あるがまま

経験はあっても経験者は居ない

経験者不在の経験のみ

私たちの通念では経験者が先ずそこに居て次に経験がある、、経験者、経験、対象の3セットでこの経験は成立していると考えています。幻想の世界ではその通りです。ですが経験者は幻想、対象も幻想であるとなるとあるのは経験だけです。幻想二つで経験が生み出されています。経験から幻想を引き算すると経験のみです。経験だけが毎秒毎秒重なり合い、、時間があるという思考が湧き上がり、、その思考を気づきの意識が気づきます。その思考を作り出す経験者は居ないしその思考に気づく経験者も居ないのです。

これからも死ぬまで経験者不在で経験だけが積み重なる

この体が誕生してから我々は経験だけを積み重ねてきました、経験者不在で。そしてこれからも経験だけが積み重なっていきます。毎瞬毎瞬、、経験は確実にあるのですが物質ではありませんから無です、、、経験という無を重ねて重ねていくのです。この無の集大成があるがままです、あるがままがたった一つのエネルギーであることはここからも分かります。

それが分かったところで

それが分かったところでこれから我々の人生に何か影響があるのか????我々は実はこの経験を積んでいる経験者を凄く重視するのですが、、、経験者って全く出てこないのです、、経験者って想像の産物でしかありません。経験者という想像の産物に重きを置くから緊張が走るのです、本質ではないからです。想像の世界、ストーリー、ゲームに入り込んでしまいます。本当は経験者(マリオ)は実在しません。それが本当に腹落ちするとこれからの人生(本当はない)は軽くなります。

霊的進化もどうでもいい

それはストレス

進化しなくては進化しなくては、向上しなくては向上しなくては、、、これらは実は全く自由からかけ離れています。全くもって楽しくない、ストレスでしかない。向上した方が良いって誰が決めたんでしょうか????誰も決めていませんよね、、そんな独特ルール無限の存在の表現、あるがままの表現に一切ありません。本当はただあるがままの表現があるだけ、その中で向上しようが湧いてきただけです。

重要なこと、それは楽になること(解放)

とはいえ解放を目的に生きれば今度はそれが素晴らしいことという概念を作ってしまいます、ですからそれを目的にしてはいけない、、そうではなく、、ただ気づきを得ること、そしてそうなったら楽になれるかもと俯瞰すること。そしてそれまでの道のりも完全に意図した生き方はできず完全自動運転であることを悟ることです。自我の動きに振り回されて十分にこれまで苦しんできたのですからこれからは苦しまないで生きていくだけです。

自我を主語にしないこと

軽々しく扱われた、、私をこんな扱いするなんて!!!と自我を主語にしたストーリーを辞めるのです。ただそれが自然現象として起きました、そしてこの体の中のは自我、自分は存在しません。にも関わらず怒るのはおかしい、、です。本来だったら怒るのでしょうが、、自我自分私がこの体の中に居ないことを分かっているので冷静に対処します。

被害者になっても受け入れろ、ではない

お金を払ったのにサービスが出てこない、、もしかしたらこの体(私)が軽く扱われたのは事実かもしれない。ですが残念ながらこの体の中には私は居ないので軽く扱われることはできない、ただ事務的にサービスをお願いするだけです。相手は嫌な気持ちにさせるためにそうしたかもしれない、ですが相手の体の中には自我は存在しないのです、、ただの自然現象です。だからハードドラマになり得ないのです。

デフォルトは苦しい

大金持ちも苦しい

人間とはデフォルト「苦しい」ですから、、そのデフォルトのまま大金持ちになっても人気者になっても人格者になっても、、、、「苦しい」なぜならばデフォルトが変わらないからです。ですからそのことに気づいた人は、、世の中のあれこれに興味を失い、、、このデフォルトを変えることに興味が移るのです。デフォルト=苦しいを作り出したのは「自分」です、体の中に自由意志を行使する「自分」が居るというこの大前提が確立した時からデフォルト「苦しい」がスタートしたのです。

たった一つのエネルギーに「自分」が登場した

あるがまま、、というたった一つのエネルギーの中に「自分」という独立国家が誕生したその瞬間から苦しいが生まれたのです。本当はそんな存在など居ないにも関わらず居ると信じ続けるゲームです、、全くコントロール不可能な思考、行動をコントロールしているはずと勘違いし続けるゲームです。本来コントロール不可能な思考、行動をコントロールできると信じ続けるのですから苦しいに決まっているのです。

大人=自由意志をコントロールできる人?

大人は子供とは違って自由意志をコントロールできる人、、、そう多くの人は信じて疑わないのですが、、残念ながらこれは間違い、、、コントロールなど誰もできないのです、本当は。だから大人は子供とは違ってストレスが多くそのためその解消のための娯楽、お酒、タバコ、ギャンブル、買い物などが必要になるのです。本当は子供同様全く何もコントロールなどできないのです「自分」というやつは。

経験しかしていない

マリオは実在しない

この世界はあるがままの体験の場所、ゲーム、マリオ体験の場所です。マリオ、クッパ、空間の全て、時間の全てはそおれらを経験する場所でしかなく全ては幻想です。その証拠にマリオにとってこの世界は実在しているように見えているだけ、触っているように感じているだけ、香っているように感じているだけ、味がしているように感じているだけ、、音が鳴っているように聞こえているだけと五感を使った経験しかしていないのです。クッパが実在しているという証拠は一切ないし、マリオが実在しているという証拠が全くありません。経験(無)が100%あり続けるという無(実在ではない)を積み重ねた世界です。経験をどんなに積み重ねてもそれは時間が実在しているという証拠にはなりません。

マリオも時間も空間も経験からの逆算でしかない

この世界があくまでゲーム(虚)である証拠は、、経験以外が何もないということです。経験があるから時間があるはずだ、マリオが居るはずだ、空間があるはずだ、クッパもいるはずだ、、、という推論の余地をでません。つまりあるがまま(スーパーマリオ本体)以外何もないのです。私は100パーセント居るぞ、、とマリオが叫んでも、、、、いや経験しかしてませんよね????で終わりです。

思考して行動しているぞ

確かに経験しかしていないかもしれない、でも思考し実践しているこの私が、、、と思うかもしれません。それも違うんです、私が思考し、実践しているように感じているだけです、、そう経験しているだけです。100%自由意志があって自由行動があるという証拠がないのです。この辺りから我々はこれがゲーム(幻想)でしかないことを、そして私も居ないことを認めるしかなくなってくるのです。

これを今私以外の何かが気づく

この気づきは実はマリオ(私)に起きているのではありません。マリオ(私)以外の何かが気づくのです。そしてマリオ(私)はスーパーマリオ(あるがまま)に再吸収されていきます。本当にそうだ、これはゲームで経験しかしていなかった、、時間もあるように感じていただけだった、、空間もあるように感じているだけだった、、そりゃそうだ、、ゲームだから。。。覚者が昔からいっているように、、、この世界は無で、何もない、、は本当だ。私も居ないしあなたも本当は居ない、、私たちは最初から救われている、全部愛(あるがまま)なんだ、、となります。

時間ありきの表現は全てストーリー(ゲーム内)

アセンションが始まる、、

200X年、アセンションが起こり次元上昇が始まる、、、これ時間がないと成立しない表現ですよね???つまりこれはストーリー、ゲーム中の出来事です。ワクワクしたことをやるとラッキーが連続する、、、何かをすると、、次の瞬間何かが起きる、、、これも時間あって成り立つことです、、ストーリー、ゲーム内の話です。ついてる、ついてると連呼すると、、ラッキーが起こる、、、これも時間があってこそ成り立つ話ですよね、、これもストーリー、ゲーム内の話です。パワースポットに行くとラッキーが起きる、、これもストーリー、ゲーム内の話です。

ストーリー、ゲームの中は、、、

ストーリー、ゲームはあるがままの無限の表現ですから、、、ある決まった因果が成立することは絶対にないのです。決まっていたら無限の表現ではなくなってしまいます。こうやったら女性は必ず落ちる、、こうやったら絶対お金を稼げる、、こうやったら人気者になれる、、、法則が決まっているならばこのゲームは無限ではなく有限のアートになってしまうのです。ですがこのゲームは無限(あるがまま)の表現ですから決まったルールはありえないのです。

時間の中では至福に至れない

時間の世界の中では至福には至れません、、こうやったら至福になる、、、この法則に従えば至福に至れる、、全部時間のゲームの中の話です。至福とはスーパーマリオゲーム本体のことで画面の中に至福(本体)は落ちていないのです。時間の中には至福がないことをマリオが悟りこの画面からマリオ共々抜け出た時に初めて至福に至るのだという気づきが重要です。

あるがままはなぜ今もこのゲームを続けるのか?

最初から完璧ならば、、、

最初からあるがままはそのままで完全完璧ならばなぜこの意味不明なゲームを続けるのでしょうか???必要ないではないでしょうか、完璧なんだから。そうではないのです、完璧完全ゆえに自分自身が完全完璧であるとういうことを体験できないのです、自分自身がそれを体感したいだからこそあるがままの中に不完全不完璧(マリオ)を作り出し完全完璧を追い求めさせ最終的にそれを味わいたいのです(解放)完全完璧を体験するには不完全不完璧にならなくては成れない、ただそれだけです。

最大の悪趣味

最強のイケメンが自身がイケメンであることを実感するには一度ブサイクになってそこからイケメンに成ってみないとイケメンの素晴らしさ、イケメンの重要さを体験できない。こんな悪趣味なゲームをあるがままはやっているのです。あるがままが無限の存在であるがゆえに無限を体感するには無限そのものでは無限を体験できない、そこで無限ではない形(マリオ)を作り出し無限を追い求め無限の経験を体感しているのです。

だから幼児は全てに感動している

自我が形成されるまでの赤ちゃんは全ての物に興味を持ち感動しています、触って遊んで目を輝かせています。これは自分(あるがまま)が自分(あるがまま)を味わっているのです、面白いのです、楽しいのです。自我が形成されるにつれて究極の不完全(思い込み)になるのですがその場所は苦しいからこそ自我は至福(あるがまま)を追い求め続けるのです。やがて対象(アイテム)には至福がないことに気づき対象でないのならば全体(ゲーム本体)が至福なのではと悟り(画面離脱)に興味を覚えるわけです。

大谷翔平の活躍で人は救われるのか?

救われない

純粋にひたむきに頑張ればどこかで必ず結果が出る、だから自分も今を頑張ろう!!大谷翔平のように。大谷翔平がこれほどニュースを賑わすのは彼の活躍を見て気分が爽快になったり、頑張ろうと思たり、日本人の誇りと思えるからです。ですが彼の存在で人は本当に救われるのでしょうか???答えはNOです。なぜならば彼のように頑張れるか否かは神のみぞ知る、あるがままぞ知るです、、誰にもコントロールする力はないのです。

大谷翔平すらもない

大谷翔平が急遽野球に興味が無くなり試合がどうでもいい、となる可能性はあります。そこに関して大谷翔平は全くのノーコントロールです。。多くの人は大谷翔平ならば努力を怠ることはない、、そう断言するでしょうが、、実は大谷翔平にも誰にもそれは分からないのです。そしてそのことを全員が本質的には気づいています、だから実は本質レベルでは彼の活躍は誰も救っていないのです。

今頑張れている人だけ

俺は今頑張っているぞ!そう感じることができている人は大谷翔平から多くの勇気をもらえるでしょう。ですが今全然頑張れていない人にとっては、、大谷翔平の活躍は耳が痛いはず、、、つまりその人のおかれている条件によって変わってしまうわけです。本質とはそのようなものではありません、本質は至福であり全員が至福の中に居るのです。全員がいつか必ず救われるのは全員が至福で出来ているからです。マリオもクッパもピーチ姫もルイージも全員がスーパーマリオ(至福)のアートです。

いまここという言葉の難しさ

いまここを感じているのは誰だ?

いまここしかない、、悟り系スピーカーがよく話すワードですね、いまここしかないじゃないか、だから時間なんて存在しないんだ、空間もここしかないのだ、、、ですが結局それを感じているのが「私」ならば本質を理解できていない、、なぜならば「私」は時間と空間の中でしか生きれないのだから。だから常に時間を使って生きるし空間の中で行きますよね。本質は「私」という存在が不在の時に現れるのですからこの言葉を誰に向かって語っているかは重要になります。

今日は良い話を聞けた???

悟り系のスピーカーの講演会に行って本質の話を聞いて帰れば、、今日はなんて面白い話をきけたんだろう、、となります。大変貴重でためになったと、、、ですが恐らく次の日も何か知識を求めるでしょう、なぜならばその話を聞いたのは「私」だからです。そしてその私は次の日に起きればまたより進化した私を目指すはず。ですがどれほど私が進化したつもりになってもゲーム、幻想の中を彷徨っているのに変わりはなく苦しみからは解放されないのです。

「私」からの解放

講演会を聞いているのは「私」ではない、「私」の奥に居るあるがままなのだ、、そしてそのあるがままが「私」を再吸収した時に至福が訪れる、、このメッセージに気づきが起き始めた時に解放は近いかもしれません。「私」は悟ろう、「私」が目覚めよう、、、という主体客体、二元の感覚が抜けないうちは夢の中、ゲームの中にいる可能性が高いのです。

誰にも救ってもらわなくてもいい

誰かに救ってもらわなくていけない人はいない

私たちはあるがままのアートです、神のアートです、ですから誰にも救ってもらわなくて必ず至福に至ります。至福が作り出したアートの一部ですから原料は至福なのです、つまり今苦しんでいること自体がゲームなのです。至福という原料で作り出したゲーム上で苦しいという感情を楽しむゲームをしているのです。そしてそのことを全員が本質的には分かっています。

幼少期は至福そのもの

私たちは幼少期至福そのものでした、自我が目覚めるまでは至福そのものだったのです。ところが自我が目覚めるとともに苦しみが襲ってきました、至福ではなくなってしまったのです。ですが全員が幼少期の至福感を覚えているのでなぜ私の人生はこんなふうになってしまったのか???と疑問に思っているのです。これが現実だから、これが人生だから、、、いやでも昔はこんなふうじゃなかったような、、です。

至福という原料で作り出した壮大なアート

この世界は至福という原料で作り出したアートです、核兵器も遠隔魚雷すらもまさかの至福という原料で作られています。ですからこの世界が争いが絶えなくても、、それさえもアートなのです。死人がでてもそれも至福が作り出したアートだということです。争いも親睦も競争も助け合いも全てが神、あるがままのアートです。そして自分自身と思っていた存在も神のアートに過ぎないことに気づくと自分が神に再吸収され至福に至るのです。

真実と概念は違う

私たちが信じているのは概念

ノンデュアリティ、悟り、非二元のメッセンジャーが伝えるのは真実です、真実は概念ではありません、、、言葉という制限されたツールで真実を伝えていくわけです。多くの人が信じているのは概念です、概念は真実ではありませんからこの概念の中に生きていることで苦しみから解放されないのです。もし今自分が苦しいならば概念の世界に居る、ただそれだけです。

真実と観念は違う

真実と観念が異なります、真実は真実です、、観念とはその人が信じている考え方、概念です。それぞれの人はその人の観念を持ち、その観念に影響された幻想の中に生きているのです。この幻想の世界は苦しいので早くここから出たいと本質レベルでは感じているのです。友人が少ないと寂しく、友人が多いと人間関係が複雑で疲れる、、どこまでいってもこの世界は苦しいのです。

お金を得ても人気を得ても苦しいのは観念の世界に居るから

「自分」がこの世界に生きていると思っている間は常に苦しみに襲われます。「自分」がお金を得て、人気を得ていると思っている間は苦しみに襲われ続けます。なぜならばそこは本当の世界ではないからです、そしてそのことを本質では常に感じています。だから人は救いを神に求めるのです。ですが神とは「自分」とは異なった違う場所にいるのではなく今ここ、「この私」すらも含めて神なのです。今見ている世界そのものが神自身のアート、神そのものなのです。

このことをみんなに伝えてあげなくちゃ

真実の少しでも触れた人間は周囲にこれを伝えなくては!!と思うはずです、ですがそれは喜憂、無駄、大きなお世話です。なぜならば「私」も「あの人」も「この人」も全部あるがまま、神のアートですから最初から救われているのです、あるがままのアートが救われないのならばあるがままはあるがままではなくなってしまいます、神のアートが救われないのであれば神は神ではなくなってしまうのです。ですから全員が最初から救われているこれは神の、あるがままのアートなのです。そしてそのことも全員が本質的には分かっています。