意識

自我とは自分を守るために形成された

本当の自分からの自我形成

真我そのままの体の状態が子供の状態です、、彼らは何も考えずあるがままに動き遊びまくっていました、ある日親からこれはやってはダメ、これもダメだと、、言われ続けるようになり、、、真我は自我という偽りの自分自身を作り出し、、親に食わせてもらうように自我を作り出しました。つまり自我とは、、生き延びるために、、、親にとって都合の良い形であると言えるのです。。子供は嫌に嫌われてしまったら生きていけませんから、、そこで偽りの自我を作り出したのです。

全員の自我は偽り

自我とは偽りの存在です、、真我が真我のままでは生き抜く事ができない時に、、体に偽りの自我を形成させ生き延びようとした起こりです。ということで自我の状態で生きるのは辛いのです、、本質が本質のままではないからです。自我という偽りの存在を信じて生き続けるのは苦しみの人生なのです。だから人生とは=苦しみなのです。

自我が実在しないことを見抜く

自我はこの体を守るために形成されているわけですから、、この自我は偽り、嘘、無いと信じるのは大変怖いことなのです、、、自我が無かったら生き延びてきていないのですから、、、大変な危険、リスク行為なのです。悟りが非常に難しのはかつての命綱、かつての生命線、かつてのセイフティーネットを捨てることだからです。ですがこの恐怖心のメカニズムが理解できますと、、自我の緊張が緩みます、、もう必要ないことの理解が起きます、気づきの意識から。。。

親は意図的にそれをしていない

親の自我も完全に偽りです、、そしてそこから出てくる思考、感情、行動も完全に自我ではなく真我から起き上がっています、、ですからそこには何も意図がないのです、、ただその人を支える観念からこれらは飛び出してきました。。それに反射されるように、、子供の体の中に偽りの自我が形成されたのです、、、全部が全部自動反応です。

ネガティブな感情から逃げる動き

思考をするのはネガティブな感情を嫌うため

体にネガティブな感情を溜め込みますと、、、それを感じるのが辛いため、、思考を繰り返してそこに意識を集め、逃げるという動きが起きます、、、、一日中思考を繰り返してしまうパターンはこれにあたります。自我とは全記憶から形成されていますから、、、この自我は過去と共にあります、、、目の前で嫌なことが起きると、、そこが記憶と連動し、、溜め込んだ感情が溢れてきます、、この際に思考が爆発的に湧き出し、、そこに意識を向けることで感じるのを避けるのです。

ネガティブな感情を直接癒す

毎日マッサージをする習慣を身につけます、、、毎日体に溜まったネガティブなエネルギーを吐き出します、、するとエネルギーの通りが良くなりますから、、、元気な状態に。さらに今目の前の事件が起きても感情の湧き出しが減るために思考の湧き出しも抑えることができます。自我という収縮したエネルギーが解放され、、、気づきの意識の状態が落ち着くのです。

成功とは、、経験のこと

経験こそが成功

一般の成功とはこの私が私が望む生活をすることです、、、経済的成功、精神的成功、、、などなど、、、ですが本当の成功とは、、経験が起きた、、これだけで十分に成功です。この世界は無限の存在である神が自身が無限の存在で在ることを体感するゲームです、、、ゆえにあらゆる経験を無限に積み、、、自らが無限の存在だったという気づきを起こすためのものです。。我々はその経験を積むために用意された反映です。経験はこの体だけでは絶対に起きません、、体と対象がなくてはダメ、体と環境がなくてはダメ、、、よって私(主体)対象物(客体)を神が用意し、そこに経験が生まれたのです。

だから、、、

だからこそ、、、、我々は大金を稼ぎ、全てを手に入れても全く幸福になりません、、、個人は幸福になるように設定されていないからです。個人が幸福になったら経験を積まなくなります、、それは無限なる神が無限の経験を積むことと矛盾します、、、ゆえに我々が考えるゴールは実在しないのです。ゴールなどあっては、、経験が終わってしまいます。私(無限の存在)はやはり無限だったという気づきが起きるまではエンドレスに続きまます。

個人が幸福になるという嘘の世界から抜ける

個人は幸福になれません、、、個人はただの経験を生み出す道具です、、、そこを早く見抜き、、個人を機能として経験を積んでいきます、、、その経験とはこの私(無限なる存在)は無限だったという気づきが起きるように。。。。主語を全体、神に戻すことで経験を変えていきます、、、個人としての経験を神の経験に戻します。経験は全て気づきの意識に回収され、、、その気づきが起きるのは絶対の存在、空、たった一つの存在、無限なる存在が在るからだという気づきが起きます。

鏡に入り込んだ神

これは神が見る鏡の姿

この世界は現象界、この現象界は幻影、反映、実態のない世界です、、ですがこの中での経験は確実に在る、感じる、、この感覚は間違いのない実在。この世界は鏡の世界にも関わらずなぜ、、経験という実感が確実にあるのか、、、気づきという間違いのない感覚が起きるのか???反映でしかないのに。それこそが神と、神の鏡が一体である証拠です。。。ただの鏡であるならば、、、経験は存在しない、、気づきもない、感覚もない、、全てないということになります。ですがその鏡の反映と神が一体で在るからこそそこに気づきが生まれます、経験が生まれます。色即是空、空即是色だからこそ、、気づきが湧くのです。

色の中で気づきが起きる、、そうかこれは空が作り出した世界だ

色は色だけでは気づきは起きません、現象は現象のみでは気づきはおきません、、そのままだからです。ですがなぜその中で気づきが起きるのか???それは空がそこに在るからです、、、空、神、絶対がそこにあるからこそ気づきという感覚が生まれます、、、この気づきの中で、、、この体が触れる全てに感覚が生じるからこそ、、空の存在が再確認されるのです。空(神)があるからこそ色(現象)に気づく、、色の世界で気づきが起きた時に、、なぜこの気づきが起きたのかという思考が湧く、、、そこでそうか空が在るあるからだという気づきが起きます。

色だけでは気づきは起きず、空だけでは気づきが起きない

色と空が完全一致しているからこそ、、気づきが起き続けています。。。気づきは先ずは起きました、、、この色の中での動きは完全に空が在るからこその気づきが起き続けます。。。その気づきの中で、、、この体が起こり、、この体の全五感が気づかれます、、気づきの意識の、、、これによってこの私の中に私が居るという思考が起き、、この思考に気づきの意識が気づきました。。。そして時間という思考が起こり、、私がこの時間、空間を歩むというストーリーが起こったのです、、それに気づきの意識が気づきます。

たった一つのエネルギー

今現象界は空の反映、空の鏡です、、、、空の目の前に現象界という鏡が突如登場し、、気づきが起きました、、これが気づきの意識です、、、、我々は綺麗な花に出会った時にそれに気づきますが、、、気づきとはこのことです。現象界に気づくとはそういうことなのです。空が反映されたこの現象界とは「気づき」が同時に起きる世界です。空、色、そして気づきです。現象界に気づく、、つまり空という存在にも気づくが起きます。

我々の日常生活

我々の日常生活はまさにこの連続です、、、「私」が居て「対象物」があって「見る」が起きます。「空」があって「色」があって「気づき」が起きます。。。気づきが起きることで「色」と「空」の存在に気づきます。空即是色、色即是空を毎日やっているのです、実は、、、、空と色は一つです、、、空という存在と色という空の鏡、、そして鏡に何かが映ることで、、、空の存在が確かめられている、、、「私」が居て「鏡に映る対象物」があって、、、体験が起こるから、、、体験をした「私」という存在を確認しています。

対象物がなければ

対象物がなければ、経験が積めず、経験をつめなければ「私」は存在できません。。。逆に言えばこのサイクルで「私」を作り続けているのが今です。体験を積むというのは、、「私」を作り出す作業のことです。我々はなぜ毎日せっせと動き続けて頑張って生きているかといえば、、、体験を積むことで「自分」を確認しているのです。ですが本当は空が在って、、その鏡としての現象が起こり、、そこに気づくことで、、、空という存在を認識している、、、そのサイクルの中にこの「私」が現れただけです。

このことが分かると

全てに気づいてください、、それはこの私ではなく、、、ただ気づくのです、、鳥の声、鳥という名前など本当はなかったことを思い出して、、、風の感覚、、風という名前などまるでなかった時を思い出して、、、ただ気づく、、、気づく、、、気づく、、、空が在り、、、色が現象として鏡として現れ、、それに気づく、、本当にたた気づく時、、、、空があってその鏡が在るというこのメカニズムが腹落ちします。

全感情を神が回収しているならば

個人が一瞬の楽しいを追求する価値ってあるのか??

全感情は神が回収します、、、すると、、、個人は何も回収していない、、個人は楽しい、嬉しい、を感じることができない、、、個人は思います、、、毎週楽しいを感じなきゃと、、、これは無意味、、、なぜならば楽しいは、、、神が回収しています、、、、個人は人生楽しまなきゃ、、と考えます、、、ですが個人は感じてません、、、そして感情を所有できない、、、、個人が楽しいを追いかけると辛くなるのは、、、一瞬だからです楽しいは、、、、、そしてその楽しいも、、、神が回収します。

なぜ楽しいは一瞬で消えるのか???

楽しいが一瞬で消える理由は、、、この体にとって不必要だからです、、、私とはこの体を安全維持するために作られたイメージであって、、この私はそのために存在しています、、、ゆえにこの私が楽しみ続ける価値が、、体にないのです。。。私はこの私を一生懸命大切にして、、、くれればいい、、、楽しみ過ぎて食べるのを忘れる、、、これは体にとってデメリットです、、、それはさせない、、、、「私」という存在がイメージとして鮮明にある限り、、、「私」は体のために利用され続けます。

体に利用されまくりの「私」

今回の旅行は楽しかったねーーーまた頑張って仕事して旅行に行こうねー、、、、完全に体に利用されています、、、次の楽しいのために頑張って働こう、、、体に利用されています、、、、楽しいを「私」が追い求めると体に利用されます。「私」を生きるとは、、脳が作り出した「私」というイメージに意識が意識を向けている状態です、、そして脳が言葉で分離の世界を作り出し、、、、神をイメージの世界に押し込んだ、、、だから至福そのものの神が、、、一瞬の楽しいしか回収できないのです。体が神を体の中に閉じ込めた状態です。

意識は戻ったか????

ドクターの言葉

ドクターは言います、、「意識は戻ったか???」と、、、「思考は戻ったか??」とは言わない、、、意識です、、、そうです、、最初に生まれるのは意識なのです、、、意識が戻らなければ絶対に思考は戻らない、、、、意識が戻らなければ絶対の「私」は現れませんね、、「私」は思考ですから、、、、ですから意識が最初に戻る、、、、、この意識こそが本当の私、真我、意識そのものです、、、、、

意識が「私」というイメージを作っただけ

意識がこの体を感じ、、この体の中に思考で「私」をこしらえました、、、、こうして人間は意識を取り戻し人と会話をし始めます、、、、、「良かった意識が戻って」となるのです、、、、明日からは会話も出来るようになりますよ!!!の流れです。

私の意識とこの人の意識

人は人間に優劣をつけます、、、人は人と比較します、、、では意識と意識はどちらかに優劣はあるのでしょうか????意識には優劣が存在するのか?????しないですよね、、、、その人の全思考、全感情、全行動に気づいているのはその人ではなく、、意識です。。。意識が全言動感情思考を所有しています。。意識と意識に優劣がないのならば、、、人に優劣は存在しない、、、おかしな思考、下品な思考はあります、、ですがそれは全部意識が生み出し、意識が感じるのです、、、、「私」と「あいつ」というイメージをでっち上げることで優劣がここで生まれます。

体からの解放

体を空の通り道と捉える

人間には気というエネルギーがありますがエックハルト曰く「気は空から物質を作るためのエネルギー」だということです、、、私は毎日体のマッサージをしていますが気を通していくと空からエネルギーが湧いてきているという感覚を得ます、、、なぜか自信がある、、この自信はどこから来ているのか????空から気を通じて元気が来ているということです。この体は空からの現象化であることは間違いがない、、、体をマッサージすることでこれを感じます、、

気を解放して空からの起こりを促す

全経絡を解放し、、空から気を通すことを積極的に行なっていきます。もちろんこの動きは全自動ではありますが、、、どの部位が気が通っていないかを観察しながら感じていきます、、この感じるは誰がやっているのか????気づきの意識です、全体です、真我です、在るがそれを感じます。マッサージとはこの体の気の流れを直接解放し空との回路を開くことになります。

空の認識がさらに気を通す

空の認識が深まっていきますと、、そこに意識が向きます、、すると、、空からこの色(体)への現象化が強化され体が強化されていきます。。この体が本当の意味で空と色との通り道になるのです。マッサージで体の中に隙間を作り、、気の巡りを良くすることで、、空を直接体感する体であり、色を体感する体にしていきます。

最後の証明

数学の証明

数学には証明というジャンルがあって、、この証明式を数式で導いていきます。悟りもこれと全く同じ、、覚者が伝えるメッセージをこの体を使って証明します。人間は全員が全く違う観念を持っています、つまり全員が全く違う夢を見ているということ、、この目の前に真実があるのですが、、その真実を歪ませる夢が今この目の前に鎮座しています。この目の前の観念がこしらえた現実風夢を、、、真実に変える、、、という証明をこの体を使ってやっていくのです。

たった一つのエネルギーを感じる

色即是空、空即是色、、、、証明するのはこれです、、、たった一つのエネルギーがこの多彩な現象を生み出し、、その現象がまたこのたった一つのエネルギーを生み出します。。このサイクル、、このサイクルが自分、、ここから我々は個別意識を生み出し、、その個別意識に付随する夢物語に閉じ込められて、、その中で人生を送ります。。。この人生からこの色即是空、空即是色を導いていく証明作業です。

数学の証明との違い

数学の証明との違いは、、、我々が囲まれているこの世界(夢)は、、私の観念が書き換えられていきますと、、変幻自在に変わっていってしまうということです。。問題を解いていたら、、その問題用紙がグネグネと変わっていってしまう、、、あれさっきまで見ていた世界が変わってきたぞ、、、となります。例えば悟りなどない、、、という観念を所有していますと、、、悟りなどないを、、、証明するようなメッセージの連打を浴びます。。。。ここを見抜かないとやられます。。。

最後はこうなる、、

今目の前の現象は悟りを否定することばかりだが、、、最後はこのメッセージ通りになる、、、、この認識が重要です、、、、、メッセージはこうだけど、、ちょっと確認しょう、、、全然違う、、、こうなります。つまり観念がこの現実(夢)を構築しますから、、、今周囲を見回しても、、今の観念が反映する映像しかないのです。今の現実がなんであろうと、、これは観念を反映したものであってどうでもいい、、というかこれは観念の観察でしかない。。。となります。

思考の産物から脱出するには??

思考の産物から脱出する

じゃあ具体的にどうしたらこの思考の産物の世界から出ることができるのでしょうか???これが思考の産物だと思って最初は生活してみるのです、、思考が瞬時に作りだした、、イメージの世界、概念の世界に居るということを強烈に意識します。。。意識に意識させるのです、、、これが思考の産物であることを、、、すると徐々にそれを経験できます、、、確かに!!が出てきます。。。

経験するまで学ぶ

悟りとは根性です、、、悟りとは忍耐です、、悟りとは根気勝負です、、、つまり感じるまで学び続けるのです、、、どこから入ってもいい、、覚者は其々全く違うことを言っているように感じます、、、、ですがそれはこちらが気付いていないから、、、全く違うように聞こえるという事実だけです、、、全く違うように感じるという階段を登っているのです。先ずは理解が起き、それが絶対的理解になった時にそれを経験する状況が起きます、、すると経験が気づきを起こします。

この携帯がアイフォンだと理解すると

アイフォンを知らない人の世界にはアイフォンは登場しません、、、、この格好良い携帯、、、アイフォンって言うんだ、、、へー、、、、から突然、、、、その人の人生にアイフォンがガンガン登場します、、、悟りも同じ、、悟りってそういうことなんだ、、、、へー。、、、が起きると悟りの体験がガンガン起きる、、、先ずは悟りってそういうことなんだねーへーが起きなくてはならない、、、そこまでは根性です。