悟り(非二元)解説

因果を超える

因果は幻想の一つ

犯罪を犯せば捕まる、横領すれば捕まる、交通自己を起こせば捕まる、、これらは因果応報と言って自分がした行動(因)が原因になって結果(果)が起こるということを指します。この幻想ゲーム、夢ではこれが起きます。ですから多くの宗教ではカルマ、ダルマ、報い、徳を積む、、など日頃の行動に気をつけなさいと唱えるわけです。教会に行けば懺悔があり、毎週のように教会に通います。ですがこれは夢ですから因果を超えて物事は起きます。徳を積み続けていたら直下型大地震が起きて全財産を失う、、こんなことも起きるわけです。因果は間違いなくこの幻想ゲームではありますが因果を超えても何でも起きます、夢ですから。

お釈迦様は因果に怯えるのではなく解脱せよと説いた

因果はこの夢、幻想ゲーム、バーチャルリアリティーでは確実ありますが、因果を超えて何でも起きてしまうこのゲームを因果で乗り越えようというのは無理があります。因果では至福に至れません。生まれて直ぐに台風で亡くなる子供、生まれて直ぐに地震で亡くなる子供、、因果で説明がつきません。勿論これも過去世、過去過去世が原因であるという因果で説明されてしまうのかもしれませんが。どちらにしてもこの夢では因果を超えて何でも起きますから今世は徳を積み続けて至福に至ろうなどという苦労はしないことです。積極的に苦しみに耐え抜いて過去のカルマ精算をしようなどとは思わないことです。釈迦はただ一つ、苦しみから抜けるには解脱しかないと説きました。

因果とただ「起こるだけ」の二つを理解するのに時間がかかった

自分自身はこの因果と、覚者が話す「ただ起こるだけ」の区別が全くつかず理解に苦しみました。理解に苦しんだというよりも覚者の言葉「ただ起こるだけです」が迷宮入りをさせました。コーヒーを飲めばカップが空になる、、この事実が目の前で起きているにも関わらず自由意志もなくただ起きるだけ、、非常に困惑したのを覚えています。因果は確実にあります、自由意志も見方によっては確実にあります。ただそれは夢の中で起きているということです。

一つのエネルギーが振動数を変えているだけ

TVゲームは光の種類を変えているだけ

TVゲームはTVの画面上でキャラクターが動き、敵が現れて変幻自在に画面の中でドラマが展開されますが実際は様々な種類の光が画面上で点滅しているだけです。そして様々な種類の光というのも波長の長さが違うだけで同じ光であることに違いがありません。全く同じ因子で構成されています。これは実はこの夢、神が見る夢でも全く同じで同じ粒子が速度、回転数を変えて変幻自在に動いているだけで実は全部同じエネルギーです。違ったものに見えるのも、違った硬さに感じるのも、違った匂いに感じるのも振動数が違うだけ。TV画面の光と同じ原理です。

自分がいるという思考も振動数

思考もエネルギーです。物を構成するのもエネルギーです。思考においてこの分離世界を作り出しているのが自我です。この体こそ自分自身だいう思考です。これもエネルギーです。全てを構成しているエネルギーと全く同じエネルギーが振動数を変えて自他を作り出しています。そういう意味では人間の五感とは振動数探知機みたいなものでしょう。見て振動数の違いを発見する機能、匂いで震度数の違いを発見する機能、触って振動数の違いを発見する機能、味で振動数の違いを発見する機能、、、そしてこの体こそを自分とする思考(振動)、湧き上がる感情(振動)を自分のものとする思考(振動)が組み合わさってこのバーチャルリアリティーが形成されます。

一つのエネルギーがこの夢物語を作る

記憶する脳もエネルギーです。脳という記憶装置にエネルギーとして記憶されます。その記憶をもとに過去が誕生しました。人間という個別の存在があるという前提のドラマをしっかりと脳にエネルギーとして記憶することでさもこの人生ドラマが本当であるかのような錯覚をすることができます。映画も同じで全部記憶されています。そしてそれを構成するエネルギーはたった一つです。神を構成するエネルギー、ワンネスのエネルギー、空のエネルギー、全部同じエネルギーですがこのエネルギーが震度数を変えて変幻自在のバーチャルリアリティーを作り出します。

神(一つ)がバラバラになることはできない

だがバラバラに見せることはできる

これは神(一つ)が見る夢です。この夢は神(一つ)が人間(バラバラ)になり切ることでこの世はバラバラであると錯覚できる場所を生み出しました。本当は一つ(神)ですからバラバラになることはできません。だからこそバラバラと錯覚するしかできません。これが我々が生きる世界です。バラバラではなくバラバラと錯覚できる世界です。

人間が体験できるのは一つ

この世界がいかに分離しているように見えようとそれは幻想です。その証拠に我々が体験できることは常に一つです、バラバラと体験できる、錯覚できることはできてもバラバラを証明することはできません。例えば良い音楽を聴くという経験はできますが良い音楽が自分と分離して存在することを経験することはできません。今音楽を聴いているという経験はできますが自分と音楽が別個として存在しているという経験を証明することはできません。美味しい料理を食べるという経験はできても美味しい料理と自分が分離してあるという証拠は経験できません。美味しそうな料理を「見る」という経験はできますがそれ以外はできません。香りの良い料理を「嗅ぐ」という経験は積めますが私と料理が別個に存在するということを経験できません。

バラバラ体験はできるがバラバラを証明できない

神(一つ)がバラバラになることはできません。バラバラに見えるという経験はできます。神(一つ)はどこまで行っても分離できません。分離している風の体験はできます。これが限界です。一つは一つゆえにバラバラにはなれません。ですがバラバラになったような体験(一つ)はできます。どこまでも体験(一つ)は一つ(神)です。神(一つ)は一つゆえにバラバラになれません、だからこそバラバラ風の体験(一つ)をしました。

それでも分離体験最高

神は無駄なことをしない

これは神の見る夢です、神が人間体験をする夢です。夢を物語化するために脳という記憶機能を作り出し過去を誕生しました。これによって 人間は成長し成人し、年を重ねやがて老い、死を迎えるという一連の流れを経験できます。このストーリーは神が神のままでは経験できないことです。神は過去を悔やむことも過去を振り返ることも過去を後悔することもできません。全て人間様があってこそです。憂鬱に過去を悔やむ神はいません、人間あってこそです。ということで分離体験最高ということになります。もしもあなたが今最低最悪な気分だとしてもそれは記憶をベースに比較してのことでしょう、過去の私と。それは神のままではできないことです。

人間ストーリーは最高だがそれでもしんどい

そういう意味で人間ストーリーは神が神のままでは経験できないことを経験できますから神にとっては最高です。ですがこれは同時に非常に苦しいことでもあります。そう人間に成り切った神としては最高でも人間としてはただ辛い、、ということで辛さでお腹がパンパンになったならばもうこの辛さ体験は終わりにしましょう。この無限地獄、不足感解消ゲームは終わりにしてもいいかもです。貧乏があるから豊かさがわかる、孤独があるから仲間の大切さが分かる、病気があるから健康の有り難さがわかる、、、ただそれももう十分ということはあります。

もう人間なんてしない、絶対

釈迦は悟りこの人間ゲームが苦であることを理解しました。そして苦行が悟りへのツールではないことも知りました。夢から覚めるのに苦行はいらないと。そしてこの夢から覚めることを解脱と称してその方法をその後の人生で伝え続けたわけです。輪廻転生をしながらカルマを解消しダルマを積むのではなくその輪から抜けてしまいなさいと。終わりのないこの夢物語を継続するのではなく夢物語から覚めてしまいなさいと提案したわけです。

偽りの自己は偽りゆえに自己保身が強い

自己保身とは偽るモノの妨害

これは夢です。神が見る夢です。神が人間に成り切ることでこの夢物語を作り出します。神は自分自身を人間であると錯覚する、偽ることでこの仮想ゲームを作り出しました。これが夢です。仮想ゲームですから全てのものには実態がありません。人間の五感が感じることを現実と呼んでいるに過ぎません。人間の五感が感じないものは現実ではない、こういう論理です。人間というこの自己は偽り、錯覚ですから当たり前ですが実態はなくそれゆえ自己は自己保身が強くなります。吹けば飛んでしまうようなこの偽りの自己を自己が保身するのは当然のことです。

悪口を言われれば過度に反応する

偽りの自己は偽りゆえに自己保身が強くなります。全く実体がないにも関わらずあるという大前提でことを進めていますから自己の存続に関わることには敏感に反応します。悪口を影で言われていれば機嫌が悪くなりますし。影で褒められればご満悦です。影で妬まれれば落ち込み、影で称賛されればご満悦です。この自己は偽りゆえに外部の反応を異常に意識するわけです。それゆえ非常に疲れます。人間関係の輪に入れば偽りの自己同士がこの無限地獄を引き起こします。

本当は神だから保身も糞もない

人間とは神の化身であって本当は神です。神は保身に走る必要など全くありません。神は陰口を言われて落ち込む必要はないのです。神が妬まれて落ち込む必要もありません。神は称賛されて意気揚々とするのも変な話です。神が持ち上げられて鼻を伸ばすのも不思議です。ということで偽りの自己は神に戻ることだけを考えるのが手っ取り早いでしょう。全ての動作から無心に入る、全ての仕事から無我に入る、全部を書道、花道のように無我に入る道具にします。何にからでも無心に入れることができれば周囲の反応を気にする必要はなくなります。

偽りの自分は人を引きずり下ろして不足感を解消する

不足感解消に仁義なし

これは夢です、神が見る夢です。この夢の中では神は人間に成り切ったゲームを展開します。人間という五感+思考+感情動物を利用してこのゲームを楽しみます。実際には全て幻想ですが五感があることでリアリティーを与えます。さも自分がいるかのような錯覚を感じることができる遊びを展開します。神が人間という不自由極まりない生き物に成り切るわけですから不足感が湧いてきます。しかもこれはこのゲームが続く限り延々と湧いてきます。この不足感が人間の価値観と絡み合うことであらゆる感情のベースになるのです。怒り、妬み嫉み、孤独、退屈、などなどです。人間ゲームに慣れていない神はこの不足感を犯罪、裏切り、理不尽な行為をしてでも埋めようとするのです。これが仏教でいう地獄界です。このようなレベルの人たちが集まる集団に属しているとそこは地獄になります。

不足感解消にルールを守る

不足感解消のために最低限のルールを守れるようになると社会人としてやっていけます。会社、法律というルールを守りながらこの不足感を解消していきます。もちろんこの不足感はルールを守っていても関係なくひたすらに湧いてきますからこれが辛いことに何も変わりはありません。ただしここに居る人たちはルールを破ってでも不足感解消をしない分お互いが楽です。各々が独自に不足感解消に向けて努力していきます。

不足感解消から無我に入る

不足感解消をする努力から無心、無我、無思考に入れる人もいます。茶道、書道、花道のようにそこに携わることでそのまま無我に入り歓喜を得ます。そこに集中し無心に入ることでその場で神を体現します。これが究極の娯楽です。本来であれば苦しみでしかない仕事や労働から悟りに入るこれは人間の究極の形です。そして最終的にこの感覚を理解することから人間の苦悩解明に入っていきます。神が演じるこの人間から意識的に離れる、人間観察者へとシフトしていきます。

偽りの自分はメリットを聞きたがる

偽りの自分は不足感でできている

これは夢です、神が見る夢です。この夢の中で神が人間になり切って、人間がいるかのような状況を作り出しこの夢物語を歩みます。人間が実際に実在するわけではありません、人間が実在しているかのように見える世界を神が作ったのです。マリオがいてクッパがいてクリボーがいてスーパーマリオは完成します。同じように主人公(私)と脇役を多数配置してこの錯覚ゲームはリアリティーが出て来ます。これは神が作った夢、ゲームですからリアリティーさにかけては右に出るものはありません。全知全能の神が無知無能の人間を作り出しそれに成り切っているわけですからこのゲーム、夢は不足感全開、欠乏感全開、、これがポイントになります。無知無能の人間が欠乏感全開になった時にどういう行動をとるか?メリットを追求します。コスパを追求します。損得を追求します。これが答えです。

五感+思考+感情、、これに脳の記憶装置を加えて完成

神が見る夢では人間(本当はいない)に五感を与え、見えて聞こえて、触れて、味わえて、嗅げる機能をつけると同時にその世界を現象化、バーチャル化、リアル化しました。人間の五感機能分だけ世界がリアライズされるのです。さらにこれに思考を加え、感情を加えることで不足感をいかに解消していくか、、思考を繰り返しながら観念を作り上げていきます。それに記憶力を加えることで過去を作り出しストーリーが完成します。湧き上がる不足感をあらゆる観念が感情化しそれを思考で解決していこうという試みになります。

不足感全開の無知無能人間は最初はメリットを重視するが、、

神にとって人間は無知無能です。その人間は不足感全開になりそれをなんとかして解決しようと行動します。人間ができることと言えばなるべく損をしないで生きたい、将来後悔しないような人生を歩みたいということになります。周囲から教えてもらう損が少ない人生を目指すようになるのです。進学しかり就職しかり結婚しかりです。ですがどこまで行っても消えないこの不足感は常に自分を追ってきます。この損しない生き方ゲームは死ぬまで続くのだろうか?ということです。神は人間を無知無能に作りはしましたがそれは不幸に浸かれと言っているわけではありません。その状況から神に戻ることを最終ゴールにしています。このブログでは神が教えてくれるあらゆるヒントを掲載します。

絶体絶命のピンチは偽りの自分が削ぎ落とされる

絶体絶命のピンチが絶体絶命じゃない、、

これは夢です、神が見る夢です。神はこの夢の中で人間という極小の存在に成り切ることでこの夢を展開します。人間は極小、無知無能ですから普通に生きていくだけでも大変、ましてやピンチの状態などは是が非でも避けたいところです。ところが本当のピンチ、本当の地獄、本当の絶体絶命状態、、これが全くキツくないということにどこかで気づく時が来ます。絶対絶命レベルまでの状態は実はそれほどキツくないのです。中途半端なピンチ、中途半端な地獄は大変ですが本当の地獄、絶体絶命は実はキツくないのです。

人間がなぜバンジージャンプにハマるか??

バンジージャンプという遊びがあります。地上30メートルの高さから真下に落ちるアレです。なぜ若者がこの遊びに興じるのか?それは絶体絶命の歓喜を知っているからです。絶体絶命の状況、これは最高の歓喜、安堵、平和が襲って来ます。ここに大きなヒントが隠れています。自分を完全に忘れてしまう状況、これは人生最大の歓喜なのです。絶体絶命の状況を味わうと人は強くなると聞きますがこれが種明かしです。人間に成り切った神が人間であることを忘れた状況=歓喜、安堵です。

生産性があることにいかに無心になるか

バンジージャンプに何回チャレンジしてもそれがお金になることはできません。できるならばこの歓喜のメカニズムを生産性があることに利用したい、これがこのブログの真意です。無心になれれば、無思考になれれば、無我に入れれば、、バンジージャンプ並の感動が自然と起こります。書道や、花道、茶道は、、所作の中から無心、無我に入る教えです。仕事も所作の中から無心に入っていきます。家事も所作から無心無我に入っていきます。そこにバンジージャンプ並みのエキサイティン、感動、神が隠れています。

偽りの自分に気付いてしまったら

何かに没頭している時の安堵感に気付いてしまったら

これは夢です。神が見る夢です。この夢の中では神は人間に成り切ることでこの夢を歩みます。食事をし、学校に行き、家に帰って友人と遊び、TVを観て寝ます。3D映像でこの夢はあらゆる現象が現れては消えていきます。触ることができ、香ることができ、味わうこともでき、、と五感全開でこの夢は広がりますからこれを夢と気づくことはできません。神は一度人間になり切ってしまうともう神であったことは忘れます。そして神であっったことを忘れてこの夢に没入すればするほど人生は苦しくなっていくのです。

そんな苦しい状態で安堵感が突然訪れる

基本この人生は苦しいものです、神が人間に成り切るわけですから不足感全開、欠落感全開です。そんな苦しい状況の中で突然安堵感が襲ってくる瞬間があります。それは何かに没頭できたときや、何かを成し遂げたとき、何かを手に入れた瞬間、、これらの一瞬の安堵感が実はこの不足感体験ゲーム攻略のヒントになります。この一瞬の安堵感は何だ?何か忘れてしまっていた懐かしいこの感覚、、、そうですこの感覚こそが神の感覚です。人間になり切って不足感丸出しだった状態から一瞬神に戻った感覚なのです。人間は何かを得た瞬間自分を忘れます、何かを達成した瞬間自分を忘れます、思考が消えます。何かに没頭した瞬間自分がいなくなります。火事場で人を助けるとき自分が完全にいなくなります。この瞬間神に戻っているのです。これが不足感体験ゲームから抜け出るヒントです。

自分がいない=神

多くの場合この気づきはネガティブな環境が気づかせます。例えば大借金をして無我夢中で働いているとき、厳しい鬼教官の部活動、死を意識するような大病を患ったとき、投獄されたとき、、、、自分がいなくなります。我を忘れて活動します。。。そのとき安堵感が突然襲ってくる、平和が突然現れる、、これが気づきの最大のチャンスです。自分がいない時が至福、自分を忘れている時が歓喜、自分がいない=神です。人生はこのような気づきのチャンスに満ちています。神が作った夢ですから解決できないような夢であるはずがありません。

偽りの自分はドリームキラーになる

偽りの自分は他人の成功が嫌い

これは夢です、神が見る夢です。神はこの夢の中で人間に成り切ることでこの夢を歩みます。夢ですから自分の目の前だけが現実という名で広がっていきます。全知全能の神が無知無能の人間になったわけですから基本不足感全開、欠落感全開、孤独感全開です。そうなるとこの偽りの主人公である人間は他人の成功が許せなくなるのです。妬み嫉み全開になっていきます。自身が不足感全開ですから人の幸福が許せなくなります。

偽りの自分は他人の成功から学べない

偽りの自分にとって成功者は妬み嫉みの対象ですからそこから素直に学ぶことができません。偽りの自分は無知無能ですから学んで自身が成功できるなど思えません。無知無能でいかに生きていくか、損をせずに生きていくか、効率よく要領よく生きていくかというテーマになってしまいます。成功を目指すなどというリスクをとってまで何かを目指すなど意味が分からないのです。

偽りの自分は成功を目指して惨めになることを嫌う

偽りの自分は成功を目指さなければ惨めな思いをしなくていいことを知っています。成功を目指さない限り実力不足を露呈しなくていいのです。ですから最初からそこは目指さないということになるのです。すると友人が夢に向かって努力するなどの無謀な行動をとるとそれを邪魔するというドリームキラーになるのです。自分は無知無能を露呈しないために夢を見ない、夢見る友人の存在は邪魔な存在になります。