ノンデュアリティ

このメッセージを伝える誰かはいない

ノンデュアリティのメッセージは矛盾を抱える

今機能上の私がこのメッセージを書いています、、これは機能上の私であって実在する存在ではありません。誰かがこのメッセージを書かなければ、誰かに伝えることはできないのですが、、、誰かと誰かが居るというこの錯覚、幻想こそが、、、これが夢の中である証拠になります。全てはたった一つの意識の中で起きる神羅万象の動きでしかありません。神羅万象には一切の分離はなく、、あるのは分離しているという感覚のみです。

分離とは見かけ上の脳内でのみ起きている

分離はこの見かけ上の脳内でのみ起きています、、、実際の神羅万象には一切の分離は存在しません、、、我々の脳内でのみ分離は起き、、、我々はその分離の世界で生きているという夢を見ているのです。夜見る夢とこれは全く変わらず、、、意識と脳が作り出したこれは共同作業です、、、熟睡時以外我々はひたすらに夢の中に居るのです。

夢だけれども

夢ではありますからいつでも醒めてしまえば、、この夢は終わりです、、、ですがそれができない、、なぜならばそれができる個人という存在が居ないからです、、、、この夢が覚めるのは、、覚めるということが起きるのを待つ以外にないのです、、全体、気づきの意識がこれが夢だと気づき、、、夢を終わらせるが起きなくてはなりません。夜夢を見ている時に、、、なんとなくこれって夢だな、、、そんな気づきが起きる時ってありますよね、、、まさにそれ、、、それが今起きているのです。

瞑想で気づきの意識そのものになる

気づきの意識に目的はない

何かのために瞑想をする、、瞑想をして元気溌剌、、瞑想で願望実現、、、、、そういった瞑想の使い方もあるかもしれません、、、ですが瞑想とは自身が気づきの意識であった、神羅万象そのものであったという気づきです。集中とは、、、自分など最初から居なかったという気づきです、、、、瞑想は、、、集中とはまた違う形での、、、自己実現、、、瞑想そのものが、、、至福、、静寂です。

とりあえず、、瞑想しよう

色々嫌なことが1日中あったけど、、、とりあえず瞑想しよう、、、瞑想に帰ろう、、、です。。目を閉じて現象の世界を締め出し、、、気づきの意識そのものになるのです。。。感覚、意識だけになります、、、本当は気づきの意識しかなく、、、そこに戻る感覚です。1日に何度もここに戻ります、、、すると、、、現象界で起こる様々な事件に深刻さを感じなくなっていきます、、、これは、、、頭で考えるのではなく、、、そう感じるようになっていきます。

これが夢だと見抜いていく

これが夢だと見抜くためには真実に触れる意外に方法はありません、、真実に触れれば、、、これがファンタジー、夢であるこちが腹落ちします、、、夢だ、夢だ、夢だと、、、、1万回説明を受けるよりも、、、真実に触れる、、、真実になってしまう、、、これ以外にこれを夢だと見抜く方法はないのです。。。。何かに集中することは、、、まさにその一つ、、、そして目を閉じて、、、全く対象のない世界(ノンデュアリティ)に直接触れるのも一つです。

解釈の世界

我々は解釈の世界に生きている

どんな言葉を覚えたかによって我々は生きている世界が全く違います、、、例えば小さな子供にとって最初見える世界に独立した存在は皆無でした、、、ただ揺れ動く神羅万象があるのみ、、、例えば公園に行ってもそこに何か独立した存在など居ないわけです、、、母親は必死になって、、、チョウチョという名前を連呼することで、、、次第に子供の世界にチョウチョという独立した存在が浮かび上がったのです。

名前がなければ存在しない

会社に入って間もない頃、、、会社の中の言語が全く分からないですから、、視界にはPC,デスク、チェア、、窓、人間ぐらいしか存在しないはずです。ですがそこで徐々に社内用語を覚えていきますと社内にあらゆる物が溢れていきます、、、PR用〇〇、営業用〇〇、、、など、、、つまり言葉を覚えることでそこに何かしらが突如現れるのです。

便宜上の名前が、、、

究極を言ってしまえばこの私も、、、名前を覚えるまでは存在しなかったのです、、名前を親から連呼されることで、、、この世に現れたのです、、、、信じられないかもしれませんが事実です。。。ですから、、この私は方便、便宜上の存在なのです、、、、この便宜上の存在は便宜上であることが分かっているうちは苦しくないのですが実在しているという大勘違いに入っていきますと突如深刻さが湧いてきます、、、なぜならば本当は実在しないからです。

便宜上の存在は分別ある大人になる??

便宜上出現したこの「私」が今度は分別ある大人になるよう、、導かれていきます、、、もう苦しい世界です。。嵐に巻き込まれていくようにこの便宜上の「私」は「社会」というものに飲み込まれていくわけです、、、想像するだけでしんどいですよね、、、そうです、、、しんどいんです、、、、便宜上名前を付けまくって便利な生活をするだけのつもりが、、、便宜上が、方便が、、、、リアリティであるという大勘違いが起き、、苦しい世界になってしまったのです。これはリアリティでは絶対にないのにこれをリアリティであると信じるから苦しいのです。

これはリアリティではない、という事実に戻る

我々が見ている世界はリアリティではありません、、、言葉を覚えることで後天的に作り出した世界です、、、この世界は便宜上のものであり、、、事実ではない、、、だからこの事実ではない世界に真剣に入り込むのはおかしなことです、、、、勝手に後天的に作り出しておいてなぜそこに入って真剣に生きなくてはならないのか????入る入らないは自由でしょう。ノンデュアリティに生きるとは本来の世界に戻りましょう、ということです。便宜上作った後天的な世界に巻き込まれず、、あくまで便宜上の世界であることを見抜き、、上手く利用していけばいいのです。

ノンデュアリティがデュアリティを作った

この世界はノンデュアリティそのもの

この世界はノンデュアリティそのものです、、、もしも大脳が破壊されてしまったら、、、一瞬でノンデュアリティそのものの世界に入れます、、つまり独立分離した物など本当は存在しないということです、、言葉によって、そして記憶によってこのノンデュアリティの世界が独立分離しているように見える世界に七変化しているだけです。ということでこのデュアリティの世界はノンデュアリティから急遽出現した脳によって七変化したように見えている世界だということになります。

言葉とは音と記憶のこと

相手が「ありがとう」とこの自分に言った時になぜそれを認識できるかといえば、、、、音を察知し、、それを瞬時に記憶していったからです、、、これは大脳が発達していなければ絶対にできません。。。。この音と記憶によってその言葉が聞き取れ、、人間ドラマに入れるのです。本当はこの一瞬しかない世界に、、連続性があるかのような錯覚を作り出したのです。記憶と言葉によってこの瞬時に現れる現象界に、、、独立分離したような錯覚物を作り出すことに成功しました。

デュアリティの世界に疲れたら、、ノンデュアリティに戻る

デュアリティの世界が疲れるのは、、ノンデュアリティが、、デュアリティという仮想空間に閉じ込められてしまうからです。ノンデュアリティという生命そのものが、、仮想空間に閉じ込めらているという感覚が苦しいのです。閉じ込められてしまったのですから、、閉じ込められてしまった原因をしっかりと把握し、、無意識に閉じ込められないようにするしかありません。

で??明日からどうすればいいのですか??

どうもできない

ノンデュアリティ、悟り、覚醒のメッセージは分かりましたよ、、、、で結局明日からどうすればいいのですか????どうもこうもそれを決める力が見かけ上の個人には無いのです、、、見かけ上の個人はやっているつもり、考えているつもり、感じているつもりしかできません、、、それじゃあ廃人と同じですよね????違います、、それを物心ついてからずっとやってきたのです、、だからこれからもやっていくのです、、、、唯一の違いはそのことに自覚的であるか否かです。。。。見かけ上の自分以外に、、神羅万象、気づきの意識があり本当の自分はそっちだったという気づきがあるか否かです。

どうもできないなら死にたい

どうもできないなら、、生きていてもしょうがないですよね????見かけ上の個人が完全自由意志で行動してきたと勘違いしていた状況から、、完全に神羅万象そのものであったという気づきが起きると、、、そのような感情、発想が神羅万象から湧き出すこともあるでしょう、、、、、ですが神羅万象の動きそのものであるという気づきは本当に退屈でしょうか??本当に無感動でしょうか???私はそうは思いません。

何を目標に生きたらいいか分からなくなった、、、

もう何を目標に生きたらいいか分かりません、、、大丈夫です、、、その目標も神羅万象から現れます、、もしくは現れないこともあるでしょう、、、そしてそのことと、、至福感、静寂、、とは何も関係がないということです。苦しみとは何も関係がないのです、、、独立した個人であるという脳の錯覚が神羅万象から起こった時に苦しみが湧き上がり、、、これが脳の錯覚であるという気づきが神羅万象から起きた時に苦しみが終わります。

神羅万象の動きに大脳がドラマを付けた

神羅万象はただ動く

神羅万象はただ動きます、、これだけです、、、宇宙生命体は全てこの神羅万象の動きの中に在ります、、、、ではその中で人間はどのような動きをするのでしょうか????人間も例外ではなく完璧に神羅万象の動きのなかにあります、、、、コーヒーを飲むという動き、思考活動の全て、、、全部です、、、神羅万象の動きそのものです。え????コーヒーを飲もうは、、、自分で考えていますけど????そうです、、その考えも神羅万象の動きです。

神羅万象の動き以外の動きがあったらもうそれは神羅万象ではない

神羅万象が神羅万象であるのは、、、宇宙空間の全動きを支配しているからです、、、神羅万象が支配できていない活動があるならば神羅万象は神羅万象では無くなってしまいます、、、つまり我々人間の活動全て、脳の活動全て、、、は神羅万象の動きそのものなのです。。。つまり神羅万象の動きとは全く関係なく、、人間が個別自由に活動するなどありえないのです。

脳の動きも神羅万象

神羅万象の動きに脳が名前を付けてあたかも独立した者同士、物同士が関わり合っているように見せています、、本当は神羅万象の動きだけがあります、、、そこに脳の機能でそのようなドラマを誕生させてみせたのです。この活動も当たり前に神羅万象の活動です。そしてこの活動の最中は苦しいが湧きます、これも神羅万象の活動です。。。。そしてあまりに苦しい時に、、この活動を見抜いて、、苦しいを終わらせるという活動も起こります、、これを悟り、覚醒、、ノンデュアリティと呼びます。

手に入れた瞬間の安堵感を求めて

何かを得た瞬間、、安堵感が広がる

我々は常に何かを求めます、、異性、お金、地位、名誉、仕事、家族、安定、、、なぜこれらを常に求めるのか???それはそれを得た時の安堵感が欲しいからです。。。????対象でる、、、異性、お金、地位、名誉、、、、、などは実は何でも良くて、、、それを得た際の安堵感が欲しいのです。。。なぜ???それは今が苦しいからです、、、、今苦しから、、、、なんとかしてこれを拭いたい、、、これを拭う唯一の瞬間こそが達成なのです。

そのやり方は疲れる

しかしながらこのやり方は疲れます、、キリがない、、、、生きている間中、、、何かを目指さなくてはならない、、、、苦しい、、、、そうです、、、結局これも苦しのです。。。ということで我々はこの安堵感を目標達成から得るのではなく、、、、ダイレクトにそれを得たい、、、、これが悟り、ノンデュアリティ、覚醒です。

事実をただ理解する

そのためにはどうすればいいのか????事実をただ理解するだけです。。。この世界がどうなっているかに気づくだけでいい、、、何もしなくていい、、、気づきの意識がこの事実に気づくだけでいいのです。。。私ではなく????そうです。私が気づくのではなく、、、気づきの意識が私が居ないことに気づくのです、、そして私が居ないどころか、、、見える世界に広がるあらゆる対象(分別区別)が実は分離していなかったということに気づくことです、気づきの意識が。

私が気づくのではないならば、、不可能???

私が気づくのではなく、、、気づきの意識が気づくのならば、、、不可能ではないか???気づくの意識が気づくの待ちならば、、、こっちは完全な無力じゃないか?????まさに!!!その通り、、、、個人は常に無力なのです、、個人には何の気づきも起こせないのです、、、生まれてこのかた、、、個人が気づくというのは、、現象以外全く起きていないのです、、、全部は気づきの意識が気づいてきました、、、だから今回も気づきの意識の気づき待ちです。

悟りにハマる人は幼少期の至福感を覚えている

私は悟りに魅了されたのか???

私がなぜ悟りに魅了されたかと言えば、、、幼少期の万能感、至福感をはっきりと覚えていたということがあります。何も条件なくただ幸福だったと言う時間を克明に覚えています。だから一般的幸福に興味が持てない、、車、家、立場、家族、地位、名誉、、、では絶対にここに辿り着けない、、、それは最初から分かっている、、、ただそれがどこにあるのかが分からない、、、

ブッダの言葉が刺さる

この世は無常、、、解脱だけが至福に至る道である、、、、いや絶対そうだよね、、、!!!この言葉を待っていた、、、釈迦最高、仏陀最高、、です。自分の中で何かが発火したのが分かりました。この発火は今まで味わったことがない発火、、だがこの個人という感覚が無くなるとは到底思えない、、、だからそこからはスピにハマり個人としての霊的向上にガッツリはまったのです。

霊的向上に努めるが、、、

霊的向上に努めるが、、、どこか焦燥感が抜けません、、、向上した霊魂が取るべき行動は何か???と今度はそこに縛られてしまうのです。解脱はいつか訪れるもの、、解脱に対する関心も落ちていきました、、、ですがノンデュアリティメッセージの五年前ぐらいから触れることで解脱が決して遠い未来に話ではないことが分かります。釈迦、ブッダの言葉が身近な存在から届けられるようになったのです。

ノンデュアリティとは自我研究、自我解放

自我のあらゆる幸福探求は失敗に終わる

ノンデュアリティが自我を解放します、、ノンデュアリティが自我に意識が向かなくなること、これが悟りです。ノンデュアリティが自我に意識をフォーカスする時、、苦しみが生まれます。非二元が二元の世界を体験します。そのためのツールが自我です。真我が二元を体験する時に自我に意識を向けます。意識が非二元ではなく二元を経験する時に自我に意識を向けます。これは至福による苦しみ体験です。よってこの経験は苦しいことが完璧なのです。

自我とは苦しいがデフォルト

私は苦しくない、、私は苦しいを全く感じない、、、嘘です。。この私こそが苦しいを生み出すフックだからです。真我が自我に意識を向けることで二元の世界が起こり、苦しみが湧き出すのです。真我は真我のままでは至福そのものであり、、至福を体験できない、、、自我を通じての至福の再発見こそが真我の目的です。だから自我は真我を見つけるまで苦しいのです。真我が自我に成り切り(意識を集中し)苦しみからの解放を湧き出させ至福への渇望が起き、至福を探し出し、、そうだそもそも真我(至福)だったという気づきを得るのです。

世間一般でいう幸福を手にし全く満たされないことを知る

多くの人が羨むような生活を一度でも手にしてみれば直ぐに分かります、、全く満たされないことが、、、ここでの絶望こそが、、、真我への興味が起きます、、そこにしか至福がないことを悟ります。自分が何かを手に入れるでは絶対にそこには到達できない、、獲得ゲームではない、、、至福とは手に入れるのではなく、、自分を落とすこと、至福が至福であったことを思い出すことしかない、、その気づきが起きます。

決まっている、決まっていない論争

どこを主語にするか、、、

自分という存在が居るという前提話をもっていきますと、、、全ては決まっていません、、その人を通じてただ全体から起こりが起きているだけです。全体から起こりが起こることは「決まっています」。このシステムは決まっているんです。化学反応(全体)から何かが起こることは決まっています。全体が常に揺れ動き変幻自在の現象が起きることは決まっています。個人の立場に立ってみれば次に何が起きるかは全く決まっていません。

自由意志があるように感じることが起きた

コーヒーを飲むぞ、、コーヒーを作った、、そして飲んだ、、、、この流れは完全なる自由意志です、、これを否定できる個人は居ないはずです、、、だからこの世界は苦しみに満ちます。。。しかしながらこの一連の出来事がただ全体から起こったとして誰がこれを否定できるのでしょう。できないのです、、どこまでいってもこれを否定できない、、、

何も決まっていない、、自由意志もない、、

何も決まっていることはなく、、自由意志もない、、、絶望的なこのメッセージが悟り、ノンデュアリティです。個人にとっては絶望的すぎるこのメッセージ、、これが悟り、ノンデュアリティです。ですが見かけ上のこの私はこのメッセージが大好きです、安心します、平和になります、もう戦わなくていい、、安堵感が込み上げてきます、、至福に包まれます。