幻想

時間

時間は自分が登場してから

時間の存在を疑う人はいないでしょう、時間って必ずありますよね、、、、本当でしょうか???もしもこの世界に自分という存在が存在していなかったら時間って存在しますでしょうか???自分が居ない????そうです、、、自分というパーソナリティーが存在しているからその自分が過ごす時間が登場したのです。マリオが存在しないスーパーマリオゲームには時間が存在しないのです、マリオがゲーム上に降臨してから時間が誕生したのです。マリオが自由意志でゲームを進むこからこそ時間が存在したのです。

自由意志もマリオも居ない

自由意志が存在しないマリオはいません、マリオとは自身の判断でゲームを攻略していく存在です。全自動システムならばマリオは存在できなくなってしまいます。自分でマリオが動くから時間が次の自由意志を行使するために時間が登場します。マリオを全く自由に動かせないのならばそれはただの風景でしかなく、、移り変わる風景のみです。そしてこれがあるがままです。自由意志があると思っているからマリオというキャラは成立しそのマリオが次々に自由意志を行使するために時間が登場するのです。

マリオと自由意志はセット

自由意志が使えないマリオなど存在せずマリオが自由意志を使えなくなったらゲームが破綻します。そうです、これが我々が生きている幻想の世界のポイントなのです。自由意志があるから時間が誕生したのです、、今はこの行動、次はこの行動、その次はこの行動と、、流れができます、、だから時間は存在するという理屈です。魚が生きている世界に時間が存在しないのは魚には自由意志がないからです。

私も自由意志も時間も存在しない

本質は私も自由意志も時間も存在しない世界です。その世界に私も自由意志も時間もあるように感じる世界ができました、ですが本当はないのです。だから虚の世界に居ると疲れます、嘘ですから。人間は眠っている時だけがあるがままです、朝起きて目が覚めると虚の世界に閉じ込められるのです。私が誕生し、自由意志が誕生し、時間が誕生するのです。

レアアイテム

なぜ人はレアアイテムを収集するのか??

車の収集家、カードの収集家、シューズの収集家、バッグの収集家、世界には様々なアイテム収集家がいます。彼らはレアと呼ばれる希少価値が高いものに目がなく、、世界に一台のポルシェ、世界に一枚のカード、世界に一枚のシューズと目を輝かせて集めていきます。一つ面白い点は、、、彼らは世界に一台のポルシェを集めたその3ヶ月後には再び収集の旅に出るということです。満足は一時的で次の何かを追い求め続けるのです。なぜ満足できないのでしょうか???それはそのアイテムに価値が実はないことを本質では分かっているからです。

分離独立した価値あるものなど存在しえない

あるがままは無分別、無分離、全てが一つですから、、その世界の中に独立分離した価値ある存在など存在しえないのです。人間の脳が作り出した価値でありそれは実は幻想です、誤解です。ですからどれほど惚れ惚れするようなレアアイテム、レアシューズ、レアバッグを手に入れてもまた欲しくなるのです。要は満たされていないわけです。そして満たされたはずの個人も実は存在していないので満たしようがないわけです。

おかしい

アイテムの収集家はどこかでそれに気づく日が訪れます、、なぜいつまでも満たされないのか???満たされないということはこの方法では一生満足できないのではないか???と。世界中のレアアイテムを収集し切るまで満足はこないぞと、、、人間の満足とは、、フェイクなのではないか、、実は本質レベルでは全く満足できていないのではないか、、、そうです、、、その通りです。独立分離した個人が居るという大誤解の元に自由意志でレアアイテムを収集し尽くしても満足は起きないのです。その個人がフェイクですから。

何をしていいか分からない

個人の欲望を満たすことしかしたことがない人類にとってそれがフェイクだと教えられたところで一体これから何をしていいか分かりません。個人の欲望を満たしても満たせないことが分かったところでではどうすればいいのか?嘘を見破るのです、個人という嘘を見破るのです、何かを手に入れることでは幸福になれないことが分かったら、、その嘘の本質を見破ることです。そしてその過程においても自由意志は存在しないことを悟ります。もうこれからは自由意志をどう使うかという悩みから解放されます。完全自動、完全受容で本質に気づくのを待つのです。

あるがままから解釈の世界へ

あるがまましかないのに

我々はあるがままの世界の中に解釈を持ち込み、あるがままの世界の中に自分、相手、机、時間、空間、仕事、政治、会社、学校と次々の物体を作り上げていきその世界に取り込まれていきます。本当は何もないにも関わらず言葉で作った世界に取り込まれていきます。もちろんこれは自動反応ですからこれに意図を持って抗うことは不可能です。人間は意図を持てないのですから。これは騙し絵と同じ、自身を老女であると信じ込んでいき最終的に老女の存在を絶対的なものになっていきます。

言葉が作り出した解釈の世界

野生動物が生きる世界には分離が存在しません、なぜならば彼らは言葉を所有しないので分別することができないからです、世界の中に孤立した存在を作り出すことができません。人間は言葉であるがままを分断分離していき独立した存在同士の世界に切り替えることができます、ただしこの行為は自動的に起きてしまうがゆえに人間はこの流れに無力です。そして世界には自分しかいない、自分は孤独だ、寂しい、、となっていくのです。完全んな一人芝居ではあるのですがこの流れは自動で起きるので起きた瞬間にその世界に入り込むのです。

解釈の世界にはあるがままはない

解釈の世界にあるがまま、本質の世界は存在しません、あるがままが作り出した解釈の世界に突入したらその中で閉じ込められます、なぜならばあるがまま、本質を探しているのが自分というまた作り出されてしまった幻想だからです。騙し絵の中の老女が若い女性を探し出す旅こそが世に言う探求者です。真実を言えば老女の存在で若い女性を見つけることは不可能なのです。自分という存在ありきではあるがまま、本質を見つけることは不可能です。

自由意志もそれを所有する自分も存在しえない

名前がつけられる前、花も人間も、犬も、猫も、太陽も、地球という独立分離した存在など実在しませんでした。ですが言葉を使って分断分離し錯覚することで実在しているかのうように思い込んでいるだけなのです。ですから当然この自分という存在も実在しません。実在しない自分という存在のままでは苦しいので、、悟りたい覚醒したいとなるわけですが、、自分という存在を認めた状態こそが幻想の世界に閉じこもる行為であるという矛盾には気づけないのです。

完全自動で悟りが起こる

私たちは悟りに関しても完全に諦めてしまって構わないのは、、悟りに至るプロセスの中で自由意志でそこに至ることは不可能だからです。騙し絵の絵に気づく過程において自由意志というのは一切存在しないのです、ですから我々は完全受け身、完全受動の精神でここに至るのをただ待つ以外にないのです。自由意思というのも完全な勘違いですから先ずはこの自由意思を否定することが逆にスタートにすらなるのです。独立分離した「私」が自由意思で悟るという行為こそが究極の勘違い、幻想に閉じ込める行為そのものです。

「自分」が悟るのではなく、、

これはもう騙し絵の世界ですから重要なことは騙し絵の世界の騙しに気づく以外にありません、「私」「自分」は騙し絵の世界の住人なのでここではその存在を一旦横に置いておく必要があります。その上でこの世界がいかに勘違いの世界なのかだけに気づいていきます。すると、、、どこかで、、あれ、、私もいないし、自由意志もない、猫も、花も、海も、空も、、全部独立などまったくしていない、、、と突然の気づきがおきます。これまでずっと悩んでいた「私」など存在していなかった、、という気づきが起きます。そしてこの一連の流れの中にも自由意志は一切存在しないのです。

目覚める誰かもいない

目覚めも誰かも幻想

目覚めるためには目覚めるための誰かが必要になるのですがこの誰かは真実の中では存在しません。真実の中では誰も何も存在しえないのです。そして我々は真実そのものですから真実の中では誰かは存在できないのです。よって誰かが目覚めるというのは幻想、ストーリーであって真実ではありません。目覚める誰も存在していなかったという気づきだけが起きるのです。目覚めた後には何も残らないのです。騙し絵で老女だと思っていたら若い女性だったという気づきが起きた時には老女は消えています。真実に気づく個人は存在しえないわけです。

本質とは目覚める誰かが消えた時

本質、真実に気づく個人は存在しえないのです。その個人が存在していなかったという気づきが起きた時に本質があります。その気づきは個人の中で起きえることはなく個人というのが幻想であったという気づきです。個人が目覚めるのではなく本質の中には個人は居なかったという気づきです。これが悟り、覚醒、ノンデュアリティです。

非二元とは

悟りという言葉がこの世から消えていきノンデュアリティ、非二元と呼ばれるようになったのは、、、悟りという言葉には個人が悟るという意味が強く現れてしまうからです。実際には個人が幻想であったというのが悟りですから悟りの主語は個人、自分、自我ではないのです。ノンデュアリティ、非二元とは、、主体客体の世界の終焉のことであり、、この世は私が居て、見える世界があるという二元ではないよという意味です。ですから個人が悟るという二元の表現はそもそも間違っているのです。騙し絵の中の老女が若い女性を見つけるのではありません、老女の存在は消えた時に若い女性が現れるのです。老女が悟って若い女性に気づくのではないのです。個人が悟るのではなく、、個人の存在が幻想であったという気づきが悟りです。気づくのは誰か??誰でもなく気づきがただ起きるのです。

目覚めすらない

目覚めるとは???

目覚める、悟る、覚醒する、、、これらは幻想上のストーリーの中で起こることであり、、真実という面から説明すれば実は何も起きていません。真実の中では悟りは閉じてもいないので開くことも、目覚めることもないのです。真実とは真実のみであって、、その中では何も起きないのです。真実の中で真実ではない思考が湧き上がることでその思考から目覚めるというストーリーが生まれただけです。真実は真実でしかないのですから本当は目覚めすらないとも言えるのです。

この世界はこれだけで自由意志も自我もない

真実はこれそれだけです、今この広がる世界、これが真実です。その中には自由意志という何か特別なものはなくただ何かが起きるだけ、何も名前が付けられていないこれが起こっているだけです。そこに言葉が現れ、名称が付けられた何かが現れ、ストーリーが出現しました。ストーリーの側からみればこれがストーリーだったという気づきが起き目覚めるという現象が起きるのです。ですが真実の側から見れば何も起きていないということになります。

騙し絵

騙し絵では老女に見えていた作品が実は若い女性だったという気づきがおきます。これこそがストーリーだと思っていたのが実はストーリーなど無かったという目覚めです。事実は最初から若い女性がそこには描かれているわけですから若い女性側からみれば何も起きていないということになります。老女であると勘違いしていた人から見た時に初めて若い女性(真実)に目覚めるということが起きるのです。我々は皆この幻想の世界に取り込まれていますから真実に目覚めるという現象が起きるのです。ですが真実は常にそこに普遍的に存在していたのです。

自由意思がないならば自分は誰だ???

個が消滅しても残るもの

私たちが絶対的に「自分」という存在に確信を持っているのは、、「自分が居る」という確固たる感覚ゆえです。もしくは居るという感覚です、、、意識の存在を否定する人はいません、、なぜならば今現在も何かを認識する意識が存在するからです。この絶対的な意識感覚こそが自分という存在を信じることに繋がります。ですが本当は意識こそあれ自由意志は存在しないのです、、勝手に湧いてくる思考、感情を、、、自分が作り出したという大誤解が起きているだけです。本当は勝手に思考、行動が湧いてくるだけ、、自分など全く存在していなくても湧き続けるのです。そしてそれを認識し続ける意識もまた存在し続けます。

我々の本質はこの意識

思考が湧けばその思考に気づき、行動が起きればその行動に気づく、何も思考が湧いていなくてもそのことに気づき、何も行動が起きなければやはりそのことに気づきます。この気づきの意識こそが我々の本質です。思考、行動が湧く時だけ現れる「自我」という幻想ではなくそれらに気づく存在こそが我々の本質なのです。いつの間にか我々は気づきの意識ではなく気づきの意識によって気づかれた思考、言動を統括すると言われる自我という幻想に成り下がったのです。

本当は統括する自我などない

我々の言動の全ては自由意志でコントロールされたものではなく勝手に湧き上がった自動システムの産物です、ですからノーコントロールに湧き続けているのです。にも関わらずこれは自分が生み出したモノだという思考が湧き上がり、、それに固執している状態が続いているのです。そしていつの間にか全てに気づく意識ではなく意識によって気づかれた「自我」という思考に成り下がったのです。そしてその大誤解を前提にした思考が湧き続け自我という幻想に翻弄され続けているのです。だから我々はいつまで経っても苦しみから解放されないというわけです、真実とは異なる思考に固執しているからです。

戦争は果たして終わるのか?

戦争も幻想

今世界では戦争が深刻化しています、ですが悟りの観点から見れば戦争も幻想です、幻想として100%起こっているのです。この戦争を止めることはできるのか???答えはNOです、人間には戦争を止める自由意志は存在しません、自由意志がないのですから戦争を止めようという動きを作り出すことは意図してはできないのです。ですが自由意志がないということは全自動的に戦争が止まる可能性は常にあります。

多くの人が思うようには世界は動いていない

この世界は多くの人が想像するようには動いていないのです、多くの方が一致団結して戦争反対運動を起こせば、、戦争は止まるのでは???しかしながら意図してそのような行動を起こせるようには人間はできていないのです。全自動システムで機能しているからです。全自動システムで世界中が戦争反対運動を起こす可能性はあります、ですが意図してではなく自動システムとしてです。

全く新しい認識

この世界は100%幻想であり、100%自由意志も存在しません、、そして自由意志を所有するとされる自我も存在しない、、、この共通認識に立った時に全く新しい世界が広がります。騙し絵の新しい絵が浮かび上がってきます、老女だと思っていたら若い女性だった、、という騙し絵のように全く異なる世界は見えるのです。その世界こそが戦争のない平和な世界かもしれません。

日本経済危機

毎日ニュースで騒がしいが、、

この世界は幻想です、この世界は幻想以外にはありえません。ですから日本経済の危機も幻想として確実にあるのです。今後日本は少子化で厳しくなる、消費税アップで住みにくくなる、後期高齢化問題で労働者が減ってしまう、、それらは幻想としては事実です。ですがこれらは100%幻想ですから変えることは可能です。ですがこれを我々に自由意志で変えることはできません、なぜならば自由意志は100%存在しないからです。

みんなの力で経済を盛り上げる

若い力で日本経済を盛り上げよう、、日本を再び再生を!どのような綺麗なスローガンもそれを成し遂げるには自由意志が必要になります、ですがこの肝心の自由意志が存在しえないのです。存在しないのですから意図的に日本経済を再生させるのは不可能なのです。ではどうしたらいいのか????この経済は幻想であり、自由意志も存在しない、ゆえに自由意志を扱う自我も実はなかった、、、これを悟るほかありません。この時はリラックスが起こります、重さが取れます、、するとこの幻想に緩みが生まれる可能性がでるのです。

この世界が幻想で、自由意志もないのならば、、

この世界が幻想で自由意志もない、自由意志を扱える自我も存在しない、、、あれ???この世界って何にもないではないか??幻想以外何にもないではないか????という気づきが起きます、、力が抜けます、、なんとかしてこの世界を変えようと思っても、、その思いも勝手に湧いたものです、、、。個人はどこまでいってもこの幻想に対し無力なのです。完全敗北、完全降参、完全無関与です、、ですがその諦めこそが究極のリラックスを起こすのです。何にも頑張んなくていいし、何にも必死にならなくていい、なぜならば所詮はこれは幻想であり、自由意志もないのだから。この境地こそが日本経済を変える可能性があります。

環境問題

この世は幻想

環境問題に関して、、この世界は幻想です、今目の前に広がる世界は幻想以外ありえないのです、、そうなりますと環境問題という物理次元の問題も幻想ということになります。幻想として100%環境問題は存在しているのです。ですからこの世界の人々にとってはこの問題は深刻なのです、ですが幻想ですからこの問題を消し去ることもできるのです。

ただし消し去る自由意志は存在しない

幻想であることを100%理解したとして、、この環境問題をこの世界から消し去るには自由意志が必要になります。ところがその自由意志は存在しません、自由意志はこの世界には存在しえないのです。ですから意図して環境問題を消し去ることは不可能なのです。この世界が幻想であること、この世界には自由意志はない、故にこれを扱う自我も存在しないという真実を深く理解できた時にリラックスが生まれこの幻想が緩む可能性はあります。

この世が幻想である根拠

この世界が幻想ではなく確固たる物理次元として実在すると仮定してみましょう、ではこの物理次元はどこに存在しえるのでしょうか?この物理世界があるのならば存在するための場所、器1が必要になります。そしてその器1が確実に存在するならばその器が存在するための場所(器2)が必要になります。そしてその器2が存在するためにはその器2が存在するための場所(器3)が必要になります。これがエンドレスに続くのです、、つまり理論として破綻しているのです。この世界は幻想であるしか存在しえない理由はここにあります。

頑張らないと生きていけない?

資本主義のルール

頑張らなくては、、努力しなくては、、生きていけない、、多くの方はそう信じて頑張ることに違和感を感じていません。平均以上は頑張らなくては平均以上の生活ができない、、そう信じています。ですがこの宇宙はそのようには出来ていません。先ずこの宇宙は幻想です、この現実世界は幻想です、、ここは重要です。幻想ですから変幻自在に変化します、この幻想の中では我々が何を信じるかが大きく影響するのです。この幻想、現実世界では努力しなければ生きていけない、、そう信じればこの幻想の世界はそのような現象化をするのです。

自由意志が無いのにどうやって頑張るの?

そもそも自由意志がないにも関わらず個人は自分を頑張らせることは不可能です。あの人は全く頑張らない、あの人は意志が薄弱である、、そう断定するでしょうが、、残念ながら自由意志はあの人には存在しないのです。この世界は頑張らないと生きていけない、、そういう価値観を深いところで信じれば、、頑張る!!という感情が湧いてくるかもしれません、、あなたはその価値観に沿ってただ頑張っているのかもしれません。

「自由意志がない」を前提に世の中を眺めてみる

自由意志はない、、その前提で世の中を眺めてみると、、不思議な感情が湧いてきます、、、売れっ子芸人も売れていない芸人も、、、優劣が付けれない、、お金持ちも貧乏人にも優劣が付けれない、、人気者も不人気者にも優劣がつけれない、、、インフルエンサーにも非インフルエンサーにも優劣がつけれない、、となっていきます。そうすると頑張らなきゃ!!が消えていきます、恐れが減っていきます、切迫感が消えていくのです。これが本当の軽さです。