仕事

海であることを忘れた波は今日は明日のためにある

思考は今にはない、思考は常に過去、未来を俳諧している

海であることを忘れた波は、思考を駆使して生き延びていきます。そのため思考を手放すことを極度に恐れます。心身こそはこの私であるという思考も思考です、そのため思考を駆使して生きていれば苦しい日々が続きます。この心身こそ自分であるという思考は分離意識を常に強めていきますからこの分離意識を弱めたければ思考を手放す以外ありません。ですが現場が苦しければ苦しいほどに自我は思考を使って生き延びようとするのです。明日のために思考を駆使します、来年のために思考を駆使します。そして駆使すればするほどに分離意識が強まりますからより苦しくなるのです。

思考こそが海から分離した波をさらに分離に追い込む張本人

思考があるからこそ自身は波であると思い込むことができています。思考がなければ自身が波だという思い込みはできません。思考が海を波に分離し波物語というストーリーに誘っています。にも関わらずこの思考を使って生きようとすれば波は永久に波物語から解放されることはないのです。思考とは波を波の次元、時間空間次元にい続けさせるための張本人です。もしも波が海に戻るならばこの思考を落とし欠落させ、無心、無我に入り込むしかないのです。

将来のために今に入る、体に入る、所作に入る、思考を観察する

とはいえこの体を持ち、生き抜いて行かないのは事実ですから将来に対しヤケクソになるのは得策ではありません。自暴自棄になってもしょうがありません。そうではなく将来のための準備、明日の準備に入り込む、所作に入り込む、仕事に入り込むことでそのまま無心になります、無我になります。波は将来のために海になるのです。もしくは思考がグルグルするならばその思考を観察するという所作に入り込みます。思考を観察することに無心になって臨むのです。エックハルトトールは思考を観察することから大いなる一つになることを推奨しますが観察することに無心になる、観察道に入ればいいのです。思考を観察することに体を使うのです。体は常に今にあります。

海であることを忘れた波は依存傾向にある

自分自身を弱いと感じる波は何かに依存したがる

広大無辺な海が自らを波である分離した存在からこの波物語はスタートします。広大無辺な海であったことを微かに覚えているため波は常に自身を弱い存在と勘違いします。そのため波は何かにすがりたい、何かに依存したい、何かに頼りたいという欲求が強く湧き出ててくるようになります。これは子供よりも自我が完成した大人の方がより強く依存傾向にあります。そのため大人は子供に向かって「このままではどこにも就職できないよ」とどこかに依存しなくては食べていけないことがデフォルトのような発言をします。そして他の大人も同じような意見であることからそれが真実であるとさらに錯覚を強めていくのです。

何かに依存しても苦しみは解消しない

自我が完成し自身を弱い存在、何もできない存在と錯覚した人間は何かしらに依存して生きていくことになります。それは会社だったり、親だったり、国などの大きなな組織、もしくはパートナーです。依存が成功し表面的には平和が訪れますが自我はさらなる不足感を湧き出し続けますからその解消方法を探し回ることになります。それはギャンブルだったり、お酒だったり、子供だったり、エンタメです。何かに依存することで弱さを感じることを避けれても不足感が湧き出ることを抑えることはできません、それは自身が海だったことを波は覚えておりゆえに何に頼っても本当の強さを手に入れることはできないからです。二元の世界で対象を手に入れて感じる強さは全てマヤカシです。総理大臣の妻になったとしてもこの不足感が消えることが絶対にないのです。

依存すれば依存先の顔色を伺わなくてはならないという第二の苦しみにシフトするだけ

会社に依存すれば会社の顔色を伺い、結婚相手に依存すれば相手の顔色を伺います。クライアントに依存すればクライアントの顔色を伺うことになります。こうして弱さ克服のために手に入れた依存先によって次の苦しみが湧き上がっていきます。ひたすらに苦しみが変容してシフトしていくだけです。これが人間ゲーム、波物語です。重要なことは自我から湧き上がる不足感、恐怖心、欠乏感、退屈感を対象を見つけてそこで解決しようとするのではなくこのメカニズムを理解することで波から海にシフトすることです。自身が海であったことを思い出すことです。それは決して難しいことではなく掃除に集中することで無心になる、仕事に集中することで無心になる、読書に集中することで無心になり、思考である自我を抜け落としていきます。体の感覚に意識を集中することで思考が入り込む余地を無くしその場で海、全存在、神にシフトしてしまうことです。人間はいつどこでもどんな状況でも実は無我になれます。それが本当の強さ、安堵、平和、歓喜です。そして1日のほとんどの時間をこの状態で過ごせた時にこのメカニズムが腹落ちします。波は幻想でこの世には海しかない。つまり強さしかないということを。強さが弱さを演じているだけです。

海であることを忘れた波は徒党を組む

波にとって個人は非常に弱いので徒党を組んで強いと勘違いしたがる

海であることを忘れた波は、広大無辺な存在から波という極小サイズに縮こまれてしまったので常に心細くなります。当たり前ですが本来が広大無辺な存在ですから比較にならないほどに心細く感じます。心細い時に周囲に仲間の存在は重要になります、結果波は徒党を組んで生きていくのです。〇〇学校、〇〇中学、マルマル専門学校、〇〇部活、〇〇団体、〇〇会社などなど、、、とにかく波は集団にゾクしたがるのです。その最も大きな集団が〇〇国です。もしも国際条約が成立して国という組織を解体しましょうと各国で締結したら全世界の人間が反対するでしょう。急に心細くなるからです。

会社に行って、夕方から〇〇会に参加、夜は家族で食事

人間は一日中どこかの組織に属していたい動物です。朝は家族の中で目覚め、そこから会社に行き、帰ってきたら仲良しグループで遊び、そこからまた家族の元で眠る。これらは全て無意識に行われているわけですが自我はこれを作為的に行います。個人=弱いですから、いかに個人が寄り集まって弱さを忘れたい、弱いことを忘れていたいのです。個人が集団になった時に強くなるということではありません、弱さを感じないで済むということだけです。波が求める強さとは海の強さです。波がどんなに寄せ集まっても海の強さとは異質にものなので意味はありません、それゆえ個人は一旦徒党を組み始めると無尽蔵にその組織拡大を目指したりますがそれは海になるわけではないのでいずれ崩壊します。

無心に入れば徒党を組まなくなる

波がどこかのタイミングで無心に入るコツを掴んだり、無我夢中になってそこから強さを感じることができたならばもう徒党を組むことに興味を無くします。たった一人の状態から無我、無心、大いなる一つにシフトできたならばもう弱さを感じることはなくなり徒党への興味も同時に無くします。徒党を組むことが強さを感じることならば無我、無心、真我に入っても徒党にも興味を持ちますが質が全く異なるまで比較にすらならないのです。書道から無心に入る、掃除から無心に入る、仕事から悟りに入る、音楽を聞いて無我に入る、、、人間はどのような状態からでも実は無心、無我、海、強さに入ることができます。

「対象を必要としない喜びを知る」波は今後期待や希望とは別次元で生きる

こうなったら幸福、こういう人生を生きれたら最高、、これは全て無知な波

対象を必要としている時点でそれは本当の幸福、至福、安心、歓喜を知らない人間、波です。対象を必要とするということは自身は欠落した人間で何かが自分を埋めてくれると信じている状態だからです。確かに人間は家も必要だし、お金も必要だし、仕事も必要です。ですから対象が全く必要ないといえば嘘になります。これはこの二元、波物語で生きている以上どうしても必要です。ですが自身の不足感、欠落感を対象が完璧に埋めてくれることは絶対にありません。なぜならばその不足感、欠落感こそは自分がこの心身だという思い込みが生み出しているからです。自分は海ではなくこの波であると勘違いした瞬間からこの欠落感が生まれそれを埋めるために海の代替品を貪っている姿を飢餓と呼びます。

対象を貪るように求めている間は苦しい

かつては何でも欲しがっていた個人、波もどこかでこれはどこまで行っても限度がないことを何となくに気づきます。かつて心から欲しかった物を手に入れても次の月にはすっかりとそれに魅力を感じなくなっているのです。あれだけ欲しがっていた心とはなぜここまで信用できないものなのか、です。心とは不足感、欠乏感、を何かしらの対象で埋めようとする感情です。根拠のない不足感を何かしらの対象、家や名誉、地位、異性などで埋め合わせしようとする働きです。このためこの根拠がわかっていない限り心はこの不足感を埋めることはできないのです。そして心はこの不足感の根拠を発見することはできません。心や思考を信用してはいけない理由は根拠のない欠乏感を何かしらの代替品で埋めようとする無謀な行為だからです。

大人になると貪ることはなくなるが、、、

大人の人間、波は貪ることがあまり成功しないことはある段階で悟ります。ですが結局なぜ貪っても不足感は満足させれないかは理解できません。思考にはこの原因を発見することはできません、なぜならばこの不足感を埋めてくれる存在、海はこの世界には形状としては存在しないからです。そこの解決を図ったのが書道、剣道、武道、茶道といった道教や座禅、瞑想などです。目に見える世界にそれを探すのではなく目に見えない世界にそれを探す行為こそこれらの行動です。大人になってこの世界、人間社会がやはり生きにくいのは結局のところ自分が抱えている不快感、孤独感、不足感の根本を発見できずにいるからです。

自分を意識しながら何かを経験することは不可能

所作に入り込むのが有効な理由

何かに没入しながら自分を意識するという同時進行は実質不可能です。茶道の所作に集中しながら自分を意識することは不可能です。人間は対象に没入する時は自分を忘れます。この感覚は自身を波ではなく海で在るということを思い出せるチャンスなのです。その証拠に所作に没入する時の無心感、安堵感、安定感は他に得ることができない感覚で在ることを知っています。

没入することをで得られる安堵感を知らない人間はお金を払ってそれをしてもらう

優秀な役者さんの舞台を見に行く、優秀な歌手のコンサートに行く、優秀な芸術家の古典を見に行く。これらの行為がなぜ起こるかといえばそこに行けば努力なしにその作品、芸術に集中できるからです。集中すれば無心になり安堵感、平和、歓喜が自然に訪れます。お金を払うことで自然と集中できるきっかけを貰っているのです。美味しい料理を高額を払って食べに行くのも味に集中している時に無心になれ結果無我に入り安堵、平和、歓喜そのものに一瞬なれているのです。人間の形をしながらもその瞬間だけは波ではなく海、安堵そのものになっているのです。

お金を払わなくても安堵そのものになれるならば、、

達人よ呼ばれる人々はお金を払うのではなく、自身の行為、所作に集中仕切ることで無心になり、無我になり、思考を排除して自我を取り去り、そのまま海になる、つまり安堵、平和、歓喜そのものに瞬時になれてしまう人々です。どのような条件にも関わらず所作に無心になることでその場で安堵そのものになってしまいます。それは仕事だけでなく掃除、会話、食事あらゆる人間活動の中からそこに入ります。そして最終的には自我のメカニズムを俯瞰し常に純粋意識、無我、海の状態でいられるようになります。

条件が揃ったら無心に入れるのではなく、無心に入ることで条件を揃えていく

目の前の問題の山を先ずは無視して無心、無我に入る

分離意識全開、自身を海ではなく波であると認識する波の前にはおそらくは問題点で満載です。自身を全体から分離した人間であると捉える人間の前には問題点が山のように転がっているはずです。そうなると多くの分離意識はこう考えます、先ずはこれらの問題の山が解消できたら無心、無我に入って行こうと。集中して仕事に取り掛かろうと。ですが問題はその問題と称される山々は自我、波が無理くり作り出したものだといくことです。不足感の塊である分離意識、自我は不足感を問題に置き換えていきますからこれは強制的に問題にすり替えられてしまった事象なのです。ですからこの問題点に焦点を合わせても解決しようがないのです。先ずはこの問題点を解決することに無心になる、もしくは問題点以外のことでもいいから無心になって取り組むようになると全存在が、即海に切り替わり問題点が消えてなくなります。問題が問題でなくなってしまうのです。

波、自我が錯覚ならば問題も錯覚

海ではなく分離した波である、全存在ではなく分離した人間であるという錯覚を持つ分離意識は不足感の塊です。この不足感が解消されますとそれまで問題と捉えていた事象が突然問題ではなくなってしまいます。波、自我=問題所有ですから、、海、全存在=問題所有できずです。海は問題を所有できないのです。ですから我々は全ての機会、掃除、洗濯、エクササイズ、仕事、子育てを無心で入り込みその場で海、全存在に切り替わってしまうことで問題を問題でなくしてしまうということができるのです。もちろんどうしても無心になれないこともありますからそれは横に置いておいて基本的にはそこから無心に入る、無我夢中に入る、、この癖をつけることが重要になります。

そこから悟りに入る、これは日本人の得意分野

茶道、書道、柔道、剣道にはこれが重要でこれは重要ではない、、という概念がありません。最初から最後まで全て重要、合理的、非合理的を超えたところにあります。つまりどの所作からでも悟りに入る、どの所作からでも無心、無我に入りなさいという教えです。無心になって邪念を払って無我に入り込むことを茶道、剣道、柔道では教えているのです。最も簡単に言えばどの所作からでも海、神、全存在になってしまいなさいということです。そしてこの動きを生活の全てに応用することが真の目的です。

自身が海であることを忘れた波は問題点を探す

自身のことを波と捉えれば世界は問題だらけになる

問題など全くない、悩みも何もない、課題も何もない、、という人間がいたら嘘つきと思ってください。もしくは自身の問題を見てみないふりをしている人です。自分が海であることを忘れた波(人間)は不足感にさらされているのが構造的に当たり前なのでこれを無視することはできません。自身を世界と分離している人間と認識している時点で基本構造として不足感が生まれてきます、この得体のしれない不足感を人は世界の問題点として置き換えるのです。例えば付き合っているパートナーの問題点、会社の問題点、結婚相手の問題点、住居の問題点、経済の問題点、収入の問題点として必ずそこから問題点を見つけてきます。そしてそれが解決したらまた必ず次の問題点を探し出すのです、それは自身が人間であるというこの錯覚、誤解が作り出す必然のメカニズムです。

自身のことを波と捉えれば職場は問題だらけになる

多くの方にとって会社はストレスの場所です。上司、部下、給料、勤務時間、残業、会社の将来性、、、全てが問題化します。自分を全存在から分離した人間であると認識した瞬間から不足感が生まれだしこの不足感は会社への不満へとシフトするのです。会社勤めは非常に楽しいと断言できる人がいればそれは仕事を無我夢中になれる道具に使えている人です。仕事を通じて、人間関係を通じて無我夢中に没入し自我を忘れることができる人です。どこに居てもどんな場所でもそこから悟りに入りなさい、と言うマスターがいますがまさにそうその行為に没入する、集中してしまうことで逆にそこから無我に入ることで自身を海、存在に変えてしまう以外に不足感を解除する方法はありません。

仕事の向き不向き、好き嫌いが実は全くどうでもいい理由

本当のことを言えば海であることを忘れてしまった波や、自身を全体から分離してしまった人間と捉えている人にとって仕事の向き不向き、好き嫌いは実はどうでもいい問題なのです。基本不足感の塊ですからその不足感はいついかなる場所でも不満に置き換わりその人を襲うのです。ですからこれからいかにそこに没入するか、無心になって取り組むかに焦点を絞ってみましょう。無心になって取り組めばその時は自我が引っ込みますから即無我、ワンネス、全存在になれます。そこは至高、安堵、歓喜です。勘違いしてはいけないのは波、人間が至高、安堵、歓喜を感じるのではなく分離した波、分離した人間が居なくなることで(無心)至高、安堵、歓喜そのものになるということです。無我、全存在、ワンネス=至高、安堵、歓喜であって、、、人間、波が至高、安堵、歓喜を味わうのではないということを重ねて伝えておきます。

海であることを忘れた波は孤独と欠乏感、不足感を抱えて生きていく

海であることを忘れてしまった波は疲労困憊になるまで波で居続ける

我々人間は生まれてきたときは海が波の形をとって生まれてきます、そしてそのときは海としてまだ生きています。ですがそこから7年間かけてあなたは波であって海ではないという教育、洗脳を受けていきます。この洗脳が完成するのが小学校二・三年生でしょうか。そこで圧倒的に自分は小さな存在でありここから必死に波として生きていかないことを教え込まれるわけです。あなたは小さな波なのだから努力し、仕事をし、周囲に気を使って生きていかければならないと教え込まれます。そうか自分はちっぽけな波なんだと覚悟を決めた波から受験勉強、就職競争、出世競争、結婚、子育てと、、逞しく波として戦っていくわけです。そしてどこまで戦っても、どこまで逞しく生きても一向に楽にならないこの波としての人生に徐々に疲れていくのです。

疲れ果てた波はもう逞しく生きることに興味がなくなる

逞しく生きてきた波はあるとき気づくわけです、、どんなに受験戦争で勝ち抜き、出世競争に勝ち抜き、子供のお受験に勝ち抜いてもいつまで経ってもこの孤独感、不足感、欠乏感はなくならないと。どこかで無くなると聞いていたこの渇望感はおそらくこのまま生きていてもなくなることはないだろうと。そこで急にこの波として人生に嫌気がさし死を意識する波まで現れるのです。もしくはたまたま悟り、ノンデュアリティーなどの情報に触れた波はそこに強烈な興味を抱きます。

波として至福になることができないのならば死を選ぶか目覚めしかない

リア充と呼ばれるような生活や、幸せと言われるような生活をしているにも関わらず満たされない感情を抱え続ける波は、死ぬか、覚醒するしか道がないことにどこかで気づきます。自分を波だと思っている限りは至福に至れないことを腹の底から理解した波は運が悪ければ死を選び至福(海)に帰るか、波の形を残しながらも海に戻る(覚醒)を目指します。我々が見ているこの世界は波という自覚を持つことで誕生した夢、幻想、現象界です。波物語という夢から覚めることを強烈に意識して生きていく、そのお手伝いをするのがこのブログです。

何を希望に人は生きているのか

人間に希望などない

夢も希望もない話をすれば人間に希望などありません、いつか幸福になれるという幻想を抱き続ける人間に希望などない、これが真実です。極限を言ってしまえば人間=絶望です。なぜならば人間という初期設定が錯覚だからです。もちろんこの心身こそ自分という思い込むメカニズムも存在のなせる技です。ですから神が自分に技をかけている状態、その技とは必殺不足地獄です。一度この技を仕掛けれたら最後、この技を解けるのは人間である自分ではありません、それはこの技をかけている張本人、そう神、存在、大いなる一つだけです。

神よ、この技を速やかに解いてくれ

とはいえ人間にも全く光がないわけではありません。例えば眠りに落ちる際にこれをテクニックとして説明できる人はいないはずです。よし今から寝ようと覚悟を決めて寝ることはできませんが眠りに落ちる感覚がなんとなく把握しているはずです。これはこの必殺不足地獄も同じ、人は何かに没入することで無我夢中になることでこの必殺不足地獄から一時的に抜けれることを知っています。自我がない状態、無我に入る状態をどこかのタイミングで知ります。故にサーフィンやロッククライミング、レースなど極限状態に自身を追い込むことでこの状態に入る輩もいます。そうではなく掃除や仕事、子育てや、友人との会話、これら全て人間行為の中でこの無我に入る感覚を掴む人もいます、これを達人と世の人々は呼ぶわけです。

茶道や剣道、柔道など道がつく人間行為はこれを説いていた

日本に昔からある茶道や剣道、柔道などの世界は実はこれを説いていました。道を極めるというこの動作の中でそのまま悟りに入る、無我に入る、存在と共にあることを説いていました。感覚でそこを掴むことを道と説いたのです。道の先に神がいるのではなく道を歩むその道こそが神、存在、大いなる一つであるということです。仕事から悟りに入る、食事から悟りに入る、掃除から悟りに入る、、全て行為から悟りに入る、これしか人間が苦痛、絶望から解放される方法はありません。最後は悟りが人間を見つけ、自由が人間を見つけ、至福が人間を見つけます。

高級品にしがみつく自我

高級品を多く持っていればいるほど安心する自我

高級品に目がない自我は存在します。高級時計、高級車、高級バッグ、、、、自身の身の回りを高級品で揃えそれを誇示する自我の存在、自我はそもそも存在していないので周囲から羨望を集める=自我の存在を再確認することに安心感を覚えるのです。少なくとも周囲が自身を羨望の的に思っている関心を持っているということは自身(自我)が確実に存在すると思い込めるのです。高級品収集の問題点は、この自我の満足を満たし続けていくと全財産をなくして追いつかないということです。最後は借金をしてでも高級品を集めてまでも自我を満足させていきますがどんなに無理をして手に入れても至福には至りません。さらに今度はこれら高級品を失った場合自我は急激に小さくなったと錯覚し苦しむのです。高級品の量=自我の保障ですから、高級品の現象=自我の存続危機です。

かつて豪邸に住み、高級品に囲まれていた人生からの転落劇

高級品に同一化した自我は、高級品を増やしていくことで自我を確固たるものにしようとします。そのためここは多少無理をしても継続して収集していくわけです。ですがそれを維持していくためには体力、労力などかなりのパワーを必要とします。このパワーが枯渇しない間は維持できますがいずれ人間の体は衰えていきますからここにおいても無理が生じるのです。その時にこのメカニズムが崩壊し始めます。高級品を維持していくのが難しくなります、すると自我そのものが毎日のように縮小していく錯覚に苛まされることになるのです。

高級品を持つことを目標にして無我に入る

高級品が悪いわけでは決してありません、高級品は職人さんや企業努力の賜物でできたものであり素晴らしいものです。ですがそこに自我を同一化するとこの高級品が別の意味を持つことになるのです。素晴らしい高級品を持つことを目標に無我に入りましょう。仕事に無我夢中になることでそこで至福に至るのです。ビジネスや栄養管理に無我夢中になることでそこから至福に至ります。高級品を持つことを目標に技術をつけることに無我夢中になりそこから至福に至るのです。本当の幸福は高級品を持つことではなくそこへの道そのものにあることに気付いてしまうのです。高級品を所有するころには高級品への関心はなくなり無我に入り込めた事実に関心は向きます。そこに至福があったことに気づくのです。