釈迦

苫米地式コーチングと悟り

自我=コンフォートゾーン

自我をコンフォートゾーンで表現します。コンフォートゾーンとは快適ゾーン、この快適ゾーンに人間は絶対に収まろうとします。快適とは表現しますがこれは慣れ親しんだ領域ということでありたとえそれが苦しい、悲しい、逃げ出したいような環境であってもそこに慣れてしまうと人間はそこから離れないということです。これは自我の説明として完璧、結局のところ自我は本当の幸福には全く興味がなくこの心身を維持することにフォーカスします。このコンフォートゾーンは強力で人は生涯このゾーンから抜けれずに人生を終わらせるのです。釈迦はこれを「苦」と表現したのです。ではどうしたらこのゾーンを抜け出するか?ゴールを設定しよ、、これが彼の結論です。コンフォートゾーンの外にゴールを設定せよデス。自我の外にゴールを設定することで自我の制限を抜け出させようとする試みです。彼はゴール達成のためにあらゆる情報を収集しゴール達成な情報をかき集めよと言います。これによって人間にゴール側をコンフォートゾーンに無理やりさせてしまう、、ゴールをコンフォートゾーンと感じることができれば後は勝手に人間の脳がそれを達成するというモノです。

自我の自己保存を打ち破る

自我はその環境に慣れ親しむとそこの安住します。一度そこを安住の地とするともうテコでも動きません。それはそこに居たいのではなくただそこに慣れ親しんだだけという話、好奇心、やってみたい、チャレンジ、、そんなことは全て封印し自己保存に勤しむことになります。自我の目的はただ一つ、自己保存です。これは全く本来の幸福、至福、歓喜、安堵とは何も関係がありません。苫米地氏はこの自我の策略打破に情報を利用します、ゴール側の情報を滝のように入手しそこに慣れ親しむことでそこをコンフォートゾーンに変えてしまうという手口です。これは斬新、面白い、現代的。自我はゴール側の情報に慣れ親しみ、もうそこに親しみすら感じるようになります。そうなれば自我は意地でもそこに居座ろうとします。つまりゴール側を主戦場にしてしまうのです。このゴールをもしも悟り、自己超越にしてしまったらどうなるか?人間は次のステージに完全シフトできます。

情報収集から無我に入る

正直私は彼の理論を完全に理解していないのでどこまで的を得ているかは分かりません。ですが彼の情報収集をそこから無心、無我に入る入り口にできることは保証します。情報収集する際に思考を一切介在さえないことでそこから無心、無我に入ることはできます。情報収集から無我に入ってしまえばそれはもう悟りです。ゴールが悟り、自己超越、さらにそのための情報収集からも無我、無心に入れる、、、私が提唱する、、全ポイントからの無我無心です。苫米地さんの理論は現代版大乗仏教悟りメソッドではないでしょうか。

思考は果たして人間を至福にできるのか?

思考には人間を至福にすることはできない

人間という存在は基本不快、快適、退屈、刺激的、悲しい、嬉しい、悔しい、爽快、、、、という二極の世界に生きています。これはコインと裏表のようにセットです。快適でなくなりと不快になり、刺激的でなくなると退屈に成ります。要はこの二つは行ったりきたりの関係なのです。どちらか一方だけを感じ続けることは絶対に不可能なのです。お酒を飲んでハイになればその後に確実にローが来るようにどちらかだけを味わい続けるのは不可能です。この状態を釈迦、ブッダは苦と表現しました。

人間から湧いてくる感情を思考で解消する限り、、、

人間から湧いてくる感情を思考で解決する限り、このコインの表裏から脱却することは絶対にできません。負の感情を一時的に解消しても必ずまたその負の感情は湧いてきます。このいたちごっこは延々に続くだけではなくさらにこの負の感情は威力を増していくというおまけまで付いてきます。なぜならば思考に解決を頼めば思考を所有している自我、自分はさらに大きくなっていくからです。反社会勢力に一度でも問題の解決を委ねればもうその問題はより大きくなって返ってくる仕組みによく似ています。これ思考による解決の大きな問題点です。

それでも思考は常に俺に解決を任せろと言ってくる

思考こそが自我を形成する張本人です、この張本人こそが負の感情を生み出す根源です。この根源が負の感情の解消に乗り出せば当たり前ですが負の感情はより激しく生み出されるようになっていきます。ですがそれでも人間の中に生まれた負の感情を思考は黙っていません、とにかく俺に任せろとシャシャリ出てきます。こうして人間は負の感情を生み出し続けるという生き地獄から抜け出せないのです。生き地獄とは借金を抱え、大きな問題を抱えた人だけのことではありません。これはほぼ全員の人間が抱える問題なのです。

思考乗っ取り時代は終わるのか?

私が思うにこのメカニズムを理解できている人間はまだ少しです。ですが人間はこれだけのテクノロジーを生み出してもまだ苦しみから脱却できていないことに対し違和感を覚え始めています。幸福になるための心理学にはもう興味が湧かなくなってきています。思考を変えれば成功する、ポジティブシンキング、、、これらに対し違和感を感じ始めています。思考こそがこの苦しみを生み出している、、、これに気づく時代がすぐそこに来ています。

苦しい、、が悟りを開く

楽しいが悟りを閉じる

苦しい、、この感情を人間は嫌います。当然です。いかに苦しいから逃げ続けるか、、ここが勝負です。ですがこの苦しいから逃げ続ける限り悟りは開ません、この人間ゲームのカラクリに気付けません。生きていると湧いてくる「苦しい」この感情はどこから湧いてくるのか?この苦しいは「自分」という存在、この体、思考、感情を自分のモノとするこの存在がどうも関わっている、、、大人になると苦しいから逃げる手段を覚えますがどうやらこの苦しいは子供時代よりも大人になってからの方が激しい。自分という存在は記憶に依存しています、記憶がなければ自分は維持できません。苦しいは実はこの記憶に維持された自分から生まれそしてこの自分を壊してくれる可能性を秘めています。なぜならばこの苦しいは「自分」がこの世にいる限り延々を湧いてくるからです。「苦しい」は自分が解消されるまで木っ端微塵に壊れるまで追いかけてくる核弾頭魚雷のようなモノです。

「苦しい」から逃げ続けれると思ったら大間違い

「苦しい」は核弾頭魚雷のように「自分」がこの世から居なくなるまで追いかけてきます。自分とは記憶が支えていますから経験を積めば積むほどにこの自分は強化されます。そして自分が大きくなればなるほどに「苦しい」という核弾頭魚雷も大きくなり追いかけ続けてきます。「苦しい」は「自分」が生み出しそして「自分」が木っ端微塵に壊れるまで追いかけてくるという恐ろしいメカニズムです。釈迦はこの世を「苦」と見抜き、キリストは人間を「原罪」と表現したのはこの理由です。人間とは自ら核弾頭魚雷を発射しそれに追いかけられるというギャグのような仕組みを作りました。ただこれを裏で操るのは全存在、神です。そして苦しんでいるのも人間という形に成り切る、遊ぶ神です。人間も神、苦しみの感情も神エネルギーです。

何もない

この世は神エネルギーで全部できています。見える世界の全て、触れる世界の全て、匂える世界の全て、味わえる世界の全てはたった一個のエネルギー神でできています。そしてそれを感じる人間の体も当然神でできている、この体が湧き上がっているように感じる思考も感情も全て神エネルギーが振動数を変えたモノです。この神エネルギー以外のモノはこの世には存在していません。もしもこのことが腹落ちしますと突然自分が居なくなります、全部になります、神エネルギーそのものになります。そこには分離は一切なくただ揺れ動く神エネルギーだけがあります。この体を自分と思い込むのも神エネルギーです。自我も神エネルギーだった。。。何もない。。この突然の理解が自分を木っ端微塵に壊します。

人間ができる前は全体だった

全体の起こりがただある世界

この世に人間ができる前の世界はただ全体の起こり、生命現象がある世界が広がっていました。全体から何かしらの生命現象が起こりそれをただ全体が認識する世界です。花が生まれ、鳥が羽ばたき、虫が動く、、ただそれだけ、、そこに人間という脳を持った生命現象が起こりました、その生命現象は脳を持ち、思考を操り、まさかこの生命現象の中に独自の意識を完成させました、それが今の人間のデフォルトです。言葉という言語で意識を作り出したのです。全体は初めて全体ではない感覚を手に入れることができたのです。この人間という感覚は後付けの感覚です、そのため人間は個別意識と熟睡時の全体意識の両方を所有します。朝起きて人間活動をする時は人間意識、熟睡時は全体意識というわけです。

この人間意識は後付けであり居心地が悪い

この人間意識の特徴は基本居心地が悪いということです、試しに家で一人きり何もしないでボーと外だけを見ていてください。強烈な退屈感、孤独感が襲ってくるはずです。この人間意識は何かをしていないと苦しくて苦しくて仕方ないのです。そして何かしらの行動をとると色々な経験を詰めて充実感が湧いてきます。不足感、充実感、退屈、刺激的、、、このようにこの人間意識活動はどこまで行ってもマイナスとプラスを行き来する世界なのです。釈迦はこれを苦しみの世界と表現しました。全体によりこの人間意識体験は大変エキサイティングで自我はこれを必死になって維持しようとしますが同時にこれは全体という歓喜、平和、安堵がこれを体験しているという自己矛盾を抱えています。そこに帰りたい衝動を抱えています。

人間がプールを楽しむ感覚に似ている

人間はなぜプールという呼吸がしにくい環境で運動をするのか?身動きが自由に取れない中であえて負荷をかけて運動を楽しんでいます。呼吸ができないこと自体は非常に苦しいこと、ですが同時にこの不自由さこそがエキサイティング、楽しさの要因でもあります。これぞまさに全体が人間をやる理由です。人間は苦しい、だからこそ面白いという感覚です。

プールで遊び疲れたら陸に戻るように人間を遊び疲れたら全体に戻る

プールで遊び疲れた人間が陸に戻るように、人間に遊び疲れたら全体に戻ればいいのです。人間という感覚は人間であることに集中するからこそ人間活動ができます。もしも自分から意識を逸らし他に集中でこることを見つけると人間意識が外れ全体に戻れます。没頭できることを見つけていきます。もしくは悟り、ノンデュアリティーというこの究極のメッセージに耳を傾けることです、すると人間であることが後付けであることがはっきりと分かり人間活動が緩んできます。緩めば緩んだ分だけ呼吸ができるようになります。

人間ゲームの最重要機能、記憶

恐らく脳は記憶を受信する場所

スーパーマリオが大ヒットした当初記憶機能というものが存在しませんでした、ゲームはスタートしたらまさかの最後まで一気にクリアーしないと完結しなかったのです。記憶機能が存在しないからです。ところがスーパーファミコンが誕生してからスーパーマリオには記憶機能が完備しました、これにより途中でゲームを辞めても次の日は続きからプレイできるようになったのです。この人間ゲームは当たり前ですが記憶完備です、朝起きればしっかりと昨日までの記憶が蘇ります。ではその記憶はどこにあるのか?人間はこれを脳にあると認識しています、脳が機能不全を起こすと記憶が飛ぶからです。ですがよく考えてみてください、マリオゲームの記憶はマリオの中には存在しません、マリオゲーム自体に記憶されます。ということはこの人間ゲームの記憶は人間ゲーム自体に記憶されている可能性が高い、そしてその記憶をリンクさせる場所が脳ではないか、、、ということです。その証拠に幽体離脱をした人間の話を聞くとしっかりと過去の記憶を持っている、、、

人間ゲームとしては人間は脳に記憶がある

この人間ゲームとしては脳に記憶がしまってあります、ゲーム上はです。ですが本当は人間ゲームそのものに記憶があります、全体、神にあるということです。神制作人間ゲームにおいて記憶が人間の脳の中にだけあるなど考えられないということです。ゲームがスタートするとゲーム上人間の脳の中に記憶は貯蔵されます。人間ゲームのゲーム進行上どこかに記憶がなければゲームが成立しないということです。脳の記憶障害を起こした人間がある日突然記憶が戻ったということがあるのは記憶は神全体、ゲーム全体に記憶されていてそことのリンクが戻ったということです。スマホのデータがクラウド上に存在するように人間の記憶もクラウド、神、全体に存在します。

テクノロジーの発展はこの人間ゲームの種明かし

私はこの人間ゲームをマリオゲームで例えて説明しますが、、人間が発明したテクノリジーはこの人間ゲームの種明かしにあまりに最適です。釈迦やキリストがこの世のカラクリを明かした時とは違い説明が楽すぎる、、、どうやら神は人間ゲームの種明かしをする時期に今を設定しているのでは?そのような疑問が湧いてきてしょうがありません。一時期若者のことを悟り世代と呼んでいましたが、、これはあながち間違っていない。積極性がなく無欲な若者を悟り世代と言って揶揄していましたが違った意味でこれが真実を突いているかもしれません。

もしも動物の感情が読めてしまったら大変

動物の精神状態が理解できてしまったら

もしも人間がテクノロジーを発展させて動物の精神状態を読み取れるようになったら、、、大変なことが起きます。悩み苦しむ動物も将来に不安になっている動物も、過去を憂う動物も皆無だからです。つまり人間よりも遥かに精神状態が安定しているということです。そんなことはない、、人間様がこれほど不安や不平を抱え毎日ストレスを背負いながら生きているのになぜ動物の方が心穏やかなのか?と思うでしょうが事実です。人間だけが将来不安に怯え生きているのです。

何億光年先の惑星すらも発見できる人間が、苦しみのメカニズムを発見出来ない

人間はとてつもない進化を遂げてきました、船を発明し、飛行機を発明し、スペースシャトルを発明し、、何億光年先の天体すらも発見しました、、ですが人間は人間の苦しみ原因をまだ発見出来ずにいます。ジョークです。釈迦やキリストがかつてそこの解明に至ってもそこから携わる人間がまた誤解を繰り返し全く異なった解釈が行われています。人間は自身の苦しみ解決のため今日も新しいテクノロジーを進化させ、便利な生活用品、快適な住居を開発しますが人間の苦しみの本質が解消されることはありません。

まさか人間の初期設定が勘違いだった、、、

渋谷駅に行けば見渡す限りに何千人という人間が居ますが、その中でこの体の中に実は自分が居ないという事実を知っている人はどれほどいるでしょうか?恐らく一人もいないでしょう。この体の中に自分が居るという大誤解は天動説から地動説に切り替わった時ぐらいの衝撃的発見になります。人間は何万年もの間、この体の中に自分が居るという勘違いを続けてきました、そろそろその勘違いが訂正されてもいい時期です。

江原さんもビックリ!自分の生存戦略

自分を存続させるためなら死後も操る

自分とは全体から自らを分けた状態のことです。この全体から分かれた自分はこの自分をどうしても存続したという衝動があります。なぜかと言えば全体から分かれた状態は実は不足感、不快感、喪失感の塊になるわけですがこれが自分の感情として起き上がる時にもっと食べたい、もっと安定したい、もっと有名になりたい、もっと人気者になりたい、もっと自分として認められたい、もっと自分を築き上げたいと、、、違う欲望に変換されます。これによって分離という状態を結果永続させることになっていくのです。これは何という皮肉、ブラックジョークです。ということでこの欲求を持たすべく自分は自身の永続を願うようになっていきます。ただしこの体は永続ではないためいずれ死が訪れます、これが自分の消滅になるはずでした。ところがこの自分の思考は諦めません、自分というのは死後も永続できるという思考を持つことに成功したのです。そもそもこの体の中に自分がいるというのも「思考」です。この思考にオプションを加えて死後も永続できるという思考に切り替えました。この思考が肉体の死も全体から湧いてくることで「自分」は次の体を確保します。

江原さんのように思考のエネルギーを見れる人がそれをみると、、、

霊能者と呼ばれる人々は感情や思考など一般人には視覚化できないエネルギーを視覚として見える人々だと思います。この思考「自分エネルギー」を視覚から読み解いて人に伝えているのだと。これには欠点があり死後も自分が永続できるというアイデアを持った自分は必ずこの思考を自分に取り込むようになります。結果輪廻転生が自動的に行われるようになります。この部分に関しては自身もまだ調査中でいずれしっかりと解明したいと思います。

釈迦は言った、良い輪廻転生をしようではなく「解脱しかない」

お釈迦様も全体の表現でしかないので人間という実在ではありません。ですがこの全体の表現(釈迦)は良い輪廻転生をしよう!とは言っていません、「人間が苦から解放されるには解脱しかない」です。この自分劇場を終わらせる以外に苦からの脱却はないと説いています、これは刹那的、逃避的意見に聞こえるかもしれませんが私は真実を突いた優しいメッセージだと思います。もっと頑張ろう、いずれ幸福になれる、夢を持とう、、、というのは自分が大好きなメッセージであり的を外しています。これをイエスキリストは原罪と称しました。

夢の中での地獄も一瞬

至福にはなれないが地獄も一緒

毎晩見る夢の中で最初から最後まで地獄しかなかった、、こんなことも少ないはずです。というか無いはずです。夢というストーリーの中で最初から最後まで地獄続き、、、交通事故で跳ねられ全身麻痺に、病院に行ったら医療ミスが起き、さらに看護師からのイジメ、友人がお見舞いに来たら毒を盛られ死亡、、、と地獄が延々と続く夢も少ないものです。それはなぜか?簡単です、夢を見ているあなたがそんな夢は見たくないからです。

この現実社会も同じ

これは神が見る夢です。神が見る夢の中でこのリアリティーが起こっています。その中で自身は主人公になりこのストーリを右往左往しています。このリアリティーでは永遠の至福はありません、時間という縛りがあるが故に幸福は常に一瞬です、歓喜も常に一瞬です、だからこそ永遠の至福を主人公である私は求め続けるわけです。ですがこのストーリーの中では絶対に至福はありません、時間の中にいるからです。これは地獄に関しても同じで永遠の地獄は不可能なのです、時間がありますから。ただし問題はあります、永遠の不足感はついて回ります。全知全能の神が人間になりきっている夢ですから不足感しかありません。地獄は一瞬ですが不足感は永遠です。

不足感が永遠ならば夢から覚めるしかない

自分自身が見る夢も、神が見るこの夢も不足感が永遠ならば、、、この夢から覚める他ありません。分離体験には不足感は常にセットであり分離ゲームで永遠の至福は絶対に得れないのです。だからこそマトリックスという映画ではNEOは目覚めを目指したのです。この夢の中に永遠の至福への攻略があるならば釈迦は解脱を勧めないはず。もっとテクニックを話したはず。キリストは人間を原罪(的外れ)と表現し、釈迦は人間を「苦」と表現しました。テクニックに逃げるのではなくこの事実ととことん向き合う時期が起きます。それも神が決めます。

夢の中で「あなたは既に知っている!」

夢の中での至福体験は至福ではない

もしもあなたが夢の中で最上級の幸福を手に入れたとしても幸せすぎて起きてしまったということは少ないはずです。人間がみる夢とはリアリティー全開でミシュランレストランの味覚も、高級ホテルの寝心地も、人間国宝のお皿の渋みも全て再現ししかも感動できます、夢の中で。ですがにも関わらずその夢の中で永遠の至福を手に入れたことはありません。夢の中ですら人間は至福に至れないのです。これかなり重要なポイントです。夢の中で人間は最高の感情を味わうことができます、夢の中で金メダルをとっても涙を流して感動できます。夢の中ってその点においてかなり自由です、にも関わらずその夢の中で永遠の至福を手に入れたことがないはず。結論をお伝えします、夢の中だから至福に至れないのです。夢の中というのは分離体験であり分離体験の主人公が至福に至ことは絶対にないのです。分離しているから。

この現実社会も同じ

この現実社会、あなたが見ているこのリアリティーにおいてもあなたは永遠の至福を手に入れたことはないはずです。勿論一時の幸福、歓喜、喜び、感動を得たことはあるはずです。ですが永遠に続く至福を手に入れたことはないはずです。なぜでしょう?そうこれが分離体験だからです。人間という主人公を使った分離体験だからこそどんなに頑張っても至福に至れないのです。毎晩見る夢の中と同じで一時の幸福しか持てないのがこの現実社会です。つまり毎晩見る夢と、この現実は同じなのです。同じく分離体験なのです。これは神が見る夢です、夢の中で主人公(人間)は絶対に永遠の至福に至れません。夢ですから。

夢の中でも永遠の至福になれないのに、この現実でなれるわけがない

毎晩見る夢と、このリアリティーには共通点があります。それは其々に主人公が登場し、その主人公が右往左往するストーリーということです。ストーリーとは時間が必要になります。空間が必要になります。そうです、時間と空間が存在するこの分離体験ゲームでは永遠の至福は不可能なのです。永遠とは時間ではありません。時間を超越した状態です。この時間軸の中に居ながら永遠の至福は存在しないのです。だからこそ主人公は一瞬、一瞬の幸福をかき集めるという無限地獄を続けます。そしてそのことに薄々気づいているのでこのゲームは苦しみなのです。釈迦が伝えたたった一つのこと、、夢から覚めて解脱せよです、この意味はここから来ています。

因果を超える

因果は幻想の一つ

犯罪を犯せば捕まる、横領すれば捕まる、交通自己を起こせば捕まる、、これらは因果応報と言って自分がした行動(因)が原因になって結果(果)が起こるということを指します。この幻想ゲーム、夢ではこれが起きます。ですから多くの宗教ではカルマ、ダルマ、報い、徳を積む、、など日頃の行動に気をつけなさいと唱えるわけです。教会に行けば懺悔があり、毎週のように教会に通います。ですがこれは夢ですから因果を超えて物事は起きます。徳を積み続けていたら直下型大地震が起きて全財産を失う、、こんなことも起きるわけです。因果は間違いなくこの幻想ゲームではありますが因果を超えても何でも起きます、夢ですから。

お釈迦様は因果に怯えるのではなく解脱せよと説いた

因果はこの夢、幻想ゲーム、バーチャルリアリティーでは確実ありますが、因果を超えて何でも起きてしまうこのゲームを因果で乗り越えようというのは無理があります。因果では至福に至れません。生まれて直ぐに台風で亡くなる子供、生まれて直ぐに地震で亡くなる子供、、因果で説明がつきません。勿論これも過去世、過去過去世が原因であるという因果で説明されてしまうのかもしれませんが。どちらにしてもこの夢では因果を超えて何でも起きますから今世は徳を積み続けて至福に至ろうなどという苦労はしないことです。積極的に苦しみに耐え抜いて過去のカルマ精算をしようなどとは思わないことです。釈迦はただ一つ、苦しみから抜けるには解脱しかないと説きました。

因果とただ「起こるだけ」の二つを理解するのに時間がかかった

自分自身はこの因果と、覚者が話す「ただ起こるだけ」の区別が全くつかず理解に苦しみました。理解に苦しんだというよりも覚者の言葉「ただ起こるだけです」が迷宮入りをさせました。コーヒーを飲めばカップが空になる、、この事実が目の前で起きているにも関わらず自由意志もなくただ起きるだけ、、非常に困惑したのを覚えています。因果は確実にあります、自由意志も見方によっては確実にあります。ただそれは夢の中で起きているということです。