気づきがストーリーに反映される

私が気付いたんじゃない

気づきは、、私によってなされることは絶対にありません。気づきと気づきの内容は一対です。ですから現れ=気づきです。故にそれを気づく「私」は存在しないのです。ですが気づきの内容にばかりフォーカスしますと、、気づき自体が忘れ去られ、、、いつしか内容の全ては「私」によって所有されます。「私」が気付いたというストーリーが記憶に刻まれます。そこからは気づきの内容の全ては「私」にストックされていくのです。

ですが

どこかで、いや違う。。。この気づきと気づきの内容は一対なんだ、、、という気づきが生まれます。つまり私によって気づかれたのではない、、、、という気づきです。ところが、、、記憶は恒常的に、、、私の気づきストーリーを起こしますから、、、、私が真実にも気付いた、、というストーリー展開を見せます。ですが確実に軽くなっていくことからストーリーにも軽さが帯びてくるのです。ですがどうしたって記憶から私が飛び出て来ればそこには深刻さは残ります。

記憶が、、、、

真実への気づきに対して、、記憶は気づきを「私」が掻っ攫うことで抵抗を見せます。ですがそれも放っておくのです。私はいつも主人公であり、、今回の真実への目覚めも当然主人公であろうとします。なぜならば「私」の気づきでなかったら、、、誰の??????という話だからです。でもいいのです。そんな自我活動、偽りの記憶活動にも目もくれず、、、、真実に触れ続けてください。。。いつしかストーリーは軽くなっていき、、、ストーリーが現れようとも何も気にしない、、気にならない、、状態になっていきます。