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「最初に言葉あり」の真実

言葉がこの幻想を作り出した

本当は二のない一つのエネルギーが織りなす世界が我々の前にはただ在ります。今もこして私はPCでブログを書いていますがその瞬間も目の前に二ではない一つのエネルギーが蠢いています。ところが実際はそうは見えない、、これはなぜか?我々が言葉を覚え生命現象に名前を付けたからです。ここが超重要なポイント、ここが最大の転換点です。これこそがこの2のない一つのエネルギーを分離した世界に見せているのです。

先ずは「自分」を言葉が出現させた

言葉を覚えていく過程で一番最初に覚えていくのがこの「自分」という存在です。この「自分」という存在を言葉によって作り出しました。これによってこの2のない一つのエネルギーの中に自分と自分以外という分離した世界が出現したのです。たった一つの宇宙現象が分離世界というイリュージョンに変化していきます。これを脳が意識的に行います。宇宙全体、大いなる存在による幻想の出現です。

あらゆる生命現象に名前を付けていく

言葉を覚えた人間はあらゆる生命現象に名前を付けていきその度にその物と物以外という分離を起こしていきます。世界がバンバン分離していきます。意識した物が宇宙現象の中から切り抜かれていくのです。それによって確実にこの「自分」は生存しやすくなっていくのですが、と同時にこの宇宙アートがアートではなく殺風景な風景に切り替わっていきます。現実という錆びた世界に切り替わっていくのです。世知辛い世界に宇宙のアート、神の顕現が格下げされていきます。

起動からアプリケーションが止まらなくなったPCの末路

作動が止まらなくなったPC=人間

人間は分かりやすくいうと動作が止まらないPCです。PCを起動したにも関わらずあらゆるアプリケーションが起動し続けて止まらなくなることがあります、最終的には強制終了をかけるのですが、、また起動すると同じことが繰り返されてしまう、、、これが人間の苦しみです。PCのアプリは相互に反応して起動が止まらなくなっています。例えばウイルス性のリスクがPCに起こるとウイルスバスターが起動しますがこれによってまたウイルスが起動する、これによってまたウイルスバスターが起動する、、みたいなことが延々と起こるようになります。これが思考と感情で起こるメカニズムです。負の感情が起こりそれを消し去ろうと思考が起動する、思考が起動すると負の感情が起動する、、、、パンク。

このメカニズムに気づけばアプリをオフにする

もしもこれがPCで起きた時PCに詳しい人間はアプリ(思考)の起動をオフにします。アプリ設定に戻って起動オフにするはずです。これによってもう一つのアプリ(感情)の起動も自動的に起こらなくなります。PCに関してはアプリ設定に画面に意識を向けることでこれを行います。人間であれば思考の起動に意識を向けることでこれをオフにすることができます。感情が起こった時に思考が立ち上がるのが定石ですがこの瞬間に意識を向けることでアプリ起動(思考)をオフにします。

起動が止まらなくなって苦しんでいるにも関わらずあらゆる思考をアップデートし続ける人間

感情が起き上がった時に思考が立ち上がり、それによってまた負の感情が湧いてくる、、また思考が起動される、、この負のメカニズムに気づかない人間は思考をアップデートしようと頑張ります。もっと優れた思考(価値観)に切り替えれば負の感情が起動しないはずだ、、、こう考えます。ですがどれほど優れた思考を手に入れようと思考が起動することでまた負の感情が起動するというメカニズムは変わることはなくこの作戦は徒労に終わるのです。

アプリ(思考)オフは絶望

いよいよ負の感情抑制に疲れ果てた人間は絶望的な気分になり始めて思考起動をオフにします、、、するとまさかの負の感情が湧かなくなる、、というジョーク。今までの努力は一体なんだったのか?というズッコケです。あなたの思考が幼稚だから、あなたの価値観が低いから、あなたの情報が古いから、、、このような固定観念で思考をアップデートしてきたにも関わらず実はこの思考の自動起動こそが負の感情を起動させていたのだという深い気づきが起こるとき負の感情の連続起動は終わります。重要なことは負の感情が起きた時に思考を起動させるのではなく思考アプリをオフにするということ、、労力は遥かに低いことです。

自分活動が非常に疲れるのは記憶と一体化しているから

PCが重くなっていくように自分も重くなっていく

マリオはどのステージに進んでも行動が重くなることはありません。マリオはステージを変えていっても何かを背負っていくことは基本ないでしょう。ですがこの自分は経験を重ねていくた度に記憶が増えていき何か新しいチャレンジをしようとすればその記憶が作動します。何をしようとしても記憶の照会作業が始まり過去にはこういう失敗があったなど思考がグルグル回転します。さらにその時の記憶から感情が湧き出しその感情にも振り回されるという始末。大人になると気軽なチャレンジができなくなるのはこのためです。子供の頃はなんでもやってみたいで実践できたのが、大人になるとやってみたいの後に記憶に裏打ちされた情報が脳内を飛び回り結果やらないという思考が湧いてきます。何かを始める前から異常に疲れるという始末です。

一年間を通じて結果何もチャレンジできなかった、、となる

人間ゲームにおいてこの自分は記憶を溜め込んでいきます。これまでの何十年間分の記憶が溜まっているわけです、結果何か新しいことをしようかなとアイデアが湧き上がってもこの記憶からあらゆる感情、思考が湧き上がりグルグル状態に。そのまま疲れて何もしないが継続します。年々何もチャレンジできなかった傾向が強くなっていきます。そして最終的には何もチャレンジしないのがデフォルトになります。好奇心は消え去ります。

記憶を頼りにすれば結局何もしなくなるのが分かったら

人間ゲームにおいて記憶を頼りにすれば確かにこの体を安全に維持できる可能性は高くなります。ですが安全を確保した結果として人間が人間ゲームをプレイしている間は不足感が解消することは絶対にありません。安全だろうと危険だろうと不足感は絶対に無くならないのです。この二元の世界、ゲームの中で人間としてのゲームが継続する限り快楽も苦悩も不足感の根本解消にはならないのです。それが分かってきますと記憶を頼りに思考や感情に振り回されてもあまり意味がないことが分かってきます。マリオ同様にゲーム上は安全にプレイできてもそれが根本解決とは何も関係がないのです。身も蓋もない話ですがマリオも人間も記憶を頼りにこのゲーム上で上手く立ち回っても不足感、分離感、退屈感という罠から抜けれることはありません。このメカニズムを理解してキャラクターからプレイヤーに、プレイヤーからクリエイターへのシフトが大切です。

このブログをカフェで書いてる時

音楽が聞こえる、、、

私は今このブログをカフェで書いています。音楽が聞こえます、この音楽私の耳で聴いているということもできますが気づきの意識が聴いているとも捉えれます。パソコン画面が見えます、これも人間である私が見ていると捉えることもできますが気づきの意識が見ていると捉えることもできます。この体はありますがくPC画面と私の間には体は存在しません、ただ目の前にPC画面だけがあります。気づきの意識がこれを認識します。勿論目をつぶるとPC画面は消えます、真っ暗が見えます。気づきの意識が真っ暗をい認識します。人間としても捉えることはいつでもできますが気づきの意識としても捉えることができます。ブログをタイピングする時にPCに指が触れる感覚を感じます。これを体が感じていると認識することもできますが気づきの意識が感じていると認識することはできます。

マリオを意識しようとしなくてもスーパーマリオはできる

スーパーマリオをプレイする時、全体験をマリオがしていると錯覚してもプレイできますがプレーヤーがやっているという事実でもプレイできます。当たり前の話です。この人間ゲームも同じ、人間のなかに自分が居るという前提でプレイできますが、その前提を壊し全部を気づきの意識が体験していると捉えることができます、本当はこちらです。どこまでも人間の中に自分が居てこの人間をプレイしていると捉えることはできます、ですが全部をこの気づきの意識が経験していると捉えることができます。

マリオがコテンパンにやられて

マリオに五感があるとしましょう、その五感がある状態でクッパにコテンパンにやられた、、、マリオの中に自分がいると錯覚するのは容易にできます。痛いのですから、さらに悔しいという感情が湧いてきたら、、自分の感情と錯覚するマリオを作るのは容易でしょう。ですが本当は全部プレイヤーがやっています。このリアルバージョンが人間ゲームです。人間が感じる痛み、辛さ、苦しさ、悔しさ、、、これを自分の体が体験しているという思想、、、完璧に人間ゲームにどっぷりはまり込み、気づきの意識、プレイヤーは自分がやっていることを忘れます。人間ゲームの凄いところはこの体の中に自分が居ると錯覚を起こしても何一つ矛盾がないことです。