真実

虚しいを追求する

虚しいって何???

虚しいとは、、、実がない状態です、、、実がない状態が虚しい、、、じゃあ、、実って何か????真実に触れることです、、、、この世界で真実に触れると、、、、実が生まれます、、、、、「この世界に真実じゃないもの」なんてあるんですか?????全部真実じゃないですか?????それが違うんです、、、それが真実じゃないんです、、、、我々は言葉を覚えてしまったので、、、、言葉で作り出したイメージの世界に知らないうちに住んでしまったのです。

私が幻想

最初に答えを言ってしまえば、、「わ・た・し」も言葉ですから私も虚構です、、、つまり私を生きるとは虚を生きることになります、、、私とは虚、、、つまり虚しいのです、、、、だから先ず「私」は言葉で作ったマジックであるということを覚えるのです、、、すると私を生きるという、、、虚構が外れます、、、、五感は真実ですが、、、「わ・た・し」は虚です、、、、私はラーメンを食べたと思考すれば、、、虚しい、、、が湧くのです、、、、「私はラーメンを食べた」は虚構です、、、事実は味、香り、感触、満腹感、、、、、だけです、、、

じゃあ、、、どうすりゃいいんだ????

分かった、、、私が、、、、は虚構だから虚しい、、、、でも、、、、もう言葉を覚えちゃった以上、、、どうすりゃいいのか????????違うんです、、、今まだ虚しいのならば、、、言葉が作り出した世界は全部嘘だということが腹落ちしていないんです、、、、、腹落ちとは、、、悟りですから、、、虚しさはないんです、、、真実は何が起きているのか????を学ぶしかありません、、、、勘違いが全部削ぎ落とされた時に、、、真実しか残りません、、充実しか残りません。。。それだけ。

虚の世界で虚を描く

思考とは虚への逃避

この世界は虚構です、幻想です、、、これはハッキリしています、、、完全なる虚です、、、虚と書いて虚しいと呼びます、、、虚しい世界です、、、、虚しい、、、、でも小さな子供たちは虚しそうにしていませんよね、、、満足して遊んでいますよね、、、サッカーボールを蹴っているだけで、、、楽しそうにしてる、大満足している、、、、なぜ??????五感を使って遊んでいるからです、、五感です、、、五感を使って遊ぶと楽しいのです、、、、

五感だけは実

この虚の世界で唯一の実とは何か????五感です、、、五感のみです、、、五感だけが真実です、、、この五感を使って使いまくると、、、実が重なっていき、、、実が重なっていき、、、充実が生まれます、、、、、虚しさが消えていきます、、、虚しいという感覚が薄れていきます、、、、小説が楽しい、映画が楽しい、、これは、、、虚構の世界で五感を使わずにする遊びです、、、、だから、、、、虚しいのです、、、擬似体験です、、、擬似体験は、、、自らの体験のアイデアぐらいでいい、、、、擬似体験が面白いから、、、擬似体験を重ねていても、、、、虚しいが続く、、、

五感の究極

悟りとは究極の五感体験です、、、、我々は勘違いした、、、、思考が作った概念の中で活動をしています、、、「私」も居ませんし、、、相手もいません、、、これは思考が作り出した幻想です、、、幻想は言葉で生まれていますから、、、、擬似体験中なのです、、、今擬似体験中なのです、、、、だから虚しいのです、、、、私が、、何かを体験する、、、という擬似体験の中に住むと、、、それは幻想ですから虚しいのです、、、、真実に中で生きますと、、、見える世界は幻想ですが、、、体験は真実になります、、、五感が作り出した真実の世界です、、、そして最後に五感すらもなかったという気づきが起きます、、、真実はあるがままで「五感」という言葉にもならない経験がそこで起こっていることに気づきます。

思考はドラッグ

思考とはドラッグだった

思考について多くの方は甘く考えています、、、思考とは「こ・と・ば」で出来ています。。。これは音の組み合わせ、、発音の組み合わせを用いて、、、何をイメージさせる道具です、、、、「り・ん・ご」という音の組み合わせ、発音の違いを利用した、、、イメージ化ツールなのです、、、、この言葉を7歳ぐらいまでに覚えた子供はこの言葉を利用して、、、、イメージ化に成功します、、、、独り言を言ったりします、、、これは呪文です、、思考でファンタジーを作り出し、、、ファンタジーの世界に住むのです、、これはある種刺激的であるがゆえ人はこれにどっぷりハマるのです。。。

もしもあの子と付き合えたら。。。

小学生高学年ぐらいになれば、、、人間はしっかりと言葉を使ったイメージ化に成功し、、気になるあの子のことを想像するというファンタジー制作に勤しむことになるのです。これが大変刺激的であるがゆえに、、ハマりにハマるのです。。。。ですがこれは完全にファンタジーの世界への没入ですから「満足感」が抜けています、、ただ刺激的なだけです、、、「虚しい」のです、、、ファンタジーですから。

満足とは、、、

満足とは何でしょうか?????満足とはこの世界での真実に触れることです、、、真実に触れることしか、、「満足」は絶対にありません。。。。。では真実に触れる唯一の方法はなんでしょうか????幻想を経験することです、、、幻想にしっかりと経験を起こすことです、、、、この幻想の世界(現実)で体験、経験、五感を作るのです、、、これだけが真実です、、、それ以外は幻想です、、、、

思考しないで体験だけしていれば、、、、大満足????

え?????てことは、、、全く思考せずに、、、体験だけを積んでいけば、、、大満足の人生なのか?????そうです、、、、本当です、、、、ですが、、、、自我OSシステムは絶対にそれをやらせないでしょう。。。。。これは得か損か?????この行為はコスパが良いか????あの時あんなことをしなければ、、、、と大連発で起こり続けることでしょう、、、、

だから覚者は、、、、

だから覚者は、、、、思考を観察せよ!!!と連呼するのです、、、、思考の創造主ではなく観察者であれ!!!と、、、、思考の湧き上がりに注意せよ!!!!と、、、、自分が思考しているということに気づけば、、、自分が思考というドラッグに手を出していることに気づけば、、それで半分終わりです、、、、あ、、、また思考してたな、、、、は、、、、あ、、、またドラッグに手を出していたな、、、と同じです。

愚行はあっても愚行者はいない

なんでも受け入れるわけではない

多くの方が勘違いします、、全部が全部自動反応、オートマチックならば、、、他人の全行動を受入なければいけないんですよね?????違います、、、全自動反応であることを理解して嫌な行為は堂々と跳ねのければいいのです。全行動が自動反応ですから、、それをコントロールできる個人が存在しないだけです、、、行為を憎んで人を憎まずです。

行為すらも憎めなくなる

行為すらも憎めなくなる、、、これが真実です、、、、幼児の悪行にムキになって怒ることができる人はいないでしょう。。。。行為者が不在にも関わらず本気で人を怒れるでしょうか????恐らく不可能、、、、悟りとは怒れる人が居なくなることです、、、これを寂しいと捉えるか、、、ハッピーととるかです、、、ですが全く大丈夫、、、そもそも人は誰も居なく、、、それでも何も問題なくことを進んでいきます、、、、鳥が生きる世界には人間という動物は存在しますが、、、そこに自我があるとは思っていません、、つまり鳥の世界には個別の何かしらは存在しないのです。にも関わらず、、鳥は寂しいいという感情を所有していません。

信念ではない

信念とはそう信じること

信念とは真実とは違います、、、信念とは個人が考える価値観です、、、真実は、、個人を完全に超えた事実です、、、悟りとは事実、真実のことです、、、、、真実を知る、、、、という時に大きな問題が起きます、、、知る個人が居ないというのが真実だからです。ですから悟りは人生を生きる人には伝わりません。お金を払うんで悟りを私に教えてください!!!!申し訳ありませんが「あなた」は居ないんで「あなた」には教えれないんですよ!となります。。。。だとしたらこの行為は誰がやっているんですか?????誰でもないんです。誰でもないとしたら、、、何が起きているんですか?????ただその行為があるだけです。

真実以外は全て信念

この世界には真実と信念、、、この二つしかありません、、、、、真実とはありのままです、、、信念は、、、世界とはこういうものではないか????という疑問符です、、、世界とはこういうものである、、、、と断言する人が居ても、、、、、本人の奥の奥では、、、それが間違っているか、真実か分かっています、、、ですから人は常に不安で不安で、、これが真実かどうか確認したくて確認したくてしょうがないのです。確認したくて確認したくてしょうがない時は、、、それは信念です。

疑問が消えてなくなる

真実の究極の理解が起きた時に、、、疑問がなくなります、、、究極の理解が起きた時に、、疑問はない、、ただそれを見かけ上の他人はどう表現しているのだろうか????という疑問は起きます、、、分かっていることの伝え方を確認して楽しみます。。。

苦しみの終わり

自己責任という地獄

全ては自己責任、大人とは責任を追うということ、、、この縛りに人は苦しみ続けます、、、、責任を追うべき自己が実は居ない、、、、この驚くべき事実が、、、、世界を大転換させます、、、なぜあんな行動を取ったのか???なぜあんなことをしてしまったのか????この連続で、、、、我々は苦しみ続けてきました、、、何千年も、、、天動説が地動説に切り替わったように今自己の大転換が起きます。。。。

自己は居なかった

まさか、、、この体には自己という存在が居なかった、、、これが真実です、、、この真実が誤解され間違った思考が、、、定説化されたことで、、、、この世界は迷い人を増産する結果になりました。脳は自己をこの体の中に作り出すことに成功し、、、この体の安全保持に成功したのです、、、ですがこの自己の存在は同時にあらゆるストレスを生み出すがために完璧ではありません、、、自己実現とはこの自己を完全に俯瞰し、、自己の脱皮を図る試みなのです。

幼虫から蝶に羽ばたく

悟りとは自我というOS、、自我という防衛システムを手放し、、、ストレスなくこの体を保持する状態に居ることです。体を保持するために自我防衛システムは確実に上手く機能してきました、、ですがこのシステムはストレスを伴うがゆえに苦しみが永続します、、、これを卒業します、、、ストレスなく、、、この体を保持するという次の段階へのシフトがあります、、、それが悟り、自己超越、大周天、サマディと呼ばれる状態です。

それじゃ無理

シーソーゲーム

体の感覚を鋭敏にしていきますと、、、幸福度が上がっていきます、、、思考で考える概念よりも、、感覚が優位になっていくからです、、、感覚とは真実との接点であり、、、真実をダイレクトに感じる力が増えるのです、、例えば悩み事をしている時、、、料理の味がまずくなります、、、味を感じにくくなります、、悩み事が無い時、、、料理の味が美味しくなります、、、、体の感覚を鋭敏にするとは、、、真実との接点を増やすことなのです。ですがここで得た幸福度をさらに増やしていくと、、、自我が消滅してしまうので自我OSは、、、ここでマッタをかけます。。。全ての功績を自我が成し遂げた、、自我がもっと評価されるべき、、、と思考を起こします。

これだけは見抜けない

評価をされたい、、この欲望を自我OSは使います、、、もっと評価されてしかるべきだ、、、、これぞ自我OSシステムの罠、、、、せっかく体を鋭敏にし、、、幸福度を高めていったのに、、、その功績を自我が握り締めることで、、、幸福度が高い自分を成立させます、、、、自我の正念場です、、、ここで見抜きます、、この功績を握り締めようとする働き、動きこそが、、、これまで苦しみを起こしてきたのだと、、、、この最後の戦いで自我の正体が明るみにでるのです。

自我OSを追い込む

自我OSを追い込みます、、自我の働きを丸裸にします、、、自我の動きは丸裸にされると機能できなくなります、、、、マジシャンのトリックを裸にします、、自我は実は存在しないため、、、経験を「私」がやったとだという思考で、、騙し続けているのです、、、体の感覚を鋭敏にすると、、、真我に直に触れることができるため、、経験が鮮明になり、、、真我そのものに吸収されていきます、、、この動きを止めるが、、、それをやったのは「私」だという思考です、、、もっと評価されるべき!!!という思考が湧いて、、、そこに意識がフォーカスすると、、、また思考に取り込むことができます、意識を。

最後の作戦

自我システムとは、、、意識を思考にフォーカスさせますから、、、あの手この手の思考を湧き出し、、意識がそこに食いつくかを確認するのです、、、全く思考にフォーカスしなくなると、、、この自我OS防御システムは、、パワーを失い、、、消滅に追い込まれます、、、「もっと評価されるべき」「もっと良い暮らしをしていていいべき」「もっと、もっと、もっと」が現れ、、意識に訴えかけてきます、、、、この全ての作戦を見抜ききり、、、思考に全くフォーカスをしない時、、、突然自我OSシステムは崩れ、、、森羅万象、万物を動かすOSにシフトチェンジします。大周天、サマディ、太極、自然無為、悟りなどと言います。

観察の卒業

全ては観察から

自分が自由意思で何かをしている、、、という思い込みをしている人は、、、先ずはこのシステムを俯瞰して、、、、全ての現象の真相を理解する必要があります。今目の前の現象はどのように起きているのか???ここを理解する必要があるのです。実は「自分」など存在せず、、、自由意志もないことを言葉で理解します、、、するとそのような認識で観察する日常が始まります。あれ、、、本当だ、、言葉が勝手に現れ、行動も勝手に現れ、、全てが自分抜きで動いている、、、

この観察は十分に威力を発揮する

この観察は見かけ上の「私」に様々な気づきを促します、、この私という存在が実在していないということ、、周囲も実在していないということ、、、この世が幻想と呼ばれる理由、、、この世が一つと言われる理由、、経験しか起きていないということ、色即是空であるということ、、私は神だ、、ということ、、、全部が分かってしまいます、、、すると突然、、、観察する自分が消えます、、観察ではなく、、、生命、幻想、そのものになってしまう、、、

観察の卒業

最初は観察から始まります、、観察という実戦からスタートします、、、観察という行為からスタートします、、その行為によって様々な気づきが雪崩のように起きていきます、、これらの気づき、雪崩のような気づきが終わると、、、静かな静寂と、、見かけ上の私を取り巻く生命現象だけが残ります。友人と話をすればそこには間違いようのない自我の存在を想像します、、ですが直ぐに、、、真実に引き戻されます。

大草原で生きる家族

自我が存在しない世界

大草原で生きます、、、鳥や昆虫、野生の動物に囲まれて、、、見渡す限り自我という存在が全く居ない世界に居ると何が起きるのでしょうか????自我を忘れます、、自我を思い出す時間が減ります、、、やがて自我というアイデアが消え失せます、、、この状態が不快でしょうか????静寂と平和に包まれた世界です。自然無為、大周天、サマディ、、、呼び方は何でもいいのです、、自我という本来存在しないアイデアが消え、、大自然を覆うOSに変わるのです。

大都会

大都会は自我OS全開の場所、、全員が自我OSに操られて生きています、、、自我OSの自動反応を「私」がやったという思考は自動で現れ自我OSは益々幅を利かせていきます。ですがこのメカニズムを見抜くと、、、自我OSも自然現象と何も変わらない、、という真実が見えます、、、鳥も幻想、、人間も幻想、、、この私も幻想です、、、

幻想は続く、どこまでも

マリオを実在と勘違いすれば、、、

マリオが実在するという勘違いをすれば、、、、マリオの全機能を証明する幻想が次々と現れます、、、どうやって味わい、どうやって触覚を得て、、、どうやって思考し、、どうやって感情を作るのか??????幻想であるが故に、、絶対にそれは出来ないのですが、、、、、幻想故に、、、アリバイ、証拠はいくらでも出来てしまうのです。今後医学が進化することでこの幻想はさらにさらに詳細になっていくでしょう、、、人間が真実を発見したのではなく、、真実が巧妙な幻想化を図るのです。

それ幻想だよ

五感を味わい尽くすだけで幸福になっていく、、、真実を味わい尽くすだけで真実に寄せられていく、、、なぜならばこれは全部幻想で、、、五感だけが真実だからです、、、意識が、、、この体という幻想に意識することで、、この体験が生まれました、、、、この体験は意識が作り出した、、、、意識の体体験です、、、重要なことはこの体体験を幻想の中で証拠を見つけようとしないことです。幻想は、、全可能性を、、、現実っぽくプレゼンします。