言葉という認識

認識が先か言葉が先か

この世界の中からこの「体を切り抜いて私」とする言葉が生まれました。この瞬間私はこの体としてこの世界に初めて登場したのです。この体をこの世界から切り離すには言葉が絶対に必要です。「私とはこの体です」という言葉がこの世界からこの体を切り離しそれを私とする動きが起こったんです。だから私とは後天的に言葉によって作られた存在です。

「私とはこの体」

この言葉が生まれるまではその認識は100%無かったわけですからこの世界に「この体はこの私」という存在は一切存在しません。認識がなかったのですから。だからこの私が自由意志を使ってこの体をコントロールしているというのは嘘です。私という認識が記憶喪失で消えてもこの体は動くのですから。そして私が自由意志を使っているというのも嘘です。私という言葉が生まれない時、私は存在しないのですから。

言葉とは認識を利用した発明

言葉は誰かが発明したものではありません、自然現象的に言葉が生まれたのです。音を組み合わせて「り・ん・ご」はこれ、、、という決め事が起こったのです。この体を指差して「わ・た・し」という決め事も勝手に起こったのです。この「りんご」は誰のもの????「わ・た・し」です。音の認識が勝手に起こり、組み合わせた音の解釈も勝手に起こったのです。音を組み合わせただけなに音の認識も音の組み合わせによる解釈も勝手に起こります。これが人類の言葉使いです。

「私が居るという」解釈が続く

地球の周りを太陽が動く、、という言葉は記憶されその都度その解釈が起こり続けました。私が居るという言葉も記憶されその都度その解釈が起こるんです。だから我々は私とあなたという関係をひたすらの続けることができるのです。いつもその認識があるから「私が居る」のではなくその言葉が記憶されることでその都度その解釈が起こっています。真実は180度異なります。

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