ドラマ

ストーリーを求めなくなる

映画が面白くない

本質はしっかりと分かっています、ストーリーはイメージで幻想、、本質はストーリーではないことを、、ですから本質に触れる時間が長くなっていきますとドラマ、映画、などなどストーリーに関心が無くなっていきます、なぜならば本質はストーリーではないから、、、ストーリーとは本質の中で作り出された想像物に過ぎません。本質は今この瞬間のみです。

ストーリーの中での喜怒哀楽に共感できない

ストーリーの中で主人公が喜怒哀楽を経験していく、、ですがこれはイメージの世界、、本質ではない、、本質に触れることが多くなりますと、、ストーリー内の喜怒哀楽に共感できなくなります。なぜならばそこに価値を見出せないから。。そしてストーリー内の喜怒哀楽は大勘違いが巻き起こしていますから、、ただの勘違いに見えてしまう、、、本当は全く深刻に考える必要がないのに、、と冷めてしまうのです。

ストーリーの中で幸福になれない

本当はストーリー内では絶対に幸福になれないことを知ってしまったらもう本気になって映画が観れません、、最初はこのストーリー内で幸福になれるのでは??と思い映画がそのまま学びになっていました、ですが今はそれがないことを知っています、、ハッピーエンドは全部嘘です、、、このストーリーがイメージに過ぎず、、このイメージの中に居る限り苦しみが続くことを今は分かっています。そうなりますと、、、ストーリーを本気で追いかけるなど無理です。

これは情報ではない

情報の前の世界

景色が入れ替わった瞬間、、我々は一瞬ワンネスを見ています、、、何かを食べた瞬間、、我々はワンネスを感じています、、、見る、感じるも、、これも二元の世界でのことであり、、、視界そのもの、味そのものになっているのです、、その次の瞬間には、、、あらゆる物が溢れ出し、誰が何を経験した、、というドラマが湧き出します、、、非二元のメッセージは、、その何もない瞬間、ワンネスそのものの瞬間に誘うメッセージです。

情報は新しいレイアーになる

知識を覚えるその知識がその人の中の新しいレイアーになります、、、全く何もない世界に新しい現象を生み出すレイアーになります、、、悟りとは、、、これが全部レイアーであるという気づきです、、、新しいレイアーを構築することではありません。ですが多くの場合、、悟りのメッセージはその人に新しいレイアーを作ってしまいます。

レイアーをレイアーと見抜く

悟りとは、、、全ての情報がどうやってこのレイアーになりうるかに気づくことです。。。名前を覚えるとそれがこの現象界に出現する、、、この仕組みを理解しますと、、、、もう今までのように目の前の出現に緊張しなくなります。。。だってただの現象に対してイメージを重ねているだけですから。。。この人は有名人なんです!!!と紹介を受けても、、、というイメージがついた人というイメージだという気づきがあります。。これで終わりです。イメージを本質と勘違いし、、そのイメージの中で本質(絶対幸福)を見つけようとする試みが苦しみを生み出します。

言われてみれば、、

おかしな話

言われてみればです、、、心臓も腎臓も、細胞の全てを全くコントロールできていないにも関わらず、、この体の持ち主をこの自分であるとお見込むのは全くもっておかしな話です、、、細胞の一つでも活動をコントロールできていないこの主人は何をどうして、、この体の主人を気取ることができるのか???へんですよね、、そして主人を気取った連中同士が主人関係を結んでいるだけ、、、おかしい、どう考えてもおかしい。

細胞の一個もコントロールできていない

細胞の一つもコントロール出来ないにも関わらず我々はこの体の主人になりすまし、、所有権は私にあると宣言し、活動をしています、、、本当は誰一人思考、行動をコントロールできていない、、ただこの体、思考、行動の全所有権は「私」が持っているという思考が湧いているだけ、、なんという面白いこの主人関係は、、究極の勘違いをベースに関係が築かれていく、、、

万事全ては上手くいっている

何一つ誰もコントロールしていないにも関わら全部の人間活動、このドラマは確実に進んでいきます、、、夢の中で、、、ですがこの夢は完璧な動き、真我の動きで運営されていますから何も問題がないのです、恐ろしいほどに問題がないのです、、マザーテレサを動かす動きも、、犯罪者に犯罪を起こさせる動きは全く同じ真我の動きです、、、どうして問題が起きるのでしょうか。。

経験を作りだす存在

見えるという経験を作り出す存在

花をみれば花がそこにあるがわかります、、この経験を作り出しているのは誰でしょう、、この経験、、この経験を作り出す存在が私です、、、TVを観て大笑いする、、この経験を作りだしているのは誰でしょうか??これが自分です。この体だけではTVを観て大笑いすることはできません、、TVがあって、見る人間がいて、その画像の中に芸人が居て、、、この条件を揃えた存在こそが自分です。経験を作り出すエネルギーです、、

花を花たらしめ、この体をこの体たらしめ、、

花を花たらしめ、この体を体たらしめ、、花を見るという経験を経験たらしむこのエネルギーこそが自分です、、これは夢であり、、夢の中の登場人物も、、その中で起こるドラマ、経験、心情、衝動、情動、、、全部が全部同じエネルギーでできています、、その全エネルギーが自分です、、そしてそれに気づいているのも自分です。全く何もない場所でこの全てが行われている、、この何もない場所も自分です。

これは夢

これは完全に夢です、、今目の前にドラマが起こっているならば完全な夢です、、一切合切が完璧一つのエネルギーで構成され、、経験が起き上がります、、夢です、、、夢であることが完全に腹落ちしたら、、もう深刻になれない、深刻になれない夢ならば、、いっそ覚めてしまった方がいい、、夢から覚めるときはいつもこんな感じですよね、、あれこれって夢かな、、からの目覚め、、、真剣に真剣に夢に没入しながら突然覚めることはない、、

エゴが一番恐れていること

動きを俯瞰されること

エゴは実は存在しません、、ですからエゴの動きに対し無意識であることがエゴ存続の絶対条件になります、、そうなりますとエゴにとって一番の脅威とは、、エゴの動きを俯瞰されてしまうことなのです、、、気づきとはその動きを俯瞰してしまうことです、、、究極のい気づきとは何か?それはエゴ、自我の動きを完璧に俯瞰してしまうことなのです。

エゴはエゴの動きに無意識だから存続している

エゴは実は実態がないのですがそこに気づかれてしまったらもう終わりです、エゴの終焉です。ですからエゴは常に無意識化で動きを起こします、、、そのために思考に取り込み、、思考していることすら気づかない状態を作ります。。。自身がどういった行動を取っているか気づいてもいない状態がエゴ最高の状態なのです。だから「あなたは無意識にこういった行動を取っているよ」という俯瞰をエゴは恐れるのです。エゴの動きを俯瞰する存在とは無我、気づきの意識、ワンネスだからです。

本当は居ないのに、、、

本当は居ないにも関わらず自分が居るという大前提の大ドラマをやっているのがエゴです、、ここを見抜かれてしまったら、、、もう大ドラマに没入できない、、これはエゴにとって一番恐れていること、、エゴの終焉はこのドラマの終焉です、、そこでエゴはエゴに対し無意識の行動を他人から発見されるのを恐れます、、、せっかく無意識で活動できていたのに、、意識的になったらエゴは存在を維持できないからです。本当は居ないのですから。

雲は動く

雲の中に個人は居ない

雲の中に鳥のような形が生まれます、、この鳥はいつの間にか生まれいずれ無くなるでしょう、、形の崩壊です、、、、この鳥の誕生と消滅には意味があるでしょうか??ありません、、、この雲の動きには狙いがあるでしょうか?ありません、、、雲の動きは森羅万象の動きでしかない、、そこに鳥が生まれ、人間が生まれ、、ドラマが生まれる、、、これも森羅万象の動きでしかありません、、、ドラマに没入するのも自由、ドラマと見抜いて没入から離れるのも自由、、没入は疲れる、、非没入は疲れない、、、ただそれだけ。

今目の前にも、、、

今目の前にも、、、ドラマが起きてますよね、、、完全な森羅万象の動きに、、、勝手にラベルを貼り付け、、、共有した意味を持たせ、、、ドラマを共同で作っていますよね、、そこに没入すれば疲れ、、没入から離れれば疲れない、、、、ドラマに埋没すれば楽しい時もある、、、ただ疲れる、、、ラベルを剥がしてしまえば、、森羅万象の動きに戻ります、、、意味を持たせるにはラベルを貼ってドラマにするだけ、、

この現象は雲よりも動きが遅いだけ

我々が見ている世界は雲よりも動きが遅い現象です、森羅万象の動きです、、、雲の動きに後悔や心配は起きないのは、、雲だと見抜いているからです。。。。我々の動き、、、もただの森羅万象の動き、、時計もコップも、、実はゆっくりと動いている、、、心も動く、、、我々の活動、我々を取り巻く環境も雲のように動くのみ、、何を心配し、何を後悔するのか???何一つこの動きをコントロールなどできないのに、、、

現象の動き(色)に気づくには、、動かない存在(空)が必要

動き続ける現象界を感じる

鏡を見てください、、、もしも鏡の中の映像が動けば気づきますよね、、それは鏡を見つめる動かない存在がいるからです。これと同じでこの現象界の移り変わりに気づくには、、移り変わらない存在が必要になるのです。そうです、、そして我々は日々この移り変わる現象に気づき続けています、、そうです、、、色を生み出す空なのです。

スクリーンは真っ白だから映像に気づく

スクリーンは真っ白だからこそ、、、スクリーン上の映像に気づくことができます、、、空とはスクリーンのこと、そしてそこに映る映像こそが色、現象界です。この現象界を「私」が見ているというのは完全な錯覚、、そうではなく空としてこの色の動きを感じているのです。朝起きて何が起きるのか、、空即是色がスタートします、、、この体も現象、この体が何かを見ているというのも現象です、、全てを包み込む空があります。

マインドはただ否定する

マインドはこれを否定します、、、マインドはこの体を所有する「私」がこの現象の世界を五感を使って生きていると真剣に信じています、、、ですがそれはないのです、、そう思い込む思考がただ全体、空から現象として(色)起きるのです。そうです、このマインド主体のドラマも色としてしっかりと起きているのです、空から。これが良いとか悪いとかは一切なく、、ただその現象が起きていま。

苦しいに「私」をくっつける

苦しいがただ起きる

痛いがただ起きます、、そこに「私」が痛いのだ、、、という思考が湧きます、、、こうやって人間ドラマが続きます、、、、暑いが起きます、、、そこに「自分」が暑いのだという思考感覚が湧きます、、、これでドラマが進んでいきます、、、、夜寝ている時の悪夢を思い出してみてください、、、ストレスフルな日常の時には悪夢をみやすい、、、そうすると、、その登場人物が辛いというドラマが展開しやすいのです、、、つまり湧いてくる感情に、、「私」をくっつけているだけなのです。

苦しいを苦しいで終わらせる

苦しいが湧いてきても、、、、なぜ私が苦しのだ???私を苦しみているのは誰だ???に持ち込まない、、これをやると、、、あいつのせいだ、、、こいつのせいだ、、、どうやって仕返しをしようか???になっていきます、、、、そうではなく、、、ただ「苦しい」が全体から湧いてるなーと観察します、、、、するとこの苦しいは消えていきます、、、そこに主体客体のドラマをくっつけないのです。主語としての「わたし」をくっつけないのです。

「私」が苦しいとは何事だ????

なんかモヤモヤする、、、、「私」をモヤモヤさせたのは誰だ????あいつだ、、、、どうしたらいいもんか???こうやって人間ドラマは喜怒哀楽劇場化していきます、、、、、モヤモヤする、、、、が全体から湧いてきたことを、、、に気づきます、、、そのモヤモヤは神羅万象のただの動きです、、、ここを理解します、、、「私」を無視します、、、、すると私が居なくなります。。。

被害者に甘んじるのではない

自分という機能として、、、、自分の目的を邪魔する存在を避けるのは何も問題ありません、、、、仕事の邪魔をする業者がいれば、、、避ける、攻撃する、、は当然やるべきです、、、、、重要なことはそこに感情をくっつけない、、、感情+自分という自分劇場に持ち込まないことです、、、機能としての「私」「自分」は淡々と機能を遂行していきます。そしてその動きも神羅万象の動きです。

私は在る、、以外は全部観念

この意識以外は観念

気づきの存在、私は在る、、、というこの感覚以外は全部観念です、、、あらゆる思考は全て観念です。この体の中に自分が居るという大前提での思考は全て観念です、、、この神羅万象は私は在るの中で繰り広げられ、、人間ドラマを作り出しました、、、、そのドラマに気づき続ける存在が私は在るという気づきの意識です、、、本来はたった一つのエネルギーが神羅万象として動き続けるだけです。

人間たるもの、、、

人間たるもの、、、法律はしっかりと守った方が良いよね、、お金のことはしっかりした方が良いよね、異性問題はトラブルよね、、、全部観念です、、神羅万象の動きの一つです、、、そこに良否、善悪、優劣は一切ありません。人間という個別分離した存在はそもそも居ません。ですから人間が居るという大前提の思考は全て観念です、真実ではありません。ただしその観念も神羅万象の一つです。

観念に良否はない

神羅万象の動きである観念に良否などは全くなく、、、ただ動きとしてあります、、、そしてそれらの全てじが観念であることを見抜き、、自己の不在を見抜き、、自分は誰かに迫っていきます、、、この人間ドラマの夢から醒め、、私は在る、、、に戻る、、、これだけが真の目的です、、、、ですがその動きがいつ起きるか???それすらも神羅万象の動き次第、、そこに関われる自己はいません。

ノンデュアリティがデュアリティを作った

この世界はノンデュアリティそのもの

この世界はノンデュアリティそのものです、、、もしも大脳が破壊されてしまったら、、、一瞬でノンデュアリティそのものの世界に入れます、、つまり独立分離した物など本当は存在しないということです、、言葉によって、そして記憶によってこのノンデュアリティの世界が独立分離しているように見える世界に七変化しているだけです。ということでこのデュアリティの世界はノンデュアリティから急遽出現した脳によって七変化したように見えている世界だということになります。

言葉とは音と記憶のこと

相手が「ありがとう」とこの自分に言った時になぜそれを認識できるかといえば、、、、音を察知し、、それを瞬時に記憶していったからです、、、これは大脳が発達していなければ絶対にできません。。。。この音と記憶によってその言葉が聞き取れ、、人間ドラマに入れるのです。本当はこの一瞬しかない世界に、、連続性があるかのような錯覚を作り出したのです。記憶と言葉によってこの瞬時に現れる現象界に、、、独立分離したような錯覚物を作り出すことに成功しました。

デュアリティの世界に疲れたら、、ノンデュアリティに戻る

デュアリティの世界が疲れるのは、、ノンデュアリティが、、デュアリティという仮想空間に閉じ込められてしまうからです。ノンデュアリティという生命そのものが、、仮想空間に閉じ込めらているという感覚が苦しいのです。閉じ込められてしまったのですから、、閉じ込められてしまった原因をしっかりと把握し、、無意識に閉じ込められないようにするしかありません。