悟り(非二元)解説

降りる

人間社会

悟りとは人間社会のルールから降りることです。人間は全自由意志があって自らの行動を決め全責任で持ってその行動の責任を取るという概念を前提に築かれています。この概念は真実は180度異なります。人間とは全部勝手に思考感情行動を起こされ、、責任の取りようがない。。これが真実です。このぐらい大きく大きく真実と概念は異なります。この真実と概念のギャップこれが「苦しみ、緊張、孤独」です。

つまり

人間社会の常識を積極的に取り入れれば苦しくなり、、真実を積極的に取り入れれば苦しくなくなる????そうです、、その通りです、それしかありません。じゃあどうしたら人間社会の常識を辞め真実を取り入れて生きていくことができるんですか????簡単ですそうすればいいのです、、、周囲には人間社会の常識で「合わせ」真実に沿って生きるのです。

ミスをすれば

ミスをすれば「やらされた」と認識しながらしっかりと謝り、、、相手のミスは「やらされた」という認識の元で真相では許すのです。被害にあっても表面上は「責任を求める」ことをしても深層では「誰も悪くはない」ことを理解するのです。人間社会とは全く異なった認識で生きても「表面上」は全く問題なく生きれます。しかも苦しみゼロです。

惜しい

服装さえセンスが良ければ

今婚活中なんですがなかなかパートナーができなくて、、何かアドバイスをくれませんか?????そうですね、性格も良いし、背も高いし、収入もるし、、あとは服装かなー服装センスさえ良ければ!!よくある迷い人と回答者のやりとり。。。。ですが、、、服装のセンスが良くなって彼女ができれば、、、、「なんか上手くいかなくてアドバイスをください、、、服装を改善して彼女もできたのにが起こります。「毎日1回はラインしなくちゃ!!」で関係が良くなっても、、、「一緒に住めたは良かったんですが、、、」が一生続きます。

気づく

悩みというのはエンドレスに続きます。。個人の悩みは一生です。。。個人は悩み製造機なんです。そこに気づくと全く違う視座を持てます。個人という概念を保持する限りは悩みは一生です。そうではなくどうせ悩みが一生続くならば悩みを解決しないという選択肢を持つのです。そして悩みがあっても幸福とはありえるのか???という違う観点を持ちます。

全部勝手に起こっている

彼女が欲しい、お金が欲しい、家が欲しい、車が欲しい、評価が欲しい、安定が欲しい、崖歴が欲しい、、、この可能が勝手に起こされていきることに気づきます。「私、俺、自分」が起こしたんじゃないんです、勝手に起こされたんです、被害者です。被害者であるにも関わらずなぜ一生懸命それを努力して解決しないといけないのか?????と言う話です。被害者なんです、、その欲求を持たされただけでも被害なのになぜその解決方法まで探させられないといけないのか???という話です。

被害者

あいつは本当に欲深いよね!!!違うんです、、欲を持たされてしまった被害者です、、一生懸命その欲を満たすことを成し遂げたんで、もっと大きな欲を持たされているんです、、その欲をさらに満たしたんでもっと大きな欲を持たされているんです。。このことに気づくまでエンドレスにやられます。個人という概念もその個人が欲を満たせば幸福になるという概念も全て概念であって真実ではないのです。そこに気づくまでこの動きは続きます。

後悔も期待もない世界

全員

全員が全員全く自由意志なしに物事が動いています。全員が全員全く自由感情なしに物事が動いています。全員が全員全く自由行動なしに物事が動いています。つまりこの世界は喜劇です。にも関わらず全員が全員自由意志があって自由感情があって自由行動があると信じていきているのです。このギャップ、この勘違いの大きさが実は「苦しみ」の大きさなんです。だから苦しみを終えたければこれを理解するだけです。

何もしない

じゃあ何もしないということもできますよね、、、完全に家にこもって生きていてもいいということですよね???働かず勉強もせず何もしないという生き方だって文句を言われる筋合いはありませんよね????勿論です、、、そうです。。ですがそうなるかどうかを決めることができないんです、、全部勝手に起こりますから。この話を聞いてそうなればそうです、そうならなければそうです。

気軽になると

ハワイで好き勝手にやっちゃってください、、責任は一切取らせないんで。こういうことを言われて部屋に閉じこもりますか????そうです、、全責任が「自分」にないことが分かると閉じこもるという選択が起きにくいのです。勿論それがおこることもあるでしょう、、ですがそうじゃない可能性が高い。自由意志も自由行動も自由感情もないということは腹落ちしますと多くの場合自由になります。子供のように元気になります。その時に部屋に籠るはないです。

思考の中には真実はない

思考そのもの

思考そのものは真実の現れです、ですが思考の内容は真実とは違います。よって思考が湧けば同時に「違和感」が起こります。思考自体は真実の現れです、ですが思考の中は真実とは異なるため、、体に反応して「違和感」が芽生えるのです。ですので思考に意識を向ければ向けるほどに、、「違和感」が連打されます。

なぜ思考が湧くのか????

ではなぜ思考が湧くのでしょうか????それはまさかの違和感を解消するためです。思考自体が違和感を創り上げ、、この違和感を解消するためにさらなる「思考」が湧きます。つまり、、、全く根本解決にならない。。のです。思考こそが違和感を創り上げ、、その違和感解消のために思考が動く、、、全くもって意味不明な動きが起こっています。これに気づくのです。

救えない

自業自得、、まさにそうです。人類とは総自業自得族です。「私」が居るという前提の思考を起こし、、、「違和感」を発生させ、、、思考でそれを解消しようとし、、、また違和感を作る、、、これをエンドレスに行います。どういうこっちゃです。これを終わらせるためには、、、この事実を掴むのです、、この事実を徹底的に掴みます。すると一生懸命思考を起こして、、違和感を解消しようとする動きが鈍くなります。鈍くなることで違和感が減り、、違和感が減ることで、このことを実感できます。

神の笑い

受け入れる

神の笑いとは、、、、「人を馬鹿にして笑う」「人の不幸を笑う」「人の失敗を笑う」色々ありますが神の笑いとは「受け入れる」笑いです。こんなことがあった、、あんなことがあった、、、、この現象が面白い、、そんな現象が起こったことが面白い、、、です。全現象は面白いんです、、何が起きたって面白いのです。そこに「私」が登場し、、私のストーリーを生み出しますと、、「苦しい」から現象を面白く感じれなくなるんです。

箸が転んでも

箸が転ぶだけで面白い、、これが神の笑いです。現象が起こるだけでそこに幸福が起こります。何か期待していた出来事が起こるから面白い、、これは「私」の笑いです。そうではなくただ現象を眺めますと、、箸が転ぶだけで面白い、、が起こるのです。

そのまま

思考は常に刺激を求めます、、思考は常に「私」にとって面白いを求めます、、、ですがこの延長線上は基本は苦悩があってそこを紛らわす笑いが時々起こるだけです。本当の笑いとは「私」とは無関係にただ起こる現象が面白いのです。何が起こっても面白い、、そのためにはストーリーではなくあるがままを感じます。

覚醒

全肯定

覚醒とは全肯定のことです。全ての現象を受け入れることです、、、、その現象が「私」に危害を加えることを受け入れるのではありません。その現象が起こったことを受け入れるのです、、猟犬が道にいて甘んじて噛まれろということではありません、、その存在が登場したことに良否はないということです。そこから飼い主を責め、怒りに震え、、1日をそこに費やすという思考の罠に気づきます。思考は常に現象に判断を加え、良否を下しますが、、その思考判断劇場に居る期間は「苦しい」ですよ、、という話です。

猟犬の登場が苦しいのではない

猟犬の登場自体は「苦しみ」にはなっていないんです。。。それ自体に良否はないんです。「私」に危害を加える可能性があることを起こした飼い主を責めるというストーリーに入り込みますと「苦しみ」が発生します。この事実を理解します。猟犬自体はストーリーではありません。猟犬の登場によって「私」を作り出し、「飼い主」を作り出し、、、「私」VS「飼い主」の物語を作りますと、、「苦しみ」が生まれます。

ストーリー

苦しみを作り出していたのは「猟犬」ではありません。猟犬の登場をきっかけに「私」「猟犬」「飼い主」というストーリーが打ち上げられるのが「苦しみ」です。全現象は全現象としてこれからも起こるでしょう、そこは間違いありません。。そこからストーリーに入らないことです。その現象は現象そのものとしてこれからも起こります、この事実、真実のみを相手にします。

止まる

徐々に徐々にストーリーへの誘いが起こらなくなります。徐々に徐々に「私物語」が起こらなくなります。真実ではあらゆる現象が「私」に向かって起こるのではなくただ起こります。ここに気づきます。「私」とはあらゆる現象のたった一つであり、、全現象は「私」に向かって起こっているのではなく、、ただ起こること。。ここに気づくのです。その時真の安らぎ、真の平和、真の愛に気づきます。

溶かす

催眠

これは催眠です、これは催眠術です、、ですから、、、私が居るとか居ないとかを頭で考えて催眠術を解くとか不可能です。この思考上の流れで催眠術を解こうという試みは、、この私を催眠から解くことでありその時点で矛盾があるんです。実際にはこの私が居るという動きを解くのであって私の催眠を解くのではありません。催眠術を解く相手は「私」ではないんです。

ゆえに

私が催眠術を解くんだという意気込みは逆に私が居るという動きを強くするんです。ではどうするか????真実を理解するそれだけです、、、真実の理解が起これば、、私がそれを理解したという動きが再発します。真実を理解した「私」を作り上げる動きが起こります。それでも真実に触れていきます、、すると深く真実を理解した私が起こります。それでも真実を理解します、、するとかなり深く真実を理解した「私」が生まれます。

薄くなる

それでも真実の理解は「私」を薄くします。私の存在を薄めていきます。要は楽になっていくのです。「私」は真実の理解の手柄を取り続けていくでしょう、それでも。それでも真実を理解していきます、、「私」が薄く薄くとんでもなく薄くなっていき、、、最終的には「私」は消えていきます。

事件を斬る

勘違い

世の中から悪事がなくならないのは、、、悪事が悪いことではなく、、、その悪事を「人間の自由意志が起こした出来事である」と判断したからです。悪事が起こるたびに、、、なぜこの人は?????とその人の人生を振り返り、、どこでこのような間違いが起こるきっかけが始まったかを徹底的に洗いだします。この検証これが勘違い間違いなのです。

人間には自由意志がない

悟りとは全部を正しく理解することです。。。人間には自由意志がない、、これが正しい理解です。これが悟りです。この正しい理解をベースに社会が成立しますTV番組のニュースは全く違うものになるでしょう、、法律が大幅に改正されることになります。世の中の飲み屋での会話、主婦のファミレスでの会話が全くもって変わってしまいます。180度変わります、、これが悟りです。認識後会話が百八十度変わります。

自由意思

どこまでもあるように感じます、、どこまでも自由意志はあって当たり前に感じます、、ですがないんです。。。。本当に辛い辛い時期を過ごす時、、、そこを回避する自由意志はないのです。そういう意味では、、残酷です。ですが、、そこで自分を責める必要からは回避できます。大きな失敗、、これを回避する自由意志はありません、、ですがそれを責める必要はなくなります。

気づきの深さ

老人の穏やかさ

なぜ若者の顔からは苦悩を感じ、老人からは安らぎを感じるのか?????若くてエネルギーが漲っている若者が苦悩の表情を作り、老人が安堵の表情を浮かべるのか?????そうです、、、矛盾してます。おかしいんです。若者は自身の人生に焦りを感じ、、いかに生きるか、、どう生きるか苦悩します。悩むんです、、俺にそんな重い責任を擦りつけないでくれ!!!です。老人はもう引退、、責任から俺は足を洗ったよと安堵な表情を浮かべます。ただそれだけ。。。。。ここに悟りの真髄が隠されています。

人間

これからが長ければ長いほどに重い、決断が重い、、、圧倒的に重い、、、この重さに若者は苦渋の表情を浮かべます。老人は先がない、、、だから軽い、、、引退間近の軽い決断、、、、、。でも本当は違うんです。。。。決断に苦しまなくていいんです、、、もう、、、決断は勝手にさせられ、、勝手にやらされ、、勝手に思わされるのですから。若者も老人も実は誰も自分では決めていません。。決めていると思わされているだけです。蜃気楼が実在すると思わされているのです。

好きに決めて悟る

とはいえこの世界では自由意志は100%あるように感じますし、、好きに決めれます。。今日は朝からマックに行ってスタバに行って、吉牛に行って、二郎ラーメンに行って、鶴亀うどんに行って、ミスドに行って食い倒そう、、こう決めれば100%行けます。これを自由意志と呼んできたんです。ですがこの決断が決めさせられていると言っているのです。だから自由意志はないのです。これが分かるともう自由です、100%自由です。徹底的に自由なんです、人を羨むことも憎むことも、妬むことも憂うこともなくなります。

上手くいかなかったから後悔

失敗すると後悔します、、何が悪かったのか、、、と。しかし真実から照らせば、、、、ただそれをやらされ失敗と思っただけです。やらされたことに失敗はありません、、やらされたんですから。。。。バラエティの企画でやらされたチャレンジにおいて本当の意味での失敗はありません。。。だってやらされただけですから。。。人間は全部これです、、やらされただけ。つまり失敗もなければ成功もない。。。やらされた企画に成否はないんです。

嘘だと言ってくれ

善人の悪事

世界的な人格者で知られるような人間の悪事「なぜあの人が、、どうしたんだ?????」でしょう。ですが残念、、これまでの人格者と呼ばれるようなその人の言動も、、、今起こってしまった悪事と呼ばれるような行動も全部勝手に起こっています。その人のフィルターなど一切通さず勝手に起こります。たまたまこれまでが善人と呼ばれつ行動だったのです、、これからは悪人と呼ばれる行動かもしれません。とにかくそこにはフィルターがないのです。

じゃあ人間は悪魔にも天使にもなるのか?????

本当は人間の行動には悪魔も天使もないのです、、、周囲が勝手にその行動に判決を下すだけです。起こる言動に善悪、良否、成否は本来ありません。。。勝手に勝手に周囲がそう判断を下すのです。じゃあ世界はひっちゃかめっちゃかじゃないか!!!!そうです、、、だから今も過去もこれからも何もわからない世界に生きています。そしてそのことを認めること、、ただそれだけが真の安らぎに繋がります。

認める

重要なことは認めることなのです、、、、勝手に起こる人間の行動にコントロールがないことを、、勝手に起こる言動にコントロールがないことを、、勝手に起こる感情にもコントロールは無いんです。我々は全く間違った認識でこれまで生きてきました。全部コントロールできて、それができる人が大人だと。。。違うんです、、全く誰もコントロールなどできないんです。そのことに気づくことだけが安らぎ、癒し、愛です。