解放

小我とはブレーキ、大我がアクセル

ブレーキを解体する

子供が大人になる過程においては、、、自身を守るという意識がどうしても必要になります、、、財布を持ってお店に入れば、、、財布を盗まれないように、、、「自分の財布」という意識が必要になります、、これが自我形成の目的です。守る、守る、守る、、、、車でいえばこれはブレーキ、、、ブレーキが無くては車は直ぐに壊れるのです。。。。ですがこのブレーキばかりを踏んでいますと、、、車が全く前に進まないという状況になります、、、これが苦しみです、、、、何かをスタートしようとしても、、、ブレーキが直ぐに踏まれていまう、、、人生が退屈の局地になっていきます。

頑張るが、、、、ブレーキから起こる

よし毎日、、ランニングしよう、、、、これがブレーキ(小我)から起こります、、、ブレーキがランニングをするのですから、、、何も何も進んでいる気がしない、、、、そうです、、、、見た目は進んでいても何も起きていない、、、ブレーキですから、、、、、ではアクセルである大我を働かせて、、、、無理です、、、ブレーキがかかってしまっているからです、、、

大我(アクセル)はいつでも踏まれている

アクセルは常に常に踏まれているのです、、、全員がこのアクセルの中にいますから、、、アクセルは実は全開なのです、、、ただブレーキが踏まれてしまっている人が多い、、、だからこのブレーキを剥がすだけでいい、、、ではどうしたらいいか????体の緊張を物理的に解体するのです、、筋肉を解してしまう、、、筋肉という緊張、、収縮したエレルギーを物理的に解放するのです、、これが完全にブレーキです、、ブレーキの物理的現象です、、、この現象をそのままで解放します、、小我というブレーキが効かなくなる、、小我というブレーキが忘れさられる、、、、大我(アクセル)全開になっていきます。

今の幸福度は、、今の五感力

幼稚園児

幼稚園児は、、、箸が倒れただけで笑います、、これは何が起きているのでしょうか????五感力です、、、彼ら彼女らの感じている全てが大人とは全く違うのです、、、視界に起きた、、箸が倒れるという動きが、、、スーパー立体映像で起こり、、それがたた面白いのです、、、全く違う世界を幼稚園児は見ています、、、大人がどんなに解釈を変えて幼児になった気分でそれを見ても、、、同じような感覚で笑うことは不可能です。

五感力の向上

大人になって衰えたこの五感力を高めるにはどうしたらよいのでしょうか????そのためにヨガ、ストレッチ、マッサージがあります、、、あらゆるツールを駆使して体を鋭敏に戻していきます、、東洋医学では、、これを経絡で考え、、、経絡を解放していきます、、、幼稚園児ぐらいの柔軟さに戻った時に、、大人は箸が倒れただけで笑うのです、、、この状態が悟りです。

五感を舐めてはいけない

五感が全てです、、我々は五感を使った体験しかできません、、、この五感での体験が退屈になった時に、、人は六感である思考を使って思考で遊びます、、、ですが思考が作り出したお遊びは、、、お遊びに過ぎず、、そこには真実に直接触れるという醍醐味がないのです、、、六感に逃げずに、、、五感を充実させるのです、、五感の充実が、、、、虚しさを消滅し、、虚しさの究極の対局である、、悟りが待っています。悟りとは大満足のことであり、、、大満足とは、、今この場所に居るだけで、、、起こるということです。今この場所が大満足でない時、、五感を磨くのが全てです。

特別な存在

エゴ、自我の活動として特別になろうとする罠があります、、、体を解放し、、他人よりも自我の制約を受けずに稼働できたときに、、、周囲から評価を受けます、、、、この評価を自我OSシステムは身逃しません、、この功績は「私」のものだ、、、、という動き、思考が起こり、、、自我は存続をしようとします。本当は感情解放をして全体の感覚を獲得していたにも関わらず周囲の反応で再び自我OSシステムはそこを拾います。

人気者

何かに集中し無我になる時間が増え全体の感覚を思い出す、、体の感情を解放し全体を思い出す、、、これらを継続し、、長い時間を全体として過ごすと、、、人気者になります、、、、本当の優しさが滲み出るようになります、、、、すると、、、、、そこを自我OSは見逃しません、、、「私」は人気者なのだ、、、という奪い去りです、、、、

悟り

悟ったのは「私」だ、、、、という奪い去りは最後の砦です、、、、カルト宗教の開祖などはこれでしょう、、、「私」が悟ったという流れ、、、、、この私こそが、、、、が抜け落ちることが悟りなであるにも関わらず、、、一瞥体験などをして全部分かっちゃった、、、、、、を「私」が所有するのです、、、意味なし、振り出し、、、無意味、、、、ですがこれらは全部全自動、、それが起こっただけです。

形への同一化

幻想に同一化する

この体は幻想です、、100%幻想です、、この100%幻想であるこの体の中に自分というのが居て、、その自分として生きることでこの苦労がスタートします。100%幻想であるこの体の中に自分が居ると100%信じて生きているのが我々の真実です。これはどこまでいっても勘違いですからこの勘違いからくる苦しみからは解放されることはありません。

体が幻想????

そんなはずはない、、、体はしっかりと感覚を持っている、、、、そうではないんです、、五感で感知できるということのみです、、これだけが真実です、、、それ以外は全く証明できません、、、これが体が幻想である証拠です、、、ですからこの幻想の中に自分が居てという初期設定を辞めます、、、、幻想を幻想と見抜き、、自分の存在を無視します。

思考を観察する

思考を観察してみてください、、、多くの思考は、、自分という存在ありきの思考ではないでしょうか??それらの思考は完全に無駄です、、意味がありません、、、実在しない私に関するあれこれは無駄になります。そしてそこに付随する感情、、これらも意味を持ちません、、、全観念は私が居るという前提で構築され、、それに付随して感情が湧いているはずです。

その時起きること

そんなファンタジーのような発想は危険???違うんです、、今まさに我々はそのファンタジーに取り込まれ、、ファンタジーに閉じ込められているんです、、だから苦しい。全くもって実在しないこの世界で、、そこを見破れずに生きています、、、我々は経験、感じる、、という100%真実に立ち帰る必要があります、、この感じる、、、という実感(実在ではない)にしっかりと意識を向けます、、この実感の世界に意識を向けます。。。嘘の実在には目を向けません、、嘘の実在についてあれこれ考えても無駄です。

実在から実感へ

今目の前に幻想がある、、これは100%事実です、、、そしてその幻想に触れる、、100%事実、、そしてそれを口に入れる、、感じる、、、それも事実、、、この事実はこの世界の真実です。逆言えばこれ以外は真実ではありません、、、TVニュースで、、地震で五名死亡、、、これは言葉です、、言葉が作ったファンタジーです、、、幻想です、、、事実ではありません。。

この世界は無限の不在でできている

この世界はどう考えても無限の不在で構成されています、、、無限の不在なのですから見えるもの、触れる物、、、全部が全部不在です、、実在ではない、、、、ここをしっかりと認識する、、、すると今まで流れていた実在を前提にした思考が止まります、感情が止まります、、、静寂が増えてきます、平和が増えてきます、、、これらの静寂、平和は、、、これまで感じたことがない、、、いや幼少期に感じていた、、本当の静寂、、真実に触れる静寂です、、、そして、、触れている私も不在なのですから、、、不在の世界に漂う静寂に気づきます。

悟った、、、

強烈なリアクション

多くの方が悟りに懐疑的なのは、、、悟った人に対し、、、自身がとてつもなく不信感の目でその人を見てきたからです、、、、嘘くさい、うさんくさい、怪しい、、、のオンパレードです、、、ヤバイ!!!!自我防衛システムにとって悟りとはこのシステムの崩壊を意味します、、一生懸命この体を守るために機能してきたシステムを崩壊させるなどありえない、、、だからそれが崩壊した人が登場すれば懐疑的な目のオンパレードです。あら探し、自我探し、悟り詐欺を見抜いてやる、、、になります。

だからこそ、、、

だからこそこの自分が悟りを開くなどあるわけがない、、、あの怪しい輩の仲間入りなどしてなるものか!!!になるのです、、、、ですが本当の悟りは個人に起きるものではありません、、、個人が居なかったという強烈な気づきが起きるだけなのです、、、、自我防衛システムがシステムでしかなかったことを見破るだけなのです。ですからこれは、、、多くの方が考えている悟りのイメージとはまるで違う、、パラダイムシフトです。

自我を愛する

実は、、、自我を冷静に愛することが、、、、自我解放に最高なのです、、、なぜならば自我はこの体を守るシステムであり、、このシステムは間違いなく有効にこれまで機能してきたのです、、、この機能を否定するなど、、、完全なる空気読めない行動です、、、自我という鉄壁な防衛システムは誉め殺しに限ります、、、自我は褒めてなんぼ、、そして自我を褒め殺すことで、、、本当に消滅させます。

お喋りが止まらない

感情の解放

人前に立つと緊張する、、これは実は体の中に溜まった負の感情が、、、湧き出し、、その感情に対し対応できない状態です、、、緊張とは、、、ただこの体の中の負の感情が引き起こします、、そして緊張すると思考がフル回転するのはなぜか????その感情を感じたくないがために、、、、思考を沸かすのです、、、それによって感情を感じなくて済むのを知っているからです、、、これが自動で起きます、、完全なる自動起動です。

最初から抜いてしまう

体に溜まった負の感情を最初から抜いてしまいます。体をマッサージして、、体のエネルギーを感じ、、その場でこのエネルギーを解放します。全身の滞りを完全解放し、、、収縮したエネルギー、自我のエネルギーを直接解放してしまいます。体が緩むと全く負の感情が湧いてこない、、、自然無為の状態、、、思考の大暴れがなくなり、、大いなる一つになっていきます。

自我の延命活動で消耗する

唯一残された聖域の確保

自我とはこの世界の中で唯一自由になる聖域です、、、これをそう捉えると、、この自我を絶対に絶やしてはいけないという自我延命活動が起こります、、、これが非常に疲れる、、、これがエネルギーを完全に消耗する、、、となります。なぜかと言えば本来は実在しないのですから、、これをあるという架空の物語を続けるのは非常に疲れるのです。実際にないものをあるとして物語を継続させるというのは骨の折れることです。

無いと分かれば、、、

自我は実在しない、、、この完全な理解が起きますと、、、もう必死になってセルフイメージを良くしよう、なんとしてもこの体を保持しなくては、、という強迫観念から逸脱できます、、、この体が朽ち果てても、、、何も失うものがないとはっきり分かるのです。。私は輪廻転生という概念を知った時にやはりかなり楽になったのですが、、、意識そのものであるという気づきを得ることで、、さらに楽になりました。

輪廻転生で今世を諦め、自我の解放で過去と未来から自由になる

輪廻転生という概念は今世への執着を緩めます、、、たった一回の人生、、、絶対に失敗だけはしたくない、、、この恐怖心が完璧になくなります、、、ですがそれでも残る生への執着、、、、これが自我の解放でなくなるのです、、、この体どころか全生命活動を行っている本質そのものだったという気づき、、これが起きます。

自我は選ばれたい

存在しないからこそ

自我は選ばれたいのです、、MVP、最優秀賞、チャンピョン、ナンバーワン売り上げ、、、とにかく選ばれたいのです、、、なぜか????存在しないからです、、存在しないから選ばれることで、、存在しているという夢を見たいのです、、、ホッとするのです、、、私は実在していると、、、、ですが存在しないのですからまた次の日から、、、また選ばれることを望むのです。

選ばれても、、、

MVPにはなった、、、ですが全く満足できない、、、全く嬉しさが続かない、、、となり、、、次はまた何かに選ばれなくては、、、になります、、、、、実在しないのですから当然です、、、、これだけの人に選んでもらえたのだから私は実在している、、、、、と喜べない、、、、また虚しさが襲う、、、おかしい、、、つまりは我々はラットレースを延々と走るようになっています。

本当は居ないのでは???

本当は居ないのでは???この発想がある日突然湧いてきます、、、居ないかもしれない、、、、自我の解放、自我の終焉、、、、色々なメッセージが頭をよぎります。でも間違いのない、、この感覚、、、私が居るという感覚は完璧にある、、、、おかしい、、、、違うのです、、、「居る」「在る」という感覚だけが確実にあるのです、、、「私」は後天的に学習したアイデアです、、、「在る」という感覚が絶対的過ぎて、、、「私」という勘違いが、、、、強固になり過ぎたのです。だから我々はもう選ばれなくていいんです。

至福が至福になろうとは思はない

既に至福であれば

幸せになりたい、、、これは不可能です、、なぜならば、、なりたいのが自分だからです。幸せは幸せになりたいとは思いません、、平和は平和になろうとは思いません、歓喜は歓喜になろうとは思いません、、静寂は静寂になろうとは思いません、、、つまり、、、自分とは絶対にこれらになれない存在なのです。

そもそも違うから

自分はなぜ幸福に憧れるのでしょうか???幸福になれないことを絶対的に知っているからです。知っているから憧れるのです、、、そもそも幸福であればそこを目指さない、、ではなぜこの自分は幸福ではなくなってしまったのか???もしくは幸福でない時間を過ごすことがあるのか???それは自分という存在こそが幸福から逸脱させたからです。全く存在しない自分という自我を形成し、、自分が全てを決めているという観念を作り出し、、そのストーリーを生きるという物語を想像し続けています。この行為が幸福、至福、平和を遠ざけているのです。

逆に言えば

自分という存在を信じる以外に不幸、孤独、悲しみ、鬱になることができません、、自分を信じることでしかこの感情を味わうことができません、、、不幸、孤独、焦り、憂鬱を味わいたければ、、、自分という存在が居ると信じることです。。悟りとは苦しい感情を味わうための唯一の存在「自分」が実は居ないことに気づくことです。「自分が居る」という洗脳を解き、、この世界から自分を解放することなのです。

ネガティブな感情から逃げる動き

思考をするのはネガティブな感情を嫌うため

体にネガティブな感情を溜め込みますと、、、それを感じるのが辛いため、、思考を繰り返してそこに意識を集め、逃げるという動きが起きます、、、、一日中思考を繰り返してしまうパターンはこれにあたります。自我とは全記憶から形成されていますから、、、この自我は過去と共にあります、、、目の前で嫌なことが起きると、、そこが記憶と連動し、、溜め込んだ感情が溢れてきます、、この際に思考が爆発的に湧き出し、、そこに意識を向けることで感じるのを避けるのです。

ネガティブな感情を直接癒す

毎日マッサージをする習慣を身につけます、、、毎日体に溜まったネガティブなエネルギーを吐き出します、、するとエネルギーの通りが良くなりますから、、、元気な状態に。さらに今目の前の事件が起きても感情の湧き出しが減るために思考の湧き出しも抑えることができます。自我という収縮したエネルギーが解放され、、、気づきの意識の状態が落ち着くのです。