真実

言葉を超えた世界

これは言葉を超越する

我々は言葉を覚えることで便利な生活をしています、、ですが言葉を覚えることで概念の世界に閉じ込められました。。言葉を信じすぎることで、、言葉で全部を理解できると本気で信じてます、、ですが真実は言葉を超えた世界です、、、言葉では理解ができない世界であるという理解が必要になります、、、言葉はあくまでも真実を指し示す指でしかない、、

コーヒの味を言葉で説明する

コーヒーの味を言葉で説明します、、、限界がる、、不可能、、、宇宙人にコーヒーの味を聞かれても、、、不可能、、完璧な説明は無理、、、です。真実もまさにそう、、言葉では説明ができない世界、、、だからコーヒーの説明を聞くよりも飲む方が早い、、、体験、実践が最重要、、、

悟りを実践?

悟りを感じるには?実践することです、確認することです、、これは夢ですよ、、、本当に夢か確認します、、夢と同じ仕組みになっているか確認します、、これが夢ならば、、、鳥の声を聞いているのは、、この体ではない、、、確かにそうだ!!!この体が聞いているという証拠がない、、味わっているのは夢を見ている存在だ、、確かにそうだ、、、この夢を見ている自分が、、味わっているとしても何も矛盾がない、、、友人の話を聞いているのはこの夢を見ている自分だ、、、、確かに、、そう言われても反論できない、、、

誰も先が読めない世界

それが夢

我々が毎晩みる夢は誰もが予想がつかない転換になるはずです、、誰しも完璧なシナリオを用意できないはずです、、私はいつも完璧なシナリオに沿った夢を見る、、、聞いたことがありません、、実はこの現実の世界も同じ仕組みでできています、、誰も先が読めない世界、、ただしこの世界の化学反応をある程度読むことはでき、、それを予想することはできます、、天候、四季、地球の位置、などなど、、、。ですがその状況になった時にこの体から湧く思考、感情は予想がつかない、、この行動も含め全く読めない世界なのです。

状況も読めずその状況をどう感じるかも読めない

現実というこの夢は夜見る夢同様に全く先が読めません、、さらにその状況を目の前にしたこの体から湧く思考、感情、行動も全く予想がつかない、、いやいや、、私はどのような状況でも思考、行動をコントロールできると今考えているとしたら、、、それは大嘘つきです、、、そのようなことができる人間は居ません。できないことを知っているから皆将来が不安なのです。

先が読めず、、この体の中に居る自分も分からない世界

信じれるのは自分だけ、、、残念です、、、そう強固に信じている人ほど不安で苦しむことになるでしょう、、、真実とかけ離れているから、、、この体の中の自分は、、思考も行動も、情動も感情も何もコントロールできない、、これが真実です、、だから人生は苦しいのです、、それを分かっている2歳、3歳児だけが本当の安心の中にいます、、、全く先が読めない世界で、、この体に湧く思考も行動も全く読めない、、ただし、、、この現実は夢で、、、夢を見ているのがこの自分であるというパラダイムシフトが起きますと、、不安がぶっ飛びます、、夢なんだ、、そしてこの夢自体を見ているのが自分なんだ、、そしたら何も手に入れる必要がないし、、何も不安に思う必要もない、、、だって夢だから。

全体と自分のどんでん返し

周りが自分でこれが自分以外

究極の騙し絵、、これがこの世界の真実です、、、究極の騙し絵、、どういう騙し絵なのか???それはこの体が自分以外で、周囲が自分だったという気づきです、、、真逆、、そうです、、このコントロールできる体こそが自分以外で、、全くコントロールが利かない周囲が自分です。全くコントロールできないのに、、自分ってどういうこと????コントロールが利かない、、のが普通なのです、、これが真理なのです、、真理とは何もコントロールできる存在は居ないという気づきです。つまりコントロールできない存在こそが自分自身、見える世界の全ては自由意志ではコントロールできませんから自分です。

だとしたらこの体は何だ???

周囲は全部コントロールできない、、だから自分、、、では、、コントロールできてしまうこの体、、この体は誰のものだ????心臓の動きはコントロールできない、、自分、、、、腎臓の動きも、爪も、肌の育成も髪の成長も、、、分泌物の生成も、、全部コントロールできない、、つまり自分、、、、唯一コントロールできる存在思考、行動のみ、、、、これは誰のものだ????この究極の例外は誰だ???

コントロールできているという思考がただコントロール無しに湧いている

「唯一コントロールできているこの思考と行動は私がコントロールしている」という思考がコントロール無しにただ湧いています、、、これでコントロールできている存在が完璧になくなりました、、全部が全部コントロールされていない、、、全部が全部真我の動き、つまり自分です。。。最後の難関、、、思考と行動、、、これはコントロールできている思い込む思考が湧いている、、、コントロール無しに。

「私が居る」の中で何もコントロールなく起こり続ける

真実はこうです、「私が在る」この絶対的感覚の中で、、、何一つコントロールなく、、、あらゆる現象が起き続けています、、この体も含め、、全部が全部コントロールなく事が起こり続けています、、この体を通じた経験の全てはコントロールなく起こり続けます、、、この起こる動きのエネルギーが自分、真我、無我、ワンネスです。

周囲の反応が気になる

周囲の反応こそ自分

周囲の反応が気になってしまって、、、違います、、周囲の反応こそが自分です、、周囲の反応を起こす力が自分です、、、周囲の反応がこの体にどう向うか、、、反応こそが自分ですから、、周囲の反応がこの体に厳しくても、、、それはそれで面白い、、、周囲の反応がこの体に好意的だったとしてもそれはそれで面白い、、です。周囲の反応に対しこの体は何か反応をする、、、この反応こそが自分です、、面白い、、、観察者としてこれを見守ります。

クラス中から無視にあった

ある日学校に行ったら、、、クラスの仲間から無視にあった、、このクラスの仲間の動きを動かす存在が自分です、、、その上で、、、この体はそれをどう受け取ったか、、辛いを感じたならば、、その動きこそが自分です、、、もしもクラスの仲間の反応が自分だという理解があれば、、辛いではなく、、、面白いが湧く、、、なんで???、、、笑える、、、です。理解に準じた反応が起きる、、その反応が自分です。

店員から雑に扱われた

お店に入ったら店員から雑に扱われた、、、この動きが自分です、、、その時にこの理解がなければ「怒りが込み上げてくる」が起きるでしょう、この体から、、、ですがこの理解があれば、、、「面白い」に変わります、、、なぜだろう??になります、、、この反応、縁起が何が引き起こしたのだろう?ただの化学実験の検証に変わります、、、、本当は化学実験ですかない、、、この体の態度が悪かったのか、店員の体調が悪かったのか、、という検証です、、これはポジティブに捉えるとかじゃありません、、どこまで真実に迫れるかの話です。

やる気も全部真我

今日はやる気がでない

やるきさえ出れば、、、、このやる気を作るのは誰でしょう、、、個人がこのやる気をせっせと作れるか???全部が全部真我から起きます、、やる気は、、、生まれて死ぬまでの全やる気は真我から起こる、、そもそもやる気という決まったエネルギーはないのですが、、全部が全部真我の動きです、、、、やる気さえあればもっとやれるのに、、、、今この思考が真我から生まれました、、、

立ち止まる

人間活動に集中していますと、、この真実が理解できません、、なぜならば個人は一生懸命に生きていますから、、立ち止まることができない、、止まったら苦しくなってしまう、、個人活動は基本苦しいので、、止まれない、、、プールの中で泳いでいて、、、止まれば息が吸えなく、、苦しい、、、これが個人活動、、、、朝から晩まで空気を吸うために動く、、、、これを完全ストップする、、、すると体が水中から浮いて、、、動かなくても空気が吸えることが分かった、、、これが悟りです。

どうしても途中でもがく

ただこの瞬間しばらく止まっていれば、、、息が吸えるのに、、、途中で怖くなってもがく、、、これで振り出し、、しばらく活動をやめ真我にシフトすれば、、、苦しくない、、、途中でやっぱり怖いと自我はもがいて息を吸う、、、一瞬息が吸えてまた活動の日々に、、、この体に私は居るという個人活動のリスタートが始まる、、、だから覚者は何度でも言う、、、「活動を止めろ、ただそこで活動を止めろ」と。

自我のたわいのないお喋り

面白いかどうかではない

自我は生存戦略として自分を認めてくれる人を探し出し、、ただひたすらに相手にしてもらうことを作戦上とります、、、本当は自我は存在していませんから、、自我常に不安で不安で仕方がないのです、、、すると相手とのコミュニケーションは、、自分の話を聞いてもらうこと、、ただこの一点に尽きます、、ということで自我のおしゃべりはたわいのないもになるのです、、、相手のためではなく、、、この自分の存在を認識してもらえるかが最重要なのです、、、目覚めに近づいていきますと、、この自我のおしゃべりが退屈になります、、なぜならばその会話には意味が全くないからです

相手の存在を認めてあげるジレンマ

相手の存在を認めてあげれば当然相手は喜びます、、居ないにも関わらず居ると信じてくれる相手は最重要です、、、ですがこの話こそが相手の自我存続をさらに加速させます、、、安定させます、、ということで気づきが進んでいる方は、、この会話に意味を見出せません、、、くだらない時間だと思います、、

認めてもらいたい、認めてほしい

認めてもらいたい、認めて欲しい、、このやりとりこそが自我の延命共同戦略です、、、会話はこの一点に集約されます、、、、そして多くの場合このやりとりは成功を収め、、、自我は安泰の状態になる、、、ところが家に帰ると、、、苦しい、、、孤独感、、になります、、、、つまり自我を強く意識するということは真実から外れるのです、、結果苦しい、、、この終わらない苦しみに気づくと、、、コミュニケーションが変わります。

なぜ自分は幸福を求めるのか??

自分は不幸だから

幸福を求めていない人はいないでしょう、、ではなぜ幸福を求めるのか??不幸だからです。。。普段酸素を求めている人はいません、、ですが水中に潜ると、、、酸素を求めますね、、、水中には酸素がないからです。つまり幸福を求めるのは基本不幸だからです、、、ですから不幸を背負った状態で、、幸福を求めても無駄なのです、、、水中(不幸)から出なければなんの意味もないのです。

水中から出るには、、、

水中から出る、不幸からでるには、、、今が不幸であることを完全に認めることです。。。今が不幸だから幸福に興味があるのです、、、基本はここです、、、そしてなぜ不幸なのか???個人であるという状態は絶対的に不幸なのです、、、ここが重要です、、、人間のこの体を自分として生きるのは絶対的に不幸なのです、、全員が、、、では自分とは何なのか????自分とはこの体ではなく、、この体、、森羅万象の全てです。

森羅万象が自分であるという実感が湧かないが、、、

森羅万象全てが自分自身であるという実感が湧かないのですが、、、それはそうです、、、何年間もかけて、、、この体が自分であるという学習をしてしまったのですから、、その思い込みを作るには莫大な労力がかかっているのです、、、ということでこの思い込みを外すには莫大な労力がかかります、、ですがこの試みはどこかで必ず成功します、、、なぜならば、、、それが真実だからです、、、真実の前に概念は崩れます、、

自分を再定義する

自分の再発見

悟りとはズバリ、自分の再発見です、、、いやいや、、自分のことは知っていますよ、この体のことです、、この認識、概念、感覚が真実ではないから常に違和感が湧き出しています、、この思い込みが間違っているから苦しいが湧くのです、、、この自分とはそんな小さな存在ではなく、、、この世界を運営する全てなのです、今何かに気づいた存在です、、今このブログを理解したエネルギーそのもの、、今このブログを読むという経験を作り出した存在です。この経験はこの体があってこのブログがあって、、見るためのスマホがあって、スマホの電源があって、、と全条件のことです、、

この体と相手の体

この体と相手の体があるから会話ができます、、私とはこの全てです、、この体からでる声と相手の体から出る声、、これによって起こる会話という経験、、この全てを運営しているエネルギーが私です、、、相手の声が聞こえるという経験、、その声から意味を見出すという経験、、、これをそうなりたたせる存在、、これが私です。相手の声によって自身が不快になるという経験が起きました、、この全てのメカニズムが私です。

ここから駅まで歩く

ここから駅まで歩きます、この体の足があって、、踏みつけるアスファルトがある、、視界にはお店が並ぶ、、この全てを成り立たせているエネルギーが自分です、、この経験を運営している全てです、、、そしてこの現象が起きる場所、空間も自分です。。。感情が湧くための場所、思考が湧くための場所、、これも自分です、、色も空も自分です、、

私とは何か?

たったこれだけ

真実の探究はこの質問で終わります、「私とは何か」です、、私とはこの体のこと、、、これが多くの人の答えでしょう、、この体の中の思考、感情、そして体自体が自分自身であるという限定的な自分、、、ですがこれを自分とすると苦しみが始まります、、なぜならばこれは間違いだからです、、、間違っているから苦しいのです、ただそれだけ、、、本当の自分とはこの世界全て、経験全て、思考全て、感情全てです、、この現象、概念、経験を成り立たせる存在そのものです。

確かに、、

言われてみれば、、、この体、思考、感情を私と思ってきたけど、、、それは思ってきたんです、、思ってきたというのも全存在の活動の一つなんです、、ですがそれは真実ではない、、、だから苦しいのです、、、この体が織りなす経験を自分体験と思ってきたのです、、これは概念、思考、観念です、、だから苦しいのです。。この観念が真実ではないから苦しいのです。事実、真実は見える世界の全て、この体の全て、、全経験、全記憶をそうさせているパワーこそが私です。

こんな小さな私ではなかった、、

こんな小さな私が私ではなかったという突然の気づきは誰がするのか???それが先ほどの全存在です、、全存在が違う、この私はこの体のことではない、、という気づきを起こすのです、、、この私物語は物語であって真実ではない、、この私物語を物語になしうる存在こそが私です、、、全く違うスケールの私がそこに最初から居たのです。

苦しい病を治す

一番治さないといけない病気

自我が目覚めると、、苦しいが湧いてきます、、、これは病気です、、苦しいんですから、、、ですが社会はこの苦しいを肯定します、、否定しない、、上手く付き合っていくものだと、、、なぜか????この自分が原因で苦しんでいることを認めてしまったらこの自分を殺さなくてはならなくなるからです、、ですが死んでしまってまで病気を治す価値はない、、となります。

治ります

でも治せるんです、、この苦しいという病気を、、どうやって、、、自分という存在が実は幻想で偽りで、、これは夢だという気づきが起きればそれで終わります、、究極の真実を腹落ちさせます。私というのは、、この万物を動かしている、、エネルギーそのもの、、この経験を作っているエネルギーそのもの、、全細胞、全原子、全分子を動かす存在なのです、、、これを絶対的に理解できますと自分がシフトします、、究極の騙し絵、、

悟ってからが人生

悟ってからは人生があるんですか???あります、、だってこれまでもあったからです、、悟っている状態がデフォルトで、、その中に自分劇場という幻想が湧き出ていただけなのです、、夢から覚めてからが本当の人生です、、苦しいがデフォルトの人生なんてとっとと辞めて、、静寂平和がデフォルトの人生に変えてしまいます。主語がこの体から、、生命現象全体になります、、、ですがそれでもこの体が動く人生はしっかりと続きます、、主語が入れ替わるだけです。