自由意志

悟りというコンフォートゾーン

全俯瞰

悟りとは全部を俯瞰することです、宇宙の俯瞰です、、宇宙のシステムを体感として理解することです、、、体感ですからこれは簡単に伝わるわけがないのです、、、、、ですが我々はこの言葉を体感で獲得していきました、、幼少期に、、、これを悟りでもやるのです、、、、宇宙の俯瞰を七年間かけてやればいいのです、、言葉を覚えた時のように。

全反射

見かけ上の私が理解した悟りは全反射です、、、全ての現象はこの反射の塊、反射の永続、反射に次ぐ反射、、人間の言葉も感情も、行動も全生命の活動も反射が起き続けている、、、、その様は無限、、視点を変えれば無限の現れが続く、、、それを感じる、、その感じ方はまた無限、、、この無限の感覚、経験こそがそれだけが真実、、それ以外は幻想、、、この経験の寄せ集めが神、無限、空の存在、、、無限の経験の寄せ集めです。

全不自由意志

全部の行動、思考、活動はただの反射ですからここをコントロール存在「自分」など絶対に居ません、、自分という実在は当たり前に居ません、、、、全反射が起き続けるだけです、、この事実の圧倒的理解は、、究極の安堵です、、、この安堵感は恍惚状態であり、、、誰にも奪われることがありません、、、反射によるトラブルは毎日のように起きても、、、それが反射であるという圧倒的事実を把握した今、、、感情が乗ってこないのです。

どの感情も観念から生まれる

感情はまだ手放すべき観念がある証拠

感情とは実は観念が作り出しています、、、例えば小さな子供がぶつかってきても怒りは湧きません、これが大人であれば怒りが湧きます、、、、同じぶつかる、、、でも、、、、子供と大人では感情が異なる、、、つまり観念が感情を生み出しています。真実は観念ではありません、、、真実とは信念ではなく、、、ありのままです、、、、真実に浸っている時、、怒りは湧きません、、、なぜならば子供からのぶつかりも大人からのぶつかりも全くの自由意思不在の自動反応であることが分かるからです。

怒ることができない

子供には怒れず、大人には怒れるのは、、、自由意志の不在か実在かの違いです、、、大人であれば責任を持って、、、と怒りが湧くのです、、、大人とは自由意思という責任を負った存在なのです、、、責任と自由です、、、ですが自由はないんです、、、大人も子供も自由がないんです。そうなると怒りが湧くわけがない。。。

追いかけるべきは観念ではなく

なぜ人は真実を知りたくなるのか????それは今までの人生、、、全ての観念において本当の幸福に出会ったことがないからです、、、考え方を変えても変わっても、、、本当の幸せに出会えていない、、、、ということです。それならば真実を知るしかない、、、大当たりです。本当の真実とは、、個人は存在せず自由意志もない、、経験しかない、、実在する存在は皆無、、これだけです。

思考の戯言

私が居て、自由意志があって、、、

私が居て、、自由意志があって、、、を前提にした全会話は無駄です、、、なぜならば、、、根底が真実と異なるからです、、、根底が間違っているにも関わらず、、、その上に理論を重ねても、、、いずれは崩壊します、、、、ですからその会話に興味が無くなるのは良いことでしょう、、、そしてそれが分かってしまうと、、そういったコミュニケーションが減るでしょう、、自然と。

だからといって

だからと言って、、、、そのコミュニケーションは、、全部全自動で起きていますから、、、、誰にも責任はありません、、、、責任をとるべき個人は全く居ないのです、、これは自然現象です、、、勘違いをベースにした自然現象が起きました、、、、猫が鏡に写った自分の姿を敵と勘違いする、、、、というような勘違いが起きたのです。

分かるとコミュニケーションが変わるだけ

鏡に写った姿を敵と勘違いしていた猫が、、、それに気づけば、、、もうその行動はしません、、、、これと全く同じ、、、それに気づけば、、、もう勘違いを前提にしたコミュニケーションに興味が無くなるのです。次のステップに移ります、、、完全なる全自動をベースにした人生のスタートです、、、この人生はお気楽、ワクワク、、おっかなびっくりの世界です。非コントーロールを受けいれてしまったのですから。

本当の自由

本当の自由とは???

本当の自由とは、、自分が自由そのものだったという気づきを得ることです、、個人が自由を獲得するのではなく、、自由そのものだったという気づきを得ることです、、、全く視点が違うのです、、、個人とは実は自由を拘束する存在そのものです、、、この体の中だけが自由であり、周囲1メーターだけが自由が存在する、、この家の中だけ、家族の中だけ、、、自由が存在する、、、違うんです、、、

自由とは完全な手放し

自由とは個人が自由意志を働かすことではなく、、、自由意志が完全にないことを悟ることなのです、、個人も、自由意志も嘘だったという気づきを得ることが、、、悟りです、、、もう何もコントロールしなくていい、、いやコントロールなどできないのだと悟るのです、、、コントロールしているように見える人々が居ますが、、、完全なる嘘、偽り、錯覚です、、、、

どないすんねん

仮に、、、そうだとして、、、これから私はどうやって生きていけばいいんですか?????それを決めることができる個人が居ないんです、、、ですからこれからも風任せ、運任せ、、です、、、今まではそれを自分がやっていたという勘違いが起きていたのです、、、お手上げ、降参、腰砕けです。

サナギの脱皮

幼虫から蝶へ

悟りは幼虫から蝶への変身に例えられますが、、まさにその通り、、これは原型が全く変わってしまう、、今まではこの体の中に自分が居ると思っていた、、、それがこの全部が自分だった、、この体も自分で、、この体の中に自分が居るという思考も自分、、、全部が全部自分、、、という自分のパラダイムシフトです。

ただその自分は全くの不自由意志

ですがその自分とは全くの不自由意志、ノーコントロール、、、自由意志など全く存在しない存在、、ただの化学反応、、この体も思考も、感情も、行動も完全にノーコントロールというとんでもない事実、、、これだけが真実、、変化、易、諸行無常、、ノーコントロール、、、

自分が居ないを分かった自分

自分が居ないことが分かったもう一つの自分を作り出せば、、、その自分が教祖になって、、、宗教を作ります、、ですがその自分とは全くのノーコントロール、大自然でしかないことが分かると、、、救うべき人、救わなくてはならない人も誰も居ないという気づきが起きます、、、これは自我の拡大ではなく、、自我の消滅なのです。

起きる現象は観念、湧く思考は自動

身も蓋もない話

これはもう本当にジョークです、、完全なジョーク、、、起きる現象はこの私が積んできた経験から生まれた観念が映し出し、、、それに反応する「私」の思考は、、、勝手に湧く、、、、何これ????意味がない、、、全く意味がない、、、、「私」など完全に無力、、、操り人形どころじゃない、、、鳥籠、、しかもその鳥の反応は勝手に起こる、、鳥には自由意志もない、、、鳥籠の様子はガンガン変わっていく、、鳥の観念が変わるたびに、、、まさに無間地獄、、、

見抜く!!!

見かけ上の私には確信がありました、、、この世界は絶対に存在しないと、、だから情報を集めまくった、、、集めていくと観念が変わっていく、、あれやっぱりないかも、、、あれやっぱりないかも、、が経験として起こる、、、なぜならば観念が書き換わっていくから、、、だからよりこの世界は絶対にない、、は確かになっていく、、、このサイクルに入ったら止まらない、、なぜならば毎日その感覚が増していくから、、、この感覚が観念を書き換えていく。

信じれば経験できる

「この世界は絶対に存在しない」この確信を得たら、、、もう何も考える必要はない、、他のことは後回し、、だって絶対にこの世界は存在しないのですから、、、あとは情報集め、、、その裏付け情報、、、覚者の言葉の数々、、、すると体験が起きる、、、分かってくる、、、あれ???本当かも、、、が起きる、、起き続ける、、、そのプロセスは完全に無限、、、無限こそがこの世界、、、そしてどこかで全部が繋がる、、、全部の整合性が取れる、、、、なるほど!!!の連発、、、

イメージを着る

ブランド品の数々

ブランド品とはイメージです、、、エルメス、グッチ、ディオール、、これらはイメージの世界です、、、エルメスには歴史があり、、その歴史の全てがイメージを支えます、、、ブランドにはゆえに時間が必要なのです、、時間という絶対的な概念がブランドを支えます、、、時間がなければブランドは存在できません。ブランド=時間です。

ブランドには意志はない

エルメスというブランド名には意志は存在しません、、、ですが意志があるかのような物づくりをします、、エルメスならではの作品を作ります、、、エルメスらしくないことはしません、、、ですが実際にはエルメスというのは名前であって実在ではない、、意志は全くないのです、、、、ですがまるで意志があるかのうようなブランド展開に成功することがこの幻想の世界での一つの在り方です。

人間の自我も全く同じ

人間には「名前」というブランドが付いています、、、これはただの名前です、、、ですがこの名前を持つ自我という存在が確実に居るという大前提で人は動きます、、エルメスと全く同じです、、、私にふさわしい行動をとります、、私にふさわしいパートナー、私にふさわしい会社、、私にふさわしい友人、、私にふさわしいマンション、私にふさわしい子供、、、です。。。。ブランドが大きくなればなるほどに苦しくなっていく、、、ブランドに耐えきれなくなっていく。

本当は居ないに気づく

自我など本当は100パーセント実在しません、、ブランド同様、、、周囲の反応がまるで居るかのような反応をするから勘違いが起きたのです、、、自我など100パーセント居ない、エルメスという実在、自由意志がある実在は100パーセント存在しません、、、この現象界は、、たった一つの実在、、、空、神、絶対の鏡の世界です。

全てはただ起こるという認識が起こすドミノ

最後の答えは決まっている

最後は決まっています、、最後の最後の気づきは、、「私が神だった」という気づきです。。。この気づきは必ず最後には起きます、、ですがその前に片付けなくてはならない観念があるのです、、それが後悔です、、あそこでこうしとけば、、あの時ああいう選択肢があったはずだ、、、となります、、、これを毎日毎日毎日繰り返すわけです、、、これを止めます、、、真実の力で止めます。

全ての思考、行動はただ起こった

全ての思考、行動は完全にただ起きましと、、、、最後に気づくこと、それが「私が神だった」から逆算すれば明白です、、、神が起こしたのです、全思考、行動を、、、、そして神は自由意志でこの80億人の意思を管理するなどするわけがない、、つまり全部が全部化学反応です、、、、因果、縁起、カルマ、ダルマ、、なんでもいいんですが、、つまりは化学反応がただ起きたのです。。。

ここに気づくと

反省が湧いてこない、後悔が湧いてこない、、将来に悩まない、、期待がないが安心だけがある、、、ただの傍観者という気楽な立ち位置、、、会社で言えば、、何も責任を追わず、、何も責められない、、社長のようなもの、、、最高のポジションがいきなり用意されている、、、、今までそんなポジションが無かったのではない、、、気づきなかっただけ、、、ここからドミノが崩れます、、全くの能天気、形崩れ、、期待も不安も何もない人生が始まります。

全く疲れないから、、、

この能天気な無責任ポジションに座りますと、、、とにかく疲れない、、全く力みがない、、、すると元気が湧いてくるのです、、子供時代の朝から晩まで遊べる元気が湧いてくる、、、、、だから動ける、、仕事も楽しい、プライベートも楽しい、、、となります。。。。これがドミノです、、、そして悟りの理解が進む、、、個人の不在に気づく、、他人の不在に気付く、、、全部が全部の現れに過ぎない、、に気づく、、、神に気づく、、、

何十年間の記憶が反応しているだけ

思考、感情、行動は記憶が反射している

我々はしっかりと熟慮して発言をしていると思っている時も、、完全に記憶の自動反応で反応を起こしているだけです、、、なぜあんな発言をしてしまったのだろうか????違います、、全部何十年間の記憶により自動反応です。そしてこの自動反応に対し、、、「私がそう発言した」という自動反応が起きるのです。このメカニズムを断ち切ります、、これを終わらせます、、、、全部が全部記憶による自動反応であることを理解します。

行動を反省する無駄

反省をしてはいけないということではありません、、、ただしこのメカニズムを理解して反省するかどうかです、、、何十年間の記憶によって自動反応が起きているという大前提で、、はたして反省はできるのでしょうか???できませんね、、、ここを騙されてはいけません、、、これを全部自分がやってきた、、という思考がこれまでは起き続けていましたが、、もうそれは終わりです。この生きる世界に、、自由意志を起こせる存在は居ないのです。

全部が全部自動反応

人間の動きは全部全部記憶を前提にした観念がベースに行われています、、誰一人自由意志など発揮せず、、ただ全ての思考、感情、行動が立ち上がっていきます。この事実この事実を理解します、、すると、、、起きた思考、感情、行動に対して、、、、起こる自動反応が変わるのです、、、反省が先ずは無くなります、、不安がなくなります、、、自動反応マシーンである、、、この私への信念が変わっていきます。私とは「自動反応」を起こすマシーンに名前が付いているだけだという突然の気づきが起きます。

自由意思を使い倒す

自由意志を使い倒すと

自由意志を使い倒すと、、、「もういいや」が湧いてきます、、、自由意思あるきの生活をやり尽くす、、、自由意志という発想でこの自分という発想をどこまでやれるのか???これをやり倒すことで「もういいや」が湧きます。このもういいやは、、真我からの起こりですでから、、真我からの気づきですから、、戻ることがない、、、究極のもういいやが、、、悟りです。

自由意志を手放す

多くの方は自由意志を慎重に使い、、この体をなんとか安全に運行していこうと心掛け、、、死ぬまでを生きていきます、、、、、自由意志をこの体の安全に使っていきます、、これが自我の本来の目的です、、この「私」といアイデアも、自由意志も、、この体を安全に保つためのツールなのです、、、その自由意志を使い倒しますと、、、自由意志ってこういうことなんだね、、、という気づきが起きます、、、、自由意志に取り込まれていたのが、、、自由意思ってこんな感じなんだ、、、という思考との距離が生まれます、、、自由意志を観察する存在です、、、、、

すると、、、、

あれ、、さっきまで自由意志をこの私がこしらえていたと思っていたけど、、、この自由意志を観察する存在は誰だ????という矛盾が起きるのです、、、、自由意志を私がやっていた、、、自由意志はもういいや、、って誰が感じているんだ、、、この私ではなさそうだ、、、すると自由意志はないというメッセージが入り込んできます、、、、ようやく真実が雪崩こんでくるのです。。生まれてこれまで目の前にあった真実がなだれ込んできます。