ゲーム

「最初から全て決まっている」染み込み

何十年間の癖を抜く

私たちは生まれてこの方、、何か悪さをすれば「なんでそれをやったの?」「どうして言いつけを守れないの?」「本当のことを言いなさい」とその決断をした「自分」と「決断」を責められ続けてきました。結果「自分が居る」という思考と「その決断を自分がしている」という思考が日々湧き続けるゲームをしています。周囲からのそれらの呼びかけはこの思考を強く強くさせていったのです。この現象が日々起き続けていきます。ですがこの「自分が居る」という思考に縛られ続けている限り真の幸福には絶対に出会えないことも分かっています。

染み込み続ける

決断する自分が存在せず、湧き上がる思考もただ湧いているだけ、、結果も思考も最初から決まっていてそこに自分は全く関与していない、、この事実をいきなり頭に入れても腹落ちするわけがありません。このメッセージを聞き続けこの事実を染み渡らせていくほかないのです。全部自分が決めているから全部最初から決まっているへのシフトです。このトレーニング、染み込みが必要になります。昨日なぜあんな失敗をしてしまったのか???と悩みが湧いてきた瞬間に「違う、最初から決まっていたんだ」これをエンドレスに続けていきます。

失敗そのものが脳内映像

友人を傷つけ泣かしてしまった、、、なぜあんな酷いことを言ってしまったのか???違います。泣いた相手はあなたの脳内映像でしかない、泣き声もそう聞こえるだけ、、、事実は泣き叫ぶ友人の操縦席には誰もいない、、ただその現象が起きているだけで傷つけた自分も実はいない、、、この事実確認をエンドレスで行っていきます。するといつの間にか「なぜ」という後悔が湧かなくなっていくのです。

景色が重いならば思考の世界に入っている

この完全な世界に

この完全な世界がもしも重く映っているならばそれは思考の世界に入り込んでいるからです。自分という存在を圧倒的に信じその自分を幸福にしようとうするゲームに入り込んでいます。この場合はこの自分は全く幸福になることがなく浮き沈みを繰り返していきますから地獄の世界に突入します。この自分が居るいう大前提こそが=地獄なのです。サーフィンをしている時、美味しい料理を食べている時、音楽に浸っている時、、、自分など絶対に居ないはずです。ほとんどの時間自分など絶対に居ないはずなのになぜかこの自分を強く意識この自分を損させないようにするから重くのしかかってくるわけです。

自分が居るか白黒つける

美味しい料理を食べている時、その時に在るのは、、食感、味覚、嗅覚、喉越し、視覚のみです。自分など全く居ません。友人と話をしている時、友人の映像、声、匂い、触覚のみです、、そこには自分など絶対に居ません。スポーツをしている時、、、ボールの感覚、ぶつかる体の感覚、芝生を踏み込む感覚のみ、、そこには自分など絶対に居ないのです。いつ自分というものが現れるのでしょうか?????そんな瞬間は生まれてこの方あったことがないのです。

自分というものが絶対に居ないことが分かったら

自分を見つけることが出来なかった時、絶望が湧いてきます。自分を見つけることが出来なかった時にその絶望はどこから湧いてくるのでしょうか?自分ではありませんよね笑そうです根元からです。自分を見つけることができなくて自分から絶望が湧いている思ったらこれはギャグです。自分を見つけることができないのならば次に湧いてくる思考はどこから湧いているのでしょうか???そうです、根元です。これがこのトリックの見破り方です。

目の前の不幸人は誰?

目の前に重篤な病人にが居ても、、、

目の前に重篤な病人、大借金を抱えた人、失業に失業を重ねホームレスになった人が居ても、、、あなたは何も同情する必要はありません。そのように映るその人はそのようになるように最初から完璧に設定されて居たののです、宇宙の采配には一切のミスがありませんからそうなるように全て決められていたというだけです。そしてその人々がさぞ辛いだろうというのはあなたの中に湧いてきた想像、思考でしかないということです。騙されないでください、、辛いだろうはどこまでいっても思考なのです。「辛い」という事実はどこにも起こっていません。

何も解決すべき問題はない

目の前にはただ完璧な現象が起き続けています、この完璧な現象に人間様が関与できることなど一切ありません。いかにこの完璧な現象が不完璧に見えてもそう見えているだけ、宇宙の采配にミスなどおきようがないのです。その采配に対し自分はああだこうだと嘆き悲しみますがそれは思考という想像上のことです。事実は全く何も関係がないのです。事実は完璧に目の前で現象化し続けています。

ホームレスも、大病人も、、、

ホームレスも大病人も完璧にその姿をあなたの目の前に映し出しています。ホームレスの財布の中に1億円の現金があることもなく、大病人がオリンピックに出たら金メダルを取ったということも起きません。このゲームは完璧にその緻密さを奏でています。その緻密さ精巧さこそがこのゲーム、現象の素晴らさであり、、目の前のホームレス、大病人をみて悩み苦しむのは傲慢な自我あってのことです。本当はその自分すらどこにも居ないというのが事実です。

ただ事実だけを見てみる

「私は居る」は想像

我々人間は多くの時間を想像に費やします、私が居る、友人Aは悪い奴だ、学校の先生Bは優しい人だ、私の親は何も分かってくれない、、、これらは全部想像です、、、先ず「私」は想像物です、そして友人Aも体は実在しますがその中居るはずのAは想像の域を出ません、学校の先生も体は実在しますがその中に居るはずのBは名前であって実態を証明できません。私の親にあっても体は実在しますがその体の中に親の自我を見つけることは不可能です。想像物である「私」とこれまた想像物である「A」「B」「親」との関係もこれまた想像でしかありません。この想像上の人物同士の関係について悩むという思考が湧いていて苦しんでいるのです。

人間関係が苦しいのは実態がないから

職場では人間関係だけが苦しい、家族でも人間関係だけが苦しい、親との人間関係だけが苦しい、、、この苦しさは全て想像上の想像物の関係性から生まれています。体は間違いなくありますがその中に「自我が在る」というのは間違いなく想像です。間違いのない想像物同士の関係は事実とは無関係のフィクションですからこれは苦しいのです。事実とは根源であり、根源から湧き上がる想像物の中に入り込んでいけば苦しさが根源から湧いてきます。

苦しいのが好きならば

苦しい思いをしたいのならば徹底的に人間関係の中にどっぷりと浸かってみてください、想像VS想像の世界は思考の駆け引きが起こり苦しさマックスになっていきます。人間関係の中に飲み込まれても決して思考を野放しにしないことです、あいつはこんなことを考えているのでは?あんな悪巧みをしているのでは?腹の中では実は自分を嫌っているのでは??このような思考の波に飲み込まれないことです、感じたら感じ放し、湧いたら湧き放し、、人間関係が至福に誘ってくれることはなくそこに期待しないことなのです。そうではなく事実に徹底的に向き合うことこそが至福への入り口であることを悟ることです。

事実とは

事実とは体の五感です、そこに人が居るのを感じる、そこに音楽が流れているのを感じる、そこにスポーツ中継があるのを感じる、食事を感じる、仕事を感じる、、、人間の面白い会話を感じる、、ここに徹底的に向き合うのです。この向き合う先に思考ではない本当の至福があります。人間という思考上の幻想ゲームにのめり込むのではなく五感にのめり込んで行く、、感じるという事実に徹底的に向き合うことで常に根源に触れ続けるのです。

観念が簡単には変わらないメリット

観念が現実を作り出し見せてくてる

観念が簡単に変わってしまったら、見える世界が簡単に変わってしまいますから混乱します。簡単には観念は変わりません、だからこそ多くの人は同じ世界を日々体験しているのです。毎日全く違う世界が広がっていたら人は混乱します。観念が簡単には変わらない=見せる世界も変わらない、、だからそこに集中して取り組めるという話です。

現実という鏡、投影を見て自身の価値観を知る

この世界は大きな神が小さな神体験をする世界です。人間という小さな神がその価値観に則った世界を生きています。小さな神である理由は価値観、観念が変わると見える世界も変わってしまうという変幻自在の世界に生きている、価値観を決めるのは小さい神こと「自分」です。これが小さい神体験です。価値観が変われば世界も変わり経験も変わる、、これを大きな神はやってみたかったということです。

小さい神体験

大きな神は小さい神体験をすることで神が神のままでは体験できなかったことを体験することができるようになりました。大きな神はこれによってあらゆる思考、感情、経験を積むことに成功したのです。だからこそ簡単に悟りを開いてゲーム終了など絶対にありません。簡単にゲーム終了ならばこの小さい神体験を構築した意味がないのです。大きな神は間違いなく小さい神体験を全部体験したいはずです、全部の感情、全部の思考も含め。ということで諦めるしかないのです、楽しいことだけして死ぬことを。

夢を見ている自分の不在

何かに夢中になる時、自分はいない

本当に自分っていつも感じているのでしょうか?そんなことは全くありません、日常生活の多くは自分は不在しています。料理を作り時に本当に自分はいるだろうか???いないはずです。料理を作る自分っている意味がないんですよね。自分なんて必要ないんです、ほとんどの場面で。ですがあらゆる物事が起きた後に自分が突然現れて自分にとってこれって良かったのか?自分にとってこれは有りか???と突然出しゃばってきます、、そしてこの出しゃばりが苦しみを生み出すのです。

自分なんて実はほとんど居ない

自分というのが居るという大前提で多くの方は過ごしていますが、、、自分を常に意識してなんて物事を進めることは不可能です。むしろ思考が湧いてきた時に自分を思い出しているはずです。時間が腐る程余っている人ほどに自分は頻繁に出現するでしょう、そしてそれに自分は安心します。ですがその状況こそが苦しい時間だったりすることを本質は分かっています。だが自分を消え失せることも苦しい、、自分を永続させたい、でも苦しい。

自分なんて存在しなくても全部うまくいく

自分という存在を意識しなくても物事は全部うまくいきます、むしろ自分という存在を忘れている方が上手くいきます。ですがそれでは自分が納得しない、、自分は消えてなくなってしまします。なんとかしてこの自分が価値があることを証明したいのですがそこを主張すれば主張するほどに苦しくなります。でも自分を捨て去るなんて冗談じゃない、、これが人生のパラドックスです。でもはっきりといえば自分など消えて無くなれば全部うまくいきし楽で楽しいのです。この自分というアイデアは自分ゲームを味わうために誕生した概念でしかないのですから。

目を閉じれば「我在り」が広がる

この幻想ゲームを見抜くのは難しい

目を閉じると「我在り」この感覚だけが続いていきます。そして目を開けると、、視界にはこの体を中心にした世界が広がる、私と私以外の世界、、、完璧にそう見える。だから人は死ぬまでこれを見抜けません。ただ目を閉じれば常にそこには「我在り」だけの世界が広がります。そしてその上で何か音が聞こえたり、人の気配がしたらい、香りがします、、、「我在り」の世界の中にそれがただ起こります。

この幻想の世界に疲れたら

もしもこの幻想の世界に疲れたら、、、目を閉じて「我あり」の世界に入り込みます。自分というこの体を消し去ってしまい「我あり」の世界に入ります。それでも思考は湧いてくるでしょう、それでも感情は湧いてきます、、、それをそのままにしておきます。我在りの世界の中で沸かせておきます、湧いては消えていきます。音が聞こえます、それも消えます。人の気配がします、それも消えます。「我在り」の世界の中でただあらゆる現象が起こっては消えていきます。

「我在り」の世界すらも幻想

本当のことを言えば我ありの世界すらも空、絶対、無からの現れです。そこから我在りという感覚が永遠に続くだけです。我在りはその他の現象とは全く異なるのはそれが永遠で在り永続だからです。そしてその「我在り」という感覚は絶対、空の影、反映です。その存在に入ること、その存在に馴染むこと、、それが真の悟りです。

最後はテクノロジーが人間を解脱させるのか??

テクノロジーの進化が解脱を生み出す

マトリックスという映画の大成功、ポケモンGOなどのリアリティーを取り入れたゲーム、バーチャルリアリティー、グーグルグラス、、、、あらゆるテクノロジーが人間というシステム、脳が作り出している世界に類似した世界を作り出します。テクノロジーが脳の機能をまるで模倣しているかのようなゲーム、ソフトが日々誕生していきます。悟りの学びをしてきた人間からするとこれってもう答えだよね、、という驚きです。

今までも人間を驚異的に変えたのは技術

考えてみれば産業革命が起こり人間の生活は圧倒的に変わりました、そして次が今起こっているIT革命、そこからのAI革命、、恐らく今回の技術革新は人間を悟らせる、解脱させるとこまでいくのではないか???そんな感覚を強烈に覚えます。バシャールが言うにはテクノロジー改革はハイアーマインドの物質化とのこと、、これも理解できます。オーバーソウル、集合意識との繋がりが強固になってくるとそこから情報が降りてきます。自我という思考の分断が緩めば全体との繋がりが強固になります。IT革命は人間としての生活を大きく変えていきますから自我の緩みを生み出す可能性があります。

悟り、ノンデュアリティがYahooニュースに載る時代が来るかも

YOUTUBEの視聴回数などを見ていても悟り、ノンデュアリティに関する動画の再生数はそれほど多くはありません。まだまだ世間のこの分野に対しての理解は少ないようです。これからどれほど技術が進みこれらの分野に対する関心が増えていくかが楽しみです。

人間GOからの脱出

人間は人間GOから脱出できるのか???

ポケモンGOの良いところは飽きたら一瞬で辞めることができます、ですが人間GOは同じように辞めることができません。人間GOは飽きても、苦しくても、辛くても終わらせてくれません。これこそがこの人間GOの本当の恐ろしさです。人間は人間GOがしんど過ぎても、、死ぬのが怖いのです。これぞ八方塞がり、これぞ七転八倒、、、人間GOは本当に恐ろしいゲームです。

だが人間GOは見破ることができる

人間が人間GOを辞めることができないのは、、このゲームの仕組みを知らないからです。知らないから死ぬのが怖い、老後が怖い、人生が怖い、、、この順です。ですがこの人間GOの仕組みを理解してしまうと、、、我々は死ぬことができないことが理解できます。この体が死んでもこの意識、「私が在る」という絶対的意識は消えないことが腹落ちできます。人間GOを楽しくやるコツは人間GOのカラクリに気づいていくことです。カラクリの気づき方は百万通りあります。このブログもその一つです。

他人を見て人間GOを理解する

この人間GOの面白いところは、、、ゲームの中に同じような境遇の人間がたくさんいます、みんなこの人間GOをプレイしています。どんな人がこのゲームを楽しみ、苦しんでいるかが一目瞭然で見えます。ここはポケモンGOとは全く違うのです、ポケモンGOは敵しか出現しませんが人間GOは敵が実はいないのです。敵を作り出しているのは自分の価値観です。そう思えば人間GOは平和なゲームです。

人間GOの問題点

問題を解決しても満たされない

ポケモンGOにおいて最初のモンスターを倒したらもう満足、あとは何も倒したくない、、、こうなってしまったらゲームが成立しません。人間がポケモンGOを楽しむわけですが人間とは目の前のモンスターを倒してもお腹いっぱいにならない生物なのです。目の前のモンスターを倒したら次々に他を倒したい、、倒した快感は一瞬で過ぎ去ります。これが人間の面白さでありかつ大変さです。

人間GOでもこれは同じ

ポケモンGOをやる人間は次々にモンスターを倒したいという衝動があって成り立っています、このことに人間は気づきません。一体何匹のモンスターを倒せば気が済むのか???答えは何匹倒しても気が済まない、、倒すのに飽きるまでこれが続きます。お腹いっぱいになるからゲームを辞めるのではなくゲーム自体に飽きるから次に行くのです。これを人間G Oでもやります。人間GOも次々に目の前の問題を解決していきます。ですが一切お腹いっぱいにならないのです。

しょうがないから問題を無理くり作る

人間GOにおいてモンスターは出現しませんが、、お腹が一切満たされない人間は問題を無理くり作り出し、これを解決して生きていきます。友人グループによくある出来事ですが、、誰かを必ずヒールにします。あいつのあの行動は問題だ、、そしてそれをみんなで話題にして解決を図って遊んで行くのです。何人か人間が集まれば必ず誰かが問題児扱いされそれを話題にして解決を図ります。こんなことを職場でも家族でも芸能界でもやっています。モンスターの代わりに問題を創造するのです。その土台になっているのが価値観というプログラムです。

価値観(プログラムの集積)越しに世界を眺めるから問題(モンスター)が出現する

そろそろクライマックスになってきました。ポケモンGOではモンスターが分かりやすく出現することでそれを倒して人間はゲームに興じます。人間GOでは価値観というプログラムの集積が本質の世界を独自の世界に変化させ問題に映るように作り出すのです。そうです、価値観というフィルター(プログラム)が問題(モンスター)を創造するのです。何もないたった一つのエネルギーが人間の価値観(プログラム)にかかれば独自の世界、独自のモンスターを創造しそれを解決して一瞬お腹を満たしているのです。これが人間GOのネタバラシです。