至福

至福を求めるのではなく

苦しみを終わらせる

偽りの自己、、、この体を守るためにできたこの自己防衛システムは、、最初のうちは上手くいきます、、、この体を守りつつ、、、全体、存在をしっかりと意識していきます、、、苦しみがない、、、そしてこの体はしっかりと守れる、、、、ところが徐々にこの偽りの自己を完全なる自分で在るという思い込みが強固になっていくと、、、この体は守れるが、、、苦しい、、が生まれてくるようになります。この状態では偽りの自己は次から次へと楽しみを追い求め、面白いを追い求める餓鬼状態になっていきます。

先ずはここを終わらせる

ただ楽しいを追い求めても全く楽にならないことを学んだ自己は、、、何かに打ち込む方法を選ぶようになります、、、部活動、スポーツ、勉強、、などなど、、、すると貪っていた時期に比べてなぜか楽になるという経験を積むのです。。。そうか、、、貪るより何かに打ち込んだ方が楽だ、、、、ただなぜ楽かは全く分かりません。

集中し打ち込めば、、、楽だ、、、じゃあ次々に目標を

集中し打ち込むことで楽になることを覚えた偽りの自己は、、、次々に目標を達成していくことを学びます。受験の後は就職、就職の後は出世、次は結婚、次は子育て、、次はお受験、次はマイホーム、、、と、、、確かに貪っていた時よりは楽になった、、、だが、、、いつまでこの目標達成を続ければいいのか????徐々に疲れが出始めます、、、

なぜ楽になったかを知る

何をしている時楽で、、なぜ目標を持つと楽になるのか???目標を達成した瞬間は安堵感がある、、、この理由をどこかで突き詰めなければこのゲームはエンドレスに続くぞ、、、ここで究極の目標に舵を切るのです、、、本当の幸せとは???人間のままで幸せにはなれないのでは???です。事実自身をこの体と思っているようではこのゲームはクリアできない、、、その仕組みを理解します、、、そして実践します、、、

で??明日からどうすればいいのですか??

どうもできない

ノンデュアリティ、悟り、覚醒のメッセージは分かりましたよ、、、、で結局明日からどうすればいいのですか????どうもこうもそれを決める力が見かけ上の個人には無いのです、、、見かけ上の個人はやっているつもり、考えているつもり、感じているつもりしかできません、、、それじゃあ廃人と同じですよね????違います、、それを物心ついてからずっとやってきたのです、、だからこれからもやっていくのです、、、、唯一の違いはそのことに自覚的であるか否かです。。。。見かけ上の自分以外に、、神羅万象、気づきの意識があり本当の自分はそっちだったという気づきがあるか否かです。

どうもできないなら死にたい

どうもできないなら、、生きていてもしょうがないですよね????見かけ上の個人が完全自由意志で行動してきたと勘違いしていた状況から、、完全に神羅万象そのものであったという気づきが起きると、、、そのような感情、発想が神羅万象から湧き出すこともあるでしょう、、、、、ですが神羅万象の動きそのものであるという気づきは本当に退屈でしょうか??本当に無感動でしょうか???私はそうは思いません。

何を目標に生きたらいいか分からなくなった、、、

もう何を目標に生きたらいいか分かりません、、、大丈夫です、、、その目標も神羅万象から現れます、、もしくは現れないこともあるでしょう、、、そしてそのことと、、至福感、静寂、、とは何も関係がないということです。苦しみとは何も関係がないのです、、、独立した個人であるという脳の錯覚が神羅万象から起こった時に苦しみが湧き上がり、、、これが脳の錯覚であるという気づきが神羅万象から起きた時に苦しみが終わります。

陰謀論について

現象として起きる可能性がある

陰謀論、、、世界には世界を牛耳る裏の存在が居て、、、、とありますが、、、これって真実なのでしょうか????陰謀論というこのアイデアは神羅万象の現れ、現象の現れです、、、これが紛れもなく現れたのです、、、そこは事実です、、、ですがそこに書いていることが現象として現れるかどうかは分かりません、、、現象界で何が起こるかを分かっている誰かはいません、、、これは現象を起こす空すらも分かっていません、、、つまりこの世界で次に何が起こるかを予想できる誰かは居ないのです。

宇宙人も、、、

宇宙人の存在は????これも現象として現れる可能性はあります、、、ですが私の目の前に現れていない限り、、そのままです、、、情報としては現れるかもしれません、、、、目の前に現れるかもしれません、、全ては現象ですからそこにはルールは皆無、先のことは誰にも分かりません、、、重要なことは、、、、そのことと至福にることとは全く関係ないということです、、、、どのような現象が起こっても、、、それが現象に過ぎないことを見抜く以外に価値はないのです。

宇宙人のメッセージには興味ある???

宇宙人のメッセージが人類に役に立つかもしれないじゃないですか????それも現象としてあるかもしれません、、ですがその現象(宇宙人のメッセージ)は現象であって、、、、それを見抜いた上でそのメッセージを楽しむのは何も問題ないでしょう、、、ところがそのメッセージが事実であるという思い込みは注意しなくてはなりません、、、

大脳で便利になり大脳から脱却して至福に至る

大脳とは生活を便利にする道具

大脳はこの体を保持するために発達しました、、、あらゆる物に名前を付けて、、、生活を便利に便利にしたのです。そしてこの体にも名前をつけることでこの体の生存確率を確実に上げたのです、、、人類80億人には名前が付けられていますがこれはこの生物の生存確率を上げるために他なりません。

だが同時に苦しくなった

この体に名前を付けることによってこの体の生存確率は確実に上がったわけではありますが、、、なぜか苦しいも同時に湧き上がるようになってしまいました、、、便宜上付けたこの名前によってこの名前にはあたかも確固とした自我が生存するような勘違いも横行し、、、途端に苦しさが湧くようになったのです。。。便宜上のこの名前に確固とした人格、魂が宿っているというところまで発展してしまったのです、思考上。

本当は居るわけがない

名前さえ付けなければ、、、、そこに個別分離した存在などあるわけがなく、、、、名前をつけることで、、、言葉を覚えることで、、、この分別した存在が居るという想像行為がスタートしたのです。だから苦しい、、本当は居ないのですから、、、、じゃあこの苦しみを終わらせるにはどうすればいい????このメカニズムに気づくしかありません、、、、便宜上名前を付けただけという本質に戻らなくてはならない、、、

名前に使われる人生の終了

便利にするために名前を付けてきたにも関わらず、、、その名前が実在するかのようになるまで信じ込み人は不幸になりました、、、、ただしこの世界で生きていくには名前を捨てるわけにはいきませんから、、名前が便宜上であることを再び認識し直すほかありません。本当は名前が付いた個別分離した存在などないことを悟るほかありません。

いつやるの?今でしょ!?

今やるかやらないかはそれが起こるかが全て

林修先生は悟っていません、、あんな恥ずかしい言葉を全国区に広めてしまったのですから????あの林先生の名言で今やる人の人口は増えたのでしょうか???絶対に増えていません。。なぜならば今その行動が起きるか否かは全体、気づきの意識からそれが起こるかどうかだからです、、、残念!!!林先生と討論したら大喧嘩になりそうです。

常に今、、根源から行動が湧き出してる

一日中ボーとしてしてまして無駄にしました、、、違います、、ボーとするが根源から湧き上がり続けたのです、、、三食寝たろうで、、いつも休みは無駄使い、、、違います、、それが根源から起こったのです、、、本当はもっと外に行きたいんですがね、、、違います、、、その発想すらも根源から起きたのです。どこまでいってもそこに個人が居ないのです、、、そこは腹落ちしますとあら不思議、、、軽くなっちゃって、、休みがとにかく充実します。

何もしてないのに楽しい

幼稚園児で、、、朝から晩までスケジュールがパンパン、、リア充ぶって気取っている奴っていなかったですよね、、、関係なかったはずです、スケージュールのパンパンと充実は。。そうです、、、何かをしていないと至福になれないって完全にフェイクです、現実逃避です、、、現実とは、、、、色のこと、、、色全体のこと。、、色全体になることこそが完全なるリアリティー、スケージュールを埋めまくる個人こそ現実逃避です。

思考に振り回されているという、、気づきは素晴らしい

なんか頭の中の思考が大変で、、、

これは重要な気づきが気づきの意識の中で起こっています。頭がグチャグチャで、、、、本当にグチャグチャならば、、、それにも気づかない、、、思考がこの苦しみの根源であるという気づきが起きればそれはもう悟り間近です。あの人のあの発言でモヤモヤする、、、そうです、、このモヤモヤこそが苦しみの根源です、、思考と自分(気づきの意識)が一体化しています。苦しい場所(分離)に意識が向いているのです。

じゃあボーッとしてればいいんですか???

その通りです、思考に一切邪魔されない、、状態、、瞑想状態、無我状態は至福そのものです。ですがその思考のコントロールを自分がやるのだと思うと失敗します、、、コントロールできる自分が居ないことを悟るのです。思考とは湧いてくる温泉のようなもの、、、それをコントロールできてきたと思っている自分も思考です。ワンネスをバキバキに切り裂く存在思考を自分(思考)がコントロールしている(思考)という究極の思考ゲームの罠に居たことに気づくのです、気づきの意識が。

思考とは湧くもの

思考とは湧くもの、、、この気づきが起きますと、、、湧いてこなくなる、、、、面白い、、、あれだけ脳内でグチャグチャと回っていた思考が湧いてこないのです。なんという奇跡、そうです、、、思考の罠から抜けるには、、罠であるという気づきが起きればいいのです。気づく存在は誰?気づきの意識です。

気づきの意識はどこに居る?

さっきから気づきの意識、気づきの意識言ってますがそれはどこに居るんですか???今ここで気づいている存在です、、、光、声、温度、視界に気づいている張本人です。。いやいやこの体が感じているんですよ、、違いますか???違います、、、この体が感じているという錯覚はたまに起きます、、、夢中になってラーメンを食べているときに、、、自分が食べているなんて思いませんよね???ラーメンを感じ尽くしているのが気づきの意識です。

悟りにハマる人は幼少期の至福感を覚えている

私は悟りに魅了されたのか???

私がなぜ悟りに魅了されたかと言えば、、、幼少期の万能感、至福感をはっきりと覚えていたということがあります。何も条件なくただ幸福だったと言う時間を克明に覚えています。だから一般的幸福に興味が持てない、、車、家、立場、家族、地位、名誉、、、では絶対にここに辿り着けない、、、それは最初から分かっている、、、ただそれがどこにあるのかが分からない、、、

ブッダの言葉が刺さる

この世は無常、、、解脱だけが至福に至る道である、、、、いや絶対そうだよね、、、!!!この言葉を待っていた、、、釈迦最高、仏陀最高、、です。自分の中で何かが発火したのが分かりました。この発火は今まで味わったことがない発火、、だがこの個人という感覚が無くなるとは到底思えない、、、だからそこからはスピにハマり個人としての霊的向上にガッツリはまったのです。

霊的向上に努めるが、、、

霊的向上に努めるが、、、どこか焦燥感が抜けません、、、向上した霊魂が取るべき行動は何か???と今度はそこに縛られてしまうのです。解脱はいつか訪れるもの、、解脱に対する関心も落ちていきました、、、ですがノンデュアリティメッセージの五年前ぐらいから触れることで解脱が決して遠い未来に話ではないことが分かります。釈迦、ブッダの言葉が身近な存在から届けられるようになったのです。

自分がやっていると思い込む大人

緊張感

自分がやっている、、と思い込む大人には緊張感があります、、自由意志をフルに発揮している、、と思い込む大人には緊張感が走っています、、、一生懸命余裕をぶっこいているようにも見えますが、、ただそう見えるだけ、、なぜならば結果は自由意志とは全く関係なく、、起こるからです、、しかも自由意志も実はない、、地獄、、本当はこの自分は何も分かっていない、、因果関係など、、

ただ揺れ動く現象

ただ揺れ動く現象をコントロールできる存在など誰もいません、、この個人はこの現象に一因を与えるのみでしょう、、しかもその一因すら、、自由意志ではできない、、、にも関わらず個人はこの現象をコントロールしているという誤解を持つ場合が起こります、、、大人です、、、苦しい、、緊張感、、、知られたくない、、、

子供はこれに気づく

子供はこれに気づきます、、、この大人は何を緊張しているのか?と、、、何に怯えているのか???と、、、全部をコントロールしているかのように振る舞う大人の奥に凄まじい緊張感を感じるのです。覚者は全部が全部なすがまま、あるがままに気づきた人です、、この自分すらいない、、ただ現象そのものがる、それだけ、、だがそこには静寂があり、、至福、、全部の責任から解放される、、

敗北者から後悔を取り除くのは至難の技

後悔こそが自我延命システム

失敗者、敗者は深い後悔の念に苛まされます。あの時これをしなければ、、あの時にこの決断を私がしなければ、、あのアドバイスを聞いておけば良かった、、なぜあの人の真似をしなかったのだろう、、、エンドレスに後悔が起き上がります。全部これは自分の存在、そして自分の自由意志が有るという前提で起こっています、ですが実際には自分も自分の自由意志も存在しません、、、

後悔を使って自我は生き延びる

なぜ後悔をするのか???それはもっと良い方法があって次はそうしようという期待があるからです。それをしようとしているのは自我であり、、その期間自我は大安泰に入れるのです、、、次に期待を込め、、、次への改善に走るのは自我です、、、自我はどんな手を使ってもこの自我として至福を見つけたいのです。そんな自我に向かって、、「自分も自由意志も存在しない」というメッセージは畑違い、空気読まなさすぎなメッセージになります。

くよくよ後悔してるようですが、、、自分も自由意志もないですよー

大後悔は大茶番です、、、至福が大後悔するって意味不明ですよね、、、そうです、、至福(気づきの意識)が自我に意識することで苦しみが起こっているだけですから、、自我の失敗に大後悔するなど大茶番です、、、自我最大の失敗は、、自我にフォーカスが当てられているということです、気づきの意識から。ただこの事実に気づきの意識が気づくことです、、これで全ての苦しみは終わります。

普通でいい、、も執着

普通の暮らしでいいんです、の罠

普通の暮らしでいいんです、、これも自我の執着です、、、自我の生存戦略です。普通が出る杭ではないから安全でいい、、が隠れています。普通が一番安全で長生きできるが隠れています。ですから普通の暮らしをしていても苦しいが湧いてきます、、、だから普通じゃない生活をしている人の失敗に異常に感情が芽生えます。芸能人、著名人のスキャンダルに異常に反応を起こします。

普通を目指す自我の生存戦略に気づく

普通を目指す自我の生存戦略に気づきの意識として気づきます、、しっかりとそこには戦略があることに気づくのです、気づきの意識として。その戦略を気づきの意識として気づきます普通への執着が緩みます、苦しみが減ります。自我の無意識の動きに気づきの意識として気づくと苦しみが減るのは、、、気づくのが気づきの意識(至福)だからです。

気づくのはいつだって気づきの意識

何かに気づくのは全部気づきの意識です、、、だからどんどん楽になる、、、友人が多いからって幸福じゃない、、これに気づいたのは気づきの意識です、、、お金を持ったって幸福じゃない、、これに気づいたのは気づきの意識です、、、名声を得ても幸せじゃない、、これに気づいたのは気づきの意識です、、、、自我の無意識な執着が溶けていきます、、気づきの意識が自分ではなく気づきの意識そのものに意識が向く時間が増えます。この自分に意識を向けても苦しいだけ、、この自分が何かを達成しても苦しいだけという気づきが気づきの意識から起こります。