに何かが現象化する、、、その瞬間、、、それに「気づく」が生じます、、「在る」が生じます。そして上映、現象化は随時行われますから、、気づく、在るが永遠に続くのです。これが我々の本質そのものです。その中でこの体は常に現象化、上映されますので、、この体が「気づく」「在る」全ての現象、上映を。。。。。という真実ではない思考が湧き上がり、、、それが定石になっていきます。この体が現象に気づき続けるので(誤解)、、、、この体の中には全てに気づく『人格、アイデンティティ』が存在するはずだ、、という思考も起こるのです。

そしてそれをお互いに共有する

人間、人類はこの思考を代々受け継いできました。この体が現象に気づき、この体の中には人格が存在すると。だから生まれた子供にこれを伝承していくのです、当たり前のように。私の体がこの現象を観察し思考し自由意思を行使しながら生きていく、、、という人生ドラマが始まるのです。私があらゆる経験をしその経験を重ねていくことで私の価値観、観念が形成されていきそれがこの夢にさらに投影されていきます。そして私の観念が投影された現象(夢)をみて「やっぱり!!!」が起きるのです。

こうやれば上手くいく

こうやらなければ上手くいかない

これは夢です、完全に夢です。この夢の中で「こうやれば上手くいく」を確信しますと、、その思考、概念、観念がこの夢でそのまま投影しそれが現実であるかのように見えるようになります。逆に言えればこうやらなければ上手くいかない、、、も同時にこの夢の中で投影されていくのです。「都会に行けば上手くいく」この観念が強固になれば「都会に行かなければ上手くいかない」が観念化するのです、そしてこれがこの夢で投影されます。

「都会に行かなければ上手くいかない」が観念化すると

田舎をありのままには見れなくなります、田舎に行くことになればネガティブな感情が湧くようになります。もう田舎が光り輝いてはみえなくなるのです。子供のころは全てが光り輝いていたのが、、観念が投影された世界(夢)を見るようになるのです。その夢はもう輝きを失っています。そして輝きを失わせたのは観念です。

観念に観念を重ねていく

「都会に行けば上手くいく」「高収入を得れば良い生活を送れる」と大人になればなるほどに観念を重ねていきます。これは同時に「都会に行かなければ上手くいかない」「低収入になれば良い生活を送れない」という観念を積み上げていくようになるのです。そしてこの夢でその観念が確実に投影されていきます。本当にそのように見えるようになっていくのです。もうこの世界はありのままで輝く世界ではなくなっていきます、子供の頃に見た世界ではなくなっていきます。

夢からの脱出

子供の頃に見ていた世界があるがままの世界ならば、、大人が見る世界は観念が投影された夢です。世界からはすっかり輝きがなくなりドライで暗い世界(夢)が広がります。そうさせたのは自身の観念です。だけど思考なしに、観念なしに生きるなんて不可能だよね?????が本音のはず。子供の時みたいに何も考えずに無邪気に生きるのも不可能なのです、、、そこで何が必要になるか????超観念です、観念を超えるのです。観念を超えた視点で、、観念を方便として使うのです。

超観念、超自己、自己超越、超常識

観念、自己、常識を持つことで我々は生きていることができます。それにも関わらず今更全部捨てるなんて不可能です。そうではなく全てを超えていきます、観念、自己、常識をさらに大きな視点から眺めていくのです。観念、自己、常識から縛られることなく、、方便として使いこなしていく。。これが悟り、解放、解脱の本質です。

勝利の方程式は不自由の方程式

コレは夢です、完全に夢です

夢の中で「勝利の方程式」を本気で信じれば確かに勝てるようになるでしょう!!!ユダヤの法則、ランチェスター戦略、帝王学、、なんでもござれです。もしも勝利の方程式でこの夢の中で勝利を掴んだ場合、、デメリットがあります。それは方程式で否定する行動を今後取れなくなるということです。コレは完全に不自由なんです、自由という本質である我々が不自由に縛られるのです。これでこの夢の中の生活が一気に不自由になるのです。

もっと豊かになれれば

不自由の方程式である程度の勝利、豊かさを得ても、、不自由ゆえに満足できないにも関わらず、、、、この違和感をさらに豊かになることで埋めようとする動きが起こります。ユダヤの法則で勝利できたのだから次は孫正義の方程式だ!!となります。よりダイナミックによりスピーディーな法則を手に入れ、、、さらに豊かになることができました。ところがユダヤの法則+孫正義の方程式に縛られた生活はさらなる不自由に縛られることになるのです。自由という本質そのものである我々が不自由に縛られるのです。

最終的に、、

益々不自由になっているにも関わらず外見上豊かであるためにそれに気づかず、、違和感、不足感を感じた結果、、ユダヤの商人、孫正義の方程式に、、イーロンマスクの鉄則を加えて、、さらに豊かになることを図るのです。これによってこの夢の中で確かに豊かになることができました。。ところがやってはいけない行動がありすぎるため、、、不自由極まりないのです。自由という本質である我々がこの夢の中で不自由極まりない生活をすることになります。

もういいや、、

もういい、どんなに豊かになっても不自由な行動制限はまっぴらだ、、、ここまで開き直れると、、人は本当の豊かさに興味を持つのです。自由そのものである我々の本質は「やってはいけない!!」が大嫌いなのです。こういう人とは付き合ってはいけない!こういう行動はとってはいけない!なんぼのもんじゃいです。