至福

マリオは絶対にスーパーマリオ(至福)を発見できない

マリオが移動できるのはゲームの中だけ

マリオの宿命はゲームの中でしか活動できないということです、マリオがどれほど超能力を手に入れても画面から飛び出ることは不可能です。マリオがジャンプ力100倍になろうと走力が100倍になろうと、、画面から出ることは不可能なのです。そして一番重要なこと、スーパーマリオゲーム本体を発見できない。あのプラスティックの箱(至福)を見つけることは絶対に絶対にできないのです。

ゲーム本体(至福)がマリオを消すかも

自分をマリオと思っている限りはマリオは画面の中を走りに走り至福(本体)を探すでしょう、ですがそれだけは見つからないのです。ですがもしもマリオがマリオを辞めて本当はマリオは存在しないのではないか???と疑問を持ち始めた時に、、、ゲーム本体(至福)がマリオを再吸収するかもしれません。その後もマリオは画面上に現れ続けるかもしれませんがその時はもう「自分はマリオだ」という意識はなくゲーム本体(至福)としてゲームを続ける可能性はあります。

自分がマリオではなくゲーム本体(至福)であるという気づきが起きれば

自分がマリオではなくゲーム本体(至福)であるという気づきが起きた後も、、今までのようにマリオが血眼になって至福を探すことは不可能です、なぜならば至福はゲームの中のアイテム(対象)ではないことをもう分かっているからです。至福とはゲーム本体のことでありゲームの構成全てでありマリオ、クッパ、ルイージ、ノコノコ全てがその一部であることを知っているからです。

大谷翔平の活躍で人は救われるのか?

救われない

純粋にひたむきに頑張ればどこかで必ず結果が出る、だから自分も今を頑張ろう!!大谷翔平のように。大谷翔平がこれほどニュースを賑わすのは彼の活躍を見て気分が爽快になったり、頑張ろうと思たり、日本人の誇りと思えるからです。ですが彼の存在で人は本当に救われるのでしょうか???答えはNOです。なぜならば彼のように頑張れるか否かは神のみぞ知る、あるがままぞ知るです、、誰にもコントロールする力はないのです。

大谷翔平すらもない

大谷翔平が急遽野球に興味が無くなり試合がどうでもいい、となる可能性はあります。そこに関して大谷翔平は全くのノーコントロールです。。多くの人は大谷翔平ならば努力を怠ることはない、、そう断言するでしょうが、、実は大谷翔平にも誰にもそれは分からないのです。そしてそのことを全員が本質的には気づいています、だから実は本質レベルでは彼の活躍は誰も救っていないのです。

今頑張れている人だけ

俺は今頑張っているぞ!そう感じることができている人は大谷翔平から多くの勇気をもらえるでしょう。ですが今全然頑張れていない人にとっては、、大谷翔平の活躍は耳が痛いはず、、、つまりその人のおかれている条件によって変わってしまうわけです。本質とはそのようなものではありません、本質は至福であり全員が至福の中に居るのです。全員がいつか必ず救われるのは全員が至福で出来ているからです。マリオもクッパもピーチ姫もルイージも全員がスーパーマリオ(至福)のアートです。

いまここという言葉の難しさ

いまここを感じているのは誰だ?

いまここしかない、、悟り系スピーカーがよく話すワードですね、いまここしかないじゃないか、だから時間なんて存在しないんだ、空間もここしかないのだ、、、ですが結局それを感じているのが「私」ならば本質を理解できていない、、なぜならば「私」は時間と空間の中でしか生きれないのだから。だから常に時間を使って生きるし空間の中で行きますよね。本質は「私」という存在が不在の時に現れるのですからこの言葉を誰に向かって語っているかは重要になります。

今日は良い話を聞けた???

悟り系のスピーカーの講演会に行って本質の話を聞いて帰れば、、今日はなんて面白い話をきけたんだろう、、となります。大変貴重でためになったと、、、ですが恐らく次の日も何か知識を求めるでしょう、なぜならばその話を聞いたのは「私」だからです。そしてその私は次の日に起きればまたより進化した私を目指すはず。ですがどれほど私が進化したつもりになってもゲーム、幻想の中を彷徨っているのに変わりはなく苦しみからは解放されないのです。

「私」からの解放

講演会を聞いているのは「私」ではない、「私」の奥に居るあるがままなのだ、、そしてそのあるがままが「私」を再吸収した時に至福が訪れる、、このメッセージに気づきが起き始めた時に解放は近いかもしれません。「私」は悟ろう、「私」が目覚めよう、、、という主体客体、二元の感覚が抜けないうちは夢の中、ゲームの中にいる可能性が高いのです。

誰にも救ってもらわなくてもいい

誰かに救ってもらわなくていけない人はいない

私たちはあるがままのアートです、神のアートです、ですから誰にも救ってもらわなくて必ず至福に至ります。至福が作り出したアートの一部ですから原料は至福なのです、つまり今苦しんでいること自体がゲームなのです。至福という原料で作り出したゲーム上で苦しいという感情を楽しむゲームをしているのです。そしてそのことを全員が本質的には分かっています。

幼少期は至福そのもの

私たちは幼少期至福そのものでした、自我が目覚めるまでは至福そのものだったのです。ところが自我が目覚めるとともに苦しみが襲ってきました、至福ではなくなってしまったのです。ですが全員が幼少期の至福感を覚えているのでなぜ私の人生はこんなふうになってしまったのか???と疑問に思っているのです。これが現実だから、これが人生だから、、、いやでも昔はこんなふうじゃなかったような、、です。

至福という原料で作り出した壮大なアート

この世界は至福という原料で作り出したアートです、核兵器も遠隔魚雷すらもまさかの至福という原料で作られています。ですからこの世界が争いが絶えなくても、、それさえもアートなのです。死人がでてもそれも至福が作り出したアートだということです。争いも親睦も競争も助け合いも全てが神、あるがままのアートです。そして自分自身と思っていた存在も神のアートに過ぎないことに気づくと自分が神に再吸収され至福に至るのです。

至福に至るには「私」だ

この私が至福から追い出されただけ

どうやらこの世界には至福が常にあってそれはいまここにあるらしい、時間もなく空間もなくたったひとつのエネルギー至福がいまここにあるのならばこの「私」が絶対に見つけ出してやる!!!自我はこの作戦で至福に戻るのを妨害します。自分という存在こそが至福から幻想の世界に飛びたした張本人にも関わらずその自分がこの幻想の世界でそれを見つけ出してやると意気込むのです。

私があるがままに再吸収される

この私が消滅された時にあるがままは現れます、いつでも、、私という存在があるがままの世界から幻想の世界に入り込んでいるのです。勿論「私」もあるがままの表現の一つですがその「私」がいる世界は幻想のストーリーの世界(あるがままの表現)ここは苦しいのです。この世界に居る限り至福には至れないのです。「私」が至福を見つける時にはまだ「私」が存在します、、これでは絶対に至福に至れないのです。

私を無くすことなどできるのか????

私を無くすことなどできるのか????先ず大前提でこの世界には自由意志は一切存在していませんから意図を持って無くすということは不可能です。ですがあるがままの表現といて「私」があるがままに再吸収されることはあるでしょう、その時がくればそうなります。もしかしたらそうなるかもしれない、少なくとのこの「私」が自由意志を持って再吸収されよう!はないのです、、見かけ以外には。

朝目覚めた時の気持ちが悪い感覚

起きた瞬間にPCが起動する

あるまがままの世界はあるがままであって、、実は何も存在しません、、、ですが人間は朝起きた瞬間にコンピューターが起動しこのあるがままの世界に独自の世界(言葉)を作り出すのです。その中心には自分が存在し自分以外の世界を生きるのです。これが二元の世界、主体客体の世界です。あるがままは非二元でありあるがままでは自分も存在できません。ですから非二元の世界を発見した自分は存在しないのです。非二元の世界に自分が突如作り出されその瞬間にあるがままも消え去るのです。

「私」の幸福を目指す

朝起きた瞬間にPC(脳)が起動し自分という存在が後天的に作り出されます、そしてこの後天的に作り出された自分が幸福を目指し不幸を避けるというゲームが起こるのです。ですがこの世界(あるがままではない)の中には個人が幸福になれる状況は存在しえないので永遠に彷徨うことになります。なぜならば個人という存在を認めた状態ではあるがまま(絶対至福)には帰れないからです。そしてその道中は自由意志があると思い込んでいるだけ実際には自由意志は存在しないので完全自動システムです。

「自分」が自由意志で幸福を探している気持ちにさせられている

多くの方は自由意志で各個に人間は幸福を探していると思い込んでいますが、、実際には自由意志は存在していないので「自分」という存在が登場し、完全自動でゲームクリアまで様々な経験を積んでいくだけです。受験勉強を頑張ってみよう、就活を頑張ってみよう、会社生活を頑張ってみよう、婚活を頑張ってみようと、、思い込まされ経験だけが積まれていきます。

どんなに不幸そうに見える人が居ても同情は無用

公園でホームレスの方々を見つければ同情が湧いてくるかもしれませんが、、、その流れにおいて本人の自由意志は一切ないのです。完全受動、完全自動でそういう流れになっただけです、この流れから逸脱するチャンスは一切無かったのです。何かの勘違いで、何かの判断ミスで、、ではないのです。だから同情はいらない、、、逆に言えば大成功者に対しても羨望はいらない、、、彼らは自分の意志などではなく勝手にそのような存在にさせられたのです。

メッセージを理解する体にする

言葉の限界

言葉での理解には限界があります、、言葉は、、音の連続に過ぎません、、、この音の連続で、、、悟りを理解する、、体感するというのはどう考えても無理がある、、、、、悟りとは、、、この音の連続が生み出す、、世界が嘘であるということの体感だからです、、、、悟りが圧倒的な体感であるならば、、、悟りを体感できる体にしてしまう、、、これが有効です。

体を開く

体を開きます、、、体の緊張を解し、、、、五感を鋭敏にしていきます、、、、野生動物は五感を鋭敏にしなければ、、、生き残れない、、、結果この世界をダイレクトに感じます、、、この状態が静寂です、、平和です、、、この世界をダイレクトに感じることができれば、、、至福、静寂、が押し寄せてきます。ですが五感が鈍れば、、、この世界をありのままに感じることが出来ませんから、、、退屈、、、になるのです。

退屈からの脱却

野生動物は至福の中に居て、、、人間様は退屈を生きる、、、、頭脳に頼っても退屈ならば、、、頭脳を使って悟るのは難しいでしょう、、、退屈を作り出す頭脳が、、、はたして人間を至福に連れていけるのか?????という話です、、、無理でしょう、、、そうではなく、、、野生動物のような五感を取り戻します、、、この五感の先に、、ありのままの世界を感じるという状態が待っています。。。。

体はいつも全部を感じたい

自我システムの陰転

体は本当は野生動物のように、、、ノーストレスで過ごしたい、、、至福、静寂の中で過ごしたい、、、ですがこの自我OSシステムによって、、、体の安全確保が優先される、、、、結果、、、、思考に振り回され、感情に振り回されて、、、五感が閉じていく、、、、五感が閉じれば、、、、常に退屈、、、新鮮さが、、、この世界から消える、、、、新鮮さが抜け落ちた世界で、、、益々思考がフル回転し、、、刺激だけを体に与え続けるのです。

自我システムの功績

全部をありのままに感じたい、、、この衝動は全体から起こり続けます、、、、ですが、、、、自我OSシステムは、、そうはさせない、、、、、ところがこの自我OSシステムも、、、、全体から起きている、、、、ではこの目的はなんだ?????そうです、、、この世界(幻想)は全体から離れるという幻想が生み出しており、、、この幻想を生み出す大元は、、、、この体験を積みたくてこれを起こしているのです。自身が全体であるという認識が欲しくて、、、、分離体験が起こり続けているのです。

目的が分かったならば、、、、

そうです、、、悟ることが目的なのです、、、自分は全部だった、、、ただこれを経験したい、、、そのための分離体験、、、、ならば早くそこを体験しましょう、、、、、、目的はそれだけですから。。。。全体が、、、お金、名声、安定、称賛を欲しがるわけがない、、、なぜならば全部自分だから、、、、つまり、、、、、この衝動は、、、全体に戻るための、、、序章に過ぎない、、、、何を手に入れても満足できないという気づき、、からの全体への帰還、、、、、への衝動、欲求、、、、、、これだけが真の欲求です、、、、それ以外はそれに気づくための、、、、分離体験。

自我OSを必要としない体

守るために、、

この体を守るために、、形成された自我OSですが、、、これに頼り切った状態は基本苦しい、、、、体を守ることはできますが、、、、虚しさ、退屈に、、、常に襲われます、、、、なぜか?????この世界の真実を知らないために、、、全くの勘違い生活をしているからです、、、、、この体があって、、その中に自分が居て、、、この世界を生き延びる、、、、というのは勘違いです、、、ですから目指す先にある幸福が、、、全く違う場所にあるのです、、、、

空を見る

空を見る、、この一瞬の体験を、、、、最高に感じるか、、退屈に感じるか、、、ここが全てです、、、幼少期は、、、、空を見るだけで楽しかった、、、、、ですが今は退屈、、、なぜ??????なぜか?????五感が閉じているからです、、、五感が閉じれば、、、、体験が薄くなるのです、、、、唯一の真実、、、体感に、、、、思考が混ざり込み、、、、ありのままの真実に触れられなくなっています。

思考が混ざる????

思考が混ざるとは???つまりこうです、、、、、、考えながら、、、、カレーを食べると、、、、味がしない、、、考えながら、、映画を見ても、、、集中できない、、、、、、全ての経験は無思考になることで、、、感動が生まれます、、、、この逆転現象が起きているのです。。。。五感が鈍ることで、、、思考が周り、、、思考が回ることで、、さらに五感が鈍る、、、、という負のスパイラルに入っているのです。

退屈な世界???

多くの方がニュースを観てホッとするのは、、、、苦しいのは私だけではない、、、と思えるからです、、、だからニュースには、、、、暗いニュースが多いのです、、、、、ホッとできるからです、、、、ですが本当は、、、五感が鈍り、、、、全ての現象を、、、暗く感じる、退屈に感じる、、、、体になっているのです、、、世界をそう感じ取るのではなく、、、その五感こそが世界を作り出すのです、、、この世界は完全な幻想であり、、、、本当は感じることはできないのです、、、

感じることができない????

そうです、、、本当はこの体も、、、この世界も幻想であり、、、、感じる、、、がおかしいのです、、、ですがこの幻想は、、、、感じるために作られた故、、、、、感じることができる、、、、、無限という存在が、、、無限ということを「感じる」ために作られた世界なのです、、、、退屈も至福も感じることができるのです。

退屈を散々味わったならば、、、、

退屈を散々味わったならば、、、、、もう味わう必要はない、、、、、そしてこの体を健康に健康に導くことことで、、、、五感を研ぎ澄ましていくことで、、、自我OSが、、、大我OSにアップグレードされます、、小周天OSが大周天OSにアップグレードされます。

虚しいとは真逆

無限の現れ

今目の前に無限の現れが起こり、、、「私がそれを見た」が起きました、、、これは宇宙創造最大の目的であり、、これ以上の目的はここにはありません、、、、つまり、、、、我々は何かを見た、、、という経験こそが最大の恩恵であり、、それ以上の目的は実はこの世界には存在しないのです、、、、だから幼児は、、、、目の前の玩具に、、、、、夢中になり、、、、至福に至るのです。。。。。。。ですが大人は、、、、このおもちゃは私にとってどんなメリットがあるか????損得で思考し、、、、霧がかかった世界にいきます、、、、霧がかかった世界ゆえに、、、、探求を続けるのです。

全く何も見えていない

実は我々は全く物を見えていません、、、ありのままとは真逆な景色を見ています、、ゆえに、、、この世界は退屈だ、、、と感じ、、、、なんとかしてこの退屈な世界で、、、刺激的に生きれるかを探るのです、、、、ですが本当はこの世界は、、、、全てが神々しく、、、、それが見えていないということが、、、、この世界を苦しいと感じてしまう要因なのです、、、、、

今目の前に神が居る

幼稚園児が生きる世界は、、、神の鏡です、、、今神がそこに居ます、、、、、、、、ですが我々大人は、、、目の前に神が居ることに気づきません、、、、とんでもない不感症患者になっているのです、、、目の前の神に気づかない、、、鈍感人になっているのです、、、、、、、、幼稚園児は毎日が神の創造物で溢れています、、、、大人は、、、、体が鈍り切り、、、、目の前の神に気づいていないだけなのです。

体を解放する

幼稚園児と、我々大人の決定的違いは何か??????体が鈍感になってしまっているのです、、、感じる力が落ちているのです、、、、目の前の神に気づかないぐらに鈍感になっているのです、、、だから体を解放します、、、、積極的に体を緩めます、、、、緩めることで体を強くします、、、、緊張による強度ではなく、、、緩め切った状態からくる強度を高めます、、、、すると、、、、今を感じる力が増えます、、、目の前の神に気づきます、、、、これが悟りの道です、、、、ありのままに感じる、、、、ありのままに生きる、、、ありのまま。