悟り

悟りというコンフォートゾーン

全俯瞰

悟りとは全部を俯瞰することです、宇宙の俯瞰です、、宇宙のシステムを体感として理解することです、、、体感ですからこれは簡単に伝わるわけがないのです、、、、、ですが我々はこの言葉を体感で獲得していきました、、幼少期に、、、これを悟りでもやるのです、、、、宇宙の俯瞰を七年間かけてやればいいのです、、言葉を覚えた時のように。

全反射

見かけ上の私が理解した悟りは全反射です、、、全ての現象はこの反射の塊、反射の永続、反射に次ぐ反射、、人間の言葉も感情も、行動も全生命の活動も反射が起き続けている、、、、その様は無限、、視点を変えれば無限の現れが続く、、、それを感じる、、その感じ方はまた無限、、、この無限の感覚、経験こそがそれだけが真実、、それ以外は幻想、、、この経験の寄せ集めが神、無限、空の存在、、、無限の経験の寄せ集めです。

全不自由意志

全部の行動、思考、活動はただの反射ですからここをコントロール存在「自分」など絶対に居ません、、自分という実在は当たり前に居ません、、、、全反射が起き続けるだけです、、この事実の圧倒的理解は、、究極の安堵です、、、この安堵感は恍惚状態であり、、、誰にも奪われることがありません、、、反射によるトラブルは毎日のように起きても、、、それが反射であるという圧倒的事実を把握した今、、、感情が乗ってこないのです。

生き辛さという救い

実は救い

生き辛いというのは実は救いです、、、今まあまあ幸せな生活をしているという実感は悟りを遠ざけます、、、快適よりも不快な生活の方が真剣に悟りを求めるからです。見かけ上の私は25歳ぐらいに悟り以外に道はないことを悟りました、、そこに気付けたのは苦しみ以外にありません。そこからの苦しみの全部は、、悟っていないから当然というどこか他人事のような苦しみに変わりました。

全ては悟りが解決する

私は全幸福の術は悟りしかないことを20代で悟りました。その結果、、、あらゆる苦しみの出来事を悟りのせいにできたのです、、、全苦しみは悟っていないから、、、、これは大成功であると同時に悟りへの衝動を維持できたのです。悟以外に解決はない、、、これは間違いのない事実です。どんな成功者も、、悟っていなければ確実に苦しんでいます、、むしろ手に入れた後の苦しみに毎日追い詰められているはずです。

ベクトルがまるで違う

何かを達成したり手に入れることでは人は絶対に幸福にはなれない、、、これが悟りです、、そして次の段階に至ると、、個人がそもそも居ないのですからこの個人を幸福にすることが実は不可能だったという気づきを得ます。個人とは、、実は錯覚で、実在していない、、、むしろこの錯覚を作り出す大元の存在、、それがこの私だ、、、そして見える全ては錯覚であり、、錯覚の中で経験だけがエンドレスに続く、、この経験だけは間違いのない真実、、この経験を寄せ集め、、、集積したものが空、神、絶対と呼ばれる無限の不在です。我々はこの無限の不在の鏡を今見ています。そして鏡に写った景色の中にこの体も現れ、、これを私と誤解しながら生きてきたのです。

見える世界が究極の現実に見えるのは、、

見える世界は究極に現実に見えます、、それもそのはずこの映像は無限の不在の姿だからです、、、無限です、、無限が映像化されているのですから、、、その緻密さは無限なのです、、、細胞はどこまでも細かく解剖できます、、無限の現れですから、、、知り合いを作ろおうと思えば無限にできるでしょう、、無限の鏡ですから、、、何もかもが無限、、、それがこの宇宙が無限である証拠です。

今この場所

今この場所が無限の現れです、、、つまりこの場所以外に何かを求めても無駄なのです、、、この場所で至福に至れなければ、、次の場所でも至れない、、、ということが自然と分かる、、ですがこの場所に縛られる意味も全く無い、、、場所とはどこも無限の現れ、、、このことが分かると、、人生の目的はこの私の欲望追求ではなく私の追求に変わります、、私とは誰だ???の追求です。

どうでもいい、、ではない

全ては同価値

悟り、ノンデュアリティのメッセージは、、、ある種世捨て人的な概念、イメージを植え付けます、、、ですがこれは全くの誤解です、、、、全てが同価値になるのです、、、、母親も、近所のおばさんも、その猫も、、、全部が全部同価値の世界、、、全くの虚無主義です、悲観主義とは真逆です。なぜそうなるのか???それは真実の現れに優劣が全くないからです。。真実はたった一つ、、目の前の経験であり、、、それ以外もそれ以内もないのです、、、ただこれだけ、、、、

全人類が生徒

全人類が学校の生徒、、、、先生は生徒の価値に優劣をつけません、、なぜならば成績の優劣は、、生徒の価値の優劣とは全く異なるからです。。。これが悟りです、、、、全生命現象に優劣がなく、、、全人類の思考に優劣もあるわけがなく、、、全人類の行動にも優劣がないことが完全にわかっった時に、、、この感覚が芽生えていきます。

釈迦が見た世界

釈迦は宇宙をありのままに見た

釈迦は2500年前に、、、王の座を捨て悟りを開きました、、、彼は「私とは誰だ???」というただ一点の解明をし、、、、自我の不在を完璧に見抜きました。。。。私という存在は実は居ない、、、、だが確実に「在る」という感覚は100%在る、、、、これが何を意味するのか。。。本当はこの在るという感覚の中で全てがただ起きているだけなのではないか????という気づきを得たのです。

その瞬間

その瞬間、、全部が自分にシフトします、、、全部が自分の中で行われている、、、全部が全部自分の現象でしかない、、、、この気づきが起きるのです、、、、全部の現象がただの現れであるならば、、、、現象に優劣などあるわけがなく、、、この体すらも、、、この本、このペン、この財布、、、と何も変わらない、、、現象に過ぎない、、、全部に価値がないというよりも全部に価値が同等にある、、、となります。

全てが同価値

全現象、全思考、全感情、全行動が、、、、ただの現れであることに気づくと、、、全てが同価値になります。。。「私の思考」は「彼の思考」よりも絶対的に重要であり価値がある、、、から私の思考も彼の思考も完全に同価値になります。信じられない観念のシフトが起きるのです、、、そしてこの最後の観念は、、、真実ですから、、、観念ですらありません。。。

実は観念しか見ていなかった。。。

真実に気づきますと、、我々は実は観念しか見ていなかったことに気づきます、、、重要だと思っていることしか視界では観ることができず、、、我々は覚えた名前のついた世界にどっぷり浸かっていたのです。この気づきはもうこの私を幸せにするという欲求を奪い去り、、、欲望の全てが真実の完全把握に切り替わります。釈迦が見た世界を私も見たい、、、ただこれだけが欲求として強烈に残ります。

悟った、、、

強烈なリアクション

多くの方が悟りに懐疑的なのは、、、悟った人に対し、、、自身がとてつもなく不信感の目でその人を見てきたからです、、、、嘘くさい、うさんくさい、怪しい、、、のオンパレードです、、、ヤバイ!!!!自我防衛システムにとって悟りとはこのシステムの崩壊を意味します、、一生懸命この体を守るために機能してきたシステムを崩壊させるなどありえない、、、だからそれが崩壊した人が登場すれば懐疑的な目のオンパレードです。あら探し、自我探し、悟り詐欺を見抜いてやる、、、になります。

だからこそ、、、

だからこそこの自分が悟りを開くなどあるわけがない、、、あの怪しい輩の仲間入りなどしてなるものか!!!になるのです、、、、ですが本当の悟りは個人に起きるものではありません、、、個人が居なかったという強烈な気づきが起きるだけなのです、、、、自我防衛システムがシステムでしかなかったことを見破るだけなのです。ですからこれは、、、多くの方が考えている悟りのイメージとはまるで違う、、パラダイムシフトです。

自我を愛する

実は、、、自我を冷静に愛することが、、、、自我解放に最高なのです、、、なぜならば自我はこの体を守るシステムであり、、このシステムは間違いなく有効にこれまで機能してきたのです、、、この機能を否定するなど、、、完全なる空気読めない行動です、、、自我という鉄壁な防衛システムは誉め殺しに限ります、、、自我は褒めてなんぼ、、そして自我を褒め殺すことで、、、本当に消滅させます。

本当の自由

本当の自由とは???

本当の自由とは、、自分が自由そのものだったという気づきを得ることです、、個人が自由を獲得するのではなく、、自由そのものだったという気づきを得ることです、、、全く視点が違うのです、、、個人とは実は自由を拘束する存在そのものです、、、この体の中だけが自由であり、周囲1メーターだけが自由が存在する、、この家の中だけ、家族の中だけ、、、自由が存在する、、、違うんです、、、

自由とは完全な手放し

自由とは個人が自由意志を働かすことではなく、、、自由意志が完全にないことを悟ることなのです、、個人も、自由意志も嘘だったという気づきを得ることが、、、悟りです、、、もう何もコントロールしなくていい、、いやコントロールなどできないのだと悟るのです、、、コントロールしているように見える人々が居ますが、、、完全なる嘘、偽り、錯覚です、、、、

どないすんねん

仮に、、、そうだとして、、、これから私はどうやって生きていけばいいんですか?????それを決めることができる個人が居ないんです、、、ですからこれからも風任せ、運任せ、、です、、、今まではそれを自分がやっていたという勘違いが起きていたのです、、、お手上げ、降参、腰砕けです。

サナギの脱皮

幼虫から蝶へ

悟りは幼虫から蝶への変身に例えられますが、、まさにその通り、、これは原型が全く変わってしまう、、今まではこの体の中に自分が居ると思っていた、、、それがこの全部が自分だった、、この体も自分で、、この体の中に自分が居るという思考も自分、、、全部が全部自分、、、という自分のパラダイムシフトです。

ただその自分は全くの不自由意志

ですがその自分とは全くの不自由意志、ノーコントロール、、、自由意志など全く存在しない存在、、ただの化学反応、、この体も思考も、感情も、行動も完全にノーコントロールというとんでもない事実、、、これだけが真実、、変化、易、諸行無常、、ノーコントロール、、、

自分が居ないを分かった自分

自分が居ないことが分かったもう一つの自分を作り出せば、、、その自分が教祖になって、、、宗教を作ります、、ですがその自分とは全くのノーコントロール、大自然でしかないことが分かると、、、救うべき人、救わなくてはならない人も誰も居ないという気づきが起きます、、、これは自我の拡大ではなく、、自我の消滅なのです。

委ねる

本当の美しさとは

本当の美しさとは、、委ね切った動きです、、全体に、森羅万象に委ね切った動きこそが美しい動きなのです、、そこには計算がなく皮算用がなく、、動きに任せる動きが起こります、、、自我は計算に継ぐ計算、皮算用に次ぐ皮算用、小賢しさに次ぐ小賢しさ、、これしかない、、、全く美しくない、、、

委ねるには

委ねるには、、、真実を知ることです、、、真実に照準を定め、、真実を手放さないことです、、ギュッと握って、、、手放さない、、、そこにしか至福、静寂、平和がないことを悟ることです、、、この現実社会が100パーセント実在しないのは分かっているのです、、「モノがある」という感覚は100%錯覚なのは分かっているのです、、、なぜならば、、、理屈上ありえないから。

だとすれば

私など絶対に居ないことはわかり切っているのです、、だとすればこの全てが自分でしかない、、そこにしか可能性はない、、その感覚でこの世界を見渡します、、「在る」という感覚が間違いなくあり、、この感覚だけが真実、、、それ以外は全て錯覚、、エネルギーの現れに過ぎないことを悟ります、、その時にこの世界は完全無欠であることに気づきます、、、何も問題など起きたことがなく、、、これからも起きないことが分かります。

悟りへの再吸収が始まる

何かに引き寄せられる

悟りに興味があるということは、、、もう既に悟りへの再吸収が始まっています、、掃除機のように悟りに再吸収されていきます、、、自我が解体され、、粉々に砕かれ、、、掃除機に再吸収されていきます、、、これが悟りへの衝動です、、、自我を存続させたいという衝動よりも自我の解体への衝動が大きくなっていく。自我を壊したい自我を解体したいという驚異的な感覚が起き始めます。

話しかけられれば、、、

話しかけられれば、、、自我が起き上がります、、、自分は居るぞ!!!と、、、ですがもうどこかで、、それがハッタリ、嘘、パチモンであることを知っているもう一つの自分が居ます、、、自我を俯瞰する、、存在が居ます、、、、自我を作り出す思考、エネルギーに気づくもう一つの自分がハッキリと居るのです、、、自我の立ち上がりこそが、、むしろ俯瞰するもう一つの存在を意識できます。

仕事をしていると、、、

仕事をすればはっきりと自分が起動します、、この起動に気づきます、、、、自分が立ち上がり、、、相手に話しかけ、、話しかけられ、、それに反応する思考、、、この自分が居ての前提の思考がただ湧き起こる、、、、これに気づきます、、自我システムの自動反応を観察するのです、、見事な反応を俯瞰します、、、感情まで湧いてくる、、、この反応を、、、

俯瞰して俯瞰して、、

俯瞰して俯瞰して、、俯瞰し続けていきますと、、、まさかの、、、何者かに引き寄せられていく、、吸収されていく、、感覚が生まれます、、なんだこの感覚は???全てが現実事に見えてこない、、、フワフワした感覚、、、深刻さが消去されていく、、この感覚は誰からも奪われない、、誰からも邪魔されない、、、そんな不思議な感覚、、、宝をもう探す必要がないのです。

全員が病気

人間は病気

気を病むことを病気と言うならば、、人間は全員が病気でしょう、、、なぜならば真実ではないことを真実だと勘違いている状態が人間ですから。本来はHUMAN BEING 人間という形をとった存在、、ですから病気ではありません。ですが現実は、、、HUMANのみ、、、誰しも病気です。

意識がこの私物語に夢中になる

我々の本来の存在「意識」が私物語に夢中になっている状態、、これが現実と呼ばれる世界です。夢中とはまさに言い得て妙、、そのままです。意識が私物語に夢中になって夢の中に居ます。。。。このまま、、、夢中になって何がまずい、、、、まずくはない、、、ですが、、、、ちびまる子ちゃんになりきった子供はTV画面を見ながら、、至福に浸ることはないでしょう、、、なぜならば、、、ちびまる子ちゃんは実在しないために、、まるちゃんがどんなにアニメの中で人気者になっても至福感が継続しないのです、、毎回毎回、、まるちゃんに良いことが起き続けても、、退屈に苦しむでしょう。。。まるちゃんに良いことが起き続けたら子供は飽きてTVを切るでしょう、、なぜか???まるちゃんではないから、、まるちゃんに良いことが起き続ける=至福にはならないからです。つまりこの人間の体を自分だと勘違いしている間は、、10億円の宝くじに当たっても幸福になれないのです、、つまり人間はないからです、、、本当は。

TVを見るとは、、、

TVを観るとは実は、、、人間が見ているのではありません、、、人間は実在しないのでTVを観ることはできません、、本当は「意識』が中の丸ちゃんを自分だと勘違いするが起き、まるちゃんに意識がフォーカスしたのです。。人間にフォーカスが当たっていた意識が、、、まるちゃんに意識がシフトしたのです。。ただそれだけです。。そしてTVを見ていてもやはり至福にはなれないのです。。。TV番組を見終わって、、その楽しさが継続することはあり得ないのです。

意識が意識に意識する

悟りとはこれです「意識が意識に意識する」この状態です。。。意識が人間に意識するのではなく、、意識が意識そのものを意識するのです、、、、これが悟りの状態、、、人間というカゴに意識が向かず、、意識が意識そのものにフォーカスが行く状態、、、これで完璧です、、、意識が人間に意識しなくなりますと、、、至福に浸れます、、、いつでも静寂に包まれます、、、いつも平和です、、なぜならばこの現象はただ意識の中で起こり、気づきが起こり、、、それに気づく存在がいて、、、をただ繰り返す完璧なアートだからです。