自我

色の世界を生きる自我

自我は色の世界でもがく

自我にとって世界とは色です、そうです現象の世界です、、、物が溢れる世界、、名前がついた物だけが登場する世界に生きます。自我には空の存在は理解できません、、なぜならば空を理解してしまったら自我の存在がただの現象であることになってしまうからです、それは断じて受け入れがたいことなのです。自我にとって自我は盤石な存在、決して失われてはいけない存在、唯一無二の存在なのです。

自我は色の世界に居るということは、、、

色の世界に自我が居るとなれば、、、自我は現象です、色も現象です、、、色の中に自我も現象として現れています、、この現象は移り変わる世界、諸行無常の世界ですから、、、自我も同じままではいられません、、常に変化変化が起き続けます、、この体も一瞬一瞬同じままではいられない、、、これがこの色の世界の絶対的ルールです。同じがない、、ただ今ここで現れ続けるのみです。この色の世界で絶対に変わらない存在が居ます、、それはこの色の世界に気づき続ける存在、、空です。気づきの意識です。

気づいている、だから自分が居る

気づいている、、だから自分は居ます、、、違います、、ただ気づいているのです、、、この気づきはこの体の中で起こっているのではないのです。この気づきがこの体に気づいているのです、、この気づき(空)がこの経験に気づいているのです。自分など居なくても、、気づきの意識は常に気づき続けています、、自我に気づいていない時も常に気づき続けています、気づきの意識(空)が。

敗北者から後悔を取り除くのは至難の技

後悔こそが自我延命システム

失敗者、敗者は深い後悔の念に苛まされます。あの時これをしなければ、、あの時にこの決断を私がしなければ、、あのアドバイスを聞いておけば良かった、、なぜあの人の真似をしなかったのだろう、、、エンドレスに後悔が起き上がります。全部これは自分の存在、そして自分の自由意志が有るという前提で起こっています、ですが実際には自分も自分の自由意志も存在しません、、、

後悔を使って自我は生き延びる

なぜ後悔をするのか???それはもっと良い方法があって次はそうしようという期待があるからです。それをしようとしているのは自我であり、、その期間自我は大安泰に入れるのです、、、次に期待を込め、、、次への改善に走るのは自我です、、、自我はどんな手を使ってもこの自我として至福を見つけたいのです。そんな自我に向かって、、「自分も自由意志も存在しない」というメッセージは畑違い、空気読まなさすぎなメッセージになります。

くよくよ後悔してるようですが、、、自分も自由意志もないですよー

大後悔は大茶番です、、、至福が大後悔するって意味不明ですよね、、、そうです、、至福(気づきの意識)が自我に意識することで苦しみが起こっているだけですから、、自我の失敗に大後悔するなど大茶番です、、、自我最大の失敗は、、自我にフォーカスが当てられているということです、気づきの意識から。ただこの事実に気づきの意識が気づくことです、、これで全ての苦しみは終わります。

成功者から自由意志を取り上げるのは至難の技

自由意思大好き人間

成功者は自由意思大好き人間です、、だってその人の自由意志を最大評価されるのが成功者だからです。最大評価されたのは誰ですか???自我、自分です。、ですから成功者は自分が大好き、、、その自分が自由意志を最大限発揮し成功を手に入れたという御大勘違いをしています。本当は自分も自由意志も一切ないにも関わらず、悲劇です。

成功中に悟るのは難しい

成功者の多くは無我に入るのが得意な人種でしょう、、なにかに集中しなければ結果を出すのは難しいからです。ですがその功績を自我は絶対に手放さない、、、私がこの功績を作り上げたと評価を受けたがります、、そして案の定その評価を受けた自我は悦に浸るのです。一時の安心を得ます、今後の安泰を期待します。ですから成功中の自我に「自由意志はない」「自分も居ない」というメッセージを放てばとんでもない過剰反応が起きるのです。

自己実現から自己超越へ

自己実現を達成した自我は己に酔いしれていますから、、最も危険な状態とも言えるでしょう、、酔いしれているのに苦しいのですからかなりの孤独を感じます、芸能人、スポーツ選手のスキャンダルの多くはこれが原因です。酔いしれながら苦しいのです、、、、そしてこの苦しみを取り除いてくれる最後のメッセージが「自分が居ない」「自由意志がない」です。自己実現を達成した自我の全ての功績を取り上げるこのメッセージが苦しみを終わらせます。これに気づきの意識が気づくと苦しみが消えます。自我に成り切った気づきの意識がこれに気づくと苦しみが消えます。

普通でいい、、も執着

普通の暮らしでいいんです、の罠

普通の暮らしでいいんです、、これも自我の執着です、、、自我の生存戦略です。普通が出る杭ではないから安全でいい、、が隠れています。普通が一番安全で長生きできるが隠れています。ですから普通の暮らしをしていても苦しいが湧いてきます、、、だから普通じゃない生活をしている人の失敗に異常に感情が芽生えます。芸能人、著名人のスキャンダルに異常に反応を起こします。

普通を目指す自我の生存戦略に気づく

普通を目指す自我の生存戦略に気づきの意識として気づきます、、しっかりとそこには戦略があることに気づくのです、気づきの意識として。その戦略を気づきの意識として気づきます普通への執着が緩みます、苦しみが減ります。自我の無意識の動きに気づきの意識として気づくと苦しみが減るのは、、、気づくのが気づきの意識(至福)だからです。

気づくのはいつだって気づきの意識

何かに気づくのは全部気づきの意識です、、、だからどんどん楽になる、、、友人が多いからって幸福じゃない、、これに気づいたのは気づきの意識です、、、お金を持ったって幸福じゃない、、これに気づいたのは気づきの意識です、、、名声を得ても幸せじゃない、、これに気づいたのは気づきの意識です、、、、自我の無意識な執着が溶けていきます、、気づきの意識が自分ではなく気づきの意識そのものに意識が向く時間が増えます。この自分に意識を向けても苦しいだけ、、この自分が何かを達成しても苦しいだけという気づきが気づきの意識から起こります。

自我の共存共演作戦

相手の自我を刺激し共存共栄を

自我は相手の自我を刺激し、、共存共栄を図ります。喧嘩を吹っかけて反応を期待します。反応が起これば占めたもの、相手との喧嘩に自我は実は大喜びします。結果は自我無しでは成り立たないからです。相手は私の体の中の自分を標的にしますから強烈に自分を意識することができるのです。体の中に自分が不在の状態で喧嘩を吹っかけてくることはありません。

相手の作戦に乗らない

喧嘩をふっかけてくる相手にはどう対応をすればいいのか???先ず相手の体を通じて喧嘩を吹っかけるが起きました、、ここ重要です、、そこに相手の自由意志は全く関わっていません、、その現象が起きたのです、、するとそこに関わるか否かにおいて感情が湧きてきません。そして究極を言ってしまえばそこに反応が起きるか否かも全体からただ起こります、、そこに自分の自由意志はないのです、、、この事実に気づくことです、、この事実に気づきの意識として気づくのです。

喧嘩のふっかけに乗っても全く後悔しない

喧嘩のふっかけに思わず乗ってしまった、、、相手に自由意志はないのに、、そこは分かっていたのに、、そうではないのです。。そこにこの体がどういう反応をするかも自由意志はないのです、、自由意志がない同士の反応が起きただけです。起きた結果に反省が起きるのは、、こちらに自由意志があると思い込んでいるからです。ここに気づきます、気づきの意識として。

ノンデュアリティとは自我研究、自我解放

自我のあらゆる幸福探求は失敗に終わる

ノンデュアリティが自我を解放します、、ノンデュアリティが自我に意識が向かなくなること、これが悟りです。ノンデュアリティが自我に意識をフォーカスする時、、苦しみが生まれます。非二元が二元の世界を体験します。そのためのツールが自我です。真我が二元を体験する時に自我に意識を向けます。意識が非二元ではなく二元を経験する時に自我に意識を向けます。これは至福による苦しみ体験です。よってこの経験は苦しいことが完璧なのです。

自我とは苦しいがデフォルト

私は苦しくない、、私は苦しいを全く感じない、、、嘘です。。この私こそが苦しいを生み出すフックだからです。真我が自我に意識を向けることで二元の世界が起こり、苦しみが湧き出すのです。真我は真我のままでは至福そのものであり、、至福を体験できない、、、自我を通じての至福の再発見こそが真我の目的です。だから自我は真我を見つけるまで苦しいのです。真我が自我に成り切り(意識を集中し)苦しみからの解放を湧き出させ至福への渇望が起き、至福を探し出し、、そうだそもそも真我(至福)だったという気づきを得るのです。

世間一般でいう幸福を手にし全く満たされないことを知る

多くの人が羨むような生活を一度でも手にしてみれば直ぐに分かります、、全く満たされないことが、、、ここでの絶望こそが、、、真我への興味が起きます、、そこにしか至福がないことを悟ります。自分が何かを手に入れるでは絶対にそこには到達できない、、獲得ゲームではない、、、至福とは手に入れるのではなく、、自分を落とすこと、至福が至福であったことを思い出すことしかない、、その気づきが起きます。

損をすることを嫌う自我

損得の世界に生きる自我

30円でも安い店で買い物をする、、なぜか???自我は損をするのを極端に嫌います、、なぜか???思考は全てこの体を有益にするための僕だからです。この思考とこの体を同一視すれば、、、そのような行動になるのです。。他の人は得をして自分が損をするのが許せないのです。自我は比較の中で幸不幸を判断します、だからいつも得をしていたいのです。自分とはそういう存在なのです。

だからいつも苦しい

自分は常に苦しいのです、、その苦しみを比較の中で起こっていると勘違いします。他の人よりも安いアパートに居るから苦しい、他の人よりも給料が安いから苦しい、他の人よりも太っているから苦しい、、、、と全部が全部この調子です。ですが実際には自分で居ることが苦しみを生み出しています。

本当の苦しみの原因に気づく

気づきの意識がいつでもあり、その中に自分という存在が後天的に発達しました、この自分を気づきの意識が意識することで苦しみが生まれます、、このことに気づきの意識が気づくことです。自分には自由意志があり、自分には決断力があるという勘違いが後悔、反省、期待、緊張を生み出します。これが勘違いであることを気づくことです、気づきの意識が。自分が気づくのではありません、、自分など存在する前から確実に存在していた気づきの意識が今気づくのです、これで苦しみが今消えます。

スピと悟りの関係

スピは自我を緩める

物質史上主義の人にとってスピは自我を緩めてくれる大きなメリットがあります、、目に見える世界が全てという価値観の人にとって目に見えない世界を見せてくれるスピの世界は重要です。私は江原さんのスピ系の書籍を読むことで現世に対する執着が確実に緩和しました、、現世において絶対に失敗したくないという執着が減ったのです、これによって今世は今世として徹底的に楽しもうという感覚にリセットできました。

自我が緩めば、、

自我が緩みますと、、逆に今世を徹底的に楽しんでやろうという思いが募っていきました、、結果願望実現系のメセージに傾倒しそこに逆に執着していきました、、、今世を安全に生きることに興味がないん分、徹底的に成功することに執着が起こったのです、、ですがそうは問屋が卸さない、、成功が約束された道などないのです。

成功を諦めた次に

成功というのは自身の興味と事業の方向が一致しなくては難しい、ですがこればかりは自身ではどうにもならない、、なぜならばそれを決めることができる自分が存在しないからです。運任せ風任せなのです、、、事業成功に興味が薄れた自分は悟りへの興味を募っていきました、、スピによって自我が緩み、、悟りへの階段を確実に進んで行ったのです。

力が抜けてしまうという副作用

もう頑張らなくていい、、という脱力

全体から全部の言動がただ起きている、、、この事実を突きつけられますと、、、もう頑張れない、、、だってそこに自分がいないのです、、頑張ってきたと思っていた自分が居なかった、、、もう何も無理ができない、、サレンダー、、、今日はこれをやって明日はこれをやらなきゃが、、、出てこない、、、究極の脱力、、これが悟りです。。いやそんなんじゃ生きていけないのでは、、、違います、、今までも全部全体からの起こりが起きていただけです。

頑張らなくては、、、という自我が抜け落ちる

頑張らなくては、、、これが起きることも当然あります、全体から。ですが自分が頑張らなくては、、がない。。。。この違い、、、全責任を自分が背負っていた重責、重さがガッツリ抜け落ち、、、ただ頑張るが起きれば頑張る、、やる気が起きればやる、、、ただそれだけ、、、そこに自分は居ない、、、、拍子抜け、脱力、無力、、、

行動に対する思考の分析が消える

この行動に対し、なぜこんなことをしてしまったのか?もっと良い方法があったのでは???がない、、何も検証が起きない、、、ただ行動が全体から起こっただけ、、、そこを検証することができない。。。それをする自分も居ない、、、これは世捨て人なのか、、、、違います、、ただ事実を理解しただけです、、、事実に即した行動が起こっただけです。

悟りすらも人生の充実に利用しようとする自我

悟ったらどんな人生になれるだろう????

悟ったらどれほど人生が充実するだろう???悟れれば今の苦しみが消え失せ毎日の人生が楽になるのでは???これが自我の陰謀、策略です。悟りとはこの自分もこの自分の人生も、、全部もともと無かったという気づきです、、自分も人生も全く存在しなくても、、しっかりと意識だけは元々あった、、、この気づきの意識に戻ることが悟りです。

自分も自我も存在していなかった世界に戻る

結論から言えばこの自分に意識がフォーカスすることで思考が溢れ出て言動が溢れ出てこの言動に振り回され続け苦しみが生まれます。このメカニズムに圧倒的に気づき、、いやそもそも自分なんてなかったよね、、、という究極の気づきに至ることが悟りです。自分なんて存在せず、存在なくして普通に生きていた赤ちゃん、、、ところが後天的に発生したこの自分に意識のフォーカスが集まることで、、自分ストーリーが始まった、、、そこからが苦しみの毎日に、、、

悟りとは全部諦めるということ

悟りが自己啓発と全く異なるのは、、、全部を諦めるのが悟りだということです。全ての言動がただ気づきの意識、全体から起きているという究極の諦めです、、、、そこに自分は何も介在できない、、いや自分が居ない、、、自分が居ないわけだから充実した人生が虚偽だった、幻想だった、妄想だったという気づきです。これの何が良いのか???自分には良くないのです、、、ですがなぜか至福感に包まれる、、全てを手放した時至福が現れます。