常に新しい表現が起き続けるが、、

全体の表現に退屈はない

全ては今根元からの表現しかなくそれは同じ表現がない、、常に新しく新鮮でフラットな状態、この新鮮な表現を人間は退屈と感じる、退屈と感じているのも根元の表現ですから何も問題はありません。人間活動をしなければ退屈すら感じることはできないからです。とはいえこの新鮮でしかない根源の表現を退屈と感じるのは辛いもの、退屈と感じるには個人という分離した存在を感覚として所有しその感覚を通じて世界を眺めることで自分にとって退屈という感覚を作り出すことができるのです。

自分という感覚が強くなればなるほどに新鮮さが失せていく

自分という絶対縄張り領域が強化されていきますと、、それに反するように世界の新鮮さが色あせていきます。それは自分という本来ないはずの感覚が芽生えることで本来ない世界が広がり、、その世界は実態と離れていくからです。空気が薄い場所になっていきます。この空気が薄い状態が退屈な景色です。もしも世界が輝いていたならばそこに飽きるということはないでしょう。見える世界から輝きを奪うのは自分という感覚です。

五感を開くと自分が薄まる

自然に触れる、大自然の中で運動をする、、体の五感を使わざるをえない行動をしていきますと五感が強制的に開かれていきます、五感が開くと経験に意識が向くようになり自分という感覚が薄れていきます。自分という感覚よりも五感による経験が気持ちいい、気持ちいいからまた五感を使おうというプラスのサイクルに入るのです。いつの間にか自分という感覚が薄れていることに気づきます、空気が深く吸えます、景色の輝きが蘇っていきます。そうか五感さえ開き続ければ悟り、根源、全体が向こうから開いていくのが分かります。分かるが根源から湧いてきます。

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