錯覚

海であることを忘れた波は嫉妬心が強い

波=嫉妬心である

自分は嫉妬心が少ないという人間が現れたらその人間は嘘つきと思ってまず間違いありません。なぜならば分離した人間=欠落感=嫉妬心だからです。自身を分離した人間であると錯覚した瞬間、強烈な不足感を味わいます。これは構造上仕方がないことです、そうなれば自身よりもより多く富を所有する人間に対しては嫉妬心を抱かずにはいられないのです。いやそんなことはない、今持っている家、お金、人気、家具、車で十分であるとその人間は宣うかもしれませんがそれは大嘘つき、そもそもが海であった存在が波に成り下がっている時点でどんんなに富を得ても満足するわけではないのです。もしも万が一今の状態で満足しているという人間が現れたならばそれはそこで満足しているのではなくより多くを求めても満足できないことを知って絶望している人間ということです。

お金なんかいらない、女なんていらない、名誉なんていらないは全て嘘

海であることを忘れた波は、常に不足感、欠乏感が湧いてきます。それはそのはず広大無辺な海がたった一個の波と自身を錯覚して欠乏感が湧かないはずがないのです。ですからお金、異性、名誉、地位、全てを求めるのが波、人間の本来の姿です。もしもそれを求めていないと心の底から言える人間はそれを手に入れても満たされないことを腹の底から知った一部の人間だけです。手に入れなければそのような境地に至るはずがないのです。それは人間=欠乏感だからです。

芸能人が常に羨望、非難の的になるのは当然

人間社会には芸能人、タレント、著名人といった人々が常に出現し常にニュースの話題になり続けます。芸能人が今年は一回もニュースになりませんでした、とは絶対にならないのはその存在が人々の羨望であり非難の的になり続けるからです。自我は常に比較対象の中で生きていますから自分よりも豊かな人間を尊敬する一方で嫉妬します。自分よりも貧しい人間に同情する一方で優越感に浸ります。こうして自我は関係性の中で自身の幸福度を決めるという行為を続けます。もしも関係性とは全く関係なく自身の幸福度を決めれる人間がいるとすればそれは自身の意思で無心、無我に入れる人間だけです。無心、無我に入れる人間は他人との比較を超越した部分で至福を感じることができます。人間ゲームの外に至福を感じることができます、その時は比較は意味を持ちません。

海であることを忘れた波は自分の存在を過度に認めてもらおうとする

海であるにも関わらず波に成り下がった成れの果て

元来は海であったにも関わらず、自身を波だと勘違いしてしまった波は自身を根本で過小評価しています。それはそのはず海であるにも関わらず波でしかないと錯覚すれば自分は小さくて取るに足らない存在であると思うに決まっているからです。過小評価するに決まっているのです、ですが同時に本来は海であったわけですからもっと過大評価されるべきだという相矛盾する感覚を常に持っているのが波であり人間の姿です。自分で勝手に過小評価しておいてもっと評価して欲しいと常に思ってるのです。ですから男性はクラブに高いお金を払ってでも褒めてもらいに行きます。褒めてもらうためだったらどんな苦労も厭わない男性も女性もいるわけです。

ところがどんなに認めてもらっても満足できない波でもある

あらゆる功績を重ねあらゆる場所で褒めてもらったにも関わらずなぜかこの波は満足できません。紅白歌合戦に10年以上選出されたにも関わらず一度落選しただけでNHKに文句を言う和田あきこさんはその分かりやすい例でしょう。歌手としては最高権威である紅白歌合戦に10年以上連続で選出してもらったのに一度落とされただけでNHKに文句を言いたくなってしまうその心理はどこまで認めらても満足できない波、自我の存在を認めざるを得ないのです。要はこの波、自我にとって認められることが嬉しいのは間違いないとして満足するなどあり得ないということです。それはもともとが海という広大無辺な存在であったものが波と自身を勘違いする行為の構造不良でしかありません。波としてどんなに評価されようと自身が元々は海であったことをはっきりと覚えている限り満足などできようがないのです。

一度評価されると評価を落とすことが地獄のように苦しくなる

人間は一度何かしら分野で評価を高く受けると、次に評価を落とした時に地獄を見ます。一度評価を得た自我、波はそこで自身が大きくなったような錯覚を起こし一時的ですが喜ぶことができます。ですが次に評価を落とした際には自分自身が小さくなったような錯覚を起こしますからこれは死ぬほどの耐えがたいことになるのです。こうして一度高評価を得た人間はその後の人生を非常に危険な状態で生きることになるのです。評価を上げ続けても満足はできない、評価が下がれば自身が小さくなったような気がして自信を無くすという無限地獄に陥るのです。

条件が揃ったら無心に入れるのではなく、無心に入ることで条件を揃えていく

目の前の問題の山を先ずは無視して無心、無我に入る

分離意識全開、自身を海ではなく波であると認識する波の前にはおそらくは問題点で満載です。自身を全体から分離した人間であると捉える人間の前には問題点が山のように転がっているはずです。そうなると多くの分離意識はこう考えます、先ずはこれらの問題の山が解消できたら無心、無我に入って行こうと。集中して仕事に取り掛かろうと。ですが問題はその問題と称される山々は自我、波が無理くり作り出したものだといくことです。不足感の塊である分離意識、自我は不足感を問題に置き換えていきますからこれは強制的に問題にすり替えられてしまった事象なのです。ですからこの問題点に焦点を合わせても解決しようがないのです。先ずはこの問題点を解決することに無心になる、もしくは問題点以外のことでもいいから無心になって取り組むようになると全存在が、即海に切り替わり問題点が消えてなくなります。問題が問題でなくなってしまうのです。

波、自我が錯覚ならば問題も錯覚

海ではなく分離した波である、全存在ではなく分離した人間であるという錯覚を持つ分離意識は不足感の塊です。この不足感が解消されますとそれまで問題と捉えていた事象が突然問題ではなくなってしまいます。波、自我=問題所有ですから、、海、全存在=問題所有できずです。海は問題を所有できないのです。ですから我々は全ての機会、掃除、洗濯、エクササイズ、仕事、子育てを無心で入り込みその場で海、全存在に切り替わってしまうことで問題を問題でなくしてしまうということができるのです。もちろんどうしても無心になれないこともありますからそれは横に置いておいて基本的にはそこから無心に入る、無我夢中に入る、、この癖をつけることが重要になります。

そこから悟りに入る、これは日本人の得意分野

茶道、書道、柔道、剣道にはこれが重要でこれは重要ではない、、という概念がありません。最初から最後まで全て重要、合理的、非合理的を超えたところにあります。つまりどの所作からでも悟りに入る、どの所作からでも無心、無我に入りなさいという教えです。無心になって邪念を払って無我に入り込むことを茶道、剣道、柔道では教えているのです。最も簡単に言えばどの所作からでも海、神、全存在になってしまいなさいということです。そしてこの動きを生活の全てに応用することが真の目的です。

自身が海であることを忘れた波は問題点を探す

自身のことを波と捉えれば世界は問題だらけになる

問題など全くない、悩みも何もない、課題も何もない、、という人間がいたら嘘つきと思ってください。もしくは自身の問題を見てみないふりをしている人です。自分が海であることを忘れた波(人間)は不足感にさらされているのが構造的に当たり前なのでこれを無視することはできません。自身を世界と分離している人間と認識している時点で基本構造として不足感が生まれてきます、この得体のしれない不足感を人は世界の問題点として置き換えるのです。例えば付き合っているパートナーの問題点、会社の問題点、結婚相手の問題点、住居の問題点、経済の問題点、収入の問題点として必ずそこから問題点を見つけてきます。そしてそれが解決したらまた必ず次の問題点を探し出すのです、それは自身が人間であるというこの錯覚、誤解が作り出す必然のメカニズムです。

自身のことを波と捉えれば職場は問題だらけになる

多くの方にとって会社はストレスの場所です。上司、部下、給料、勤務時間、残業、会社の将来性、、、全てが問題化します。自分を全存在から分離した人間であると認識した瞬間から不足感が生まれだしこの不足感は会社への不満へとシフトするのです。会社勤めは非常に楽しいと断言できる人がいればそれは仕事を無我夢中になれる道具に使えている人です。仕事を通じて、人間関係を通じて無我夢中に没入し自我を忘れることができる人です。どこに居てもどんな場所でもそこから悟りに入りなさい、と言うマスターがいますがまさにそうその行為に没入する、集中してしまうことで逆にそこから無我に入ることで自身を海、存在に変えてしまう以外に不足感を解除する方法はありません。

仕事の向き不向き、好き嫌いが実は全くどうでもいい理由

本当のことを言えば海であることを忘れてしまった波や、自身を全体から分離してしまった人間と捉えている人にとって仕事の向き不向き、好き嫌いは実はどうでもいい問題なのです。基本不足感の塊ですからその不足感はいついかなる場所でも不満に置き換わりその人を襲うのです。ですからこれからいかにそこに没入するか、無心になって取り組むかに焦点を絞ってみましょう。無心になって取り組めばその時は自我が引っ込みますから即無我、ワンネス、全存在になれます。そこは至高、安堵、歓喜です。勘違いしてはいけないのは波、人間が至高、安堵、歓喜を感じるのではなく分離した波、分離した人間が居なくなることで(無心)至高、安堵、歓喜そのものになるということです。無我、全存在、ワンネス=至高、安堵、歓喜であって、、、人間、波が至高、安堵、歓喜を味わうのではないということを重ねて伝えておきます。

海であることを忘れた波は無価値観を感じながら生きていく

海であることを忘れた波は自分は小さいという無価値観を持つ

本当は広大な海であるにも関わらずその中のごくごく一部の波であるという錯覚、自覚、誤解を抱えた波は地震には価値がないと当然思うようになります。この広大な大海原で1%にも満たないこの小さな波に価値を見出すのは難しいものです。この無価値観をベースに今後この波を人生を歩んでいくことになるのです。これが波物語無価値観編です。

無価値観をベースに物語を作っていくからこれは辛い旅になる

自分自身は本当に小さく、弱く、影響力もなく無価値な存在であるという初期設定をした波はその後この観念をベースに大海原を動きていく旅を続けていくわけです。これは非常に辛い旅です。ですが実際は波ではなく海ですからこれほど悲惨な勘違い、大間違い、大誤解はないのです。そして自分にとって都合の悪い事件が起こる度にこの無価値観という観念を強化していくことになるのです。無価値な波が何を手に入れようと、何を達成しようとそもそもの設定が無価値ですから不毛感が無くなることは絶対にないのです。

ふと自身が海であることを思い出してしまう波が現れる

キリスト、ブッタ、トニーパーソンズ、ラマナ・マハルシ・大和田菜穂さん・雲こくさいさん、、などといった覚者と呼ばれる人がたまに現れるのは当然です。無価値だと思い込んでいた波が突然自身は海であることを思い出すという事故が起きるのは当然だからです。なぜならば波として生きながらもそこにはしっかりと常に大海原が広がり1秒たりとも自身からこの大海原が離れたことはないからです。無価値である波と思い込む観念以外そこには最初から何もなくただ海が最初から広がっていたのです。

思考を超えたところ、マインドを超えたところにある何かを求めて

しかし求める自分がいてはいけない

波が波であり続ける限り海になることはできません。波が広大な海になりたければ自身が波であるという認識、自覚、誤解、錯覚を解かなくてはなりません。それを解くのは誰か、それは波ではなく海でしょう。ですから波が必死になって海になろうとする行為は無駄に終わります。そこに必死になる波がいる限り波が逆に強化されていくのです。必死に海になろうとする波は緊張感が高まりより波であることを強固にします。

海になろうとする波はいずれ浄化法、ヨガ、瞑想、チャクラワークを行う

海になろうとする波が、なかなか海に慣れない場合、ヨガ、呼吸法、瞑想、チャクラワークなどをスタートするようになります。波自身が何かしらの変化をしていけば、高みを登っていけば、浄化が進めば海になれるのではと努力や工夫を重ねていくのです。そしてその努力が必死であればあるほどに波である自己を強化していくことになるのです。

波としての努力ではなく、ただ淡々と自身がそもそも海であることを理解する

波がそもそも海であるとこを思い出すために必要なことは努力や工夫ではありません。必要なのは理解です。圧倒的なレベルでの矛盾ない理解が必要になります。その理解を促してくれるのが同じく波の形をしたマスター、達人の形をとった人々となります。彼ら彼女らは波の形をとった海です。海が波の口を使って言語化しその事実、リアリティーを伝えているのです。

植物は存在があるがままに顕現した姿

なぜ人は花や植物に魅せられるのか

人は植物や花、木々に魅せられます。そこには存在があるがままに顕現した姿があります。本当は全ての物、生命体は存在の顕現です。人間も勿論その一つです。存在の多様性こそがこの世です。それ以外はありません。ですから花も人間も植物も存在の顕現の多様性そのもの。人間が花や木々に魅せられるのは花や木々は存在の顕現をより美しく見せてくれているからです。自身が分離した存在ではなく存在の顕現であることを思い出させてくれるヒントになるのです。

なぜ人は子犬や赤ちゃんに魅せられるのか

なぜ人は子犬や赤ちゃんに魅せられるのか?それはそこに存在を強く感じるからです。個別の存在ではなくそこに無限の存在の顕れを感じるからです。そもそもそこには分離した存在はなく全ては存在の多様性であると。大いなる一つが自由に顕現しているだけだと本質が感じているのです。人間だけが自身を分離した存在であると錯覚しそれゆえに孤独、不足、欠乏を感じています。

なぜ人はピカソの絵に魅せられるのか

なぜ人はピカソ、ゴッホの絵に魅せられるのか、モーツワルト、ベートーベンの音楽に魅せられるのか。。それはそこに存在の顕を見るからです。大いなる一つの表現を感じるからです。そこには個別の個人が描いたただの作品ではなく大いなる一つが顕現した作品を見るからです。個別の自我がその絵や音楽に触れた時にその奥にある存在が存在に触れる、、そこに自我の介在が消える。だからこそ人は大金を払ってでもそれを手に入れようとするわけです。存在が存在に気づく出会いです。

真理は思考ではない

真理の場所はどこにある?

真理、存在を探してもどこにもありません。それは個人が探求して探すことで逆に真理、存在は隠れてしまうからです。探すという行為が真理を隠します。探すということは主体客体の世界、どこかに見つかる世界があるという矛盾を生みます。この二元の世界こそが分離の世界、この分離の世界に真理、存在はありません。分離の世界に存在するのは時間と空間という幻想がただあります。夢が広がるだけです。

真理は夢から覚めること

真理、存在は個人が存在するこの夢から覚めることを意味します。夢から醒めればただ存在だけがあります。そして夢から覚める張本人は個人ではなく存在自体です。個人の欠落、自我の欠落が存在です。存在を覆い隠してきた個人が欠落することで存在が存在を見つけるのです。個人とは存在を隠すための隠蓑です。自我とそしてそこから繰り広げられる夢舞台は存在が創造する夢です。

キリストも釈迦も夢の登場人物

キリストも釈迦も夢舞台の登場人物であることは間違いありません。つまり個人ではなくただの生命現象、存在の顕現でしかありません。ですが彼らが説いた内容は真理を説明していました。人間という誤解、錯覚を解いた先に真理、存在、大いなる一つがあると説きました。人間としていかに生きるか、何が正しいか、何を正義に生きるかを説いたとされる諸説は全て嘘です。どのような生き方が清く美しく、どのような生き方が不純で卑しいかという考え方は観念でありその観念に縛られている限り解放はありません。

五感は夢を夢たらしむためにある

見える、聞こえる、匂う、触れる、、、これらは夢の世界に没入するツール

夢から覚めずに夢を見続けるためには夢にリアリティーがなくてはなりません、そのために生まれたのが視覚、味覚、嗅覚、触覚、聴覚といった五感です。これらの感覚があるからこそこの夢にリアリティーが存在するわけです。この夢にどっぷり浸って入れるわけです、この苦しい現実から目覚めずにやっていけるわけです。ですがこの五感を駆使した夢の世界にほとほと疲れ果てなたならば逆にこの五感を使って夢から覚めることができるのです。行為に没入する、無我夢中になることで無我の境地を感じることができます。そこから悟りに入れます。

夢を楽しむためにある五感

人間の五感がなければこの夢を楽しむことはできません、夢にリアリティーがない、夢に没入できないわけです。この五感は夢に没入するための重要なツールになります。この五感が夢を継続するためにあるとすればもうこの五感に振り回される必要はありません、五感をそこまで信用しないことです。所詮はこの夢にリアリティーを与えるためにあるわけですから。むしろこの五感を使って、利用して無我に入るチャンスに使いましょう。そこから無我に入る、そこから無我夢中に入る、そこから自我を捨てて無我に入ります。

五感を使って欲を満たし続けても無限地獄が続く

自我の存続に五感は欠かせません。五感があるからこそ自我の存在を信じることができます。人間の体がそこに在るということに疑いを持たずに済みます。ですがこの五感を使って人間の欲求を満たし続けても満足ありません。不足感を解消し続けてもどこまで行ってもこの不足感が消えてなくなることはないのです。それはなぜか?人間の体があるというこの体こそが自分であるという五感をベースにした自覚は錯覚だからです。この錯覚を信じ続けている限りこれは事実とは違いますから違うという誤解が苦しみとなって生じ続けるわけです。そうです、苦しみとは誤解が生み出した感情でしかありません。

何を希望に人は生きているのか

人間に希望などない

夢も希望もない話をすれば人間に希望などありません、いつか幸福になれるという幻想を抱き続ける人間に希望などない、これが真実です。極限を言ってしまえば人間=絶望です。なぜならば人間という初期設定が錯覚だからです。もちろんこの心身こそ自分という思い込むメカニズムも存在のなせる技です。ですから神が自分に技をかけている状態、その技とは必殺不足地獄です。一度この技を仕掛けれたら最後、この技を解けるのは人間である自分ではありません、それはこの技をかけている張本人、そう神、存在、大いなる一つだけです。

神よ、この技を速やかに解いてくれ

とはいえ人間にも全く光がないわけではありません。例えば眠りに落ちる際にこれをテクニックとして説明できる人はいないはずです。よし今から寝ようと覚悟を決めて寝ることはできませんが眠りに落ちる感覚がなんとなく把握しているはずです。これはこの必殺不足地獄も同じ、人は何かに没入することで無我夢中になることでこの必殺不足地獄から一時的に抜けれることを知っています。自我がない状態、無我に入る状態をどこかのタイミングで知ります。故にサーフィンやロッククライミング、レースなど極限状態に自身を追い込むことでこの状態に入る輩もいます。そうではなく掃除や仕事、子育てや、友人との会話、これら全て人間行為の中でこの無我に入る感覚を掴む人もいます、これを達人と世の人々は呼ぶわけです。

茶道や剣道、柔道など道がつく人間行為はこれを説いていた

日本に昔からある茶道や剣道、柔道などの世界は実はこれを説いていました。道を極めるというこの動作の中でそのまま悟りに入る、無我に入る、存在と共にあることを説いていました。感覚でそこを掴むことを道と説いたのです。道の先に神がいるのではなく道を歩むその道こそが神、存在、大いなる一つであるということです。仕事から悟りに入る、食事から悟りに入る、掃除から悟りに入る、、全て行為から悟りに入る、これしか人間が苦痛、絶望から解放される方法はありません。最後は悟りが人間を見つけ、自由が人間を見つけ、至福が人間を見つけます。