エージェントスミス

ああ、そうか

何が起きても「ああ、そうか」

有名な白隠禅師は何が起きても「ああ、そうか」で片付けたそうです、、このエピソードはこの世界が実は幻想、夢、イリュージョンであることを見抜いた発言であることは容易に分かります、、多くの方は何が起きても深刻に捉えます、、なぜならば、、、これが絶対的現実であると信じているからです、、ですが白隠禅師は夢だと見抜いていた、、、この認識の違いは全く異なる行動を生み出します。

絶対的現実と信じれば

これが絶対的現実である、、これが多くの方の信念です、、、この信念、観念はこのたった一つエネルギーをそう見えるように導きます、、、このたった一つのエネルギーが分離独立し(イリュージョン)それが現実であるように見えるようにイリュージョン化します。つまりTVゲームをやっている際にこれが現実だという信念が生まれますと、、そのゲームが益々リアリティーに見えるようにイリュージョン化されるということです。最初はただのマリオカートが、、、あまりにこれを現実を信じるあまりに、、マリオカートが現実であるという勘違いが起きるようなゲーム設定に切り替わっていくということです。するとゲーム中のプレイヤーにこれはゲームだよ(幻想)だよと言っても、、全く理解が起きない、、さらに、、幻想だよと言ってくれる人間(幻想)も現れなくなります。

夢だと気づき始めると

夢かも、、、これが観念の中に定着しますと、、、夢かも、、、が証明されるようなメッセージが多く起こるようになります、、そしてこれは夢だ、、という気づきが起きますと、、もうこの夢が現実だという誘いも起きなくなります、、、、エージェントスミスが、、ネオに「あなたの見ている世界は現実だ」という誘いをしていたのが、、完全な気づきが起きればもう起きません、、なぜならばその誘いは、、自身の観念こそが起こしていたからです。

筒人間ならば野生動物と同じではないか???

その通り

人間がただの筒で、、全体からの起こりを通すだけの存在、、言動全て全体からの起こりを通すのみ、、だとするならば、、、意志を持たない野生動物と同じではないか????意思を持たない昆虫と同じではないか???その通りです。全くもってその通りです。人間の方が昆虫よりも優れて、、、全体の表現、アートに、、優劣などあるわけがないのえす。人間も野生動物も昆虫も自由意志など一切なくただ全体の起こりを表現しているのです。

それが素晴らしい

自由意志がなく、、ただ全体からの起こりを全現象が表現しています。ここに「自分」が居るという思考が全体からやはり起こることで、、自分劇場がスタートします。この「自分」はあらゆる経験をかき集め、あらゆる知識をかき集めることで、、価値観を形成していきます、、、この価値観は記憶ですから、、全体、空に収められていきます。そしてこの価値観を通じてこの現象界を眺めることで、、、エネルギー、生の揺れ動きの中に別個分別しているかのうように見える存在(現象)が現れるのです。

価値観を通じた現象に善悪はない

「自分」の価値観を通じた現象に善悪は全くありません、、ですが「自分」にとっての善悪は存在します、自分にとっての良否は存在します、自分にとっての優劣が存在します。これが分別です。この分別で周囲を縛り自分を縛ることでこの自分劇場は生き辛くなっていきます。よくわかんないけどなんか生きるのって辛いよね、、になります。

価値観分別劇場

この世界、価値観分別劇場から離脱するためには、、本当は何が起きているかを知って触れるしかありません。価値観分別劇場の中で真実にもう一度触れて、、真実を思い出すしかないのです。マトリックスの中でNEOは徐々にこの気づきを得ていきます、現象(エージェントスミス)に何度も取り込まれそうになりますが、、その中でも徐々に真実を発見していくのです。

私以外の全ての人間はエージェントスミスになってしまう

周囲の人間関係は全部エージェントスミス

エージェントスミスとは映画マトリックスで主人公NEOを攻撃してくる適役です。彼らの真の目的はNEOを覚醒させないこと、、NEOをNEOの体の中に閉じ込めておくことです。NEOが覚醒に近づけば近づくほどに彼らは束になってそれを阻止しようと企てます。この体の中に「私」が居るというのは全体の大いなる勘違いなのですが、、この勘違いを引き起こす大きな要因が周囲の人間関係です。周囲の人間はこの体に向かって間違いなく話しかけています、この体の中に「私」が居るという前提で話しかけてきます、、すると思わず全体は「私」になり切って話をするわけです。私に成り切る千本ノックが始まります。星一徹ばりの猛練習です。

話かけられると全体から「私」に戻る

我に返るとは面白い言葉で何かに集中してうると我を忘れて物事に打ち込んでいます、この我を忘れるというのが全体に帰っている瞬間です、、ところが人から話しかけられると、、、「私」に瞬時に戻ります。我に返ります。周囲の人間関係はどうしてもこの作業の連続になります。集中して小説を読んでいたら「お客様、ご注文は何にしますか?」で我に返ります。集中して映画を見ている時に「ピンポーン」のチャイムで我に返ります。本当の私は全体なのだという感覚が芽生えてきますと、、「我に返る」のが面倒になります、我に返る苦しさを強烈に感じます、、人間関係こそ苦しさの原因であることを悟ります。

では人間関係から逃げるのか???

では人間関係から逃げるのが正解なのでしょうか??違います、、人間関係をエンタメに変えてしまうのです、人間関係を遊んでしまうということです。周囲の人間はこの体の中に「私」に話しかけるというお遊びをしかけてきていると捉えます。その瞬間私を演じて楽しむのです。人間関係とは所詮3D映像同士の戯れ、蜃気楼同士の遊び、と感じていきます。その関係の良し悪しは絶対幸福、至福とは何も関係がないことを悟るのです。帰る場所は全体です、ここを強烈に意識します。我に返るのではなく全体に返るのです。

「悟り」と「自分」の綱引きに勝つ

五感全開で悟り、自分への呼び戻しを見抜く

悟りを学んでいきますと徐々に思考の仕組み、自分の仕組みが分かってきて五感中心、事実中心、根源中心の生活にシフトしていきます。思考のサイクル、悩みのサイクルが理解できてきますと悩み続けるということが逆にできなくなります。なえならばその思考こそが苦しさを生み出していることが腹落ちできるからです。するといつも爽快、いつも軽快という覚醒状態になっていきます。ところがこの状態は周囲からの評価も高いのでここでこの評価は「自分」が得たという思考が再登場してきます。この流れで多くの人はまた思考に振り回されていきます。

悟りが開きかけた時思考が大量流入してくる

この自分ゲーム最大の山場は悟りが開きかけたその瞬間、思考が大量流出して「自分が居る」を維持しようとする場面です。映画マトリックスでもネオが覚醒する瞬間までエージェントスミスが大量投入されてきます。覚醒を阻もうとエージェントスミスが大抵抗を続けるのです。この大抵抗こそが思考の大量投入、「自分」は凄い、「自分」はもっと評価されるべき、「自分」はついに悟りを開くぞ、、、です。気を抜いている間に「自分が居る」という最強の思考が湧いてきます。

爽快な状態に周囲は評価で「自分」を思い出させようとする

自我が薄れ爽快な状態が湧いてきますと、、この体に向かって周囲は最大限の評価を送ってきます。あなたはなんて素敵な人なのだろう、あなたの近くに居たい、あなたからその方法を教えて欲しい、という連打を浴びせてくるのです。これによってこの体は再び自分を思い出し自分への評価に酔いしれるという思考に取り込まれていきます。自分は評価されるなーという一瞬の酔いが覚めますとまた苦しみの人生が続くのです。これが思考(エージェントスミス)の悟り阻止メソッドです。

エージェントスミスの手の内を掴む

エージェントスミスの目的は、、、「自分が居る」を維持することそれだけです。これが目的ですからそのためにあらゆる思考が湧いてきます、例えばあいつはお前の悪口を影で言っているのでは?友人Aはお前を騙そうとしているかもよ、周囲から評価されているお前はいつか叩き落とされるかもよ、、、と、、するとそれは困る、それは腹立たしい、それはムカつく、、、という思考が再び湧いてきて、、、自分が再浮上するのです。まさか湧いてくる思考がエージェントスミスだったとは、、、、これは見抜けない。ただこれもエージェントスミスの手の内が最初から分かっていればスルーできます、思考が湧いたらバッサバッサと切り倒せばいいのです。

ワンネスが見る夢の中でこれが夢だと進んで言ってくれるキャラはいない

自分の夢の中でこれは夢だという進言をされたことはないはず

毎晩見るあなたの夢の中で、夢の最中にこれは夢だから覚めたほうがいいと進言されたことはないはずです。夢の中の登場人物が突然、これは夢だぞ、、というアドバイスを少なくとも自分は貰ったことはないです。なぜならば自分自身が夢を見たくて見ているのでその中でそのような空気を読めない登場人物を登場させないのです。だからこそ夢は朝起きるまで続くわけです。ということはこの現実社会、現象界はワンネスの夢だからその夢の中でこれが夢だと進言してくれる人物は現れるわけがないのです。

自分自身(主人公)がこれは夢かも?と気づき探求するしかない

ワンネスが見る夢の中で我々は登場人物として生きているわけですが「これは夢だ」というTV番組がNHKで流れることは今後もないでしょう。積極的に夢発言をするような情報が流れてはワンネスがこの夢物語を作った意味がなくなってしまいます。積極的にこの情報は流れないでしょう、今後も。そうなるとこれが夢かも?と気づいた主人公(私)が積極的にこの情報を取りに行く他ありません。巷にはなかなか落ちていないどころか、これは夢だと公言しても多くの人は病人扱いするはずです。それはそのはずワンネス自体が夢から覚める応援するような登場人物の出現をしないからです。最終的には全員がエージェントスミス化して夢から覚めることを阻止します。これは大変面白い夢、ゲーム、映画です。

これは夢かも?と気づき始めたら一気に卒業に向かう

この現象界が実は夢幻で私はただこの夢物語の中で登場人物の一人を担っている、、このような疑念が出てきたならば一気に卒業に向けて前進するべきです。何故ならば夢かもと思いながら生きていくのは夢上苦しいからです。正直深刻に物事に向き合いずらくなっていくはずです。マトリックスのNEOが嘘か本当か疑念を抱きながらエージェントスミスと戦っている時期が一番苦しかったのは観ていて気づくはずです。もしもこれは夢かも?と疑念が湧いてきたのならば夢の制作者ワンネスは夢から覚める準備に移った可能性があります。