蜃気楼

全てを意識する存在

もしもこの体が蜃気楼だったら、、

もしもこの体が蜃気楼だったら、、、この景色が見えているのはなぜでしょうか??音楽を聴いているのは誰でしょうか?コーヒーの香りを楽しんでいるのは誰でしょうか???ベーコンを噛み砕く感覚を所有しているのは誰でしょうか??もしもこの体がただの蜃気楼で実在していなかったら、、、、そして事実はこの体は蜃気楼です。そうなるとこの五感の感覚を完璧に捉えているのは誰でしょうか???それが全体、根源、大いなる意識と呼ばれる存在です。

???じゃあ私が全体なのか???

この五感の全てを所有してきたこの自分の体が蜃気楼であることが分かると、、おかしな気持ちになります、、、それでもこの五感は完璧にこれまでの人生あらゆる感覚を掴んできたぞ、、今日も朝朝食でベーコンエッグを食べたが、、香り、味覚、触覚、視覚、全て感じていたぞ、、、、そうです、、これまで自分の体がこれを感じていたと勘違いしてきただけで本当は全部全体が感じていたのです。???ではこの自分は全体なのか??その通りです。全体がこの蜃気楼である体になり切って全体験を所有していたのです。

だから五感を使っている時は全体そのもである

五感経験の所有者は完全に全体ですから、、経験している時は全体になっています、、経験しながら、、自分をやるのは不可能なのです。経験と自分錯覚の同時進行はできません、、、ベーコンエッグを堪能している時全体に戻ります、その時「自分が居る」を忘れます、、、韓流アイドルのコンサート中、、コンサートを堪能しているのは全体です、この時「自分が居る」を全体は辞めます、、大いなる気づき、全体、サムシンググレート、神は、、どこか遠くに居るのではないのです。今この瞬間ここに居ます。

悟りをしっかり閉じる

超現実的な子供はしっかり悟りを閉じる

悟りを開くには悟りを閉じるこが重要です。しっかりと悟りを閉じればしっかりと悟りが開きます。このギャップが最高起爆剤なのです。悟りを閉じるとは究極のリアリスト、超現実的になることです。現実的、、、実が現れるこの世界にどっぷりと浸かることです。現れるこの現象にしっかりと騙されて、、しっかりとこの現象に巻き込まれ、しっかりと七転八倒するのです、八方塞がりを何度も繰り返し、酒池肉林、餓鬼畜生に染まるのです。するとこの現実の世界に中に真実を見ることができるようになります。

現象をしっかりと見つめる

この現象は、、中途半端に見つめてもそれが幻想、3D映像、蜃気楼であることを見抜けません、、しっかりとしっかりとこの現実を眺めるのです。すると、、、事実がボコっと現れます、真実に入っていきます、そこから無我に入り込みます。中途半端のこの現象と向き合ってもそれほど苦しくもないし、それほど辛くもない、、その通りです。大人になってもなんか子供っぽいよね、、ていうのは悟りが閉じ切っていないのです。これでは人生が中途半端になってしまいます、、ぬるま湯での苦しみが続くわけです。

とはいえ全て決まっている

とはいえそれすらも全部川の流れ、決まっています、、どのぐらい苦しむかが決まっていないことが決まっているのです。そこに個人の判断、力は全く関与せず、、全て大元からの川の流れにこの個人は委ねるしかありません。そして強制的に八方塞がりに入り、強制的に七転八倒に入る可能性もある、緩い緩い川の流れになっているかもしれない、、そして最終的には全員が悟りに入ります、なぜならば真実は一つしかなく、、真実に流れ着くしか道は無いからです。

空(0)から色(数字)が現れた

空とは0(零)

この現象界は数字で現せる世界です。りんごが1個、2個、、、人間が1人、2人、、となります、、、そしてこの現象界を起こしている全体(空)はカラという漢字からも分かりますが、、ゼロです、0です。そうですこの世界は零から現れているのです。本当はゼロ、0ですから1、2、3、4は幻想、蜃気楼、空想なのです。その証拠に空をこの現象界で現すとどうなるか、、、1(現象)✖️0(空)=0(空)です。2個(りんご)✖️0(空)=0(空)です。この現象界に空を巻き込めば、、、空になります。空と色は相入れない関係なのです。もしくは1(現象・色)✖️0=0(空)ですから色と空は一つということでもあるでしょう。

本当は0だから、、、

10000円(現象)✖️0(空)=0(空)ということは、、、この現象界でどれほどお金を得ても本当はゼロですよ、、とも取れます、、、本当はゼロだったということを知ることが悟りです。この現象の世界は物に溢れ、数字に溢れ、物質があるように見えてしまいますいからどうしてもこの物質に囚われてしまうのです。私は一時霊的真理探究の旅に出ましたがそれだけでも本当に気持ちが軽くなったのを覚えています。物質しかない、、この認識は完全な誤解であり苦しみを生み出すのです。

魂という概念でどれだけ救われたか

私は魂という概念によって本当に救われました、、、今世(概念)に全く縛られなくなったのです、、それまでどれほどこの今世というものに縛られていたのか、、、です。そして今は前世、今世、来世すら概念に過ぎないことを知っています。概念ですからそれは思考です、幻想です、空想です。事実ではありません。事実は今この場所に全部がある、、今この場所に空(ゼロ)があり色(現象)が全部あります。そこには自分という個別独立した存在は現象以外では居ません。この個人を認識する意識(全体)がただ在るだけです。

分別ある大人とは地獄の状態

分別

分別ある大人になりなさい、あの人は分別ある人だ、、、、分別とは大人としての判断能力があることを意味し、立派な大人、自立した大人、道理をわきまえた大人であることを意味します。ですが真実を伝える立場から言ってしまえばこの状態こそが地獄の状態、苦しみの状態、悟りが完全に閉じた状態です。なぜか???判断こそがこの現象界をファンタジー化し生き辛くするからです。あの人は分別がある、あの人は良識がない、あの人は節度がない、あの人は狂っている、、、こうなります。これは真実からすると全くの見当違いなのです、

その人をその人たらしめているのは、、、

その人の中に何か人格というものがあってその人格がその人を動かしている、、こレが多くの人が認識している人間の姿でしょう、もしくは魂が宿りその魂いがその体を突き動かしていると、、、ですがこれこそが思考。空想、妄想なのです。事実はただ全体からの起こりがあるだけです、現象があるだけです。磨いて磨いて磨きあげる人格、魂は存在しません。これこそが想像、思考です。

そんなことはない江原さんはしっかりと認識している

違います、江原さんという現象が起き、魂が見えるという発言が現象化しているのです。三輪さんという現象が起き魂が存在しいているわよという発言が現象化しているのです。それすらも全体の表現、アート、現象です。何度も伝えますが現象とはかたち(象)が現れると書きます、、現れているのです。そして現れるという漢字を見てください、、見えると書いてあります。。つまり形が見えているのです。蜃気楼です。

やる気がなかなか起きなくて、、、

そうです、やる気は作るのではなく、、全体から起きるのです

やる気さえ起きれば、、やる気が起きなくて引退します、、あの時やる気さえ起きれば、、、本当に面白いのですが、、みなさん事実をよく知っています、、やる気というのは作れるものではなく、、起きるものなのです。やる気を昨日しこたま作りました、、聞いたことがありません。一年中のやる気を昨晩徹夜で作っときました、、聞いたことがありません。やる気は作り置きができません。ただ起きるのです、、、起きるのですから起きるのを待つしか、、、個人(蜃気楼)にはできないのです。

あいつはやる気があって素晴らしい

社長はやる気がある部下を評価します、ですがそのあいつは、、、自分でやる気を作っていないのです、、ただあいつを通じてやる気が起こったのです、、これは事故です。そのあいつが、、、ふと衝動が起きてしまい、、会社のお金を盗んでしまった、、、そうです、衝動が起きたのです、あいつから、、、あいつはあんなにやる気がある奴だったのに、、、あんな酷いことをしやがって、、違います、あいつを通じて全体から衝動が起きただけ、、やる気も全体から起き、横領も全体から起きました。やる気も衝動も自分では作れないのです。

では採用試験は無意味なのか???

違います、、採用試験、面接とはやる気が起きそうな人間(蜃気楼)を見定める場所なのです。その人間(蜃気楼)からやる気が起きそうか否かを判断する場所なのです。東大生が結局真面目で優秀なのは、、、その人間からやる気が起きる可能性が高いということです。もしもその東大生(蜃気楼)が入社してみたら全然やる気が起きないようだったら、、、それはたまたまそういうタイミングだったということです。もしもその東大生に会社を辞めてもらう場合は「君はたまたま今やる気が全体から起きないようだから、、辞めてもらってもいいでしょうか?」になります。

あんな人にならないように注意しなくては

TVニュースの犯人を見て

女性をストーキングしてそのまま部屋に侵入、レイプをして捕まる、、、そんなニュースを見れば誰でも、、、絶対に俺はそんなことをしないようにしよう、、、こんな感情が起こるはずです。ですがこの心配は完全な杞憂、無駄です。なぜならばそのような行為をするかしないかは全体が決めるからです、というよりも全体からそのような動きが「私」という蜃気楼を通じて起こるかもしれないし起きないかもしれない、、からです。ですから人の振り見て我が振り直す、、ということをできる「私」は居ないのです。「私」とはどこまでいっても五感フル活用蜃気楼、現象、幻想です。

TVニュースを見る意味はないのか???

ないです、はっきり言ってしまえば、、、全ての現象に意味など全くありません、、もっとハッキリ言ってしまえば自分という蜃気楼すらも蜃気楼ですから、、何も起きていないのです。事件も蜃気楼、人も蜃気楼、自分も蜃気楼、、、です。蜃気楼という言葉の意味は実在しないにも関わらず実在しているように見える現象です。ですがそれでも「私」という蜃気楼は毎日生きれいかなければなりませんからニュースを見るのもいいでしょう。

実際には、、、

実際のところニュースを見れば見るほどに、、、「私」という蜃気楼はそれを「自分」ごとに捉えていきますから、、絶対幸福(全体)からは離れていくとは思います。「自分」ごとに捉えるということは自ら分けるをすることなのです、自らを全体から分けるのです、、これが孤独、分離感を生み出すのです。そうではなくTVニュースを、、全体が今日も色々起こしているなー程度に見れれば、、、面白いかもしれません。

今沖縄が大変なことになっている???

行かなければいい

例えば、、今沖縄が大変なことになっているというニュースを読んだとしましょう、、沖縄が〇〇国に侵略されてしまった、、、、このニュースを聞けば日本中が騒然とし毎日TVのニュースはこれを取り上げるでしょう。ですが事実は何も起きていません、、、「私」という蜃気楼が居ない場所では何も起きていないのです。何も現象化されないのです、私という蜃気楼が居ない場所では。

でもTVでは毎日動画映像として流れているぞ

そうです、動画映像のみが現象化しているのです、、、動画映像のみです、、これが事実です。そんなことはない毎日何千人という人が爆破で死んだという数字まででているぞ、、、違います、、その情報のみが現象化したのです。私という蜃気楼が存在しない場所には何も現象化できないのです。逆にいえば「私」という蜃気楼が沖縄に行けばその瞬間そこは現象化し戦場化するのです。。。現象化というをしっかりと読んでください、、かたち(象)が現れているように化けている、、です。しっかり漢字に答えがでているのです。現象、、かたち(象)が現れると、、、現れるのです、「私」という現象が行く場所に、、、

目の前の現象にただ淡々と向き合う

私という現象がいく場所にはあらゆる現象がそれでもこれから現れ続けるでしょう、、、そこにのみしっかりと淡々と向き合っていきます、、目の前の現象は本当に緻密で素晴らしいのです。そこに集中して向き合えばそこから無我に入りその場で全体(至福)にもなれます、、、もしくはその現象をただ見つめるということに無我になってもいいでしょう、もしくは目を閉じて現象を消してしまい、、、音という現象に触れてみてもいいかもしれません。もしくは私(蜃気楼)が行く場所が次々に現象化するのを楽しんでもいいかもしれません。

あなたが学校を休んだ日に、、、

学校を休んだら無視された

風邪で学校を休み、、、次の日に登校したら、、、クラスのみんなから無視をされた、、、この時「私」は思います、、、昨日、、、クラスのみんなで話し合って、、「私」を無視しようと決めたんだなと、、、99.999パーセントの人はそう思うはずです。ですが事実は違います、あなたが学校を休んだ日学校という現象すら起きていません、、、これが事実です。学校すら現象化していないのですからクラスメイトなど現象化されるはずがないのです。

ではなぜ無視が起きたのでしょうか???

分かりません、ただ現象がそう動いただけです、、、そこには何の意図もないのです。ただそれが起こったのです。では「私」はこれに対して何を今後すればいいのでしょうか????簡単です、全体の起こりに対してただ淡々と原因を聞くのです、、、周囲の友人になぜ「私」は無視されたのかを徐々に聞いてもいいでしょう、学校の先生に相談してもいいでしょう、、、もしかしたら「私」が無意識に友人を苛立たせるセリフを言っていたのかもしれません、、、ストーリー上何が起きたのかを一応聞きます。。もしくは何もしないをしてもいいでしょう、、無視に対し何もしないをやってみるもの面白いかもしれません。

「私の髪型」が原因だった、、、

調査してみたら、、私の髪型が原因だった、、パーマをかけていて、、それが友人の反感を買ったのだという答えが一応聞けたのならば、、パーマを辞めるを選択しても良いでしょう。ですが本当は「私のパーマ」論争は私が学校を休んだ日には起きていません。全体の動きでたまたまそうなっただけなのです。ですがそれでも全体は私がパーマを止めれば無視がなくなるという動きになるかもしれません、ならばいかもしれません、それも全て全体の動きであってここに「私」という蜃気楼は何もできないのです。「私」という蜃気楼はいつだって全体をコントロールできません。そして本当のことを言ってしまえば「私」という蜃気楼の動きも「私」は決めていません、ただそのような思考、行動が全体から「私」を通じて起きているのです。そしてもっと本当のことを言ってしまえば「私」を通じてさえ起きていません。「私」という蜃気楼とは全く関係なく思考が起きています。この思考の起こりと蜃気楼がリンクしているという思い込みが起きているのです。

相手に真剣に怒るのは意味がないのか???

失礼ぶっこいた相手に真剣に怒るということ

全部が全部全体が起こしたのならば、、個人に向かって怒るというのは何の意味もないのでは???これがスピにハマる人が陥る罠の一つです。。誰かにタコ殴りにされても怒ってもしょうがないとタコ殴りをさせたままにするのか???とんでもない話です。瞬時にやり返しタコ殴りを止めます。真犯人が全体だということであって相手に何もアクションを取らないなど愚の骨頂です。真犯人が全体であることを見抜いた上で2時間相手(蜃気楼)に説教するのも一つです。重要なことは真犯人の存在を理解しているかどうかの一択です。

反応は起き続ける

タコ殴りにしてきた相手に三倍返しをするのか、五倍返しにするのか、十倍返しにするかによって次の相手の行動は100パーセント変わります。ですからそこは自分(蜃気楼)が真剣に考えて行動を起こせばいいのです。重要なことは真犯人が誰かということです、、真犯人(全体)はただ動いているだけで、、自分(蜃気楼)を困らせようなどの意図がないのです。ここを残酷と捉えるか、気軽と捉えるかです。答えは残酷であり気軽です。なぜならばそこに意図がないということは完全な再防止は存在しないのです。

人を判断するという罠

人を判断するとしっかりとこのファンタジーに取り込まれる

友人との食事会、、友人が1時間遅刻をしてきた、、、頭に来てしまい、、、1時間遅刻するのは失礼だ、大人がやるべきではない、、、この発想が頭から離れなくなります。家に帰ってもあれは失礼だ、、、、二度と会うべきではないのでは???思考の渦にがっつりと取り込まれていきます、、、この状態をほくそ笑んでいるのは誰でしょうか???全体です、全体がこの起こりをほくそ笑んでいるのです。面白い、面白いと、、、全体総指揮人間泥沼劇場です。

では友人の遅刻1時間をどう捉えればいいか

答えは上記のみになってしまいますが、、、つまり友人の行動、1時間の大遅刻は、、、友人(蜃気楼)が起こしているのではなく全体が友人(蜃気楼)を通して起こしているのです。1時間遅刻した友人(蜃気楼)が居るというのは100%事実です。ですがそれが起こったのであって、それを起こした友人(蜃気楼)は居ません。友人にはその日の行動をコントロールする力はないのです。力とは全部全体の所有物です。全体のものではない力は存在しません、全体の知らないところで勝手に友人が1時間遅刻という大決断をしてしまったら全体は全体ではなくなってしまう、、、全体風全体になってしまう、全体っぽい全体になってしまいます、全体を気取る全体になってします。

では友人の1時間遅刻を許せばいいのか????

違います、、友人にしっかりと次は遅刻しないで欲しいと伝えます。ですが真の犯人は全体であることをしっかりと認識した上でです。友人にしっかりと遅刻しないで欲しいと伝えれば、、、遅刻の可能性は減っていくかもしれません。ですから一応伝えるのです。ですが次に友人が遅刻するかしないかは全体が決めます。ですから真の犯人をしっかりと認識した上で伝えるのです。そして一般的出てくる「怒り」が湧いてこなくなることに気付いてください、、真の犯人を分かった上でなぜ目の前の友人に対し真剣に怒れるのでしょうか、、

テロリストすらも

残虐なテロリスト、、、絶対に許してはいけない、、、その通りです、、、ですがここでも真の犯人を見抜くのです。真の犯人は全体です、、、、全体が誰か(蜃気楼)を使ってテロ行為を起こしたのです。ここが最重要ポイントです。それが理解できますとそれに対して感情が湧いてこないのです。なぜなぜ????が湧いてこない、、これも先ずは受け入れなくては、、に変わります、そして真の犯人が全体であることを把握した上でテロ防止を図るのです。

真の犯人が誰かが腹落ちすると、、、怒れない

飼い猫が大好きな洋服をグチャグチャに引き裂いてしまった、、、、この時に怒りが湧いてくるでしょうか、、、あまり湧きませんね、、、、なぜか???飼い猫に悪意が全くないからです、、、というより善意もありません。自由意志がないのです。猫はただ意味もなく洋服で遊んだだけなのです。そこに真犯人がいないのです、といよりも猫の動きも全部全体が起こしただけです。実は全体は人間を困らせようなどの悪意もありません、ただ全体は動きているのです、この動きが人間にとって都合が悪い場合があるということです。

津波もただ全体が起こした

津波もただ全体が起こしました、、この際に人間をこらしめてやろうなどの意思はありません、、ただ全体(自然)が動いたのです、、ただそれだけ、、それを人間は二度とこんな惨事は起こしてはいけない、、と捉えます。人間も自然現象ですから、、人間の行動の全てはただ起こったのです。これを個人は都合が良い、悪いで判断を起こします(全体)、、、全体が動けば、、個人はファンタジーに取り込まれていきます(それも全体の起こり)

幻想に取り込まれて何が悪い????

全体の動きに個人が反応しファンタジー幻想に取り込まれることは悪いことなのか???そんなことはありません、、、それすらも全体の起こりですから悪いわけがない、、、悪いならば、、最初からファンタジーなど作るわけがないのです、全体が。このブログはただ淡々とどういう事実が起こっているかを解説しています。幻想上の「私」が事実を整理するためにただ淡々と日々の気づきを書き綴っています。