悟り

海であることを忘れた波はどこかのタイミングで海に戻ること以外興味がなくなる

現象界、二元の世界、波物語で自分を満足させてくれるものがないと悟った波は海にしか興味がなくなる

自分を満足させてくれるだろう対象を追い求め続け、そしてその作戦が次々に失敗に終わった波は、もうこの現象界、二元の世界、波物語の中で対象を探すのを諦めます。地位名誉、パートナー、ギャンブル、お酒、、社会的地位、霊的成長、、、そのどれもが波を本当の意味で満足させてくれません。それに気づいた波は絶望の果てで何かを手に入れたり、何者かになったり、楽しいを追求するといったことが無駄におわることを悟ります。そして最後に追い求めるのが自身が実は神なのではないか、自分こそが海なのではないか、、という疑問です。

経済的リーダー、精神的リーダーの自殺はこれを分かりやすく見せてくれる

経済的にも精神的にも成功を収めた人の死は、この二元の世界、波物語がどうやら自分たちが思っているようにはなっていないことをそこはかとなく知らせてくれます。世間から人格者と認められたような人間の死は、人格者を目指す人の心をポッキリと折ります。幸せそうな家庭と美貌を持つ女性の死はそれを目指してきた女性の心をポキッと折ります。何を目指せば人間は幸せになれるのか、答えを教えて欲しいとなるのです。

早い段階で究極の挫折を味わった人間は気づきが早いかも

こうなったら幸せになれるだろと着々と準備を重ねいざそれを手に入れようとしたところで足元をスクわれ全てを失ってしまった男性、、、このような人はもしかしたら気づきが早いかもしれません。なぜならば欲しがっていたもの全てを失ったその男性が気づく現実、それは失っても精神状態があまり変わらないということ。あれだけ脅迫的に幸福とおぼしき状況を追い求めていたのにいざそれを全部失ってみたら逆に軽くなった。つまりこの段階で自身が思考や心に騙されていたことに気づくのです。もう何も追い求めなくていい。周囲が望むような現実を私は追い求めなくてもいいという理解はその人を真から救います。

「対象を必要としない喜びを知る」波は今後期待や希望とは別次元で生きる

こうなったら幸福、こういう人生を生きれたら最高、、これは全て無知な波

対象を必要としている時点でそれは本当の幸福、至福、安心、歓喜を知らない人間、波です。対象を必要とするということは自身は欠落した人間で何かが自分を埋めてくれると信じている状態だからです。確かに人間は家も必要だし、お金も必要だし、仕事も必要です。ですから対象が全く必要ないといえば嘘になります。これはこの二元、波物語で生きている以上どうしても必要です。ですが自身の不足感、欠落感を対象が完璧に埋めてくれることは絶対にありません。なぜならばその不足感、欠落感こそは自分がこの心身だという思い込みが生み出しているからです。自分は海ではなくこの波であると勘違いした瞬間からこの欠落感が生まれそれを埋めるために海の代替品を貪っている姿を飢餓と呼びます。

対象を貪るように求めている間は苦しい

かつては何でも欲しがっていた個人、波もどこかでこれはどこまで行っても限度がないことを何となくに気づきます。かつて心から欲しかった物を手に入れても次の月にはすっかりとそれに魅力を感じなくなっているのです。あれだけ欲しがっていた心とはなぜここまで信用できないものなのか、です。心とは不足感、欠乏感、を何かしらの対象で埋めようとする感情です。根拠のない不足感を何かしらの対象、家や名誉、地位、異性などで埋め合わせしようとする働きです。このためこの根拠がわかっていない限り心はこの不足感を埋めることはできないのです。そして心はこの不足感の根拠を発見することはできません。心や思考を信用してはいけない理由は根拠のない欠乏感を何かしらの代替品で埋めようとする無謀な行為だからです。

大人になると貪ることはなくなるが、、、

大人の人間、波は貪ることがあまり成功しないことはある段階で悟ります。ですが結局なぜ貪っても不足感は満足させれないかは理解できません。思考にはこの原因を発見することはできません、なぜならばこの不足感を埋めてくれる存在、海はこの世界には形状としては存在しないからです。そこの解決を図ったのが書道、剣道、武道、茶道といった道教や座禅、瞑想などです。目に見える世界にそれを探すのではなく目に見えない世界にそれを探す行為こそこれらの行動です。大人になってこの世界、人間社会がやはり生きにくいのは結局のところ自分が抱えている不快感、孤独感、不足感の根本を発見できずにいるからです。

海であることを忘れた波は死ぬ前に「もっと色々やっておけば良かった」と言う

波は全知全能、完璧に憧れるが、、、海は無知無能、不完全に憧れてこの世を作った

全知全能、完璧な存在である海がなぜ海であることを忘れた波を作り出した(自我)かと言えば無知無能、不完全を体験するために決まっています。全知全能の海がなぜ波としても全知全能を体験するのか、この波は無知無能を体験するための道具であり、ゆえのこの道具は全知全能を憧れはするが絶対にそうなれません。海が作ったこの世界、現象界は無知無能な波体験をするためのステージです。だからこそ上手くいかないのが当たり前、最初から全て上手くいくならこの現象界の価値はありません。

大失敗最高、不安、飢餓最高、、、これが海の本音

全知全能の海がわざわざ無知無能体験を積むために波を作り出したのですから波体験は失敗続き、七転八倒続き、苦多くして楽なし、、これが基本です。そのような失敗続きの中で波が無心になって物事に取り組めるようになった時に結果はともかくとして集中できること、無心に慣れるその状態こそが至福であることにある時気づきます。大失敗したにも関わらず心が完璧に晴れた状態、無垢の状態があることに気づくのです。無心になって真剣に取り組んでおる時に思考が抜け落ち神を味わいます。この時人間はこの見えるだけの存在ではないことに本質が気づきます。と言うよりも本質になり切ることで本質に戻ります。これが小さな悟りです。

物事の結果に拘っても波は常に飽きる、そうではなく結果に執着することで波が海になればいい

波を波たらしめているのはこれが自分だという思考です。この思考が抜け落ちたちきそこには波と海の境界線はありませんから海しかありません。海=至福、完璧、安泰、歓喜です。人間は思考が抜け落ちればいつでも全存在、ワンネス、神になるのです。ではどうやって思考を抜け落とすのか?それは真剣に物事に打ち込めばいいのです。全てにおいて無心になってことに当たればいいのです。結果に拘ろうと、結果に拘らなくても無心になることに集中すればいいのです。その瞬間思考が抜け落ち、これが自分という思考も抜け落ち、波は海になり、人間は全存在、神、ワンネスになります。

ヤサくれている人(波)この夢物語の初期設定成功

海であることを忘れた波はヤサくれることからスタートする

大人気漫画スラムダンクで桜木花道はヤンキーでヤサくれているところから漫画がスタートします。あしたのジョーも矢吹上が街の喧嘩屋であることから漫画はスタートします。あらゆるヒーローまんがの主人公はスタート時は大体退屈でヤサくれています。これは人間物語、波物語の定石です。そもそもが広大無辺な海が自身を忘れえ波となって人生はスタートしますから常に中から不満足が湧いてくるのです。クソみたいな人生が」スタートしたとヤサくれるのが当たり前なのです。

バスケットボールに出会い、ボクシングに出会い、会社に出会い人は人生を楽しみだす

私の場合は中学時代に受験勉強にハマり人生のヤサくれから抜け出すことができました。それまでは常に不完全燃焼していたのですが初めて受験勉強で燃焼できる体験を得ることができました。桜木花道はバスケット、矢吹上はボクシング、女性であれば子育て、、真剣にならざるを得ない状況に人間は押し込まれた時にそこで無我夢中、無心になり初めての体験を得ます。快楽とは別次元の状態、懐かしくもあり絶対に忘れることができない感覚、この感覚こそが無我の状態、海の状態、全存在の状態です。人間が神になった時の状態です。思考が抜け落ち、鋭敏な感覚だけが残る感覚、明晰さではなく明晰そのものになる感覚。

明晰ではない状態を体験するからこそ明晰に感動できる

海であることを忘れた波が最初から明晰(海)だったら分離体験の価値は一切ありません。波が最初から至福(海)だったらこの分離体験に何の価値もない。人間が最初から充実感の固まりだったら悟り(充実)に何の価値もないということです。ヤサくれ、退屈、不満足、飢餓、、、これがこの人間物語、波物語の定石であり初期設定成功なのです。

悟りに人格や準備が一切関係ない理由

悟りに人格や風貌、容姿が関係していると説くのは自我の策略

悟りとは自分がいないという絶対的感覚のみであって自分という存在の人格、風貌、年齢、能力は一切関係ありません。いなくなる存在の人格、タレント性、風貌が悟りと関係しているとしたら理論として破綻しています。海であることを忘れた波が消滅しそこに海だけが在る状態が覚醒、解脱ですから波の形状、質、温度は何も関係アありません。あまりに多くの誤った情報が氾濫しているのは悟りも準備が必要、選ばれし者だけが悟れるといういかにもこの人間社会に蔓延ったビジネスライクな香りがプンプンする世界ならではです。自我は人間は悟りすらも自我の向上、進化に使ってしまうのです。こういう条件が揃えば幸福、至福に至るという考え方は、こういうエクササイズをすれば体型が変わるという考え方に似ています。そしてそのような理論は自我に好かれます。

これは個人のことではない

世の中の多くの情報は個人の幸福の話です。最新のファッションを取り入れると個人が魅力的になる、、最新の髪型にすると個人がモテる、、この香水をつけると個人が人気者になる、、、全て個人がいかに今よりも良くなるかの情報で溢れています。ところが今回の覚醒、解脱、ノンディアリティーはその個人がいない、錯覚、誤解だという内容のメッセージです。個人を相手にしないのです、読んでいる個人に向かってあなたの存在は錯覚で本当はいないと断言する内容です。そしてその内容の本を個人が読んで腹落ちさせるという意味がわからない内容なのです。ですが個人と思い込んでいる存在は個人ではありませんからその内容を読んでも何も違和感はないのです。最初から読書する個人(波)は存在していなかったのです。個人に見える全体がその本を読んだというだけです。

それでも個人はいない

ガリレオはそれでも「地球は回っている」という言葉を残して裁判で負けたと言われています。これは今回の話と同じ、、この地球上で個人はいないんですよと大声で叫んでも賛同してくれる人はほぼいないでしょう。ですからこのことが議論になっても圧倒的多数決で負けるはずです。ですがやっぱり「それでも個人はいない」これが本当です。その証拠に個人がいるという証明は実質的にできないはずです。

海であることを忘れた波はマイノリティーを排除する

マイノリティーは多数波の餌食になる

集団的自我、自我は集団を作ってときにマウントを取ろうとします。自我そのものが不足感、欠乏感、飢餓感ですから他人との比較で少しでも優位に立とうとします。優位に立つことで少しでも自身が大きなった、豊かになったと勘違いしたいのです。それが集団としても機能するのが多数波の少数派への排除です。例えば関西へ行けば標準語は格好のネタにされますし、ヨーロッパに行けばアジア人は差別の対象になります。体育系の学校に行けばオタク系の学生はネタにされます。自我は人と自身を比較して少しでも優位に立つことで大きなったを実感し続けたいのです。

自分は本当は存在しないのでは?という恐れを常に抱いて生きている

海であることを忘れ波として生きる人間は、実は自身の存在が本当は存在していないのでは?という恐れを抱いています。実際に本当に存在していないのですから当然なのですがこの恐れは強烈にあります。海と波を区切る明確なラインはないにも関わらず人間は見た目が独立しているという理由で分離を表層的には疑っていないのですがとはいえこの心身の扱いに関しては誰もが手を焼いていることから何年経っても自分との関係をしっかりと気づくことができません。どんなに偉そうにしている大人も実は自分のことがよく分かっていないというのが真実です。だからこそ少しでも人よりも優位に立って一時でもいいから安心して生きていたいのです。

存在していないことを認めた方が楽

私はノンディアリティー、悟りについて学ぶにしたがって非常に楽になりました。自分の向上、自分の進化にほとほと疲れ果てていたこともあり、またこの先どこまで精神的満足、経済的満足を追い求めれば楽になるのかという終わりのない旅に不安を覚えていました。そんな自身にとって「自分はいない」という内容のメッセージは最後のウィーサルウェポン、核爆弾なみの破壊力とともに安心感を与えてくれるものだったのです。一生懸命自分と向き合い、努力し、諦めたら終わりを噛み締めながら生きてきた自分にとってこんな安心感は初めてのものでした。フルマラソンのゴールを教えてくれるようなものです。

海であることを忘れた波は悟りに興味を持たない

矛盾するようだが波は海に戻りたくない

私自身スピリチュアルに興味を持つようになって15年以上経ちますが驚くべきことに最初の13年間は本当の意味で悟りに興味を持てませんでした。スピリチュアルと悟り、二つは近い関係のようでいて実は全く異なります、異なるというよりも真逆と言っても良いかもしれません。今でこそはっきりと違いが理解できますが15年間もスピリチュアルを学んできてそこに気づきませんでした、かなり近いことを学んでいるような気になっていたという事実がいかに自我は悟りすらも活用して存続しようとするかの証明です。

スピリチュアルの多くは精神的欲求を満たすための道具になっている

人よりも多くのことを知っているという自覚は自我の大好物です。自我は人より知識を持っているという事実が自我の拡大、自我のマウンティングを強くします。私は優秀である、他人よりも多くの知識を理解する優秀な存在だ。このように自我は知識を利用するわけですがその中でもスピリチュアルに精通することはよりその傾向を強めます。多くの方は目に見える世界しか知らず自身は目に見えない世界にまで造詣が深いのだ、、これは自我にはたまらない喜びなのです。誰も知らない世界を我輩は知っているぞと。そしてこのスピリチュアルの世界の多くはどんなに複雑怪奇で摩訶不思議の世界であってもこの自我の存続にあっては寛容なのが特徴です。自我を肯定し、なんなら輪廻転生と呼んだ他の惑星ですらこの魂は移住して生き抜くという自我の存続には大変都合の良い話の展開になっているのです。この世で体が滅びてもまだ違う惑星、違う時代にこの魂という自我の別称は存続できるのだと。これで自我は胸を撫で下ろしてぐっすりと寝れるわけです。

悟りを正しく表記している本はなぜか読み進めることができなかった

悟り、解放、解脱、、これらを正しく説く本に出会ったことはこれまでも何度もあったのですがなぜか不思議にも興味を持てないのです。スピと悟りは兄弟であると捉えているにも関わらず読もうとすると強烈な無関心が襲ってきます。なんか読みにくいし説明も周りくどく不親切な本ばかりだと真剣に考えていました。読みたくなるのは精神世界でなおかつ自身(自我)が同時に豊かになる本ばかり。幸福になったり経済的に豊かになれると詠う本ばかりです。結局のところ悟りもスピもいかにこの自我が豊かになれるかを説いていると真剣に考えていました。だからこそ悟り系の本を読み進めていくと頭が混乱していつの間にか辞めてしまうという展開がほとんどに。

あなたは実はいないのだ、、

自我の終焉、自我の消滅、、悟りの本質はそこにある。本のタイトルでこのような言葉を徐々に目にし始め私は少しずつですがそこに興味を持ち始めました。これだけ経済的も精神的にも豊かになるための努力をし続けてきたにも関わらず気づけばまた貪るように次の本を読み進めている自分に気づきました。この戦いはどうやら終わりがないなと、、、。そこで私は覚悟を決め「悟り」「解放」「解脱」「ノンデュアリティー」を掲げる本に真剣に向き合うようになったのです。幸福になるあなたはいない、あなたがいなくなれば全てがOKになる、、至福とはあなたの欠落だ、、、、世の中の常識、成功哲学、スピリチュアルの内容はあなたの進化、あなたの努力、あなたのバイブスの上昇、これが当たり前ですが、、、悟り系だけが、、あなたがいなくなればいい、、、これは真逆、正反対の内容です。ですが今ではよく分かります。自我の存続は人類の興味でありそれ以外の情報はこの世では先ずまともに取り扱われないということが。

海であることを忘れた波がどれほど苦しんでいようと海はその姿を見続けている

波が生死を彷徨うような苦しみの中にいても海はその姿をただ見守る

波が生死を彷徨うぐらいに悩み苦しんでいる時、海はその姿をただ見守っています。波にとっての地獄は海にとっては波物語最大のチャンス、クライマックス、自身が実は海であったことに気づく最重要ポイントです。波が意気揚々と波自体の物語を楽しんでいる時、その楽しいがどこから生まれているかに気づくチャンスです。なぜ目標を達成した瞬間安堵感に包まれるのか、絶体絶命の事故に巻き込まれたときに思考が鋭敏になるのはなぜか、、過去には楽しかったゲームは毎日のように楽しくなくなっていくのはなぜか?全てこれは波と海の関係で説明がつきます。波が繰り広げる波物語の中には自身が実は海であったことに気づくチャンスに溢れているのです。

苦しい時は自我は苦しみに執着しないから自我が弱まる

禅の修行などかなり厳しい修行が悟りに用意されている話などたまに聞きますが、苦しみは自我を弱めます。例えば禅の修行が金銭的な豊かさや精神的豊かさを与えるようなものであったら自我は肥大化し続けていくでしょうかこれは成り立ちません。ですが修行が厳しければそこで自我が肥大化することはありません、なぜなら自我はその苦しみにしがみ付くことはないからです。俗世間では自我が肥大化するチャンスに溢れています。評価されること、称賛されること、他人との競争、経済的に恵まれること、、これらは全て自我が自身を大きくなったと錯覚するパターンです。ところが厳しいこと、苦しいこと、、これらで自我が肥大化することはありません。むしろ苦しみは自我の存在を海が見つけ出し、波(自我)が海に吸収される可能性を秘めます。

無我夢中とは

そもそも苦しいという感覚は海であることを忘れ自身を波と捉えることからスタートします。突然自身がちっぽけな存在になってしまったことで苦しみが自然発生的に生まれるのです、自我ができることはこの苦しみをできる限り直視しないで日々の生活の中に楽しみを探しこれを忘れることぐらいです。無我夢中という言葉は自分を忘れ夢の中にいることを指しますが実際はこの世こそ夢の中ですから夢の中ら無我とは夢の外へ出る行為なのです。夢の外とはつまり海になっているということです。無我夢中はその瞬間悟っている、波から海になっている、人間から全存在に戻っていることです。

海であることを忘れた波は必ずいずれ海に戻る

波だと勘違いしようと何だろうと波の最終形態は海に戻るのみ

自身を広大な海ではなく極小の波だと勘違いすることからこの波物語はスタートするわけですが波の運命はすでに決まっていていずれは必ず海に戻ります。海に戻らない波はありません、なぜならば波とはいずれ消滅することが約束されているからです。太平洋のど真ん中で発生した波は何ヶ月もしないうちに必ず陸地にぶつかりそこで消滅します。この消滅を悟り、目覚め、覚醒と呼ぶのです。目が覚めるのは波ではなく勘違いしていた海が波が消滅することで我に帰るだけです。

どんなに苦しそうにしている人間がいても気にする必要はない

人生が最高にハッピーでいつまでも長生きしていたい、このような波として生きている人はいるでしょうしそれはそれで何の問題もありません。いずれは海に戻ります。一方で人生は悲惨で最悪でいち早くこの人生を終わりにしたいという波がいるかもしれません、ですがこれも全く問題ないのです。なぜならばそのような波はなるべき早く消滅し海に戻るだけだからです。最高にハッピーと宣っても、最悪にアンハッピーと宣う波も海の安心感、安堵感、歓喜に比べればどれも目糞鼻糞の世界、五十歩百歩の世界です。人間は所詮他人との比較でしか自分の幸福度を決めれないという稚拙な尺度しか持ち得ない生命体です。他人との比較で決め込んだ幸福度など海の幸福、安堵、平和とは次元が違うものです。つまり所詮は一時的な快楽でしかないのです。

真の幸福(海)は波の幸福度を超えたところにある

金メダリストや成功者のインタビューで結果を出せたときの喜びを聞きますが決して騙されてはいけません。波として何かを得てもそれは全て一時的な快楽、その快楽は一瞬で終わりを告げます。ですが何かを成し遂げたときにこみ上げてくるこの達成感と称される感情とは実は一瞬だけ海になったときの感覚なのです。だからこそ笑顔から安堵感や幸福感、至福が見えるのです。海を垣間見た人の表情を見せます。ところが自我(波)はすぐにその経験を自身の自我拡大に使ったりするから騙されてしまうのです。波が対象と一体になる瞬間だけ実は波が消え去り海に戻るわけですがこの海に戻った感覚こそが覚醒のヒント、海に戻るヒントです。

海であることを忘れた波は心配性

広大無辺な海が自身を極小の波だと勘違いすれば将来は不安だらけ

将来不安がいつまでもどこまでも解消しない理由はそれは将来がそれだけ不安定だからではなく人間の構造的な欠陥から起こります。本来広大無辺な大海原である存在が自身を極小な波だと勘違いすることからこの波物語、人間物語はスタートします。安心、安堵、平和そのものである海という存在から、極小の波だと勘違いしている状態は安心、安堵、平和を無限に追い求めることになります。これが人間という存在の構造的メカニズムです。このメカニズムを理解しないと延々と将来不安に困り果てていくことになります。

では何も心配しないのが正解なのか?

そうなると人間から必ず出てくる質問があります。それはだったら心配をしないで生きるのが正解なのか?ということです。これはもう理論として破綻しています。心配は次から次から湧いてくるのであって人間がこれを止めることはできません。自身を全存在であることを忘れ極小のこの体と勘違いしている限り延々と不安が湧いてきますよと言っているのです。ですからこの勘違いを完璧に解消する以外に問題解決はないのです。私が推奨するのは、もしも不安が湧いてきたらそこから無心に入るということです。不安を解消するために無心になってそこに向き合いそこから無我、無心を体験してしまうということです。自身から我が抜け落ち全存在(無我)になったときにそこには安心感しかありません。安心、安全、安堵は条件が作り出すのではなく自身の状態によって決まることが理解できます。そこに勘違いした自分がいては不安は絶対に取り除くことはできません。大いなる勘違いこそが不安を湧き起こしているからです。不安をありのままに見てそしてその解決に向かって無心になれば突然安堵感に包まれます。それは自我が求める安堵が手に入るのではなく自身(全存在)が実は安堵そのものだったと気づくことです。

不安症は欠乏感、不足感が形を変えたもの

広大無辺な海が自身を極小の波と勘違いしたことからこのあなたの世界はスタートするわけですが、あなたの見ている世界は勘違いをベースに構成されていますからどこまで行っても真実は見つかりません。勘違いした波が真実を発見することはないのです。なぜならば自身の存在(波)こそがこの物語を作っているのですからその物語の中に真実は発見できないのです。私たちに用意されたここから抜け出す方法はこの物語から自分(波)を消滅させてしまうことぐらいです。日本では昔から書道、剣道、茶道、禅といった文化がありここでは結果ではなくまさに所作そのものから悟りを開くことを説いてきました。所作に無心になって取り組むことでそこから邪念、思考、自我を取り除きその場で無我、全存在、海になってしまうということです。座禅では目をつぶり視界を消して直接無我に入っていきます。書道、茶道では行為と一つになることで自身の体、思考をこの世から落としてしまいます。そこで感じる無我の世界、全存在の世界、仏性の世界が安堵、安心、平和そのものです。