ドラマ

神羅万象の動きに大脳がドラマを付けた

神羅万象はただ動く

神羅万象はただ動きます、、これだけです、、、宇宙生命体は全てこの神羅万象の動きの中に在ります、、、、ではその中で人間はどのような動きをするのでしょうか????人間も例外ではなく完璧に神羅万象の動きのなかにあります、、、、コーヒーを飲むという動き、思考活動の全て、、、全部です、、、神羅万象の動きそのものです。え????コーヒーを飲もうは、、、自分で考えていますけど????そうです、、その考えも神羅万象の動きです。

神羅万象の動き以外の動きがあったらもうそれは神羅万象ではない

神羅万象が神羅万象であるのは、、、宇宙空間の全動きを支配しているからです、、、神羅万象が支配できていない活動があるならば神羅万象は神羅万象では無くなってしまいます、、、つまり我々人間の活動全て、脳の活動全て、、、は神羅万象の動きそのものなのです。。。つまり神羅万象の動きとは全く関係なく、、人間が個別自由に活動するなどありえないのです。

脳の動きも神羅万象

神羅万象の動きに脳が名前を付けてあたかも独立した者同士、物同士が関わり合っているように見せています、、本当は神羅万象の動きだけがあります、、、そこに脳の機能でそのようなドラマを誕生させてみせたのです。この活動も当たり前に神羅万象の活動です。そしてこの活動の最中は苦しいが湧きます、これも神羅万象の活動です。。。。そしてあまりに苦しい時に、、この活動を見抜いて、、苦しいを終わらせるという活動も起こります、、これを悟り、覚醒、、ノンデュアリティと呼びます。

全ては気づきの意識の中で起きている

気づきの意識の中以外では何も起きない

何かが起きた、、全部気づきの意識が気づいています、、、鳥が鳴いた、、、音を気づきの意識が気づき、、鳥という名前が気づきの意識から湧き上がりました、、それを私が見た、、という気づきが起こりました、、ただそれだけ、、、あらゆる生命現象に、、名前が湧き出すことで、、そこにドラマが起こります、、気づきの意識から、、生命現象も、、名前も気づきの意識から現れては消えていきます。

私が今歩いている

ただ揺れ動く生命現象が起きています、、そこに私という名前が気づきの意識から湧き上がり、、私が歩いているという思考が湧き上がり、、、花、、信号機、、カフェ、、と次々に名前が気づきの意識から湧き上がっていきます、、移り変わる生命現象に、、同時に名前が湧き上がるのです、、、これで私が歩き、、様々な物を見ているというドラマが起きるのです。

公園を歩くだけで

公園を歩くだけで、、、様々な生命現象が移り変わり、、、そこに名前が湧き上がる、、、すると猫、木、子供、老人、、昆虫が湧き上がってきます、、、最初に生命現象だけがあります、、次に「私」、、、猫、木、子供、老人、、、と名詞が付いた独立分別した存在が登場するのです、、、名前が全くついていない生命現象に、、、様々な名前がついた登場人物が登場します、、、

名前が付いたから登場した

名前が付いたから全部登場しました、、この私も、、猫も、子供も、、バッタも、蝶も、、木々も、、花も、、名前が付けられて初めて登場できます、、、気づきの意識が気づけるのです、、、そこに意識を向けることができるのです、、、名前が付いていないものには焦点が合いません、意識が集中できません、、この私が歩き、猫、バッタ、、蝶、、を見ているという錯覚を起こせるのは、、、気づきの意識が私にフォーカスし、猫にフォーカスし、蝶にフォーカスしたからです、、、気づきの意識の中に現れる移りゆく生命現象に対し順番に意識を向けているだけです。そういう意味では何も起きていない、歩いてもいない、、

コンサートに夢中になって行くのは自分を忘れるため

目の前のアイドルに自分を奪ってもらう

コンサートに熱狂的になって行く人はアイドルに自分を奪ってもらいに行くのです。その瞬間好きなアイドルしか見えなくなり、、自分が消滅します、、、自我が消え去り、無我に入り至福に包まれるのです、至福そのものになるのです。そしてアイドルは目の前の熱狂的なファンを喜ばせようと、、自分を忘れ去り、無我に入ります。至福の共演です。

ファンの興奮を永続させる

ジャニーズ事務所がなぜ凄いのか????ファンの期待を裏切らない、、、ファンの心を奪ってあげることに忠実なのです、、定期的にコンサートを必ず開き、定期的に音楽を発表する、、定期的にファンミーティングを開き、定期的にドラマで主演をする、、、、こうやってファンの心を奪い続けてくれるのです。

そうか、、、無我になればいつでも至福に入れるのか???

ですがどこかで人に頼って無我に入ることを諦めなくてはならなくなります、、、なぜならばその興奮が永続するとは限らないからです、、無我に入る対象を仕事に変えればその場で無我に入れます、、もしくはこの事実を徹底的に理解し、、、思考の観察者(無我)になってしまう、、、アイドルに夢中になった状態を覚え、、何にでも集中することで毎日無我に入るトレーニングになります。

全ては自分の鏡

今見ている世界

今目の前に見えている世界は脳内映像です、人間の体をベースに解説すれば我々は人生を通じて脳内映像を見ています。脳内映像を見ているのは分かった、では現物はどこにあるのでしょうか????脳内映像ではなく現物の在り処を教えてくれ、、、、それは目の前にあるだろう、、、その証拠に目の前のコップを触れば確実に感触があるではないか???違います、脳内映像のコップをやはり脳内映像の手が触れて間違いなく感触はあるが、その場所は特定できていません。答えを言いましょう、、全てあなたの体の中に全体そのものがあります。そして全体そのものが脳内映像に映し出され映っているのです。

全体そのものがあなたの中に全部ある

全体そのものがあなたの中に入り込みその映像をあなたが確実に見ています。ですから覚者は悟り「目の前に全てがあった」と話すのです。本当に目の前に全てが映し出されているのです。そしてそこで繰り広げるドラマの全てを全体が回収します。そんなことはない、、目の前で泣き叫ぶ子供の感情は何もこちらは分からないぞ、、、全体が全部回収しているならば泣き叫ぶ子供の感情も分かるはずじゃないか、、、その通りです。全体が回収できない感情などあるわけないのです。つまりその泣き叫ぶ子供は現象に過ぎず、何の感情を湧いていないのです。

人間に感情が無いのならば、、

人間に感情が無いのならば人間関係なんて何も面白くないじゃないか、、、無感情の人間と話していて何が面白いのか???大丈夫です、今までも全く感情が湧いていない人間(現象)と十分やってきました。そしてこれからもそれが続くだけです。無邪気な子供が、、困っている大人の周りで遊び続けることができるのは、、大人の心情を理解できないからではありません、、、大人の中に感情がないことを知っているからです。間違っているのは大人の方です。

1日に何回も目を閉じる、ただそれだけ

目を閉じれば全部が消える

目を閉じれば私が今見ている世界の全てが消え失せます。目の前のパソコンも、カーテンも、観葉植物も、TVもソファーもそして自分も、、、本当にこの世から消えるのです。あるのは何か、それは音だけです、それとソファーに座っている感覚だけです、、、これ以外が本当に消え去ります、これが事実です。もしも目を閉じた状態での暗闇以外に何か物が存在したらこの世界は完璧ではなくなってしまいます。目の前に全てがあるから完璧なのです。もしも目の前(暗闇)以外に何かがあるならば目の前(暗闇)は完璧ではなく不完璧になってしまいます。これが事実です。先ずは事実だと思って目を閉じていきます。

何もない時に至福が襲ってくる

この世界は全部元々至福で構成されていますから目を閉じた真っ暗な状態も至福が構成しています。ならば目を閉じて自分を消してしまえば至福が襲ってくるはずです。いや音がするはずだ、、そうです音がします。それはただの音のみです、人の声がする、、それは声のみです。声を発する人は絶対に居ません、いてしまったら暗闇が完璧ではなくなってしまいます。それは音だけです。そして音を聞く自分も消え失せていますから本当に音のみになります。いや耳で聞いてるではないか???いいえ耳は存在しません、体が見えていないのですから。見えないものは存在できないのです。

至福に入るトレーニングをする

我々は幼少期に喜怒哀楽に入るトレーニングをされてきました、何万回という声かけによって自分が居るという感覚をトレーニングされてきたのです。3、4歳時には完全に自分という存在が湧き起こるようになり、、自分の物を取られた、自分が虐められた、自分が仲間はずれにされた、、と悲しくなるが湧き始めます。。喜怒哀楽のドラマにしっかりと突入していきます。その反対を行います、毎日いつでも目を閉じてこの見える世界を消してしまいます。そして自分という感覚も消してしまいます。音だけが湧き上がる世界にしてしまいます、すると至福が襲ってきます、なぜならばこの世界は至福で出来ているからです。

非二元では混乱する

主体客体

非二元という言葉は分かりやすいようで分かりにくい、、、主体客体の世界、、要は生命現象の中に別々の存在があると信じるか、ないと悟かの話なのです。そうです我々は生命現象に名前を付けるまでは主体客体、「私とあなた」「俺とお前」など一切ない世界に居たのです。これがノンデュアリティー、非二元、悟りです。恐ろしく単純な話です。悟りとはもともと名前がなかったたった一つの世界が広がっているだけ、、に気づくことなのです。

幼児はみんな知っている

名前を覚える前の子供は全員知っています、というか悟りの中にいます、というか悟りしかありません。なぜならば名前がない世界に居るのですから、そしてそこには自分が居るという発想もないのです。これが悟りです。こんな簡単なことなのか???そうです悟りとはこんな簡単なことなのです。悟りを難しく「考える」のは難しく考えないと簡単に見つかってしまうからです。

悟り、覚醒、一瞥体験、覚者

スピリチュアル用語では様々な言葉が使用されますがこれらは全部事実を逆に難しくするのです。こういった言葉を使うことで思考は悟りをどこか遠くの場所に押し込めようとするのです。幼児は全員が悟っていて全く難しいことではない、難しい言葉を覚えて悟りを奥深くに押し込んできただけです。そもそも名前のない世界に生まれた我々はいつでも元の世界に帰れるに決まっています、名前を思い出す前の一瞬は常に根元悟りが広がっておりその事実に触れるかだけです。思考が湧いてきたらそれによってドラマに入っていることを思い出すのです。この繰り返しで人は悟りに戻ります。

経験からしか気づきを得れない理由

実は悟っている

我々は最初から悟っているんですよ、、、スピ系の書籍にはこの言葉たまに登場します。これは事実で我々は景色を眺める瞬間実は何も名前がない世界を一瞬垣間見ます。名前が全く発動しない瞬間があります、これが悟りです。目の前には名前が一切付けられていない根源がそこに在るのです、毎瞬、毎瞬、、実はこの根源を我々は眺めています。ですが次の瞬間には名前がある世界に引き戻されるわけです。五感は毎瞬、毎瞬この根源悟りに触れているわけです。

経験するとは五感のこと

考えていても悩んでいても気づきを得れないのはその行為に五感が関与していないからです。五感がなければ根源に触れることができないのです、根源は五感でしか触れることができません。なぜならば五感は常に根源に触れることができる武器だからです。もしくは五感が無ければ根元は存在できないとも言えます。dont think ,feelこれはブルースリーの言葉ですが根元、悟りは感じるものなのです。

悟りなど大袈裟なものではない

我々人類は悟りをどこか遠い遠い場所にある未知の世界の場所に存在するものだと想像しました、ですがこれも思考の策略、この名前ドラマに閉じこもっているための仕掛けでしかありません。なぜ悟りを恐ろしく遠い場所、究極の境地にしたかと言えばそれだけ実は近い場所にあり誰でもこれは発見できてしまうからです。だからこそ遠い遠い場所にあると思い込ませたのです。実は我々は毎瞬悟りに触れています、そのことに自覚的になるだけです。

名前のない世界から名前のある世界へ

先ずは言葉ありき

イエスキリストは聖書の出だしで「先ずは言葉ありき」と綴ったようです。我々人類は言葉を開発するまでの間何も名前が決められていない世界に住んでいました。鳥も存在せず、虫も存在しない、農作物も、葉っぱも、木々も何も存在しない世界です。いやいや昔から動物、植物は存在していたはずだ、、そうではないのです。現代人が認識する形での固有の存在がないということです。木は土の上に育ちますが土と木という名前がない時代おいてはそれらは一体化しています。ですから木が枯れるという現象も木が育つという現象も古代にはないのです。ただ生命現象が移ろうのみ。

自分すら存在しない

そうだとすると自分は孤独だったのでは???違います。自分という言葉も自分を意味する名前も全くないのですから「自分」が居ないのです。ただ動く手や足があり動く口がある、、しかもそれらにも名前は存在しない、、自分が生きている、、という発想もなくただ毎日が移ろうだけです。自分の餌が取られた、、、こんな発想もない、、だから嫉妬や妬みも存在しえない、、現代人が抱える嫉妬、妬み、嫉みはありっこないのです。我々はには言葉を覚え「自分」と「あなた」という存在をこの世界に作り出し争いすらも発明したのです。

喜怒哀楽という発明

古代人には喜怒哀楽がありません、先ず「自分」という存在がないのですから「自分」が何かを達成した「自分」が失敗した「自分」が恨まれた「自分」が成功したという発想がないのです。このような世界でどうやったら喜怒哀楽が起きるのでしょうか?現代人が抱える感情「喜怒哀楽」は実は言葉の発明後に発達したものなのです。喜怒哀楽はそもそも存在しないのです。

苦しいなら「自分」を捨ててしまう

そもそも自分という存在などこの世にはなく誕生後に学んだアイデアでしかありません。このアイデアによって人生が苦しいのならば「自分」というアイデアを捨ててしまった方がいい、「自分」というアイデアを持ってしまったゆえに不幸になったならば「自分」などない方はいいのです。滅茶苦茶な発想かもしれませんが「自分」などアイデアでしかないのです。

とはいえこの社会で生きるには

とはいえこの社会で生きていくには名前が必要になります、住民票も免許証も名前が無ければ発行してもらえません。ということでとりあえずは名前を保持しますが実際にはこれはラベルでしかないことを思い出すべきです。「自分」も「あなた」もラベルでしかなく完全独立した生命体ではないのです。名前など暫定的に付けたラベルに過ぎないと腹を括ってしまうのです。

名前さえなければ何も起きていない

日本が今年は景気悪化、アメリカが情勢不安、ロシアが外交強化、、、全部これらはラベルに過ぎず、、本当は何も起きていません、、、人類が勝手に名前をつけてこの生命現象に意味をもたせただけです。事実は生命現象が移ろっているだけです。我々は生まれてこの方本当は何も起きていない世界に名前をつけさもあらゆる事象が起きているかのように生きてきました。そしててーへんだてーへんだと騒ぎ立て時に驚き、時に落ち込み、時に喜び、時に悲しむ、、というドラマを演じているのです。

本当は何も起きていない

大きな魚が小さな魚を食べる、、これは事実でしょうか?違います。魚という名前がついた生命体などこの世には実在しません、そこには動く何かがあるだけです、もっと正確に言えば脳内映像が変化しているだけです、、その脳内映像に名前を付けて「大きな魚」が「小さな魚」を食べるというファンタジーを作り出したのです。そしてそのファンタジーを観察して悲しんでみたりするのです。「水槽の中に魚が死んだ」は事実ではありません。事実は「脳内映像が変化した」これだけです。

日本が今混迷の中に居る?

真っ赤な嘘

バブルが弾け日本は混迷の社会に、、、いったい何年間こなんな重いドラマを続けるのでしょうか?答えは何も起きていません、完璧な現象、事実がただ起き続けています。完璧な現象事実に人間は勝手な解釈をしてああでもないこうでもないと思考の渦に入っていくのです、結果重い空気がのしかかり苦しさが湧き上がっていきます。事実は何も起きてなくただ現象が移り変わるのみ、そしてその現象に我々の自我は何一つ影響を与えることはありません、そんなはずはない総理大臣の決定は全国民に影響を与えるではないか?そうではないのです、その決定こそが勝手に根元から湧いてきただけなのです。全てはそうなるように決まっているのです。

先が見えない、、、

先が見えない社会、、、これもとんでもない大誤解、、、先など見えるわけがないのです、自分自身の行動、思考、決定、全てが全自動であり何一つコントロールできないにも関わらずなぜ社会全体の先など見えるのでしょうか。自分の思考はコントロールできている、だからこそ先が見えないこの社会が怖い、、、大きな勘違いです。自分の思考などがそもそも無く、さらにその思考もただ湧いてきているだけ、自分様に起きる結果も全部決まっています。

人生のこの先など一ミリも考えなくていい

老後の心配、年金の心配、体の心配、、、全てが決まり切っています。決まり切っているにも関わらず一体何を心配する必要があるのでしょうか。何も心配することなどない、、逆に言えば心配するというのは自分というものに今後の未来を変える力があると信じている証拠でもあります、そんな力は微塵も用意されていません。絶望的なまでにこの個人には未来を切り開く力など皆無です。答えたただ淡々とこの体を通じて思考、行動が湧いてくるだけです。それ以上も以下もないのです。

私たちが使っている言語はプログラム言語

脳がOSで言語がプログラム、見ている世界が画面

人間は言語を何の気なしに使いこなしていますがこれは実はプログラム言語です。覚えた言語によって実は見える世界が完全に書き換えられていきます。なぜならば我々が見ている世界は脳内で見ていますから言語の介入なしに見ることは絶対にできないのです。価値観というのは実はプログラム言語の集積のことであり見える世界を完璧に書き換えます。そして我々が脳が作りだした視界の中を立体映像として動き回るのです。それによって距離が生まれ、時間も誕生しますが、、、脳内の映像の中を動いているのですから本当は距離などあるはずがないのです。ということは時間もありません。

カラクリが見えてきた

我々が見ている世界は脳内の画像です、そしてその画像は思考、価値観がプログラム化されて完全に書き換えられていきます。本当の事実を我々は見ているのではなく脳内でプログラム言語が構築した世界を見ています。だからこそ新しい経験をすると全く違う世界が広がるのです。臨死体験をすると生に対する認識が変わります、大病をすると体に対する認識が変わります。大金を失うとお金に対する認識が変わります。認識が変わるということは見える世界が書き換えられているのです。

私が居るというプログラム言語が「自分」を作り出した

生まれてきてから7年近くの歳月をかけて「名前」を呼ばれ続け先ずはこの自分が居るというプログラムが構築されました。これによって「自分」と「自分以外」がこの世界を構築します。次々に名前を覚えていくことで名前がつけられた生命現象が分離化していきます。これによって「自分」が見る世界に特定の物や特定の人がたくさん登場するようになるのです。人生ドラマがスタートします。