幻想

自分が今に居れない理由

自分は記憶が作り出した思考だから

記憶が作り出した思考が「私」。なんともこの「私」は手間がかかった存在です、、なかなかに面倒な作業をしてこの私は今に存在しています、、、というよりも存在できないのでは???今には。なぜならば手間がかかり過ぎている、、、時間が必要ですよね、、記憶が立ち上がり、記憶から私が立ち上がる、、非常に面倒な作業が起こっている、、、どっちにしても思考ですね、、、ですからどちらにしても「私」という実在が、、、この現象界に降り立ったことはないのです、、、空想、妄想、アイデアとしての「私」が浮かび上がっただけです。

私を確認するには、、、

私を確認するには記憶を、、、探るしか方法がない、、、あの時私はこれをした、、、という思考を起こすしかない、、今。これ以外に私を発見できる方法はないのです。私とは本当は一瞬たりとも、、この現実に降り立ったことがない、、ゆえに過去を振り返って私は実在していたという夢を見ているのです。つまり時間がなければ私は実在しないことと同じです、、、だからこそ過去はないんですよ!と伝えると混乱します。「私」は過去にしか居たことがないからです、夢の中で。

自分が居なくなれば、、、

自分という存在は消え失せれば、、、過去も同時に消え失せます、、、過去が必要なくなるからです。。。過去とはこの自分を証明するものだったのです、、、過去を振り返ってみて「私がこの思考を起こした」と信じているのです。事実はただ思考が起こり、行動が起こっただけ、、、この体を通じて。過去は幻想なんです!!なんて言わなくたって、、自分が居なくなれば、、過去は勝手に消えます。すると未来も勝手に消えます。すると将来不安も勝手に消え、過去の悔やみを勝手に消えます。

個人が消え失せ、、

個人が消え失せますと、、相手も消え失せ、、自我の全てあが消え失せ、、生命のみが残ります、、、この生命に気づきているのは誰だ???が起こり、、、、それは生命を起こす存在なのでは???が起きます。。突然、、たった一つ、、空、絶対の存在に気づきます。空があって色があって、、、空と色は一つだ!!が起きます。

それは突然起きる

仮面ライダーって居ない

それは突然起きます、、仮面ライダーを信じていた子供が、、小学校に通い、、、在る時に突然気づきが起きます、、仮面ライダーって本当は居ないんだ!!!、、、これはもう突然起きます、、これがきっかけという大きなコトではなく、、、、何かが何かと重なり合って過去の記憶が全部重なって突然起きます、、、悟りも全く同じ、、、これだ!!!というキッカケなど実は存在しない、、、個人としての全記憶が重なり合って突然の化学反応が起こり、、それが起きるのです。

本当に居ない

理屈は分かるんだけど、理屈では腑に落ちているんですけど、、、、これを何度も繰り返し、、ある時突然気づきが起きる、、、それが何がきっかけという直接的なものではない、、、あらゆる要因の積み重ねによって天動説が地動説にひっくり返る、、、それでも毎日の生活は続く、、、ですがそこには前の自我システムが働かない。

これまで悟りが起きなかった理由が明確に分かる

今は分かります、悟りとは自我が幻想であることの完璧な理解です、、ですがこれまでは自我は、、この体を守るための最重要アイコンとして君臨してきました、、、この体を守る最高権力者を突然居ない、、、と宣言してもそれを言っているのが自我システムですから、、、全くの無駄、、、意味がないのです、、、ですが諦めず、、自我を突き詰めていきますと、、突然の理解が起きます、、、本当にこれは居ないと。

大いなる一つの思考と個人の思考

考えてみれば明らか

この私の思考というのが本当に私の思考ならば、、大いなる一つとは全く関係ないメカニズムを個人が作ってしまったことになります、、、すると大いなる一つは大いなる一つではなくなってしまいます、、、個人の思考は同時に大いなる一つの思考であることは間違いありません。すると面白いことに気づきます、、大いなる一つと自我という二つの存在が同時に思考を所有することになる???大いなる一つの中に自我というもう一つの存在がいて、、二つの存在が思考を生み出したことになります。大いなる一つは全部だから大いなる一つなのです、、つまり自我とは実在せず、、自我という思考だけが存在することが証明されます。

大いなる一つと「私が在る」という思考

大いなる一つの中で完全独立した「自我ー思考」プログラムがあるのならば、、大いなる一つは大いなるひとつではなくなってしまう、、、すると思考とは大いなる一つから湧き出し、、さらに自我も「私は居る」という思考に過ぎないことが明白になります。この世界は完全なる大いなる一つの現象しかなく、、個人は完全に思考の産物です。そして気づきが起こり続けるのは、、、空の反映が大いなる一つであり、、、空は絶対ゆえに、、大いなる一つの動きに対し、、気づきが起きるのです。

個人の活動を幻想と見抜く

個人の活動が確実に幻想で在ることを見抜きますと、、個人に対する関心が薄れてきます、、、個人というのはアイデアに過ぎず、、これを存在するという信念、価値観のみが存在します。この価値観が強ければ強いほどに、、個人あっての個人物語が強化され、、これは苦しみを生み出すのです。なぜならば真実とは全く異なることを大前提にした旅だからです。

この旅には終わりはない

個人は絶対に完全なる幸福になれません、、個人とは存在せずイメージです、、、この個人をどうやったら幸福にすることができるのか????実在するならば攻略法はあります、、ですが居ないのです。。。にも関わらずこの自我を絶対視しこの自我を満足させようとする動きは苦しみの道になるのです。

無限なる存在(空)の反映(色)

この世界(色)

この世界は無限なる存在(空)の反映の場所です、ゆえに全く実態がなく、、実在しません、、空想、幻想、と呼ばれる所以です、、、ですがここでの経験には実態があるのは、、、その気づきが(空)から起こるからです。。空は空ゆえに絶対、、ここに反映である色が現れれば色に気づきが起きます、、、動く世界(色)に気づくが起きるのです。。。。色は空の反映ですから、、、無限なる存在と無限なる存在の現れ(反映)に気づくが起こることで無限の経験が起こり続けるのです。

無限の経験が起こる場所

この現象界は無限の存在の反映の場所ですから、、、無限の経験が起き続けます、、、全自動であらゆる経験が起き続け、、それがデータに蓄積されます、、この蓄積されたデータに新たな経験がデータとして集積された時、全く新しい経験(化学反応)が生まれるのです。無限の存在(空)とその反映(色)が同時に起こる事で気づきの連鎖が起き続けるのです。

視点の違い

この体の中に自分が居るという視点

我々はこの体の中に「私」という存在が居て、、その視点でこの世界を観察しています、、そして観察し経験し、、それによって感情、思考が湧き出し、、完結します。。ですが実はこれあくまでも幻想です、、この体の中に「私」が居るとイメージして、、その視点で経験を積んでいるんのです。本当はこの体の中には「私」は居ません、イメージ以外は。この体の中に「私」が居るという視点での観察、経験が価値観、観念を形成し、その観念こそがこの見える世界を作り出しています。本当は先ず最初に観念があり、、その観念に従った現象が現れ、、それをこの「私」が観察し経験しているのです。

観念に沿った現象

観念に沿った現象が先ず最初にここに在ります、、、ここで今まではこの体の中の「私」が見るというイメージ上の経験をしていたわけですが、、これを変えます、、、、全現象、全思考、全感情、全行動の全てはただ空から起こっているという事実を認識します。。。今見えている世界は、、、「私が見ている世界」ではなく、、全部空から直接現象化されたという事実を認識するのです、、「私が見る」これはイメージ、幻想、概念です。そうではなくただ空からこの現象がそのまま起きました。。。。景色から、、「私が見る」というストーリーを抜き取るのです。

視点が変わると認識が変わる

ストーリー上は「私が見る世界」です。。。ですがこれは事実では断じてありません、、私もイメージ、見るもイメージです、、、そうではなくこの世界が空から直接ここに現れたのだという真実の視点を持ちます、、もうここでは見るという行動が起きていません。。すると認識が変わります、、「私」に向かってきていた全現象が、、、ただの全現象に変わります。湧いてくる思考、感情、衝動が変わるのです。

認識が変われば観念が変わり、、見える世界が変わる

「私」が積んできた経験が、、ただの現象に生まれ変わることで、、、観念が変わっていきます、、、すると世界が徐々に変わっていきます、、、世界は観念を映し出す鏡ですから、、、変わるのです、、、空から世界に光が入り込んできます、、世界が光ってきます、、、世界に神が入り込みます、世界に空が入り込みます、、、これまでの観念によって重いベールが掛かっていたのが、、剥がれていきます、、、世界が神になります。

真実に会う

我々は常に真実に会っている

私たちは真実の中に居ます、、、真実の中で夢を見ている状態です、、、真実が作り出した夢の中で私という幻想を生きるという私物語を体験しています、真実が。私が真実に出会うのではなく、、真実こそが私物語を作り出して「体験」という言葉では収まらない何かを感じています、「感じる」というのも言葉ですから、、ただ何かが起こり続けています。「起こる」というのも言葉ですから、、ただ「在る」わけです。そこを突き詰めていくと色即是空に入ります。

真実以外に行くことはできない

ここは真実です、真実が織りなす夢の中です。真実の中には一切の独立分離した存在がありませんから、、何かが何かを経験するなど絶対にない、ありえないのです。。。それは言葉が生み出した幻想です、、ですから、、我々はしょっちゅう言葉を使って全部を言葉で説明できると思っていますが、、真実では言葉で説明できることは何もないのです。。。言葉で作ったイメージは、、どこまでいってもイメージであり、、イメージの世界だけが何かが何かを経験することを可能にします。

真実を説明するという矛盾

真実には言葉で説明できることは何もありません、、言葉とはイメージを作り出す道具です、、イメージは真実の中でポコッと生まれたものです、、、、ポコッと生まれた物が初めて何かを経験できるのです。「私」というのはイメージであり、、このイメージが日々活動を行うというイメージが起こっています、釈迦(イメージ)は悟り、、解脱でしか救われないと解きました、、、それは当然のことです、、真実の中でイメージが実在しているという勘違いをし、、そのイメージがなぜ幸福になる、、ということが可能なのでしょうか???実在しないイメージがどうやったら幸福になれるのでしょうか????実在しない何かがなぜ不幸になれるのか???

「私」というイメージは幸福になれない

幸福になる、、には幸福になる実在がいなければならないのですが、、このイメージの世界にはその実在は完全に皆無です、、、、信じられない話ですが、、、全員が幸福になれません、、、全部イメージですから、、、「ミッキーマウス」が幸福になる、、無理です、、、、クレオンしんちゃんが幸福になる、、無理です、、、「私」が幸せになる、、無理です、、、誰も幸せになれないのです、、、この真実の世界には実在はないのです。

でも僅かながらの幸福は感じて生きていますけど

先ず物理学として、、実在しない存在は、、幸福にはなれない、、ここをブレてはいけません、、、しかしながらなぜ幸福という実感、、、不幸という実感、、、悲しいという実感、、辛いという実感があるのでしょうか、、、感情を感じるという実感は確実にあります、、、、、それは真実の中でその感情が起こり、、、真実が気付いているからです、、、真実が感情を感じる真犯人です。。。真実以外何もないのですから当然です、真実しか感情を気づく存在は居ません、、それ以外は全部イメージです、、、真実がイメージを生み出し、、イメージが、、何かを経験するというイメージが起こり、、、それによって感情を生み出し、、、その全てを真実が感じています。。。。この夢の世界で幸福になれる実在、不幸になれる実在、は皆無です。

世界中に不幸が存在しなという気づきが起きた時、平和が押し寄せてきた

そうか、、、不幸を恐れてたんだ、、、

これは突然の安堵、平和でした、、、、この世界には不幸がなかった、、、人間から起こる全思考、全感情、全行動が神の現れであるという理解が起きた時に、、、突然平和が押し寄せてきました、、、そうか自分の意志で不幸に誰もなっていない、、、どんなに不幸のどん底に見える人も、、、実は、、、神の現象に過ぎない、、、自己責任じゃない、、だって自己が幻想だから、、、、気づきの連鎖が起きた時、、、景色が平和そのものになりました、、、見たことのない景色、、、幼少期に感じてた感覚、、あの平和、、、、

不幸への強い恐れ

東京は色々な人が居ます、、、凄い大変そうに見える人もたくさん居る、、、ああなってはいけない、、ああならないように気をつけよう、、、この緊張感、この緊張感が、、この私物語に強烈な緊張感をもたらしました。ただ今はない、、全部が全部神の現象ならば、、、不幸は誰のせいでもない。。。運の良し悪しもない、、、なぜならば全部が神が起こした現象だから。

人間の勘違いは最高に面白い

人間とはなんて自己愛が強い生命なのか???体の中に「私」というもう一つの存在をでっち上げ、、その私も同時に大切にする、、、この私の入れ物であるこの体は大切にしなくては、、、なんという防御体勢、、、体を守るだけでは飽き足らず、、体の中のでっちあげた「私」も守る、、、エグい、、、鉄壁の守り、、、だが苦しい、、、人間の超防御システムがまさかの苦しい人生まで作り上げてしまった、、やり過ぎ、、、

どちらが居心地が良いか

自我、無我

覚者は、、、孤独感、不足感、焦燥感、から解放されます、、、この私というイメージ、妄想が、、この物語を作り出し、、、この中に収まっていますと、、、孤独感、不足感、焦燥感が湧き出してきます。この事実を見抜き、、この物語から脱出したのが覚者です。この体は勿論残りますが、、この体の中に私というアイデアがありません、、構って欲しいという衝動も起きないのです。話しかけられた時に、、「私」というアイデアを想像し、、その時は「私」として振る舞います。ですが会話が終われば「私」というアイデアは消滅し、、全体に戻るのです。

体とは無我そのもの

体とは無我の表現、真我の表現そのものです、、、体は自我ではありません、、自我は体が生み出したアイデアです。。。。ですから静かに体と共にあるとき、、無我です、、、体をマッサージして、、緊張を緩めれば、、自然と無我に入れます、、、、マッサージの心地よい感覚、、これを感じているのは無我です、、、そのまま無我としてそこに在る状態になります。

真我が作り出した体、体が作りだした自我

自我とは突き詰めれば真我が作り出した、、真我が体を作り、体が自我を作った、、この自我の存在を実在だといく勘違いが起き、この自我実在ストーリーが作られました、時間という概念も作り、空間という概念も作り、、完全な劇場です。自我はどこまでいっても脳が作りだしたアイデアですからこの事実をしっかりと見つめれば自我は消えます、、自我ありきのストーリーも消えます。

孤独感を幻想と見抜く

私は一体何をやっていたんだろう、、脳が作り出した「私」というアイデア、、脳が作り出した、、分離社会、、この中で私という幻想がこの分離社会を生きるというでっち上げの中で生きていました、、、この体を安全に維持するのが最大の目的です。このことに気づきますと、、孤独感、焦燥感、不足感が湧いてこない、、、なぜならば私とは、、この世界そのもの、、現象そのもの、、大自然そのものです、、私とは脳が作り出した「私」というアイデアではない、、、それは100%。もうアイデアとして生きるのは終わり、、人と接する時だけ、、、「私」というアイデアをでっち上げ、、対応するだけ。

構ってもうらおうとする自我の動き

無視

自我は無視をされることを一番嫌います、、、自我は実在しません、、脳が作り出したアイデアです、、非常に軟弱な存在ゆえに、、、維持していくためには他人からの肯定を求めるのです、、、そのため相手から無視をされると、、激情します、、、、なんとか構ってもらいたい、、、構ってもらって自我は肯定され安心が起きます、、、

攻撃

構ってもらうためには自我は攻撃も辞さない、、、攻撃すれば相手をしてもらえる、、肯定してもらえる、、このようになります、、、自我は実在しないので、、、、自我という幻想を、、とにかく肯定してもらいたいだけなのです。そのためには、、攻撃をしかけて関心を自我に向けるように仕向ける動きが起きます。

本当は実在しない

本当は実在しないのですから、、周囲から無視をされても全く問題がない、、、、居ないのですから、、、居ないにも関わらず「居る」という壮大なストーリーをぶち上げてしまったばっかりに、、、思考感情行動は居ることを証明するように起こり続ける。。脳はこの自我ありきのストーリーを維持することで、、この体を維持しようとする、、、自分とは脳が作りだしたアイデアです、、、そして本質はこのことに気付いています。。。本質がこの脳が作り出したアイデアに焦点が合うことで、、、このアイデア(私)が実在するかのような物語が起こります。

人間関係が全く無くても

人間関係が全く無くても本質は全く問題はありません、、本質は本質そのもであり、、人間を必要としません、、、必要なのは自我です、、自我は妄想ですから、、、、他者に認めてもらえないと、、消滅してしまいます、、そのため、、、常に他人と関わろうとするのです。人と話をしたい、人に会いたい、、全部幻想の自我を維持しようとする動きです。そのことが理解できますと、、、人間を必要としなくなります。本質には孤独はありません、孤独は自我が作り出します。

思考は真実を発見できない

思考はこのストーリーの中で起きる

これが夢であり私物語であり、幻想であることを見抜く、、これが悟りです、、、そしてこの夢を作り上げたのが言葉です、思考です、、、ですから思考とはこの夢の建設請負人です、、、それゆえ思考は真実を発見できません、、むしろ思考がこの夢を絶えず建設し続けています。思考、価値観、観念こそが、、この夢の土台を作る屋台骨なのです。

気づきとはこの思考がいかに夢を作りあげるかを俯瞰すること

この個人という存在が実在する、、そしてこの個人があらゆる経験をしている、、、という圧倒的な大誤解が、、、観念を築き上げ、、、その観念に沿った現実が作られます、夢として。多くの場合、、この個人が居るという前提で思考が起きますから、、思考はこの大誤解を助長することになるのです。観念が新たにリニューアルされていきます、、するとそれに沿った現実という夢が形成され、、イメージとしての個人はそれを経験します。

夢だと気づき始めると

これが夢だという気づきが起き始めますと、、、もう思考はこの私ストーリーを助長する動きを止めます、、私という存在ありきの思考が止まるのです、、これまではこの私が実在しているという大前提で思考が湧き続けましたが、、この私はイメージ、概念、幻想であるという気づきが起きますと、、もうその延長線状の思考が止まります。