思考

各指は全行動、全思考を自分がやったと認識するメカニズム

各指が完全分離したわけではない

腕全体を神、全体、大いなる一つとした場合、指がこの人間、自分です。そもそもが指には何一つ決定権はなく腕の一部としての活動がありました。ですがある時に指に思考が湧き出し指を腕とは全く違う独自の存在とする認識が起きました。それが自我、自分です。自分は何かをする力があるのではなく、、起こった行動、思考を自分がやったと思い込むメカニズムです。そしてこの自分が見る世界は、、自分の価値観が反映され価値観に準じた世界に形成されます。

引き寄せの法則とは

個人、自我に何かを引き寄せる力は絶対にありません、なぜならば自分は幻想だからです。ただの思考です。思考に何か現象を引き起こす力はありません。思考もただの起こりだからです。ですが価値観はその人間が見る世界を価値観に準じたように見せることができます。本質を価値観に沿って切り刻むことができます、なぜならばその人間が見る世界だからです。価値観に準じた世界を作ることはできますからそれを引き寄せの法則と呼ぶこともできるかもしれません。

腕と完全分離した指はない

指はあくまで腕の中の一部であって完全分離した指などあろうはずがありません。指が完全分離してしまえば指の機能は消え失せます。人間もこれと同じで全体から完全分離した人間などあろうはずがなく、、それゆえ人間は完全分離しているという認識が強ければ強いほどに苦しむことになります。人間の姿形は指よりも分離しているように見える分その誤解は深刻を極めるのです。

各指は思考に支配されていることを知らない

思考が指を支配する

各指は思考に支配されています。腕全体であった神の中に指が勝手に独自の意識を持ち、我こそは自分なりとなりました。脳の発達によって思考が生まれこの思考が指だけで全部、指が分離した独立存在であることを可能にしました。これは全部思考が作り出した錯覚です。ですがこの作戦は功を奏し指は独自の独立した存在になったのです。独立分離した指は腕全体を動き回ることになります、なぜならば指は居心地の悪さ、違和感が湧き出し動かざるを得ないのです。そのため腕全体を動き回ることになるのですがこれが距離、空間を作り出しました。そして空間を移動するために時間が作り出されました。この大元にあるのが自分が居るという思考です。

にも関わらず思考を盲信する現代人

思考がこの自我を作り出し指は腕から切り離されます。指は独自の存在になることで全体の中を動き回ることになります。ですが実際には腕そのものであったわけですからこの指の動きは意味がありません。自分自身の中を動くという意味不明な行動をしているのです。自分が居るというこの感覚こそが不快感、居心地の悪さを生み出しそれを解消するために指は全体(腕)の中を動きまわるのです。これは究極のギャグです。ですが実際にはこの居心地の悪さを思考を使って解消しようとします。思考によって分離独立してしまったにも関わらず思考を使ってこの居心地の悪さを解消しようとするのです。

人間はいつまで思考を盲信するのか

指は思考によって全体(腕)から分離したわけですがその不快感、居心地の悪さを思考を使って解消しようという茶番、悲劇を繰り返します。思考を使えば使うほどに自我は強化されていくわけですから救いようがありません。ですが人類のほぼ全てがこのノリで生きているはずです。このメカニズム、自我を作り出すメカニズムを見抜けたならばもうこのトリックに引っかかる必要はありません。思考から離れる、思考を放置する、思考を盲信しない、、このように思考を手の平で転がせるようになります。

思考って何??化けの世界を作る道具

神は神のままでは何も苦しむことができませんでした、神は神のままでは孤独も喪失感も孤独感も居心地の悪さも感じることができませんでした。そのため神は考えました、この神の中にゲームを作ろうと、ゲームならば孤独、喪失、絶望、不足を経験できると、、そしてその反対の快楽、面白さ、新鮮、友情、親しみも経験できる、、こんな素晴らしいゲームを作ろう、、、そのために思考を利用しました。人間の脳をさらに進化させてし思考を作り出し、、先ずは人間に「自分」というアイデアを授けました、、これによって自分がこの神の世界に誕生したのです。さらにこの延長線上であらゆる現象に名前をつけてそれを個別分離した存在に作り上げていきました。神の分裂現象です。これによって「自分」は神の中を歩いて歩んでいくという体験を積むことができるようになったのです。

簡単に終わってしまっては困る

せっかく作り出したゲームですから簡単に終わってしまっては困ります。そのため自分には次々に思考が湧いてくるように設定しこの自分を維持していく工夫がされています。何かを「自分」が経験したら思考が湧く、その思考に取り込まれるとさらに苦しくなりさらに思考が湧くのループです。「自分」というのは基本苦しい存在なのでその苦しみの解消を思考でやってもらうという無限地獄を作り出したのです。これで神が考え出した「自分」は生きて死ぬまであらゆる経験を積むことができます。放置しても勝手にあらゆる経験を積んでくれるのです。神の完全自動人間自分体験です。

このシステムはさすがにどこかで気づかれる

人間として最初にこのシステムに気づいたのがゴーダマシッダルータです、彼はインドのある地域の王様で贅沢三昧な生活をしていました、にも関わらずなぜこれほど満たされないのか???頭の良い彼はそこから悟りの世界に入っていきました、そしてそこで悟りを開いたのです。彼が気づいた事実とはまさに上記のこと、人間とは苦しみのメカニズムから抜けない限り苦しみが永続するというモノです。人生とは苦である、です。ヨーロッパ地方でこれに気づいたのがイエス・キリストです。彼は人間は原罪と称しました、この罪という言葉は勘違いを意味しています。

思考を放置するのは現実逃避ではない

思考こそが現実逃避

多くの方はここを勘違いします。思考こそが現実逃避なのです、現実とは思考以外の世界のことであり思考の世界こそが幻想の世界、虚の世界です。実の世界は思考が介在しない世界なのです。ですから苦しくなったら先ずは運動、、みたいな発想は本質を突いています。苦しくなったら人間は思考の世界に入っていきますがその世界こそが現実逃避です。虚の世界の住人になり結果苦しみの世界のドツボにはまります。

でも苦しくなるとさらに思考が湧いてくるのはなぜ????

ですが実際には苦しい時ほどに思考が湧いてきます、これが事実です。そのため多くの方はそのまま思考に取り込まれていきます。ここで何とか思考に取り込まれない、思考を放置する、、、この習慣をつけましょう。思考とは苦しみの世界を自ら作り出しその世界に意識を取り込む道具なのです。この事実を多くの方は知りません。思考することを善とまで勘違いしています。悲劇、喜劇です。

現実とは思考が全く介在しない世界

現実とは非二元です。現実とは神です。現実とは大いなる一つです。この世界が現実です、この現実に対して思考で持ってモノ??に名前をつけてモノ化し対象化し、顕現化し、、全部の現象を化させた世界こそが偽りの世界、人間が現実と呼んでいる世界です。この世界は思考によって化けた世界のことです。我々は言語によって化けた世界に生きています。この化けた世界こそが苦しみの世界なのです。にも関わらず何か苦しいことがあると考えてさらに化けの世界に入り込んでいきます。

非二元が思考を追い出す

非二元に親しむと思考への親しみが終わる

頭で考えて非二元とはどうか?神とは何か?ワンネスとは何か??と思いを巡らせても、、、非二元も神もワンネスも大いなる一つも、無我の世界も全く馴染んていきません。国の名前を覚えるがその国に一度も行ったことがない人、ピカソの偉大さは映画で見ても彼の作品を観たことがない人、サーフィン映画にはハマるがサーフィンをしたことがない人、、、これと同じです。非二元の世界に興味があるならば先ずは日常からその世界に触れる方が早いのです。

ではどうしたら非二元に触れることができるか?

非二元がどこにあるか?非二元ってここからどのぐらいの場所にあるのか???非二元は今ここにしか存在しません。非二元は今ここ、目の前、そしてこの現象が浮き上がるその場所に存在します。つまり我々は非二元から離れたことなど一回もないのです。非二元から離れることができるとしたらどっぷり思考の世界に入り込むことだけです。そうです、我々は非二元を目の前にしながら思考の世界にどっぷりハマり妄想、幻想の世界の住人になっているのです。思考から抜ければいつでもそこは非二元です。

五感の世界に意識的に入る

人間の五感は今にしか感じることができません、今飲んでいるコーラの味を明日味わおう、、これは不可能です。そうです、五感とは「今この瞬間」に意識を連れ戻してくれるのです。ということでシンプルに五感を味わっていきます。今聞こえる音楽を聴く、今風を感じる、今食事を味わう、、そこから思考に逃げない、、そこに解釈を加えない、、そこから思考にどっぷり行かない、、これを継続していきます。思考がない世界を味わう、無思考の世界、無心の世界、、、そこが無我、非二元の世界です。目の前に非二元の世界はいつもあったのです。これをなんとかして隠し続けてきたのが思考です。

非二元が思考を追い出すまで

非二元に触れ続けていきますと思考の世界の重さが嫌になります。思考の世界に入ることがバカバカしくなります。なぜ目の前に平和、安堵、歓喜の世界があるにも関わらずわざわざ重い世界に入らなくてはならないのか??もう不思議でしかありません。そこまで非二元、無思考、無我に親しんでいきます。意識的に留まることができた時に今までの苦しみの人生のトリックに気づきます。

この世界に意味などない、意味をつけるのは常に思考

人生の意味

お相撲さんが横綱になる際にこれからの目標を書にしてマスコミに見せたりします。自分の横綱道を書にして覚悟を決めるわけです。ですが実際にはこの世界、本質の世界には意味など全くありません。そこには平和。歓喜、安堵がただある世界が広がっています。それが非二元、ワンネス、色即是空、大なる一つ、などと呼ばれます。それに気づいた人は仏陀、キリスト、覚者と呼ばれたりします。世界の本質には意味などなく、完璧だけがあります。

我々は完璧から生まれた突然変異

我々は宇宙の本質、完璧から生まれた突然変異です。ですがその突然変異ですら完璧の一表現です、ですからいかにこの人生が苦しいといってもあくまでも完璧という土俵の中で完璧を味わいにくい状況に入っただけです。ではどのように苦しい世界に入るのか?それが思考です、思考の世界に入り込むことで我々は一時的に苦しむことができます。酸欠状態に入れます。神が薄い、非二元が薄い、完璧が薄い世界に入り込むことができます。

思考はこの世界に独自の意味をつけその解釈でこの世を分断する

そもそもが完璧な世界ですからそこを不完全にするのは至難の技です、思考は価値観という観念を作り出しその観念でこの世界を分断していきます。我々が見る世界は思考の解釈抜きで見ることはできずそれゆえ思考がその思考によって独自の分断を可能にするのです。我々はこの視覚を通じた世界しか見ることができませんから独自の世界を生きることができるのです。こうして思考はこの完璧な世界を切り裂いてみてその中を生きる「自分」を作り出すのです。これが完璧な世界に苦しみの世界を作り出す思考のやり方です。

思考から抜ける

ではどうしたらこの苦しみの世界から抜けるか、、一つの方法は今にあることを強制してしまうことです。思考の世界は今にはありません。基本過去や未来です。今に強制的に居ることに慣れてしまえば思考の世界から抜け出ることができます。五感の感覚のみに集中します。雨の音を聞く、足が地面に触れる感覚を感じる、音楽が聞こえる感覚に入る、コーヒーを味わう、、視界に何かが入る、、、全ての感覚から思考へ入らないことです。思考が全五感から思考に入ろうとさせます、ですがそれをしない、、、これによって今という場所から出ない感覚を掴んでいきます。

完璧でしかないこの世に不満を持つための道具「思考」

完璧が不満を持つためには「思考」が必要だった

我々の本質は完璧です、完璧しかありません。ですから今見える世界の本質も完全に完璧です、本質は。ですが実際には今完璧に映っていないはずです、完璧に。完璧である本質がなぜ今完璧に見えないのでしょうか?その答えが「自分」と言う存在の出現です、自分という存在が現れるとこの完璧な世界が完璧に見えなくなるのです。そしてこの自分を維持する機能こそが思考です。

思考が湧きそこにしがみつく

先ず大前提として見える世界が不完全に見えます、完璧に見えません。なぜ不完全に見えるかと言えばそれは思考がそのように見せているからです、自分に。そこでそこから思考が湧いてきます、こうすれば完璧のなるかもよ、仕事を変えたら完璧になるかも、パートナーが出現したら完璧に見えるかもよ、、、この思考に人間は直ぐにのっかります。そこからは思考に延々と引きずられていく、、この思考こそが自分の正体です。そしてこの自分の存在こそが完璧な世界を完璧では見えなくしています。

思考を手放すと

思考を手放すとどうなるか?そこには五感の感覚しかありません、それでも最初は不満足な世界に見えるかもしれません。そこで思考がわいてきます、こうしたらああしたらと、、でもそれを無視します、放置します。すると思考が湧かなくなります。これを繰り返します。するとまさかの見える世界が輝いてきます、不完全が不完全ではなくなっていきます。見える世界は完璧になってきます。思考の出る幕を止めていたら安堵が込み上げてきます。

体は何も所有できない、思考はあらゆる物事を所有していく

軽いの究極が悟り

軽いの究極が悟りです、重いの究極が苦しみです。体は何も所有できません、所有するのはいつも思考です。体の感覚に身を委ねて生きていきますと何も所有できなくなります。一方思考優先で生きていきまストあらゆるものを所有していくことになります。体優先は事実優先、事実の先には真実があり、真実の先に悟り、非二元があります。ですが思考の先には思考しかなく、これは虚の世界、幻想の世界です、ここは真実からどんどん離れていく世界です、苦しい世界です。

仕事など3割の力でできることでいい

ダチョウ倶楽部の上島竜兵さんが亡くなりました、真面目な方だったということです。真面目な方は手を抜くのが嫌いですから何でも全力投球、それは素晴らしいことです。ですが自身の実力が至らないようなステージに上がってしまっても頑張ってします、何とか爪痕を残そうとする、、、これらは思考の世界です。思考の世界にガンガンに入っていきます、苦しくなります。仕事は三割の力でできるようなことがあるはずです、そこで真摯に向き合ってやればいい、この仕事は格好が悪い、見栄えが悪い、評価が低い、、、これらは思考です。苦しみの世界です。

思考のトリックを見破る

仕事で結果を出せなくて悩む、思考する、、、すると思考の世界に飲み込まれていきます。どんどん苦しくなります。そしてなぜこれほど思考しているのに苦しいのか?とさらに悩みます。結論を言えば思考しているから苦しいのです。仕事で結果を出せないのは実力が至らなかったから、それだけ。淡々とその事実を受け入れ実力で食べれる世界を探すのみ、そこに思考は実は入りません。ですがそこで考えてしまう、どうしたら結果が出るだろうか??ここから苦しみの世界に入り込んでいきます。

完璧な事実に対し不満をいう「思考」

現象は全部完璧

我々の前に現れる現象で完璧でないものなどありません。山に行けば完璧でない自然現象など絶対にない、、川があり木が育ち、動物がいて、、完璧なバランスで成り立っています。不完全を探す方が難しい、、、これは人間社会でも全く同じで全てはバランスで成り立っていますから完璧に向かって宇宙現象がただ起こっています。この宇宙現象に対し人間の思考(自我)が不満を言います。この不満は恐ろしいほどの無知から成り立っています、だからここに乗っ取られると苦しくなるのです。

不満を言いたがる「思考」

思考は常にこの目の前の事実、現実、現象に不満を言いたがります。というよりも不満を言うのが仕事みたいなものです。思考の役割はこの体を維持して行くことにありそれが最優先です、ですからこの不満は当然と言えば当然です。ですがせっかくのこの思考に引き込まれていきますとひたすらに苦しい、なぜならば思考が述べる不満は事実とは全く関係がないからです。そして事実には苦しみがありません。

思考で悟ることもできない

しかし思考によっては人を軽くしてくれるものもあるではないか??一時的にはしてくれるかもしれませんがあくまでも実戦でそれを腹落ちしなければそれはその場しのぎです。自己啓発セミナー、成功セミナーの受講生がなぜほとんど成果が出ないのか??それは実践が伴わないからです。実践とは五感(事実)の世界です、五感(事実)が五感(真実)を呼びます。五感(事実)の先にあるのが非二元、無心、無我です。思考の先には思考(幻想)しかありません。幻想の先には重さしかありません。

思考が思考を呼び、五感が五感を呼ぶ

考えれば考えるほどに泥沼に入る

多くの方はこれを経験していると思います。バイトを辞めたくなってきたときなどバイトのことを休み中も考えてしまうようになる、、するとバイト中もバイト外もそのことばかりを考えてしまって、、、重くなって重くなって急遽辞める、、、物事の終わりってだいたいこんな感じです。バイトが楽しい時は楽しいから考えたりしない、夢中になっているから、、、だから休み中も特にバイトのことを考えずにいられる、、結果重くならない、、、

非二元、ノンデュアリティは、、どこにある?

日々の生活の中で思考を意識的に放置することを学びますと、、、思考に支配されない、、、すると日々の生活は五感のみに、、、五感とは徹底的に無心の世界、無我の世界です、感じるいうことに「自分」は必要ないからです。ただ感じるだけがあるだけ、、、音楽が流れる、友人との会話がある、スポーツを感じる、、感じるだけ、、、するとそこから無心無我に馴染んでいきます、大なる一つ、非二元が馴染んできます。思考が思考を呼び重くなり、五感は五感を呼び軽くなる、無心無我の世界です。

無我が思考を忌み嫌うまで、、、

本当に無心無我に馴染んでいきますと、、もう思考に対して違和感を感じるようになっていきます。思考のバイブレーションが合わなくなっていくのです。無心、無我、ワンネスのバイブレーションに馴染んで行くと思考のバイブスに違和感を感じるようになります。このためにはひたすらにどちらに馴染む癖をつけるかです。先ずは最初の一歩からです。