観念

視点の違い

この体の中に自分が居るという視点

我々はこの体の中に「私」という存在が居て、、その視点でこの世界を観察しています、、そして観察し経験し、、それによって感情、思考が湧き出し、、完結します。。ですが実はこれあくまでも幻想です、、この体の中に「私」が居るとイメージして、、その視点で経験を積んでいるんのです。本当はこの体の中には「私」は居ません、イメージ以外は。この体の中に「私」が居るという視点での観察、経験が価値観、観念を形成し、その観念こそがこの見える世界を作り出しています。本当は先ず最初に観念があり、、その観念に従った現象が現れ、、それをこの「私」が観察し経験しているのです。

観念に沿った現象

観念に沿った現象が先ず最初にここに在ります、、、ここで今まではこの体の中の「私」が見るというイメージ上の経験をしていたわけですが、、これを変えます、、、、全現象、全思考、全感情、全行動の全てはただ空から起こっているという事実を認識します。。。今見えている世界は、、、「私が見ている世界」ではなく、、全部空から直接現象化されたという事実を認識するのです、、「私が見る」これはイメージ、幻想、概念です。そうではなくただ空からこの現象がそのまま起きました。。。。景色から、、「私が見る」というストーリーを抜き取るのです。

視点が変わると認識が変わる

ストーリー上は「私が見る世界」です。。。ですがこれは事実では断じてありません、、私もイメージ、見るもイメージです、、、そうではなくこの世界が空から直接ここに現れたのだという真実の視点を持ちます、、もうここでは見るという行動が起きていません。。すると認識が変わります、、「私」に向かってきていた全現象が、、、ただの全現象に変わります。湧いてくる思考、感情、衝動が変わるのです。

認識が変われば観念が変わり、、見える世界が変わる

「私」が積んできた経験が、、ただの現象に生まれ変わることで、、、観念が変わっていきます、、、すると世界が徐々に変わっていきます、、、世界は観念を映し出す鏡ですから、、、変わるのです、、、空から世界に光が入り込んできます、、世界が光ってきます、、、世界に神が入り込みます、世界に空が入り込みます、、、これまでの観念によって重いベールが掛かっていたのが、、剥がれていきます、、、世界が神になります。

私物語で起こる思考を重視しない

どうせ夢だから

私物語は夢です、、、この夢の中での出来事、、、から起きる感情、思考を重視しますと、、物語に飲み込まれます、、、どうせ夢、、、この感覚が起きると、、、深刻さが薄れていきます、、、「私を軽く扱いやがって」「私を馬鹿にしやがって」「私が利用されているのでは」。。。。全部夢です、、、、そして今起こる出来事は、、、残念ながらこれが現実だ!!!と思い込みやすくなる、出来事が起きます、、、つまり、、、構わずにはいられないような、、出来事、、、が起きます。

だからこそ

だからこそ、、、そこを冷静に観察してください、、、、、見かけ上の「私」が経験した全てが観念化し、、その観念に沿った出来事(夢)が起きますから、、、これは現実だ!!!と信じ込んでいれば、、、これは現実だ!!!と思うような出来事が起きるんです、、、、これはどう考えても現実だろ????という出来事です。

これは現実だ!!!から抜ける

この生きる世界を現実だ!!!と思っていますと、、そう思いたくなるような出来事に満たされます、、、、私の観念がイメージ化された出来事です、、、、今映る現象は全て私の観念が作り出している、、この事実を徹底的に認めます、、、すると起こる出来事に反応しない私が現れます、、、全部観念だから、、、そこに反応しても意味がない、、ただ観念を強めるだけ、、、、反応するということは「これは現実だ!!!」と信じているからこそです。

観念書き換えの嘘

ここで大きく振り出しに戻される

観念書き換え、、これには私も随分騙されました、、、本当にこのトリックは見破れない、、、多くのスピ本に書かれている観念書き換え、、、観念がこの世界を作っている(夢)のだから観念さえ書き換えちゃえばOK!!本当に夢がある話、イリュージョンを利用しちゃえ!!!これには驚かされ、、私もついに最高の観念を所有し夢のような世界をつくるぞ!!!となったのです。。。

大きな勘違い

観念を書き換える自分(イメージ)が存在しない、、、、ここは最重要な落とし穴、、とんでもない言葉のマジック、、、観念を書き換える個人(イメージ)が居ないんです、、、、この夢の登場人物、「私」は言葉が作ったイメージ、概念、妄想であって、、、この私は、、、ただ現象の動きに従うだけ、、、全くもって観念書き換えができないのです、、、これは騙される、、、まんまと騙されます、、、

どこまで行っても受け身

スピと悟りの究極の違いは、、、自由意志の存在の有無です、、、、スピでは、、自由意思肯定派が多い、、ですが悟りは自由意思否定、、、、どこまでいっても自由意志は存在しない、、、つまり観念書き換えを能動的にするのは不可能、、、となるのです。悟りとはただ淡々と事実に向き合うこと、、、事実を認識し、体験し、、諦めていくことなのです。。。。だから悟りはサレンダー、、究極の諦めです。

今この瞬間の観念を確認する

今起きている現象は観念の現れ

個人が居てこの個人が歩む人生がある、、これが我々の基本的な認識です、、、この認識に基づく経験が積み重なっていき観念として形成されていきます。今自分の観念を確認したければどうするか???簡単です、、、今見えている現象、この現実(夢)を見ればいいのです、、この現実がどうなっているかが、、あなたの観念です。私を支える観念こそがこの現実(夢)です。

全く同じお店に入っても

例えば友人と全く同じお店に入っても感じる印象は違いますね、、一方は安くて美味しい店、一方は高くて不味い店、、、と。。。これを左右する存在は何だ????それが観念です、、、大いなる一つ、ワンネスが我々の目に入った瞬間、観念によるイメージ化が起こり、、、そこにあらゆる分離した現象が起きるのです。するとその視界を見て感情が起き上がり、それに気づきます。もうこの現実(夢)が本当であると感じるサイクルに入ります。脳はこの夢を現実であると信じ込ませることで、、この現実(夢)からこの体(自分)を守ろうとする動きを起こすのです。この夢が現実的に見えてもらえないと困るのです。。だからこそ本気で思っていること(観念)がこの夢を作り出し、、、これは間違いなく現実であるという思い込みを起こさせるのです。

観念が大いなる一つを分離した現象に見せ(夢)それを体験することで益々その観念が強化される

観念こそがワンネスを分離した現象化に導きます、、結果、、その夢(現実)を見た自分は、、これを現実と勘違いできるのです、、つまりこの自分は一生この夢を現実と思い続けることが出来るわけです。この自分をこの夢(現実)の中に一生閉じ込めることができます。「やっぱりそうだ!!!」が生きていると連発されるのは、、、観念がこのワンネスをイメージ化しているからです。私が経験した全てが今この目の前に現れています。だから今見える世界が私の観念を証明してくれているのです。

観念書き換えの嘘

多くのスピリチュアル本ではこの観念を好きなように書き換えて好きな世界を作りましょう、、と提案します、、ですがこれは、、、本末転倒、、、これを自由意思で書き換えることができる個人は存在しませんし、、観念を書き換える自由意志も存在しません。。。ただただ淡々と事が起き続け、、、観念が自動的に書き換わっていきます。

先ずは現実(夢)を、、、

悟りは横に一旦置いて先ずは現実を

多くの方はこのような展開で悟りが遠ざかります。。悟らないと幸福にならないのは知っています、、ですが先ずは目の前の現実(夢)を、、、、このパターンで毎回毎回悟りが遠ざかります。。。今は会社が忙しいから、、先ずは現実(夢)を処理して、、、ですが本当のことを言ってしまえば、、今現実が大変なのは悟りが閉じているからです。。。悟りが閉じ切ってこの夢が超現実的だから辛いのです。解決すべきはこの現実(夢)ではなくて、、、悟りが閉じていることです。

この現実(夢)はあなたの観念が作っています。

ここに一輪の花があります、、、この花に神々しさを感じないのならば、、、あなたの観念がこの花をただの物質に見せているのです。。。。花という言葉のイメージがこの花に重ねられて、、、そのイメージを今あなたは見ています。。。このイメージが重苦しいものであればあるほどに花を歪めます。この現実(夢)の歪みは、、観念の歪みです。

現実(夢)とは、、観念の反映

引き寄せの法則、、、、引き寄せる個人が観念ですからこれは観念です。。そうではなく、、、現象を認識する脳が『この個人の経験に基づく観念』をこの真実、現象に観念イメージを重ね、、、そのイメージを見ています。例えばブランドグッチを崇拝する人は、、グッチの靴を履く男性を素敵な人に写します。感動すらします、興奮すらします、、イメージをその現象に重ねているのです。。。ですから現実(観念を反映した夢)が辛いのならば、、、だからこそ悟りの学びが重要になります。。この現実(夢)に惑わされなくなっていきます。

最後の証明

数学の証明

数学には証明というジャンルがあって、、この証明式を数式で導いていきます。悟りもこれと全く同じ、、覚者が伝えるメッセージをこの体を使って証明します。人間は全員が全く違う観念を持っています、つまり全員が全く違う夢を見ているということ、、この目の前に真実があるのですが、、その真実を歪ませる夢が今この目の前に鎮座しています。この目の前の観念がこしらえた現実風夢を、、、真実に変える、、、という証明をこの体を使ってやっていくのです。

たった一つのエネルギーを感じる

色即是空、空即是色、、、、証明するのはこれです、、、たった一つのエネルギーがこの多彩な現象を生み出し、、その現象がまたこのたった一つのエネルギーを生み出します。。このサイクル、、このサイクルが自分、、ここから我々は個別意識を生み出し、、その個別意識に付随する夢物語に閉じ込められて、、その中で人生を送ります。。。この人生からこの色即是空、空即是色を導いていく証明作業です。

数学の証明との違い

数学の証明との違いは、、、我々が囲まれているこの世界(夢)は、、私の観念が書き換えられていきますと、、変幻自在に変わっていってしまうということです。。問題を解いていたら、、その問題用紙がグネグネと変わっていってしまう、、、あれさっきまで見ていた世界が変わってきたぞ、、、となります。例えば悟りなどない、、、という観念を所有していますと、、、悟りなどないを、、、証明するようなメッセージの連打を浴びます。。。。ここを見抜かないとやられます。。。

最後はこうなる、、

今目の前の現象は悟りを否定することばかりだが、、、最後はこのメッセージ通りになる、、、、この認識が重要です、、、、、メッセージはこうだけど、、ちょっと確認しょう、、、全然違う、、、こうなります。つまり観念がこの現実(夢)を構築しますから、、、今周囲を見回しても、、今の観念が反映する映像しかないのです。今の現実がなんであろうと、、これは観念を反映したものであってどうでもいい、、というかこれは観念の観察でしかない。。。となります。

悟り根性論

気づきを根性で起こすことはできないが

悟りを根性で起こすことはできません、、、ですが悟りとは何なのか??これを言葉で理解することは可能です、、、本質は完全に悟っていますから、、その本質である私が悟りを言葉で理解できないわけがない、、、覚者は、、、言葉でしか、、悟りを伝えることができません。。。その声に真剣に向き合います。。この真剣にというのは完全な理解が起きるまで真剣にやるのです。

観念の障害

我々が信じ切っている価値観は観念となり、、、この観念がこのたった一つのエネルギーを裁断します。そして観念を証明するような現実(夢)がこの目の前に現れます、、ゆえにこれが夢かも???ぐらいではこの目の前の現実(夢)に木っ端微塵にやられます。。。超現実的な出来事が嵐のように吹き荒れます。そういう意味で悟りは真剣勝負です、、誰との真剣勝負なのか???観念が作り上げる、、この現実風夢です。

悟りが起きるまで悟り切る

悟れたらいいなー、悟りって最近気になる、、、全然ダメです、、、それではあなたの観念が作り出す現実風夢に木っ端微塵にやられます。。。悟り切る、、そして悟り切るまで手を緩めない、、抵抗が強ければ強いほどにギアを入れる、、、これが夢だ、、、という完全理解が起きるまで、、、徹底的に学びます、、、学ばない方がいい、、こんなメッセージもいっぱい届くでしょう、、完全無視、、そのメッセージは、、、私の観念が送り込んだ使者です。粉砕してください。

思考の産物

我々は思考の産物の中に居る

私たちは実は思考の産物の産物の中に存在しています、、見えるモノ全て思考の産物です、、信じられないかもしれませんが知らないうちに思考が作り出した世界の中に閉じ込められているのです。。右を見た瞬間、まだ物を脳が認識できていないこの瞬間、、この瞬間だけが、、本当の世界です。。。逆に言えば、、この一瞬以外は我々は思考の産物を見ているのです。そして見ている私、、これも思考の産物です。

なんのことはない

なんのことはない、、我々は自分が作った思考の産物を見ているのであって神の現象そのものを全く見ていなかった、、本当はいつでも見れるのですが、、、思考が作り出した世界を真実、現実、リアルだと勘違いが起きているので、、、、もう本当に現実にしか見えない世界が登場しました。この夢は現実的過ぎるがゆえに完全に騙されます、、そして現実だという観念がさらにこの夢を現実的にするのです。本当の現実はまさにここに横たわっていますがこれがもう絶対に見えな代物に映っています。

宝の上に現れた代物達

今目の前に宝が凛として佇んでいるにも関わらず、、我々は観念によって作られた宝の代物を見ていますから、、何を手に入れても全くお腹がいっぱいになりません、、飢餓状態、餓鬼状態、畜生状態です、、この空腹感はなんだ???というぐらいに空腹です、、それはそのはず、、視界を変えたその一瞬だけ宝が見えているのですが、、その一瞬しか、、至福に気づかない、、残りの時間は観念が作り出した物語の中に閉じ込められてしまい、、常に宝に飢えているのです。

鳥の動きが優雅なのは

優雅さの理由

鳥の動きに焦りがなく、小賢しさがなく、優雅なのは、、、そこに自己が不在だからです、、、、在るという感覚の中でただ動きが起こっているからです。。。「私は今飛ぼうかな??明日にしようか、、やっぱり明後日だ???」これらの思考の動きが皆無です。。。私は周囲からどう見られているかな???という思考も湧かない、、、完全に今に在り、、、動きだけがあります。

思考に取り込まれていると

思考に取り込まれ自我全開、完全ストーリーの中に居ますと、、、、鳥の動きの優雅さに気づかない、、音楽の美しさも、植物の神々しさも、、何もかもが、、淀んだ世界に変わってしまう、、、この神の現象が、、、ただのイメージ、概念に浸っていく、、、、本当はただ今ここに神が起こす現象しかない、、、このことに気付いてきますと、、、観念が落ちていき、、その度に、、光が戻ってくる、、、これは幼少期に見ていた景色、、、

全部を神の起こりであると捉え直す

先ずは練習です、、頭でこれが神の起こりであると認識していきます、、全思考、全感情、全行動が、、、神の起こりであると、、、、徐々に徐々に認識が深められていきますと、、。次はそれを体験として感じるようになっていきます、、、体験としてその事実を経験できるようになります、、、次にただそれを感じる状態になります、、、

「私は在る」の中にもう一つの私ができた

私の二重構造

何かに夢中になっている瞬間、、、、これを無我夢中と言ったりしますが、、、それでも意識は明晰にあります、、、あの明晰な意識そのものの状態、、、意識としての私、、、という絶対的な感覚、、この意識そのものが本当の私です、、、、、「私が在る」という感覚が先ずあり、、、何かに夢中になっていて我を忘れている時、、、「私は在る」だけがあります。。。我を忘れているにも関わらず「在る」という感覚、、それが真我です。真我とは「真の我」、、、、「我が落ちた時に現れる存在、、それが真の我」です。

真の我の中に「自らの我」が現れた

人間活動とは、、真の我の中で、、、、自らは我が突然脳から現れ、、、真の我から現れた、、、たった一つの現象を、、脳が作り出した観念によって完全に分離して見える世界を生きることです、、、時間、空間という言葉で作った概念で、、、これをストーリー化したものが、、私物語です。これらは全部脳が作り出した言葉を通じてイメージ化したもの、、現象にイメージを当て込み、、、実は我々はそのイメージを重ね合わせて見ています。つまりそれぞれのイメージによってたった一つのエネルギーが今も分離しているように見えています。

脳が自我を忘れていても

脳が作業に没頭し自我の存在を忘れていても、、、、真我ははっきりとそこにあります、、真我が忘れ去られることはない、、、自我はいつでも忘れ去られますが、、真我は忘れ去られない、、、真我を忘れることができる存在がいない、、、誰からも忘れられることができない存在、、それが真我です、、在るという感覚です。脳が作りだした「私」は、、、どこまでいってもその瞬間に脳が作り出すしかできませんから神出鬼没、、ところが見える世界が完全分離しているように見えますから、、、周囲を見ればこの私は「体の中」に居るという錯覚が生まれるのです。本当は真我の中で、、自我も、、周囲の分離も、、分離に見える現象も、、何もかもが起こっています。