人生なんて食べれていればいい?

そういう観念を持てばそれができる

人生なんて食べれていれば十分、充実とかやりがいとか一切どうでもいいです。そのような観念を持てばそのような情報、仲間、友人、家族と関係が結ばれていき、、本当にそのような人生を歩んでいきます。ところがです、ところが、、、どこかで必ずモヤモヤがある、どこかで何か違和感がある、、それが続くのです。その違和感を当たり前として生き続ける人生もあるでしょうし、、その違和感が許せない、、、となる人生も起きます。

もしも違和感を許せなければ

その違和感を許せないとなった場合は、、食べれているだけではダメだ、、楽なくちゃ仕事は、、となるかもしれない、、もしくは家族に良い生活を与えたいんだ、、、になるかもしれない、、、要は観念が書き換わるのです。するとどうなるか?????その観念に沿った人生に近づいていきます。楽しい仕事とは何だ???となり関心が引き寄せられ情報が集まりそのような人間関係に作り替えられていく。そしてそれを成し遂げるのです。。ところが、、楽しくて食べれる仕事にも関わらず、、、何か違和感がある、何か不足感がある、何か満たされない、、、が起こるのです。

やっぱり金持ちでしょ!!!

すると次はやっぱ成功だろ!!やっぱ圧倒的な評価、金銭、、だろ!!!になるかもしれない、、、するとそれに関する情報、人脈、仕事が引き寄せられてくる。。。そしてそれを成し遂げるかもしれない、、、ところが、、やっぱり違和感、孤独、不満足が起こりるづける、、、、そこで考える、、、何かが違う、、、個人が何かを成し遂げることをしている間はこの違和感は抜けれないのでは?????となるのです。そうなると悟りっしょ!!!!となります。俺が悟ればいいのか!!!!です。

悟る自分は居ない

ところが、、この俺が、この自分が悟るというのは、、、このゲーム、夢、ストーリー上のやり方、成し遂げ方、、、このやり方、方法では悟りは起きないのです。もしかしたら悟りが起きたという幻想は起きるかもしれない、、ですがそれはフェイクです。どうやら悟りは今までとは違うぞ!!!!個人、自分が悟るっていう発想がおかしいんだ、、、です。悟りっていうのは個人とは全く関係なく、、これが夢だ!!!!っていう気づきが起きることなんだ、、気づくのは自分じゃない、、なぜならばこの自分も夢の登場人物に過ぎないから、、登場人物が気付くって、、フェイクだ!!!です。悟りとはその登場人物全てが実在しないことに気づくことだからです。

分かっちゃった????

理論上はこういうことです、実は簡単だったりします、、ですが、、、理屈では理解できてもそうは問屋が許さない、、、そう簡単にはいかないよ!!!なんですよ、、、なぜかと言えば、、、、悟りを起こせる個人が居ないという気づきは、、完全無力だということも同時にわかっちゃうことだからです。個人の努力しかしたことがない我々はこの真実を突きつけられると困っちゃうんです、八方塞がりです。ですがこの個人努力、個人研鑽ではどうしようもない、、という気づきこそが、、もう本質に近づいちゃってるのです。もうその気づきは個人じゃないし、個人の不在に気づきはじめちゃってるんです。

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