「私」が体験しているという仕組み

経験だけがある

朝起きます、、起きるという経験だけがあります。そして次に「私は起きた」という思考が起こりそのイメージが湧き出します、それを経験します。コーヒーを飲むという経験だけがあります。次に「私はコーヒーを飲んだ」という思考が湧き上がり、、そのイメージを経験します。次にパンを食べるという経験が起こります。次に「私はパンを食べた」という思考が起こります、そしてそのイメージがビジュアル化しそれを経験します。

経験だけがあり、「私が、、」という思考体験だけがある

メカニズムが分かるとこんな簡単なことはないんです。私抜きの経験だけが湧き上がり、、「私が、、、」という思考体験だけが湧き上がります、その合間に。毎日ひたすらにこの繰り返しです。経験のみ+思考体験のみです。さあ「私」はそこに存在しますか????しませんよね、、、「私、、、、」という思考だけが起こるのです、合間合間に。

経験と思考体験が混合する

経験の合間に思考体験という経験が起こります。ですから経験しか起きていないという点では何も矛盾はありません。動物、幼児は経験のみを積み、人間はその合間に思考体験が入るのです。全員が悟っているという表現が起こるのは、、、経験しか積んでいないという皮肉です。誰一人自分なんて経験は積んでいないんです、、「自分が、、した」という思考体験が起きているだけです。いまここで。

呼吸法

呼吸法で、思考、雑念を落としますと、、、経験の合間に入る思考体験が落ちます。つまり経験だけがある状態に入るのです。経験だけ、思考体験なし、、これを悟りと世ではいいます。呼吸法とは思考体験を作りだす、、思考への意識の意識化を止める行為です。意識を呼吸に意識化することで、、思考にへばりついた意識を削ぎ落とします。思考体験が落ち、経験だけが湧き上がる時、、、そこに真の安らぎが起こるのです。なぜならば思考体験こそがストレス、苦しみ、緊張感を作るからです。

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