ゲーム

自我は無我を感じることができない

自我は無我を感じることができないから苦しむ

目の前に心穏やかな至福に満ちた老人がいてその人が最高の師であるにも関わらず、多くの若者はその老人には見向きもせずモノ、ファッション、ゲーム、SNSに走っていきます。なぜ目の前に至福な存在がいるのに自我丸出しの若者はそこには興味を持てないのでしょうか?それは自我は無我を感じることができないからです。自我には目の前の至福な老人が理解できないのです、なぜ至福なのかを全くわからない、、、思考には至福を感じることができません。だから思考が求めるモノ、自我が求めるモノは常にピントがずれているのです。思考や自我、エゴが求めるモノは常に形あるモノなのです。それは自我には無我(安堵、平和、愛)を感じることができないからです。

むしろ失うことでの気づきが多い

大切な車を事故で失った若者は最初大いに苦しむはずです、自分のアイデンティーティーであった大好きな車を事故で失った若者はショックでしばらくは眠れなくなるかもしれません。ですが1ヶ月、2ヶ月もすればそのショックもなくなり今までの精神状態に戻ります。車を失ったという事実は変わらないにも関わらずなぜショックが癒えたのでしょうか?車を自我の一部として所有し自我が大きくなっていると感じるのが錯覚だからです。そもそもが錯覚で自我が大きくなっていただけのこと、車を失うことで実は本質は何も失っていないのです。むしろそれによって自我が小さくなったならばその分無我が大きくなるということです。

失って見たら実は平気だったという気づき

私は大学進学に失敗し一年間の浪人を経験しました、それまでは学校に順調に行っていたので学校に行っていないということ、同級生との足並みから外れることに怖さを持っていました。ですが実際に浪人を経験してみると非常に居心地がいい。ドロップアウトすることがこれほど肩の荷が降りるとは全く思っていませんでした。キャリアに傷がつくということを恐れ続けていた感情は一体どこから来ていたのだろう?自我の策略です。自我は順調にキャリアを積まなくては大変なことになると脅し続けていたわけです。ここが私にとっての最初に気づき、自我が恐れていたことを真に受ける必要はないということでした。

倒産、闘病、投獄、、、この三つを経験した成功者は多い

倒産、闘病、投獄、、、これらは現代社会においての地獄、全部を失う状態です。この状態を経験した人間がそこから成功するのが多いというのは理解できます。人間の自我が最も恐る状態を経験した人は、、、実はその状態でも何も失っていないことに気づきます。全自信、全信頼、全人間関係を失っても実は平気だということに気付いてしまうのです。失うと大変になるのが実は自我の策略でこれを失っても本質(無我)は何も失っていないのです。無我とは何もないということ、、、この状態が歓喜、平和、愛なのです。

限界(体)を所有することで無限を開く

この人間ゲームの醍醐味は限界(体)から無限を見つけること

なぜワザワザこんな小さな体の中に意識を植え付けたのか?真我はなぜこんな小さくひ弱で低脳な体の中に自我(独立意識)を育てたのでしょうか?それはそうでなければならない理由があったからです。人間というのがひ弱で弱小でなければ広大無辺な自身(真我)を見つけた時に感動がないからです。それと自身(自我)が弱小無能であるからこそ自身(真我)をいつか探し当てるからです。広大無辺の本当の自分への憧れがなくなることがないのは自身(自我)が弱小無能だからです。

12歳ぐらいで気付く、、自分はキムタクにはなれない

中学校に入る頃には自分はメッシにも、ロナウドにも、キムタクにも、大谷翔平にもなれないことを知っています。生まれて10年もしないうちにこの体ではスターになれないことをなんとなく分かります。これは一種の絶望ではありますが同時に内面開発のスタートでもあるのです。形でスターになれないのであれば内面で充実になるしかないということです。これがこの人間ゲーム、自我ゲームのセオリーです。形でスターになれないならば形でないモノでなるしかないということです。とは言え人間は諦めが悪く、、では学歴で、では偏差値で、ではお金で、では収入で、では安定で、ではファッションで、、、と形を変えて形にこだわっていくのです。ところがこれらを追い求めてもどこまで行っても心の穴、欠乏感、違和感は埋まらない、、、

限界(体)を自分自身と思うことからの脱却

この限界(体)がなんかしらのアイテム(限界)や何かしらの無形のアイテム(名誉や地位、社会的評価)を得てもどうやら満足は来ない、、、これが素晴らしい絶望なのです。キムタクにもなれずスタープレイヤーにもなれない、では無形アイテムで勝負だ、、地位名誉、社会的評価、安定、、、、、これでも真の満足は起こらない、、ということでこの自分は絶望の果てにこの自分というものを疑うようになるのです。悪いのは社会や才能、周囲の人間ではなく、、、この自分ではないか?そうです、この自分という存在こそが負の感情を湧き出し続ける原因であり、そこを見つめそこから無限に入り込む道具だったのです。有限という体を持ちながら無限に開いていく道具、これが実は体なのです。目に見えるものは全て幻、幻想でありこれを求めるうちは真の幸福は見つけることができません。そうではなくこの体を真我、大いなる一つ、神の通り道であることにいかに気付くかが鍵になります。

何かに集中して無我になり、感情を観察して無我になる

自我は常に忙しく常にあれやこれやと忙しい、、、これをやってあれをやってと思考フル回転、、これが自我全開状態です、苦しみの段階。無我全開状態とは、、、、全作業に集中してこれを行います、全作業を無我に入る入り口にするのです、、、掃除、料理、仕事、睡眠、、、全作業を無我に入る道具にします。茶道、花道、剣道、武道の所作はこれに当たります、思考を一切介在させません。そしてもしも負の感情が湧いてきたならばそれを集中して観察します、その感情によって思考をフル回転するのではなくその感情を観察することで無心、無我に入り込むのです。負の感情すらも悟りへの入り口にします。つまり起きている間中を無心、無我、真我にしてしまうということです、この状態は対象のいらない平和、歓喜、安堵、愛です。

負の感情と形あるものへのしがみつき

負の感情解消を思考は形に向ける

人間から負の感情が湧いてきた際に思考は形あるモノを求めます、例えば食事、、、食事を食べると負の感情を一掃できます、勿論一時的ですが。食事を食べて食べて負の感情、ストレスを解消します。この際に思考はなぜ食事がストレス発散になるかを考えません。なぜならばそこを突き詰めると自我の存続に関わるからです。実は負の感情の発生源は自我であることに気づかれてしまいます、そのためそこは考えない。食事などの形あるモノがなぜ負の感情を解消するか?それは大いなる一つの代替品の確保だからです。形あるモノは全て大いなる代替品になる可能性があります、これを手に入れた瞬間思考の回転が止まり自我が解消され負の感情が抹消されます。実はこれが起こっています。手に入れたその瞬間思考が抜け落ち自我が抜け落ち負の感情が解消されるのです。

思考に解決を求めればひたすらに形に依存する

思考が行うことは基本短期的解決です。とにかくショートスパン、その場が取り持てばそれでいいのです。だから負の感情が湧いたら思考は即座に何かしらの形を求めるのです、子供が泣いたら即座にオモチャを探し出し子供に与えます。これを大人になってもひたすらに行うのです。何か負の感情が湧いたら形を探すのが思考の定石です。ちょっと疲れたら即カフェに入る、ストレスが溜まったらお酒を手にする、退屈が湧いたらTVを見る、、、これを一日中やっているのです。思考をフル回転させればさせるほどに自我は強固になっていき負の感情発生量が徐々に増えていきます。このメカニズムが破綻する時まで来ると人は目覚めに興味を持つのです。

負の感情は目覚めるまでひたすらに続く

負の感情の根源は自我ですからこの自我が主導権を真我に明け渡すまで延々に続きます。人間はいかに恐ろしい存在をこの体の中に構築してしまったのか?です。ですがこの自我構築は真我の遊びです、大いなる一つの遊びです。ですから深刻なことは実は何もないということです。真我の中に自我という独立した存在を作り出しこの自我から負の感情が延々と湧き続けそれを解消し続けるというゲームです。自我が王座を真我に譲ればその瞬間に負の感情は湧かなくなるのです。徳川幕府が天皇に王政を戻したのと同じです、これを無血で行うのか流血で行うかです。

自身の事業が完成しても負の感情が湧いてきた時に諦めた

私がなぜこの分野の研究に打ち込んだかと言えば、、、20代に仕事でストレスが溜まり、好きな仕事について世の中の役に立てればストレスはなくなると決めていたからです。ところが実際にそれを成し遂げた時に喪失感が湧いてきました、もう人生で何かチャレンジすることはないのか?とです。自己実現さえすれば自分の人生は終わりと思っていました、だからこそ全てを捨ててこれに当たっていたのです。ところが違った、喪失感が無くならない、、、これは大変なことになった、、、悟りを開くしかない、、こういうことです。

思考と感情の兄弟関係について

ネガティブな感情を解決しようとする思考の罠

ネガティブな感情が湧いてきた時多くの方はその感情を思考を使って解決を図ります。そうしたらこの感情をなくすことができるか?どうしたらこの感情を感じなくて済むかを思考を使って考えるのです。例えば退屈という感情が湧いてきたならばゲームをしよう、友人を誘おう、飲みに行こう、、、と言った具合にこの感情をいかに解消するかを思考を使って行います。結果確かに退屈という感情を感じないで済むようになるかもしれません、ですが結果的には思考を使ってこの問題を解決することでますます負の感情が湧き出すようになっていくのです。これが思考と感情の罠です。

思考を使えば使うほどに負の感情が湧き上がる理由

思考というのは過去の記憶をベースに作られます。自分という架空の存在が経験したことをベースにしてそこから思考が湧いてきて問題の解決を図るのです、つまり思考を使えば使うほどに自分という架空の存在が強化されていくのです。自分が思考を使って問題を解決したというメカニズムが強固になっていくのです。そうなるとどうなるか?大いなる勘違いが加速されることで負の感情が湧いてきます。思考を使って解決を図れば図るほどに負の感情が湧いてくるという恐ろしいメカニズムが構築されるのです。これが人間という生き物がどこまで行っても苦しい理由です。

思考を頼りにしない、思考は意識的に使う

このメカニズムが理解できてきますと、下手に思考を使って問題、負の感情を解消しようという気持ちが湧いてこなくなります。思考フル回転で次から次へと負の感情を解消しても益々自我が強固になり負の感情が湧いてくるのです。思考を使えば使うほどにそれを駆使する自分が確固たる存在になっていくのです。この自分という存在こそが負の感情を生み出す根源です。逆に負の感情が湧いてきたならば何かに集中して意識的に無我に入るか、その感情をじっと観察し痛みの根源を理解します。感情が湧いてきたということはまさに自分というこの偽りの存在が居るのだと認識します。これにより負のスパイラルを強制的に遮断します。

負の感情が湧けば思考フルスロットルが当たり前

思考とは過去の記憶の集積から成ります。問題が起きた時に過去に入り込みそこから最適解を導き出し最も効果的な負の感情解消方法を見つけ出します。これが思考の役割です、思考とは自分の所有物みたいなものです、自分が思考を使いこなし問題を解決しても自分は全く解消されない、むしろ強固になっていく。これが究極の負のメカニズムです。多くの方はこの事実を本能的に知ってか負の感情の解決を諦めていきます、ジタバタしてもしょうがない、、といった具合です。ですがこれは本質的な問題解決にはなりません。そうではなく負の感情をしっかりと見つめる大いなる一つになるか、無我に入って大いなる一つになっていきます。

ゲームをクリアしたマリオは探求の旅に出る

マリオゲームクリアの次に来る絶望感

マリオはゲーム進行中はそれほど迷わないものです。ゲーム中はゲームクリア以外にそれほど思考が巡らない。ところがです、いつの間にかクリアしてしまった、ここが実は地獄の始まりです。多くの場合はもう一度ゲームを最初からスタートするか次のマリオゲームにチャレンジする。そういえば友人がマリオカートも面白いと言っていたな、、こういう発想になり次はマリオカートへのチャレンジがスタートします。ところがです、マリオカートもクリアしてしまった、、そうなる次はマリオゲーム最難関のマリオスタジオにチャレンジ、次はマリオインターネットプレイを、、と難易度を上げ続け、、、最終的にやることがなくなる。。。。これがマズローの欲求5段階の流れです。安全欲求から始まり所属の欲求、承認欲求、社会的欲求、自己実現欲求と階段を上っていくわけです。そしてその階段も上ってしまったらどうするか?ゲームを辞めるしかありません、それが自己超越欲求です。マリオとしての卒業です。

そもそもマリオゲームってどんな風に作られているのか?

これがマリオが疑問に思う次の衝動です、散々自分はマリオゲームに時間を割いてきた、、そして次から次へとゲームをクリアしてきた、、もうここからゼルダシリーズに切り替えるパワーも好奇心もない、、、ということでマリオはマリオゲーム製作秘話に興味を持ちます、というよりもそこにしか救いがない。マリオはこのゲームの仕組み、カラクリに興味を持ち始めていくのです。そして調べていくうちに面白い事実に突き当たっていきます、マリオは実は幻想でマリオの中に人格も個人もいないという話。???どういうことだ?この自分がいない?マリオはこの話を聞いても全くピンときません。今まで散々この体に鞭を打ってゲームに没頭してきた、常に一進一退の攻防を繰り広げ生き抜いてきた自分がいない?意味がわからない、、こうなります。

一番の驚きは自分が進んでいたのではなく、画面が動きマリオが進んでいたように見せていた

マリオにとって大きな驚きの一つは、、自分が進んでいたのではなく背景が変化していたということ。自分が前に進んでいたと思っていたら実は背景が変化して進んでいたように見えていたという事実。自分が動いていなかった????自分というものが動こうと意思が働くとなんと背景が変化していたのです。こんな恥ずかしい話あるでしょうか?進んでいたと思っていたのは自分だけで実は全体がそう見せていただけ、、、恥ずかしい。。知らなかったのはこの自分だけ。そうです、このマリオゲームで勘違いをしているのはマリオだけです。クリボーもクッパもプヨプヨもマリオにとっては全体の一部で、マリオだけが自分が動いていると勘違いしていたのです。

人間ゲームに戻ってみる

我々人間も全く同じメカニズムで勘違いしています。自分がこの背景の中を歩いていると勘違いしています。実は全く別です、自分が動こうとすると背景全体が変化しているのです。駅まで歩けば背景が変化し続けていきます。このゲームの中心には常に私が存在し私を中心に背景、全体が動き続けるというストーリーを我々は生きているのです。そしてこの私が経験した全てを記憶機能に記憶させ「我が人生」が作り出されていきます。何か事件があった時にはこの記憶を遡り何が原因かを考えます、そしてこの記憶の中から最適解を探し出し解決を図るのが人間です。

人間ゲームの製作過程が面白い

人間だけが自分の人生を歩む

「我が人生に悔いなし」これは人間ゲームとしては最高の言葉、、ですが悟りの観点から説明すれば「自分の人生はなかった」これが答えです。マリオの人生はなかった、、、これがマリオに訪れた悲劇の気づき、、、でもこれでマリオは救われます。もうクッパとの格闘で胃酸過多にならなくていい、円形ハゲにならなくていい、、ストレス性アトピーにならなくていい、、、嘘だ、、これだけ壮絶な戦いを続けてきたこの人生(マリオ)が作り物だったとは、、マリオという全体と完全に分離した存在が誕生したことでいきなりマリオの大冒険が始まったのです。クッパもプヨプヨも、ノコノコも全部敵、ヨッシー、ルイージなど仲間はいるがみんな分離した別々の存在ということ。マリオが断固として確実に存在するのだというこの間違いが全てを起こします。

この体は確実にある。。。

この体は確実にあります、ナイフで刺せば痛い、抓れば痛い、くすぐれば耐えられない、、ですがこの中に「自分」がいるというのは記憶をベースにしたアイデアです。マリオの中に人格があると錯覚するのと同じです。この体の中に別個の人格がありその人格向上こそが人生、、これがこの人間劇場を作ります。人格も個性も記憶に基づいたアイデアです。もちろん、クッパ、ルイージ、よっしー、このボディーによって活動、性質が異なるのは間違いありません。ですがこの中に人格があると考えると途端にその人生がスタートしてしまうのです。経験を記憶できることによって経験者(マリオ)が誕生しマリオの人生がスタートしたに過ぎません。

それでも周囲は皆我が人生を生きている

自身がマリオであったと気づき全体が作り出した一部に過ぎないと自由奔放に生きていても周囲は皆自分の人生、我が人生を生きています。周囲は皆人生を考えろ、老後の人生を慎重に考えろとアドバイスをしてくるでしょう。どんなに周囲が「自分の人生」を生きていてもそれは思い込み、錯覚であることを知ってしまいますともう真剣に聞くことはできません。地球が回っていることを知ってしまった後に、天動説集まりの会に参加しづらいのと一緒です。どんなに周囲が人生を生きていても、人生とは記憶が作り出したストーリーであることに違いはありませんから事実に向かって全体は動いていきます。

マリオは覚醒後全体とともにプレイが続く

マリオに何かが起きるわけではない、視点が変わる

覚醒とはこのゲームのメカニズムは理解できてしまうことです、腹落ちすることです。覚醒後マリオはゲームのキャラに成り下がります。それまでこれは現実で自身でこの自分だけを頼りに必死に生きてきました。ですがそれからはこのゲームのキャラ、主人公としてのキャラの全うだけが役目になります。この広大な宇宙で頼れるのは自分だけという絶望状態が終わり実はこの宇宙そのものでその中でマリオというキャラを演じていたことに気づきます。マリオという分離した存在はいなかったというビックリするオチです。しかも自由意志と思い込んでいいたこの思考は全体からの現れであり、記憶に基づいてこの思考が湧いていただけだという理解が起こります。感情も記憶とリンクしてこの得体のない不足感、孤独感が変換されたモノだったという気づきが起こります。

気づきの意識はマリオにはなり切れない

全体、気づきの意識はもうマリオになり切って頼れるのは自分だけという心境にはなれません。マリオの裏にプレイヤーがクリエイターがいてそこから自動運転が起こっていたという気づきの後に再びマリオに成り切るのは不可能です。記憶のメカニズム、自我のメカニズムの解明が起きることでもう自我に1日中振り回されることもできなくなります。これまでは何か悲惨な事故にマリオが巻き込まれると、、過去を振り返り何が悪かったのか、何の準備が足りなかったのか?親との関係か?など記憶との格闘が始まりました。ですがその記憶に頼った格闘こそがこのマリオをストーリー夢に引き込む要因です。マリオという分離した存在が所有した記憶に答えを求めてきました。ですがこれが錯覚であることに気づくのです。起きた事件は全体がただ起こしただけ、それにマリオが関わっただけ。もしくはそれを自己として認識するマリオがいただけということになります。全体が起こす出来事に本来は善悪はないのです。

何か事件が起きる度に反省を続ける人間

何か事件が起きる度に反省を続けるのが人間です、事件は全体が起こしたモノでありそこに善悪は全くありません。全体が作り出したアートです。そのアートが人間にとって都合が悪い時にそれを深刻に受け止め反省します。全アートが人間活動を重くしていきます。そうではなく全体が作ったアートとしてそれを観察しマリオは今日もやりたいことをしていきます。自身が全体、気づきの意識であることを認識しマリオをプレイしていきます、全体と、全体がプレイするマリオの遭遇がただ起こり続けていきます。マリオと脇役との重要度の違いはもうなく、マリオも脇役も同価値、同列です。マリオと同じぐらいに価値がある脇役がたくさん出てくるのですから楽しい。

マリオは気づいた、苦しんでいるのは自分だけだ

マリオゲームで苦しんでいるのは自分だけ

マリオゲームの中で感情を持っているのはマリオだけ、マリオだけが苦しみ、楽しみ、喜び、落ち込んでいる。クッパもプヨプヨもノコノコもクリボーも苦しんでいるようには見えない、、これがマリオゲームの真実です。人間ゲームは違う、自分は確かに苦しんでいるが、、他の人間も苦しんでいる、、、いやそれは違います。この人間ゲームはそのようの見せているのです。苦しんでいるのは自分だけではない、、そう見せています。ですから覚者は問う者に伝えます。あんたがただ解放されればいい、あなたがただ真実に気づけばいいのだと。マリオにとってクリボーの存在が関係ないように、この人間ゲームも私が真実を知ればいい、ただそれだけです。

楽しめるのもマリオだけ

この人間ゲーム、自分だけが世界中の不幸を背負っているそのように見ることもできますが楽しめているのはこのゲームの中で自分だけです。だから楽しみを何も考えずに追求すればいいのです。他者は所詮ゲームの脇役キャラでしかないのです。ただこの楽しみを追求するのがまた厄介でそれはそれで骨が折れるのです。楽しみ続けるって実は難しいのです。買い物を追求しても、食事を追求しても、異性を追求してもハードルは上がるばかりです。もしくは途中で飽きます。

全体から分離しているのは自分だけ

この自分ゲームにおいては全体から分離してるのは自分だけです。この体と言い切るのも間違っています、例えば腸の動き、血液の動きなど自身が全く感じることができない動きは全体が行なっています。足を動かした時にそれを感じるのはそれを行なっているのは自我、自分だからです。体全部が自分が動かしていると思ったら大間違いでほとんどは全体がこれを行なっています。全体が全体としてそれを行う時、それを感じることはできません。例えば傷を負ったとしてもそれを治すのは全体です、ですから傷が治る感覚を得ることなく勝手に傷が治ってしまうのです。思考がわき起こる時にそれをしっかりと感じるのはそれについては異物(自我)が関係しているということになります。

マリオは気づいた、動いているのは自分ではない

マリオゲームをやっていても騙される

大人はマリオゲームをやっていると気づきます、動いているのはマリオではない、背景だ。ゲームクリエイターならばそれは常識、キャラがゲーム上を自由気ままに動いているように見えますが動いているのは背景です。これはこの人間ゲームも同じ、動いているのは人間ではない、背景です。ではなぜ人間が動く感覚は実感できるのに、全体、背景が動くのは実感できないのか?これはこのブログ史上最重要質問です、答えは簡単、自分自身が実は背景そのものなので自身の動きに気づかないのです。いやそんなことはないではこの私の動きを私が感じるとはなぜだ?これも最強の質問、自分自身が背景そのものだからこの体(自分)異物の動きを敏感に察知しているのです、全体が。いや全体が察知していない、察知しているのはこの自分だ、違います。全体が察知した経験を自分(異物)のモノとしているシステムこそ自我です。

マリオは何も知らずに今日も自分が動いていると活動する、呑気者

この地球に住んでいる人間の中でどれだけの人がこの事実に気付いているでしょうか?恐らく1%もいないでしょう。この自分の五感、感覚、経験には絶対的なモノがありこのカラクリを見抜くのは至難の技です。ですが覚者と呼ばれる人々の意見が一致していることからもこの新しい事実は真実です。天動説が地動説に切り替わった時の大発明、「動いているのはマリオではない、背景である」「動いているのは人間ではない、全体である」動いているのはマリオではなく背景だ、、、この事実を突きつけて驚く大人がいないのは当たり前だからです。ですが人間に置き換えると途端に納得がいかなくなる、なぜならばそれほどまでにこの人間ゲームは緻密だからです。

大人を信じるな、大人は人間の苦しみを全く解決できていない、、

思春期になり大人に近づく若者が親のことを絶対的に信頼していない理由は何か?それは両親が幸福そうに見えないからです。ほどほどには幸福そうに見えるかもしれません、ですが絶対的に幸福には見えない、むしろ日々のニュースに狼狽、振り回され、絶望すらしているではないか。若者が将来に対し日々不安になっていくのは当然です。答えは簡単、地動説を信じこの自分の存在を勘違いした状態で至福に至ことは不可能ということです。

マリオの動きは全体がメイン

マリオが進んでいるのではない、全体が変化している

マリオゲームを進める時、マリオが前に向かって進んでいると多くの方は思っていますが実際は画面が動いているだけです。画面上の画面そのものが変化することでマリオは先に進んでいる錯覚を起こしています。これ実はこの物理次元でも同じでして人間が動いているではなく画面が変化しています。我々が駅に向かって歩く時変化しているのは全体景色の方です。我々の動きに連動して景色が確実に動いているのです。人間が動き回り景色、背景は全く動いてないというのがこの人間の共通認識ですが実際は逆です。

景色が変化している実感が湧かないのは我々が景色そのものだから

我々の本質は全体です、全体の方が本質であり、この体の中に居るとされる私、自分こそが偽りです。偽りの自分が駅に向かって歩く時に本質である景色が変化してみせます。本質が景色そのものですから景色が動く時に何も感じないのはそのためです。コーラは中のコーラの動きを感じることはできません、中の異物(自分)の存在しか認知できないのです。コーラとは景色、異物とは駅に向かう自分です。

目の前で動いている昆虫の前に進む感覚が湧かないのは自分自身だから

人間は完璧な勘違い、180度の勘違いをしています。実感が湧くこと、感じることは異物の全体の中での動きです。全体が全体のまま動く時そこには何もありません。目の前の木の成長をあなたは実感できません視覚以外で。気が伸びるそのものの感覚を感じることは不可能です。それは全体の全体による動きだからです。コーラのコーラによる動きです。コーラの中で異物が動く時にコーラはそれを認識します、その認識を自分のモノとするのが自分、人間です。覚者がいう「自分は全部だった」というのはこのことです。「自分が消え去り全体だけがあった」全体を感じる自分(異物)の消滅です。