自由意志

騙し絵

世界がひっくり返る

それまで老女の絵と思って10年間家に飾っていた絵画が実は若い女性だった、、、騙し絵とはそのようなものです、見方によって全く絵の見え方が変わってしまうのです。実は悟りとはそのようなものです、、、今まで見ていた世界は見方の変化によって180度変わってしまう、、、、全員が自由意志によって行動していると思っていた世界が、、実は誰も自由意志で生きていなかった、、、、。道ゆく人々の全員が意志ではなく自動反応で道を歩いているだけ、、、花屋の店員さんも、カフェの店員さんの笑顔も会話も全て自動反応、、

着ている衣服

表参道を歩けばファッションに敏感な人々が思い思いの服装を楽しんでいる、、、違います。完全な自動反応でその服装が選ばれただ着られただけ、、全部たまたまです。なぜこのキャップを被っているんですか???そうインタビューすれば、、、「今年の流行りだから」「このデザインが今日のファッションに合うと思って」と様々な回答を得られるでしょう、、なぜならばファッションに敏感な人々だから、、、ですがその回答すらも自動反応で起きているだけ、、、

コミュニケーションをどう楽しめばいいのか???

全員が自動反応で生きているとしたら今後私はどうコミュニケーションを楽しめばいいのでしょうか?簡単です、自動反応だと思って楽しめばいいのです。好みの自動反応を起こす人とは付き合い、好みではない自動反応を起こす人とは距離を空ける、、このようになるでしょう。というよりもそれしか解決方法がないのです。自動反応を止めることができる個人は存在しないのですから。

周囲の反応は自動反応

怒るというのは「自由意思」があると思っているから

友人の誕生日にプレゼントを送ったにも関わらず「お礼」の連絡がない、、、こんな時個人は怒りの感情が湧いてきます、、なんで電話の一本もしてこないのか!!この怒りの感情とは友人には自由意志があり、、その自由意志においてしっかりとお礼を伝えるべきだという大前提があります。しかしながら真実を伝えれば自由意志が存在しない、、ただそのような反応が起きただけ、、、です。ですからそこに怒りは湧きようがなく、、それを認めるだけ、、、そして今後その友人と付き合っていくかを考えるだけです。

旦那の不倫

芸能人の不倫騒動が年に何回も報道されますがこの騒動が終焉することはない、、なぜならば不倫を起こ有名人には自由意志がないからです。ただの反応です、それを止める個人は存在しないのです。つまり化学反応みたいなものでそれを抑えれる個人が居ないのです。そんなことはない「私」はそのようなことをしない自信が間違いなくある、、それはそのような反応がこれまで起きてきただけ、、先のことは誰にも分かりません。重要なことは不倫を決定する自由意志が「人間」の体には存在しないということを認めることです。それを認めた上で旦那を怒ることはできません。

やられたい放題でいいのか???

旦那の不倫は旦那の意思ではない、、だから放置するしかない、、、のか???違います。自由意志ではなく化学反応、自動反応ですから、、今後もその旦那は不倫をする可能性が間違いなくあるという事実を認識しその上でその旦那と関わっていくかを冷静に思考するのです。自由意志ではないのならば許せると思うかもしれない、それでも許せないかもしれない、、それは誰にも分かりません。少なくとも旦那に怒りを抱えながら重く重く生きていくという地獄から抜け出せるのです。これが軽くなるということです。

怒りではなく、、、ただ冷静に判断する

浮気癖のある旦那、この旦那には一切の自由意志はありません、、、もしもこの行動が許せないのならば「次に浮気をしたら必ず離婚する」これを伝えて様子をみます、、それでも浮気が続くならばその旦那の浮気を止めることはできないでしょう、なぜならば旦那には自由意志が無いからです。そのような病気、、そう捉えることも自由です、、ですがこれは病気でなく全人類がそうだということです。聖人君子と呼ばれるのような人格者も次の人の行動を決める自由がないのですから、、、

信用できる人は誰もいない

絶望的かもしれませんがこれが事実です、、誰も100%の信用などできません。なぜならば自分の行動をコントロールできる個人が存在しないからです。あの人は信用できる、、これは幻想、理想です。たまたまこれまでその人の行動が「自分」にとって信用に値しただけ、、これからは全く分かりません。あの人は変わってしまった、こんな人ではなかったのに、、、違います、、たまたまこれまでがそうで、、たまたま最近が違ったのです。これが軽く生きる極意です、誰も信用などせず全自動のあらゆる人の言動を楽しむのです。

「何もない」は「自分」が困る

世界は何もない

この世界は突き詰めれば「何もない」です。何もない「意思決定」する個人は存在せず人間を含めた全生命がただただ自然現象として行動が起きています。意思決定する個人が不在のままただ現象だけが起きる世界、それこそが今我々が眺めている世界の本質です。その本質の世界が、、、あらゆる自由意志を持った人間によってコントロールされているように「見える」世界が幻想の世界です。ですがこの真実は「個人」にとっては実に都合が悪い、それを認めてしまえば「自分」が出る幕が無くなってしまうのです。

問題解決請負人「自分」

世界は自由意志を持った人間が集まり構築されている、あらゆる問題は個人が解決に当たる、解決能力が高い「個人」は尊敬され豊かになり満ち足りた人生を歩むことができる、、、これがこの世界の風習です。にも関わらず実は自由意志を持った個人、自分など存在せず、、ただただ全自動運転で人間は運営されていることが広まってしまえば、、「個人」「自分」「自我」はたまったもんじゃない、、、存在が消滅してしまいます。みんなで集まって公然の事実として「個人」は存在していたのですから、、認識が無くなってしまったら存在しえないのです。

周囲はどうでもいい

周囲は「自我」「個人」「自分」大前提の暮らし社会をこれからも構築していくでしょう。ですがそれも全く問題ありません、どう周囲が認識しようと真実は一つ、自由意志を持った個人は存在しないのです。ですからその事実だけを認識しながら生きていけばいいのです。どのような社会問題が起きようとそこに個人は何も介在していない、、つまり全てが自然現象だということです。雨、嵐、台風、猛暑、と何も変わらない、、解決方法は皆無、なぜならば解決できる「個人」は存在しないからです。そしてそれらの問題によって苦しむ「個人」も存在しません。

スイッチ

スイッチを押したのは誰だ?

前回の「スタバに行こう!」の続きの話、この思考感情をスイッチを使って説明しましょう。このスタバに行こうという思考感情を生み出したのが「自分」ならば自分がそのようなスイッチを脳内で選んで押したとしましょう。自分がその脳内スイッチを押したのだと。ではその「スイッチを押す」という動きを作り出した動きが必要になります。突発的にそのスイッチが自然現象として押されてしまったのでは「自分」の存在は無くなってしまいます。ですからその「スイッチ1を押す」ためのスイッチ2を押したのも「自分」のはずです。

スイッチ2を押すためには

スイッチ2を押すためにはスイッチ3が必要になり、そのスイッチ3を押すにはスイッチ4が必要になるのです。こうして我々は遡ってエンドレスにスイッチを押し続けなくてはなくなりその起源はビッグバンに行き着くのです。つまりこの体の中に居ることになっている「自分」は「スタバに行こう」に介入できないのです。こうして自分が「スタバに行こう」と思いついた、、という理論はやはり破綻します。この物理次元では何かを宇宙空間に湧き出させのは「自分」ではできませんから自由意志を所有する「自分」という存在は理論破綻するのです。

自分が居ない

自由意志を所有する自分が居ないのならば、、今までのコミュニケーションは破綻します。自分がやりました、あなたがやりました、友人がやりました、、全部嘘です、、、その体、あの体、あの人の体を通じてその行為、その思考、その感情が湧いただけ、、、全自動システムで起こり続けているのです。これが事実です。これが真実です。世界は完全自動システムで運営されていてそれはこの人間も例外ではないのです。

ニュースを見れば、、

不倫をあの人がやった、万引きをあの芸能人が、不正受理をあの政治家が、、、全部自然現象、全自動システムで起こっています、、、その行動、感情、思考がただその体を通じて起こっただけ、、、これが事実です。ではそうなった時我々は今後どうやって生きていったらいいのか???簡単です、、これからも全自動システムで起こり続けることを認めるだけです、、、これまでもそうだったのですからこれからもそうだということです。それを認めた時にこの世界は軽くなります。

真実を知るものは、、深刻になれない

真実は人を究極なレベルで癒す

本当は何一つ、、、自由意志はなく、、、ただ起こりが起きているだけ、、、この真実が我々を待っています、、この真実に我々は最終的に吸収されます、、、、真実から逃げることは誰もできず、、、、この真実に向かって我々は生きているのです、、、この夢は最後は真実に吸収されるのです。

真実は、、、、一つ

この世界に真実以外のものは存在せず、、、構成要素は真実の一点です、、、この真実が、、、あらゆる形に変化し、、あらゆる体験を引き起こしているだけです、、、ですからこの世界で救済されない人は誰も居ません、、、その人を構成する要素が、、、真実だからです、、、、我々が救済される唯一の方法は、、、そこに気づくことです、、、絶対的体感によってこれに気づくことです、、、

真実は完璧なプロセスで、、ここに至らせる

真実は、、、完璧なプロセスで、、、ここに人を至らせます、、、自我は完璧なタイミングで解体され、、大我にシフトします、、、大我という決まったものはないのですが、、つまり我々は我々という認識が突然シフトします、、、小我は大我に吸収されるのです、、、完璧なタイミングで、、、、我々ができる唯一のことはそれが起きるのを待つことだけです、、、、完璧に起きる自我の解体を待つということしかできません。

感覚という魔法

この世界は感覚でできている

健康に気を使う方は気づいていますが、、、この世界は自身の健康、不健康によって大きく見え方が変わります、、こっちの体調で感じ方が180度変わってしまいます。それほどまでに、、、この世界はこちらの感覚が作用します。健康に気を使う方ですらも全く気づいていない事実があります。それはこの世界はこちらの感覚だけで成立しています。決まった世界が先ず存在するのではなく、、こちらの感覚の中でしか存在したことがないのです。

つまり「感覚=世界」

世界が先にあって、、、その上でそれを人間がどう感じるか、、、ではなく、、、、、感じる=世界です。。。ですから、、、どう感じるかが、、、そのまま世界そのものであり、、、、こちらの感覚が全てを牛耳っているのです。。。。そしてもしこの世界が地獄だと今感じているのならば、、、感覚が地獄レベルに落ちている、、だけなのです。。。逆にこの世界が天国に感じているならば、、、感覚が天国レベルに高まっているということです。

感覚が高まる????

五感を高めていきますと、、、そのまま世界は高い世界に移り変わります、、、、五感とは体ですから、、、体の感覚を開いていきます、、、、すると、、、この世界はそのままに素晴らしくなっていきます、、五感で感じるのが世界ではなく、、、世界がこの五感で成り立っているからです、、、、体の緊張を取り除くことで、、、世界の緊張が緩むのです。体が緩み切った幼稚園児は、、「箸が転がるだけで楽しい」が起きます。

真実を知る

この世に蔓延している嘘を見破ります、、、我々人間はこの世に蔓延した嘘によって、、、緊張を強いられる毎日を過ごしています、、、、その嘘とは、、、、自由意志がある、、そしてそれをコントロールする自分が居るという嘘です、、、、これは嘘です、、、、ですがこれを「はいそうですか!」となる人は居ません、、、ですがこれは完全な嘘なので、、、その真実がいつか絶対に分かる日が来る、、、と信じて生きてください、、、「地球はそれでも回っている」、、、、この真実に向かって、、、生きるのです。

五感を取り戻し真実を知ると

五感を取り戻し、、、真実に向かって生きていきますと、、、真実が顔を出してきます、、、真実に気づくことが多くなります、、、、、なぜならば真実は一つであり、、そこが変わることはないからです、、、我々の五感が真実を捉えるその時に向かって、、、五感を開き切っていきます、、、思考は真実ではありませんから、、、あらゆる観念を持ち込みます、、あれはこういう意味では???これはこういうことでは????ですが真実はたった一つ、、、全てが全自動、全反射、ノーコントロール、諸行無常に、、移り変わるのみ、、、これを我々の体は最初から気づいていて、、、ただそれを忘れているだけです。

怒りすらも瞑想に使う

怒りが湧いた時に、、、

この怒りは何だ???何が原因だ????あいつのせかい、こいつのせいか、、いやいや、、私がこれをやってしまったからか、、、、エンドレスに続く、、犯人探しの旅、、、、、、残念!!!!その全ては間違っています、、、怒りを引き起こす、、個人という存在が皆無なのです、、、、個人が100%幻想であって、、居ないんです、、、、、全部は全自動システム、、、ただそれが起きたのです、、、、そして怒りもただ起きました、、、この怒りはどうすればいいのか、、、、その怒りをどうにかしようとせずに、、、怒りすらもただ観察します、、、、

怒りを感じることも、、、静寂

信じられないかもしれませんが、、、怒りを感じることで静寂になるのです、、、、怒りすらも静寂の中で感じます、、、怒りとは解決すべき感情ではなく、、、怒りを感じることで静寂に入ります、、、怒りを解決する個人は居ないのですから、、、思考しても無駄です、、、、怒りを解決すべき思考現象に関心をもう持たなくていいのです。。。

思考の全ては間違っている

個人が居て、、自由意志があるという前提の全思考は間違っています、、、間違った思考に関心を持ち、、そこに意識をし続けても、、、不幸が続くだけです、、、無駄です、、、そうではなくこの日常を、、、個人が存在せず、、自由意志もないことを感じる場所にします、、、実践の場所です、、、すると、、、、本当にそうであることが分かってきます、、気づきの連鎖が起きます。。

判断という罠

まだ判断してるの???

いつの日か、、、本当は時間はないんですが、、、、判断するのってダサいよね!!!!という時代が来るはずです、、絶対、、、判断????いつの時代の認識ですか????になります。天動説????ぐらいのオールドスクールになるでしょう、、、つまりはこういうことです、、、地動説のメカニズムを知ると、、、太陽が動くという錯覚をもうできません、、、、悟りを開くと、、、、思考を個人が起こしているという錯覚に騙されることがなくなります。そこが分かってしまうと太陽の動きに騙されなくなるように、、思考の動きに騙されなくなるのです。

太陽は動き、思考を個人が起こす

太陽が絶対に地球の周りを回っていないように、、、思考も、、個人が自由意志では起こしていないのです、、、そう感じているだけ、、、太陽が地球の周りを動いていると感じていたように、、思考を司る自分という存在も感じていただけです。これが全てです、、、これが分かってしまうと他人の意見を判断するということに興味が無くなるのです、、自然現象にケチをつけることに意味を感じますか???という話です。

世界は全部不自由意志で回っている

地球とは最高に面白いのです、、全員が不自由意志で動き回り、、その行動を反省し、時に喜び、、勘違いを起こし続けているのです、、、、お互いに行動を批判し合い、称賛しあい、妬み合い、嫉み合い、、憎しみあい、愛し合い、、をする、、、その全てが不自由意志であることを忘れ、、、こんな面白い活動を続けているのが地球の惨状です。。。ですがこれも見かけ上の「私」の観念が引き起こしていますから、、そこがまた面白いのです。

観察の卒業

全ては観察から

自分が自由意思で何かをしている、、、という思い込みをしている人は、、、先ずはこのシステムを俯瞰して、、、、全ての現象の真相を理解する必要があります。今目の前の現象はどのように起きているのか???ここを理解する必要があるのです。実は「自分」など存在せず、、、自由意志もないことを言葉で理解します、、、するとそのような認識で観察する日常が始まります。あれ、、、本当だ、、言葉が勝手に現れ、行動も勝手に現れ、、全てが自分抜きで動いている、、、

この観察は十分に威力を発揮する

この観察は見かけ上の「私」に様々な気づきを促します、、この私という存在が実在していないということ、、周囲も実在していないということ、、、この世が幻想と呼ばれる理由、、、この世が一つと言われる理由、、経験しか起きていないということ、色即是空であるということ、、私は神だ、、ということ、、、全部が分かってしまいます、、、すると突然、、、観察する自分が消えます、、観察ではなく、、、生命、幻想、そのものになってしまう、、、

観察の卒業

最初は観察から始まります、、観察という実戦からスタートします、、、観察という行為からスタートします、、その行為によって様々な気づきが雪崩のように起きていきます、、これらの気づき、雪崩のような気づきが終わると、、、静かな静寂と、、見かけ上の私を取り巻く生命現象だけが残ります。友人と話をすればそこには間違いようのない自我の存在を想像します、、ですが直ぐに、、、真実に引き戻されます。

上手くいくいかないを超える

全部が観察

全てが全自動で起きる、、、全ての思考、感情、行動が全自動で起きる、、、この真実に気づいたときに、、、ただこれを俯瞰するしかないという、、、、投げやりな気分が当初は湧きます、、、全体の勝手な反応に「私」はただ委ねるしかない、、、ただの受け身、受け手、、、、、、ところが自我が主導権を手放し、、実際に受け入れ、、俯瞰する側に回りますと、、、何をしていても平和、静寂、歓喜、、、、大自然の奇跡を見るように、、、この人間社会も奇跡の連続になります。

観察は究極の娯楽

観察とは究極の娯楽です、、、そんな受け身の人生老人と同じ、、、違うんです全く、、真逆、、、、完全なる気楽、無責任、、、どんどん体が楽になっていき、、行動が溢れてくる、、、、やるぞ!!!!ではない、、、ただ溢れるのみ、、、ただ溢れるに委ねる、、、、それだけが起きる、、、だから外から見ていれば超超積極的人間に見える、、、それの何が問題なんですか????

自由意思なんて捨ててしまえ

自由意志があると思っているから人を非難し、自分を攻め、他人を抽象し、揶揄し、、、いいことが全く無いのです、、、緊張感がでるだけ、、、、成功した暁に、、それを自慢できるだけ、、、、ですがこれは全く幸福を個人には届けませんから完全な無駄です。そんな小体験に固執するよりも全行動、全思考、全感情を大元に委ねてしまう、、、、これです!!!!完全なる丸投げ、、、、令和無責任男です。