イメージ

言葉の脅威

落語を聞けば

落語を聞いたことがある人は分かると思いますが、彼らは、、一人で4役、5役と完全にやってのけます。聞いている方はその世界観に嵌まり込み、、、時に笑い、時に大泣きまでしてしまいます。。これはいったい何が起きているのでしょうか????言葉だけ、べしゃりだけで、、なぜこんなことが起きるのか????言葉とは実はただの音の違う形態をただ連呼しているだけです、、ひとつ一つの音には当たり前ですがなんの意味もありません。。。ところがこの音を組み合わせることで、、意味が生じ始めます、、、この音の組み合わせを利用して、、我々の脳は意味を作り出し、、その意味、イメージ、概念を想像し、、、その想像の中に閉じ込めることができるのです。

優秀な落語家とは

優秀な落語家とは、、音の違いを利用したこの言葉を駆使し、、、、言葉が作り出すイメージの世界、幻想の世界に聴衆を一気に引き込み、、その世界の中にさもいるかのように導くことができます。下手な落語家とは、、、本人がイメージする力が弱いがために、、、、イメージを相手に共有する力がないのです。聞き手もこれは同じで言葉をイメージする力がなければ、、、落語を楽しむことはできません。

一人落語をしている

我々は実はこの一人落語を毎日やっています、、、何か物を見れば、、その物に対するイメージが湧き上がってきます、、、誰かに会えば、、、、その人に対するイメージが同時に湧き上がります。。。。このイメージを実在と勘違いすることで、、、本当にそのイメージに沿ったコミュニケーションを展開する、、、、相手を大金持ちとイメージしていれば、、、大金持ち対応の対応をするのです。

真実などには生きていない

我々は現実の世界にしか生きることはできません、、ですがこの現実の世界の中でイメージをガンガン言葉で作り出し、、、一人落語をしているのです、、、その落語が喜劇ならば楽しいですが悲劇ならば辛い、、、全ては自身が作り出した言葉の意味がこれを生み出してします。人は皆裏切る、、このようなイメージを人に重ねれば、、、そのようなイメージの中で生きることになるのです。

大いなる一つの思考と個人の思考

考えてみれば明らか

この私の思考というのが本当に私の思考ならば、、大いなる一つとは全く関係ないメカニズムを個人が作ってしまったことになります、、、すると大いなる一つは大いなる一つではなくなってしまいます、、、個人の思考は同時に大いなる一つの思考であることは間違いありません。すると面白いことに気づきます、、大いなる一つと自我という二つの存在が同時に思考を所有することになる???大いなる一つの中に自我というもう一つの存在がいて、、二つの存在が思考を生み出したことになります。大いなる一つは全部だから大いなる一つなのです、、つまり自我とは実在せず、、自我という思考だけが存在することが証明されます。

大いなる一つと「私が在る」という思考

大いなる一つの中で完全独立した「自我ー思考」プログラムがあるのならば、、大いなる一つは大いなるひとつではなくなってしまう、、、すると思考とは大いなる一つから湧き出し、、さらに自我も「私は居る」という思考に過ぎないことが明白になります。この世界は完全なる大いなる一つの現象しかなく、、個人は完全に思考の産物です。そして気づきが起こり続けるのは、、、空の反映が大いなる一つであり、、、空は絶対ゆえに、、大いなる一つの動きに対し、、気づきが起きるのです。

個人の活動を幻想と見抜く

個人の活動が確実に幻想で在ることを見抜きますと、、個人に対する関心が薄れてきます、、、個人というのはアイデアに過ぎず、、これを存在するという信念、価値観のみが存在します。この価値観が強ければ強いほどに、、個人あっての個人物語が強化され、、これは苦しみを生み出すのです。なぜならば真実とは全く異なることを大前提にした旅だからです。

この旅には終わりはない

個人は絶対に完全なる幸福になれません、、個人とは存在せずイメージです、、、この個人をどうやったら幸福にすることができるのか????実在するならば攻略法はあります、、ですが居ないのです。。。にも関わらずこの自我を絶対視しこの自我を満足させようとする動きは苦しみの道になるのです。

そんなんじゃない

個人の成長、霊格を高める????

全員を救ってあげなくては、、世界中の迷える人々に光を!!!!!!そんなんじゃないんです、、そう思えるはずがないのです、、、真実に気づいてしまうと、、、、そんな情熱が起こるわけがない、、、、誰もいない、、、という気づきが起きた後に、、、、全員を救わなくては!!!!はおかしい、、、完璧な生命現象が完璧な形で起きているのが分かるので、、、、何も問題がないのです。問題が起きようがないのです、、個人が居ないんですから。

個人が居なくてどうやって会話を?????

個人が居ないのにどうやって会話をするんですか?????不可能です、、、個人との会話は不可能です、、、ですが、、会話はできます、、、いとも簡単に、、、簡単すぎるほどに簡単にできます、、、、個人との会話は絶対にできません。会話を楽しむことはできます、、ですが個人と会話を楽しむことはできません。仕事もそうです、、仕事は簡単にできます、、、ですが個人と仕事はできません。。。

講演会は????

1万人を前に講演会をすることはできません、、ですが、、、1万人というイメージの前で講演会をするのは簡単です、、、講演会をする「私」は居ませんが。。。。講演会は簡単にできます。食事をすることは簡単にできます、、ですがもう個人が食事をすることはできません、、、その観念が抜け落ちるからです、、、個人が食事をするというのはイメージです、偽りです、虚像です、、、ですがそのイメージは完璧です、真実ではありませんが。

個人を手放す

手放すというよりも、、、

手放す、サレンダー、解放、、、あらゆる言葉がありますが、、、どうしても悟りの言葉というのは、、個人が何かをすることをイメージさせます、、、個人が強烈に匂います、、、これは至極当然のこと。。。。ですがこの認識のまま悟りを学んでも、、入りにくい。。。どうしても個人の観点から本を読んでしまうからです。どちらかと言えば、、、一回個人という観念を外して完全なるフラットな視点で読めば理解できるかもしれません。

誰目線???

この世界は、、、個人という絶対的存在が間違いなく居るという前提で全てが構築されていますから、、、それがない、、、、なんて言われてしまっても拒絶に次ぐ拒絶です、、それで終わり。個人が居るという観念が、、全思考、全感情、全行動を起こしてこの個人を守っていますから、、、拒絶が半端がないのです。ですがそれは至極当然のこと、、、それも完璧です。

やられた!!!!

最初の気づきはこんな感じです、、、、確かに個人はいない、、、相手もいない、、、誰もいない、、、やられた!!!!!騙されてた、、、、まあしょうがないか、、、ですね。。。こんな流れです、、、気づきとは。。覚醒という大袈裟な言葉に違和感も感じながらもとはいえ、、この気づきは、、、人生の中ではトップクラスの気づきです。それは間違いない。

結果など、、、

個人は結果にこだわるが

個人は結果にこだわります、、、ですが結果は個人を幸福にできません、、個人を幸福にできるアイテムはこの世界には一切ないのです、、、、一切です、、なぜならばアイテムは全てイメージで在り、、この個人もイメージです、、実在しないのです、、、、だからこそ個人が幸福になるという嘘にいつ気づくかが重要になります。

個人とはイメージ以上でもなく以下でもない

個人とは体験を積むために起き上がったアイデアです、、、このアイデアに執着し始めると苦しみが湧きます、、それは嘘だからです。真実じゃないからです。。真実の中で真実ではないことを真剣に信じると、、真実とのギャップが生まれこれが苦しみになるのです。

自我とはイメージ以上でもなく以下でもない

自我を完全になくすのは不可能です、、、社会で生きていく際に便利なアイデア、イメージだからです、、、ですがこのイメージが、、思考し、感情を湧き出し、行動を決めている、、、、という思い込みは事実、真実ではないので、、、真実から離れ苦しみが湧き出します。自我が何かをやっていると信じると、、、全くこの信念とは異なる結果になるので、、、苦しのです、、、、全くもって無駄です。

ないモノにエネルギーが収縮していた

エネルギーの収縮だけがあった

私というのは私が居るという言葉で作ったイメージに対しエネルギーが収縮していた状態です、何もないもの(イメージ)にエネルギーが収縮していた状態です。このエネルギーの収縮が起きなくなった状態、、これが悟りです。もうそこにエネルギーが集まらない、エネルギーの収縮が起きない状態です。自分をしっかりもって、、、これは自分というイメージにエネルギーが収縮した状態です。

収縮の解放

そもそもが何もない、、イメージに、、、エネルギーが収縮し、、、自分が居るという感覚が起き上がっていました、、、ところがそれがない状態、、、自分という感覚を持てない状態、、これが悟りです。ただ機能としてのこの体が残り、、思考感情行動が起こりますが、、、それを自分のモノとする感覚がおきえない状態、、、

陽が転じて陰になる

自分というイメージにエネルギーがガッと集中し、、この感覚が生まれ出しているのですが、、、この集中が極端に行けば行くほどに苦しくなる、、、このエネルギー、気の集中が解放されますと、、、、エネルギー、気は真逆のベクトルに解放され、、世界が全部になります。

信じると体験できる

信じてはダメですよ、、の嘘

悟りとは感じるものですから、、、知識をかき集めても無駄です、、、、そんな言葉を使うメッセンジャーは多くいます、、、、ですが我々はこの観念の世界において悟りという言葉を知らずして悟るのは難しい、、、なぜならば全く概念がないことを体験できない、、、、勿論それが起きた人(イメージ)はこの夢の中で起こるのですが、、、マジックの種明かし情報を得ずして、、、マジックを見破るのはほぼ無理でしょう、、たまたま、、事故的にマジックを見破る人(イメージ)もいますが、、、

種明かしの情報

種明かしのメッセージを聞き、、、なるほど!!!!が起きた時には、、、ほぼ完成なんです、、なぜならば、、、あとはこの夢の中で「なるほど!!!」が起きればいい、、、、聞いて、、、なるほど!!!が起きれば、、、体験で、、、なるほど!!!は起きやすい、、、マジックを見破るのは常にこれです、、、、

信じていい

悟りのメッセージは、、とにかく一度信じる事、、、マジックってなるほど、、そういう仕掛けか!!!の後にじっくりとこの現実(夢)を観察します、、、、そして見破るまでは手を抜かない、、、見破るまでやる!!!と覚悟を決めます、、、、完全なる体感が起きるまで、、、やります。

自分という概念の爆発

自分という錯覚は思い込み

自分という感覚は思い込みがこれを作ります、、、、有名人のそっくりさんに会った人はその場で大きな感情が湧きます、、つまり人間は自身のイメージの力でとんでもない感情、感覚を作り出せる存在なのです。。このイメージの爆発を起こします、、イメージで在ることを完全に見抜き爆発させます。

360度この自分を包囲する

自分という思い込みは徹底的に逃げ回ります、、なんとかしてこの存在だけを生き延びさせようとするでしょう、、脳が作り出した安全維持装置ですから、、脳は360度逃げまわる策を考えます、、ですから悟りとはこの逃げまわる自分を360度包囲して完全に捕まえてしまうことです。逃げることは最初からわかっている自分を逃さないのです。

自分っているじゃん

この世界は「自分っているじゃん」を思いこむ最高の環境です、、お金を払えば相手はこの「自分」になんでもサービスしてくれます。。。お金を払えば払うほどに丁重に丁重に「自分」を扱ってくれるわけです、、、だから居るにきまっている、、、に落ち着くわけです。

でも居ない

それでも居ません、、、イメージとしてのでっちあげの自分しかいません、、、ですから安心してこのでっち上げをぶっ壊してください、、爆発させてください、、、居ないのはわかっているのです、、あまりに長期間、、この私の存在を確信して生きてきてしまったがゆえに、、私が居ない状態を全く想像できなくなってしまっているのです。ですが大丈夫です、、最初から居ないのですから。

これは「私」には見えない

「私」が居ると見えなくなる

本当の世界、真実の世界は「私」が居ると見えなくなります、、、、この「私」という存在体の中の存在を信じていると見えなくなるのです。真実を見ることができないのではなく、、「私」が居ることで、、そこに私の観念が反映した世界がベールとして広がり真実を隠すのです。色眼鏡がかかった景色に急変化します。

「私」という存在を嘘と見破る

私という存在を嘘と見破ることができますと、、、景色を景色のままで感じるが起きます、、、、それを見る私が消えます、、景色が景色のままにそこに在るのです、、、そしてこの体も景色に変わります、、、この体を含めた景色を景色が感じます。。。

悟りのメッセージを使い倒す

悟りのメッセージは個人の嘘を暴く内容です、、、個人という存在の嘘を徹底的に暴いていきます。これを個人は嫌います、、個人が嫌うというのも嘘で、、嫌うという感情が勝手に湧きます、、、個人が居ると言うストーリーをイメージしていると、、ですから悟りとは個人の存在を追い詰めることなのです、、個人をこの世界からはぎ取る、、個人をこの世界から抹殺する行為です。

ありのままなどまるで見てなかった

子供と大人はまるで違う世界を見ている

自我が形成されていない子供はありのままの世界を見ています、、ですが自我が形成された大人は自身の観念の世界を見ています、、、いやしっかりと現実を見ていますよ、、、違うんです、、大人は目に入る全ての物事、人物に意味を重ね合わせてみているのです、、見た瞬間そこに意味が入ってしまっているのです。例えば商売が大好きな人は、、人がお金に見えると表現します、、これは本当なんです。人に意味が込められています、、勝手に。

ありのままではなく、、そこに重ねられた意味を見ている

100年の歴史のあるブランド品、、、見た瞬間にカッコいいが勝手に湧いてしまいます。。。有名人に会った、、、、勝手に驚きの感情が湧きます、、、これは自動反応です。。。ですから我々は本当にありのままなど見ていないのです。。。その現象物に込められた意味を見ています。それの何が問題なのか???苦しいのです、、意味のある世界に住んでいるのがフラットに苦しいのです。

超大人の視点

子供と大人は視点が異なります、、、大人はこの私がこの世界を見て生きていると信じています。。。そこをさらに視点を変えます、、、本当はこの体には「私」は住んでおらず(実際そう)全現象は空(ゼロ)からそのまま起こっている、、と。PCのモニターのように、、そのままそこっで起こっているのだという認識に変えます、、この世界を見ている私は100%存在せず、、、そのまま起きたのだと、、、、誰がこれを見ている????誰もいない、、、あえて言葉(概念)で表現するならば、、神が見た世界なのだと。。。

こっちが事実

残念ながらこの視点が事実です、、、先ずはこの世界があって、、その中に、、、「私」がイメージとして想像され、、、この体(イメージ)の中の私が見ているというイメージが起きたのです、、、、この「私」視点の世界での経験を強制終了させます、、、すると認識が変わり観念が変わり、世界が変わり始めます。ありのままの世界、、子供が見る世界が戻ってきます。