分離に生きるのではなく分離の視点で生きる

分離そのものではなく

私たちは分離の世界にのめり込み、、本当に分離していると信じ切って生活していますが、、、本当は分離はなく、、分離の視点があるだけです。ワンネス、大いなる一つ、空そのものであることが真実でそこに分離を作り出したのはこの見かけ上の脳です、脳が名前を記憶することで、、、記憶された現象がボコっと便利しているように見えるのです。この見えるというのが最重要で、実際には一つです。

一つだった

一つだったが腹落ちしますと景色が輝き始めます、、音楽は天国の音色を奏でるようになります、人の中の無邪気が見えます、、、これは子供が世界を眺めている時の状態です。これが大人になってから戻るのです、、、何もしていないのに幸せ、、できればこのまま、、だけでいい。肩にのしかかる重荷は消え失せ、こなさなきゃいけない課題も消えます、、、、本当はないことを知っています。

分離視点で片付ける

ということで本当は一つです、、それが分かると焦ることができない、、、ただこの体(見かけ上)を通して起こる言動をこなすのみです。成否は全部全体任せ、気づき任せ、神任せです。それを判断する自分も実は居ない、、仏教では他力本願という言葉がありますが自力本願が不可能だということです、自力の自とは全体、気づきの存在、大いなる一つなのですから。あくまでも作り上げられた分離視点で淡々と片付けるのみです。

万引きで人生が壊れるという事実

〇〇会社の重役が万引きで書類送検

このニュースを見た多くの人は、、、この人は終わったな、、全部失ったなとなります、、、99%の人はそう感じるでしょう、、、、ですがこれってなかなか面白い事実を証明しています。つまり万引きという出来心でその人の人生が完全に壊れるほどのヤワなものであるという共通認識はあるのです。この共通認識で縛られている以上、、、我々の人生は常に綱渡りです、、、こんなヤワな人生楽しいでしょうか???

起こるが起きる

川の流れのように起こるが起き続けます、、、どれほど思慮深く生きようと起きる時は起きるのです、、このことを多くの人は実は知っています、、だから苦しいのです。。。次は自分の番かも、、、その通りです。。どこで何が起きるかは誰にも分かりません。。。気づきの意識も、大いなる一つも、神も分かっていません、、だからこの共通認識は苦しいのです。

唯一のルール、起こるが起きる

たったこれだけです、、、何が起きるかは誰にも分からない、、、これだけ、、、だから万引きを起こしてしまった重役も、、それが起きたのです、、、次は自分?かもしれません、、、俺は絶対に起こさない、、、違います、、これまでも全部起きたのです、、、、そこに個人は完全に無力なのです。このことが本当に腹落ちすると人への批判はバカらしくてできない、、自分への評価???全くどうでもいい、、が起きます。楽ですよね???

なぜ自分が好きなのか??

それは当たり前、、気づきの意識だから

多くの人が自分を大切にしようと思うのはこの私の中に閉じ込められてしまった気づきの意識に対する思いです。いつもこの全てを観察する存在、気づきの意識は、、、、いかなるときも気づき続けます、、、この存在がただこの体の中に入っているという錯覚が起きているだけで本当は気づきの意識の中で全部起こっています、それゆえ、、自分はこの自分が好きなのです。

どんなに役割に閉じ込められても

どんなに役割に閉じ込められても、、、父親、係長、男性、社会人、息子、、あらゆる役割がこの私にはついて回りますから、、気づきの意識もこの役割の中に閉じ込められていきます、、、ですが実際には閉じ込められるわけがなく、、、ただその錯覚だけが起きます、気づきの意識の中で。そしてこの錯覚が苦しみを増やしていきます。完全なる自業自得、気づきの意識の自業自得です。そしてだからこそこれは悲劇ではないのです、喜劇です、神の遊び。

気づきの意識として役割を演じる

全部は気づきの意識の中で起きている、、だからこの役割もただの現象です、、その役割をこなさなくてはこの現象界では生きていけないこともある、、、例えば車に乗れば、、ドライバーの役割を担わなくては死んでしまいます。。ということで気づきの意識は意識的にドラバーを担います、一時的に、、、そして私になります、それは一時的、、係長にもなります、、一時的に。。気づきの意識として、、このスタンスが崩れると、、役割に閉じ込められ苦しくなります。

あの人はあれさえしなければ、、、

清原元選手は覚醒剤さえ手を出さなければ、、、

違います、、、全体から清原選手を通じて覚醒剤に手を出すが起きたのです、、、これ以外の事実は起きようが無かったのです、、、清原選手はこれを酷く後悔し、、、違います、、、後悔できる自分など居ないのです。ただそれが起こりました、、そしてそれを後悔するが起きたのです、、、どれほど後悔しようと、、、先に何が起きるかは全く分からないのです。これが事実です。

彼の失敗で周囲が学ぶ????

彼の失敗で周囲は学んだ、、絶対に手を出してはいけない、、、全部を失ってしまう、、、この事件でどれほどの学ぶが起きようと、、、全体から起こりをコントロールできる自分は絶対に居ないのです。ただ事の起こりを観察するしかありません、観察者、傍観者になるしかありません、、、そんな無責任な人生ありますか???それは分別ある大人の発言ですか????違います、、、観察者、傍観者になってしまうと至福が包み込んでくるのです、、、当事者のポジションを諦めるとただそれだけで至福なのです。

当事者意識の欠落

当事者は辛い、、当事者の座を諦めるまでは、、、当事者はしんどいのです、、、当事者は成功しても苦しいのです、、成功しても苦しいならば当事者であるメリットってあるんですか???ありません、、、このことに気づく以外は。そうです、当事者の場から降りてしまうのです、、そして全ての事の起こりを見守る傍観者に戻るのです、、気づきの意識、全体の意識、神の意識に戻るのです。そこに至福があります。

日本は合わない、、海外へ

どこも全部全体の現れ

日本よりも海外が合う、、これが起こることは当然あります、、ですがこの日本も紛れもなく生命の現れそのものです、、そこに気づきが起こらず、、、ただこの苦しい国日本を逃げても、、、海外も苦しい、、、可能性があります。。。。日本は神の国、、違います、、全部が神の国です、、、日本には天照大神が居て、、、違います、、、、全部の国は神の表現です、、、

ただそれが起こる、、、

海外に住みたい、、、この衝動も神から起こっています、、、何の問題もありません、、、そして海外にいざ出陣、、、これが神から起きました、、、そこに介在する個人は居ません、、、個人が居るという神の勘違い以外は、、海外旅行ばかり行っていたが最近それほど楽しくない、、、最初は無我夢中になれて至福に包まれますが、、、それが当たり前になると無我夢中になれない、、つまり無我じゃない、、至福じゃない、、です。

無我は今ここでなれる

無我とは今ここで入れます、、今何かに集中しきると、、、無我に入ります、、、今ここで、この感覚を掴むと海外に行かなくてはという焦燥感が抜けていきます。常に至福に包まれてきます、、、全てを全体からの起こり、言動も神の起こり、周囲も神からの起こり、神そのもの、、これに気づくと、、ただそこに居るだけで、、至福に包まれます。自分も周囲も神の表現、、全部を神が回収している、、、そして全てに気づく自分は実は神だった、、、神以外だった時は無かった、、という気づき、、海外も日本も神そのもの

全体として存在しなぜ人の言葉で傷つくことができるのか???

無我夢中の状態で

何かに没頭して無我夢中に、、、この時至福に居ます、全体に居ます、神に居ます、、この状態で誰かから悪口を言われた、、、、気にならない、、、なぜならば既に至福だからです。至福に居るとは現実離れではない、、、いや現実という現象の中で、、、現象そのものになっている状態です。その悪口すらも現象の現れ、、、気にならない、、、悪口そのもの、、、です。

批判を気にするスターは、、、

批判を気にするスターは、、、全体になりきれていない、、、、成し遂げた功績をこの個人が所有している、、だから苦しい、、、この時に批判を受けると、、、テンパってしまう、、苦しさが重なる、、、功績よりも無我に入るそのことこそに至福を覚えるならば、、、周囲に対する関心が薄くなる、、結果批判も気にしない、、、

自我全開プログラムを脱す

悟りとは自我全開プログラムが落ちることです、、このプログラムは非常に強固で簡単にはアンインストールされません。ですからゆっくりゆっくりこの自分はプログラムであり、、このプログラムを紐解く必要があるのです。音楽とは音の組み合わせであり、、、これに実態はありません、あの曲が好き、、という時、、それは異なった音の組み合わせのことです。。。。この自分というプログラムも、、、言語の組み合わせで形成されており、、実態がないのです。音の組み合わせです。。。

だからこそこう生きよう、ああ生きようとは真逆

もっと自然体で生きようよ、、、、、アベシ、、、、こんなメッセージが一切意味をなさないのは、、、生きるのが個人だからです。。。そうではなくこの個人をいかに解体させるかです。。。今を生きよう、、、、、ヒデブ、、、、今を生きるのが個人ならば、、、何を今やっても苦しい、、、個人に向けたあらゆるメッセージはその瞬間の幸福を得れても、、しれは全て一時的なまやかしです。

友人からの悪口にすら全体を感じる

全ての発言は全体からの起こり

全発言は全体からの起こりです、、、悪口も称賛の声も、無駄話も、、全部が全部全体からただ起こっています。友人から痛烈な悪口を言われてしまってもその言葉は全体からただ起こりました、、、これが理解できますと会話の一つ一つに全体、神、至福を感じることができます。全体以外から湧く言葉はないからです。

個人にとって有益か否か

この視点に立てば世の中のほとんどの会話には興味が湧かないでしょう、、、なぜならばその会話のほとんどは個人には無益だからです。ですがその会話が全体から起きていることを腹落ちできますとそこから全体を感じます、神のアートを感じます、神そのものがそこに在ります。個人は常にその会話を判断します、つまらない、面白い、と。ですが全部全体のアートです。

老人の戯言のも

朝から晩まで不平不満愚痴を言っている老人のその言葉の全ては全体から起きています、個人と成り切った全体からの叫びです、、そう捉えて観察していきます。個人として生きることがどれほど大変なことか理解できます、ご苦労様、、という気持ちが自然と湧き上がります、、ですがそれも全て現象でありそこを深刻にとる必要はありません。3D映像、五感で感じる蜃気楼です。

神羅万象とは、、

神羅万象しか無かった、、、

この世界を表現する時に、、、神羅万象という言葉を使います、、、この言葉は本当に核心を突いています。神が万物の形のような姿をしている現象界です。。。本当にその通り、、そのままです。。。そうなると一つだけ問題があります、、それはこの「私」はどうなるのか????ということです。この私は何なのか???というわけです。。。神羅万象が広がることは分かった、、、ではこの私は何ものか????これこそが神羅万象の一部に過ぎません、、、神羅万象以外が存在してしまったらこの世界は神羅万象ではなくなってしまいます。

この私も神羅万象

この私も神羅万象、、、そうです、、この体は神羅万象の一つです、、その証拠にこの体は毎日変わります、体調は毎日変わるし、髪も毎日伸びる、、気分も毎日変わる、、、、これぞ神羅万象でしょう、、、じゃあこの自分というアイデンティティ、人格、自我は何なのか????これも森羅万象です、、、神羅万象の表現です、、、いやいや、、、この思考は自分が独断と偏見で行っていますけど、、、、違います、、その錯覚が起こってるのです、、神羅万象として、、、

神は神が作った神羅万象の中で遊ぶ

この自分もこの世界も神羅万象、、、そしてこの世界の中に自分を作り出し右往左往を起こし遊んでいきます。この自分も当然森羅万象の一部、、この経験も神羅万象です。。。神は神であることに飽きて、、、神以外を作った(神羅万象)、、これは神のアートです、、そしてその中に自分というアートを作り、、この自分人生というアートも作ったのです。主人公は神ですからこの自分人生はしんどいわけです、、だからこの自分は悟り(神帰り)を目指すのです。

今までも完璧だった

取捨選択してきたつもりが違った

これまでの人生あらゆる選択ミスもしてきたけど、、まあまあそれなりの人生かな、、、、残念!!!事実は違います、取捨選択できる個人などこの世に存在していません、取捨選択がただ全体か起こり続けただけです。つまりこの人生はある意味完璧なのです、、、こんなに苦しいのに完璧なのです。今の人生で完璧ならばこれから先もこんなものなのか???分かりません、、全く分かりません、、、ただこれまでのこの自分の取捨選択に一切のミスが無かったことが分かった時至福感が湧いてきます、そして今後の私ストーリーに対しても全くの不安が無くなる、、なぜならばそこに自己判断は一切ないからです。

今日の俺の決断はどうだったんだろう???

結局のところ、、、起きた事実に対し自分自身が評価を下し、自分自身を批判の対象に晒してきたのです。だからこそ他人の決断に対しても厳しくなってしまう、、、これがただ淡々と起こり続けのてきました、、、ですがもうこれができない、、、、自分で取捨選択していない、、そして自分も居ない、、、、全体からの起こりだけがある、、、この状況で誰を批判できるでしょうか???

これから俺はまともな判断を下していけるだろうか???

全く問題ありません、なぜならば今までも一つたりとも決断を下していないのです、、、今まで決断を下したことがないのならばこれからも無いだけです。つまり諸行無常、神羅万象に委ねていくだけなのです。この体はこれからもあらゆる物に触れ、あらゆることを感じ、あらゆる音楽を聞いていくでしょう、、、ですが本当にただそれだけなのです、、、この事実を空いととるか、至福ととるかです、、、それも全体からただ起きます。

全体(至福)が怒りを感じる

神が怒りを感じる???

怒りを感じる神(至福)、、怒りを感じる全体(至福)、怒りを感じる空(至福)、、、なんかしっくりきません。それはそうです、なぜ至福が怒りを感じることができるのか????という話です。ですが実際には本当にこの現象が起き続けています。ストーリー上の個人は怒りを感じることは絶対にできません、感じることができるのは気づきの意識(至福)、全体(至福)、神(至福)だけです。そうなりますと至福と怒りを同時に感じることになってしまい、、これはおかしいのです。ですがこれは全然おかしくない、、、、ゲームをやっている際の怒りは楽しんでいます、映画の中での怒りは楽しんでいます、、、そうです、、怒りを至福の中で楽しむことができるのです。

ただのめり込んだだけ

我々の正体は至福ですからこの至福が怒りで手が震えて苦しいというのはおかしいのです。主語が至福なのですから、、、もしもこの至福が怒りにどっぷり浸かることができるとしたら個人に成り切るという憑依をしなくてはなりません。憑依芸レベルののめり込みをした際にだけ、、、怒りに酔うことができます。だから小学生よりも中学、高校、社会人と、、、怒りを押し殺して生きている人が増えるのです。

怒りを感じたら、、、

怒りを感じたら、、、、今この怒りを感じたのは誰か???と問うてみてください、、、それは気づきの意識、全体、神です、、至福です。至福が怒りを感じたんだなーと思っているうちに怒りが消えていきます。なぜならば至福は至福でしかないからです。主語を私から全体(至福)に戻すのです、、、怒りを沸き起こすには「私」の存在がどうしても必要であり、、、ですがこの「私」は捏造された存在ですから事実ではないのです、、だからいつだってどこだって全体、気づきの意識、至福に戻れるのです、、、そっちが本当だからです。