観念

天使も悪魔も

本当に居ると思えば

天使も悪魔も妖怪も、、、本当に居ると確信すれば、、観念のレベルまでもっていけば、、、それが見えます、、この現象界でそれが姿を現します、、、、見えるということはそれが観念化したということです。見えないということはそういう観念ではないということです。この現象界は「無限」の鏡の世界です、、観念化すればそれが現れます。

だからもう追いかけなくていい

天使が現れ、悪魔は現れ、妖怪が現れ、河童が現れ、、、信じれば出現する世界、、これが現象界です。。。重要なことはこれは観念を映し出す鏡の世界だということです、、、これは「無限」の姿見の世界です。。この観念の世界を観念と見破らない限り、、、終わりがない、、、無限です、、、いつこの無限を終わらせるのか???いつこの無限の世界の表現(私物語)を終わらせるか????今です。

空想を出る

「天使をはっきりと見たんです」、、、事実でしょう、、、ですが天使を見るには「天使」という言葉を絶対に知っている必要がある、、、先ず「天使」とそのイメージを持っている必要がある、、、この大前提が無ければ、、、天使は絶対に現れない、、、、、なぜならばこれは観念が映し出す世界だからです。ここを完全に見抜くことが悟りです。

全てはただ起こるという認識が起こすドミノ

最後の答えは決まっている

最後は決まっています、、最後の最後の気づきは、、「私が神だった」という気づきです。。。この気づきは必ず最後には起きます、、ですがその前に片付けなくてはならない観念があるのです、、それが後悔です、、あそこでこうしとけば、、あの時ああいう選択肢があったはずだ、、、となります、、、これを毎日毎日毎日繰り返すわけです、、、これを止めます、、、真実の力で止めます。

全ての思考、行動はただ起こった

全ての思考、行動は完全にただ起きましと、、、、最後に気づくこと、それが「私が神だった」から逆算すれば明白です、、、神が起こしたのです、全思考、行動を、、、、そして神は自由意志でこの80億人の意思を管理するなどするわけがない、、つまり全部が全部化学反応です、、、、因果、縁起、カルマ、ダルマ、、なんでもいいんですが、、つまりは化学反応がただ起きたのです。。。

ここに気づくと

反省が湧いてこない、後悔が湧いてこない、、将来に悩まない、、期待がないが安心だけがある、、、ただの傍観者という気楽な立ち位置、、、会社で言えば、、何も責任を追わず、、何も責められない、、社長のようなもの、、、最高のポジションがいきなり用意されている、、、、今までそんなポジションが無かったのではない、、、気づきなかっただけ、、、ここからドミノが崩れます、、全くの能天気、形崩れ、、期待も不安も何もない人生が始まります。

全く疲れないから、、、

この能天気な無責任ポジションに座りますと、、、とにかく疲れない、、全く力みがない、、、すると元気が湧いてくるのです、、子供時代の朝から晩まで遊べる元気が湧いてくる、、、、、だから動ける、、仕事も楽しい、プライベートも楽しい、、、となります。。。。これがドミノです、、、そして悟りの理解が進む、、、個人の不在に気づく、、他人の不在に気付く、、、全部が全部の現れに過ぎない、、に気づく、、、神に気づく、、、

何を焦って成し遂げることがあるのか??

究極の安らぎ

今ここに究極の安らぎがあって、、、何を一体焦って叶えることがあるというのでしょうか???今ここに完全な至福があるのに、、、なぜ焦って何かを掴もうとするのでしょうか????これは完全なジョークです、、、人間は脳が進化することで、、その脳が言葉を生み出し、、言葉がイメージ、幻想を作り出し、、、その言葉を絶対的なものであると信じたことから、、、我々は幻想に閉じ込められました。。。。この幻想の中でなんとか幸福になろうともがくのが我々の本質です。

言葉を盲信しない

小説では、、、妄想で10人以上を作り上げ、、、楽しむ、、、、小説を人間が楽しめるのはイメージ力、、、これしかありません、、、このイメージ力が、、、、今目の前の現象にそのまま加わります、、、何かを見れば、、その物には名前がありますから、、、名前に不可されたイメージ、意味ががっつり加わります、、、目の前の現象が、、しっかり意味のある現象に切り替わるのです。。。だから全く同じような現象が起きても全く異なった意味が生じ、、、全く異なった感情が生まれるのです。

そして意味を選べない

ではその意味をハッピーな意味に変えちゃえば、、、全部が全部ハッピーになりますよね、、、、となりますがそうではないのです、、、、この世界において、、個人は幻想で居ません、、ですから意味をコントロールできる個人が実在しないのです、、、勝手に思考、感情、行動が湧き上がりますから、、、、どういう意味が付くかは、、、完全に非コントロール状態です。

我々ができることは、、、

つまり、、だからといってこの我々は能動的に意味づけを変えるなど不可能なのです、、、、できることは、、、、この事実に気づくだけです、、、この事実、、、この事実に触れて、、、今この「私」を取り込む状況を確認するしかありません、、、するとこの環境を変えなくては、この状況を変えてやる、、なんとか這い上がってやる、、、、みたいな思考、感情が湧かなくなっていき、、、観念が崩れてきます、、、、言葉が作りだした幻想が緩んでいきます。

感情は観念の確認

怖い

怖いという感情が湧いた時、、なぜ???怖いが湧いたのか????多くの方は現実で何かが起きたから、、怖いが起こった、、、と考えます、、、ですが事実は異なります、、、、その方が持っている観念が、、、その現実を作り出し、、結果、、、怖いが起きました、、、、例えば、、、犬は噛みつくという観念を持っていれば、、犬を見ると怖いが湧きます、、、

世の中はお金が全て

世の中はお金が全て、、、、という観念を持っていれば、、、、近寄ってくる異性は、、お金目的では???という感情が湧いてきます。。。全て観念がベースにあります、、、、観念が現実を作り出し、その現実が感情を生み出し、、その感情が観念を強固にしていくのです。震災などが起き、、全財産を一瞬で失った時に、、多くの方は観念が崩れます、、、一瞬で無くなるならば、、、無理をして我慢して何かにしがみつくのって意味ないじゃん、、と。

全ての観念はいずれ崩壊する

全ての観念はいずれは崩壊します、、、、なぜならば観念自体が嘘だからです、、、先ず「私」というのは実在しません、、、「私」という存在をベースにした全経験は嘘です、、嘘をベースにした価値観は全部嘘ですからいずれは崩壊します、、、嘘で固められた価値観の中は常に苦しいので、、、出たくなります、、そして苦しみを生み出していたのは全部この価値観、観念であることが分かると、、、笑ってしまいます、、、

言葉とは、、、

言葉がどう作用するか

悟りとは言葉のカラクリを解明することです、、、言葉という人類最大の発明は、、、実はこの意識を完璧にこの体の中に閉じ込めるというとんでもないことを起こしました、、、意識の中に全部が在るこの現象界において、、この意識が人類が作り出した言葉によって夢の中に閉じ込められるというミラクルが起きたのです、、、このミラクルを起こしたのは勿論意識そのものではありますから、、誰かが悪いという安易なことではありません。

言葉は変幻自在にこの現象界を作り替える

言葉とは、、音の組み合わせ、、、音の組み合わせですから、、本来何も意味を持ちません、、、ですが人類はこの音を組み合わせ、、それに意味を込めるという発明をしたのです、、、「う・み」「か・ぜ」「わ・た・し」「い・ぬ」という感じに、、、これによって言葉を自由に生み出し、、その言葉を覚えることでこの現象界に意味を持たせたのです。。。

「わ・た・し」という存在

その過程で「わ・た・し」という言葉も作りました、、、これによって初めてこの世に「わ・た・し」が誕生したのです、、、、この言葉の発明以前には「わ・た・し」は存在しません、、、言葉が生まれ、、「わたし」が生まれたのです。。。この世界が夢だと言われる理由はここにあります、、「わたし」とは言葉が生み出した存在なのです。

作ってはみたものの

「わ・た・し」という言葉が発明された結果、、私が誕生したのは良かったのですが、、この私の存在をいつの日か、、実在するという勘違いを起こすようになったのです、人類は。。「私」の人生、、、私の幸福、、、私の敗北、、、などなど、、、、「私」とは言葉ですから実在しません、、ですがなぜか私は、、、幸福にもなれ不幸にもなれる存在になってしまったのです、、、これは事実ではありません。嘘です。

「わ・た・し」を再びラベルに戻す

私とは実在しないのですから、、この私が幸福になるというのは不可能です、、、実在しないのですから。つまり人類の不幸とは実在しない私を幸福にしなくてはならないという脅迫観念が生み出しているのです。私は不幸を感じる、、、不可能です、、実在しないのですから、、、でも不幸という感情は確実にある、、、、そうです、、勘違いはが生み出したこの私物語をやっているから不幸が生じるのです、、しんどいに決まってるのです。

言葉で真実を現すという矛盾

我々は今言葉が作り出した幻想に居る

我々は今現在言葉が作り出した幻想、イメージの中に居ます、、、閉じ込められています、、この幻想の世界の中に居て、、、言葉で悟りを理解しようとしますと、、、新しい幻想を生み出すことになります。言葉とは幻想を生み出す道具です、、、「世界にはワンネスがあって、、」脳はすかさずにワンネスを想像します、、、はいこれでお腹いっぱい、、、「大いなる一つがあるんです、、、」大いなる一つを想像します、、、お腹いっぱい、、、違うんです、、新しい概念を覚えるのではなく、、、この世界が言葉で出来た幻想であることを体感した瞬間に、、ワンネスが現れるのです、体感として。

言葉の威力を知る

言葉とは魔力です、創造神です、、言葉をあまりにも多くの方は勘違いしています、、、引き寄せの法則????いやいや、、、今既に我々は観念の世界にどっぷり浸かっています、、、私が存在し、時間があって、空間があって、、、、、全部観念、幻想、イメージ、夢です、、、そんなことはない、、完璧に感覚があるではないか????夢の世界での感覚がこの夢を完璧に現実的に見せるのです。

やばい!!!TVを見過ぎた、、、

これが我々の悟りです、、、我々の悟りとはTVに夢中になって、、、いつの間にか時間が経ち、、、それに気づいたその瞬間、、これが小さな悟りです。。。意識がTV画面にがっつりフォーカスしました、、、、そしてそうだ 、、、、、私はこの体だった、、、、違うんです、、、この体でもない、、、この体にフォーカスが集まっているだけです、、、、そうだ、、、私はこの体ではなくて、、、、意識そのものじゃないか!!!!これが悟りです、、本当の悟りです。。。。TV画面に集中し、そこから悟り、、、この体に集中し、、そこから悟る、、、、何かに集中する意識こそが我々の本質です。

至福が至福になろうとは思はない

既に至福であれば

幸せになりたい、、、これは不可能です、、なぜならば、、なりたいのが自分だからです。幸せは幸せになりたいとは思いません、、平和は平和になろうとは思いません、歓喜は歓喜になろうとは思いません、、静寂は静寂になろうとは思いません、、、つまり、、、自分とは絶対にこれらになれない存在なのです。

そもそも違うから

自分はなぜ幸福に憧れるのでしょうか???幸福になれないことを絶対的に知っているからです。知っているから憧れるのです、、、そもそも幸福であればそこを目指さない、、ではなぜこの自分は幸福ではなくなってしまったのか???もしくは幸福でない時間を過ごすことがあるのか???それは自分という存在こそが幸福から逸脱させたからです。全く存在しない自分という自我を形成し、、自分が全てを決めているという観念を作り出し、、そのストーリーを生きるという物語を想像し続けています。この行為が幸福、至福、平和を遠ざけているのです。

逆に言えば

自分という存在を信じる以外に不幸、孤独、悲しみ、鬱になることができません、、自分を信じることでしかこの感情を味わうことができません、、、不幸、孤独、焦り、憂鬱を味わいたければ、、、自分という存在が居ると信じることです。。悟りとは苦しい感情を味わうための唯一の存在「自分」が実は居ないことに気づくことです。「自分が居る」という洗脳を解き、、この世界から自分を解放することなのです。

光は光に気づかない

今目の前の光

今目の前には視界が広がっているわけですが、、、真っ暗ではないのはなぜか???それは光があるからです、、、その光をなぜ気づくことができるかと言えば我々の本質は光ではない存在だからです、、、そしてなぜ音に気づくことができるかと言えば、、、我々の本質が静寂そのものだからです。非光、非音、、、これが我々の本質です。。。この非光、非音である存在が、、、常にここにあるこによって、、、今この現象の全てを気づくことができています。

その中に

その中に、、、この体が現れ、脳が現れ、、脳の中に自我というプログラムが現れ、、、自我を通して起きた経験の全ての記憶を受け取るセンサーが現れ、、、記憶を元に形成された観念を反映した世界がこの究極のREALITYの上に重なってそう見えるようになります。そしてその全てをこの存在が気づくのです。そしてこの自我をベースにした私物語がこの究極のREALITYの上に重なった世界を生きるという夢を作ります。

そこまで分かると

ここまで分かってきますと、、、体だは自我を手放す準備を始めます、、自我の必要性を感じなくなっていきます、、自我とはこの体を守るための救済シシテム、防御システムですから、、、体がもう必要ないことを悟れば、、自我を手放す、、自我というプログラムを削除することが可能になるのです。そのためにはこの自我のプログラムを完璧に理解する必要があります。。その方法が瞑想、ヨガ、悟り本、マントラ、禅、各種宗教ということになります。

思考が騒いでも

思考が騒いでも、、全く気にならない、、感情が騒いでも気にならない、、行動が騒いでも気にならない、、、全部自我をベースにした自動システムが起動しただけ、、、この自我防衛システムはこの体を守るために、勝手に起動し、勝手に休みます、、我々の本質は全てに気づく、、存在そのものですから、、、常にそれを気づきていきます、、、

簡単に見抜けるわけがない

既に悟ってる???冗談じゃない

つまりはこういうことです、、、我々の全行動は自我記憶システムが反応しているだけですから、、、自我なんていないんですよ、というメッセージが届いても、、それが自我記憶システムの反射が起きます、、この自分は反応しかできない存在なので、、、、思慮深く考えているつもりでも、、その行為が自我記憶システムの反射になっているのです。ですからいつまで経ってもこの時間空間、夢の中でそのプロセスが反射しているだけなのです。。この個人はいつでもメッセージに反応しかできないのです、、、そんな個人が悟りを開くというのは、、完全なギャグなのです。

個人ができることは

個人ができることは、、、個人が実は居ないという気づきが「どこか」で起きるのを待つ以外にないのです、、いつかその時が来る、、、それを信じて結果を手放すのです、、、悟りに対するその執着が抜けた時に、、起きる可能性がでてくる、、、、個人はどこまでいっても自我記憶システムの反応しか起きない存在、、、主体的に悟など不可能なのです、、、ですがその理解が進むということは自我記憶システムに緩みが生じている証拠です。

自我記憶システム

記憶によって自我は形成され(妄想)その自我が体験した全てが全部記憶されていく、、この記憶がさらに自我の存在を明らかにする、、、そして見える世界はその記憶が織りなす観念がベースになっており、、、見える世界は自我を証明する現実が起きている、、これで簡単に見抜けるわけがないのです。しかも自我はこの体を守るために形成されていますから絶対必要な存在なのです、体にとって。この完璧な枠組みの中から自我の正体を暴くのは至難の技です。

自我とは自分を守るために形成された

本当の自分からの自我形成

真我そのままの体の状態が子供の状態です、、彼らは何も考えずあるがままに動き遊びまくっていました、ある日親からこれはやってはダメ、これもダメだと、、言われ続けるようになり、、、真我は自我という偽りの自分自身を作り出し、、親に食わせてもらうように自我を作り出しました。つまり自我とは、、生き延びるために、、、親にとって都合の良い形であると言えるのです。。子供は嫌に嫌われてしまったら生きていけませんから、、そこで偽りの自我を作り出したのです。

全員の自我は偽り

自我とは偽りの存在です、、真我が真我のままでは生き抜く事ができない時に、、体に偽りの自我を形成させ生き延びようとした起こりです。ということで自我の状態で生きるのは辛いのです、、本質が本質のままではないからです。自我という偽りの存在を信じて生き続けるのは苦しみの人生なのです。だから人生とは=苦しみなのです。

自我が実在しないことを見抜く

自我はこの体を守るために形成されているわけですから、、この自我は偽り、嘘、無いと信じるのは大変怖いことなのです、、、自我が無かったら生き延びてきていないのですから、、、大変な危険、リスク行為なのです。悟りが非常に難しのはかつての命綱、かつての生命線、かつてのセイフティーネットを捨てることだからです。ですがこの恐怖心のメカニズムが理解できますと、、自我の緊張が緩みます、、もう必要ないことの理解が起きます、気づきの意識から。。。

親は意図的にそれをしていない

親の自我も完全に偽りです、、そしてそこから出てくる思考、感情、行動も完全に自我ではなく真我から起き上がっています、、ですからそこには何も意図がないのです、、ただその人を支える観念からこれらは飛び出してきました。。それに反射されるように、、子供の体の中に偽りの自我が形成されたのです、、、全部が全部自動反応です。