自由意志

そうは言っても

病気の旦那さんが心配で、、夜も寝れない、、、

大丈夫です、旦那さんが今後病気が酷くなるか、改善するかは全体からの起こり次第、、あなたが心配してもしょうがないのです、、、、そうは言っても、、、、だって私の介護によって確実に体調に影響するじゃないですか????違います、、、あなたの行動すらも全体からただ起こるのです、手厚い介護をするか、、まあまあな介護をするか、、全くしないか、、、もしくは祈祷するか、、全部全体から起こるのです。私たちは完全に受け身なのです。

じゃあ心配して寝れないも全体から起こっているのでは????

その通りです!!!全体から起こらない動きはないのです。全部全体から起こっています、、その上でこの事実を理解すると、、、心配が起きなくなるのです。ここにおいても我々は完全に受け身です。我々が全体に無断で何かを起こすことは不可能です、我々が全体が関与しない場所で何かを勝手にするのは不可能なのです。これが事実です。

このメカニズムが腹落ちすると

このメカニズムが腹落ちしますと究極の安堵が襲ってきます、、、旦那にも自由意志はなく、私にもない、、責任を取れる人が一人も存在しない、、、犯人探しをしても犯人は絶対にでてこない、、、じゃあ誰が責任をとるんだ????全体です、、、全体の責任です、、、、、ですが全体も能動的にそれを起こしているのではなくただそれが全体から起こっただけで全体にも責任はありません。全部が受け身なのです。

現象として、、

全ては現象として、、、

全ては現象です、、全ては全体からの現れです。見える世界は全て全体から現れています。するとこの体はどうか、、、当然この体も全体からの現れです。この色の世界で現れ以外の物はありません。現れですから消滅もします、、、いつ消滅するのか???それは見かけ上の私が右を見れば左が消滅します。左を見れば右が消滅します。上を見れば下が消滅し下を見れば上が消滅するのです。歩けば次々に視界が変わりますがこれぞ現れと消滅の繰り返しです。

全ては現象なのは分かった、、

全ては現象であることは分かった、、ではなぜ今それを見ることができる「私」が居るのか???私も現象ならば「見る」「触る」「聞く」「味わう」「嗅ぐ」ができないではないか???そうです、できません、、、出来ているという錯覚が起きているのです、全体から。「見る」「触る」「聞く」「味わう」「嗅ぐ」ことができるのは全体だけです、私ではありません、、、つまり全体が「見る」「触る」「聞く」「味わう」「嗅ぐ」をしているにも関わらずそれをこの「私」が感じているという錯覚が起きているのです、全体から。

全体は全部受け身

見る、触る、聞く、味わう、嗅ぐ、、、、は能動的な動きに見えますが、、実は全部受動的な動きです、、、みえてしまう、触れてしまう、、聞こえてしまう、、嗅いでしまった、、です。この経験の全てを、もしくは一部を、、能動的に私が「した」という勘違いが起きているのです。本当は「私」に自由意志など一切なく、全体から湧くしか起き得ません。

それでも自由意志にしがみつく自我

自我最強兵器「自由意志」

自由意志なんてないんですよ、、、この言葉に多くの方は激情します、怒り、がこみ上げてきます。。なぜならば自由意志を否定してしまったら自我は存続できないからです。自由意志があるからこそ「自我」はこの体の主人を気取ることができるのであって自由意志がないと証明してしまったら自らの存在を抹殺することになるからです。その手の情報をホイホイと聞くわけがないのです。

記憶が「自我」を確固たるものにし、、、

自我の最強兵器は「記憶」と「自由意志」でしょう。この二つは自我を盤石なものにします、、記憶、自由意志がある、、これで自分の存在を疑う者は皆無になります。こうやって人間同士はお互いの体の中に「自分」が居るというゲームを繰り広げるのです。このゲームが楽しいだけならいいのですがとんでもない、苦しいのです。楽しい時すら苦しいのです、苦しい時も苦しい。いつも苦しい。それは「自分」という存在がこの苦しみを起こすツールになるからです。

自由意志があっても苦しい、、、

百歩譲って自由意志を認めることにしましょう、、ではそれでこの苦しみは無くなるのか、、、絶対に無くならない、、、、それも分かっています。じゃあ自由意志が無いを認めてしまえばいい、、、自由意志がないを認めてしまえば楽になる、、、、でもどうしてもそれだけはしたくない、、、なぜならば今までの功績が全部無くなってしまう、、、あの時の努力、あの時の辛抱、あの時の忍耐、、、、だからできない、、、

筒人間ならば野生動物と同じではないか???

その通り

人間がただの筒で、、全体からの起こりを通すだけの存在、、言動全て全体からの起こりを通すのみ、、だとするならば、、、意志を持たない野生動物と同じではないか????意思を持たない昆虫と同じではないか???その通りです。全くもってその通りです。人間の方が昆虫よりも優れて、、、全体の表現、アートに、、優劣などあるわけがないのえす。人間も野生動物も昆虫も自由意志など一切なくただ全体の起こりを表現しているのです。

それが素晴らしい

自由意志がなく、、ただ全体からの起こりを全現象が表現しています。ここに「自分」が居るという思考が全体からやはり起こることで、、自分劇場がスタートします。この「自分」はあらゆる経験をかき集め、あらゆる知識をかき集めることで、、価値観を形成していきます、、、この価値観は記憶ですから、、全体、空に収められていきます。そしてこの価値観を通じてこの現象界を眺めることで、、、エネルギー、生の揺れ動きの中に別個分別しているかのうように見える存在(現象)が現れるのです。

価値観を通じた現象に善悪はない

「自分」の価値観を通じた現象に善悪は全くありません、、ですが「自分」にとっての善悪は存在します、自分にとっての良否は存在します、自分にとっての優劣が存在します。これが分別です。この分別で周囲を縛り自分を縛ることでこの自分劇場は生き辛くなっていきます。よくわかんないけどなんか生きるのって辛いよね、、になります。

価値観分別劇場

この世界、価値観分別劇場から離脱するためには、、本当は何が起きているかを知って触れるしかありません。価値観分別劇場の中で真実にもう一度触れて、、真実を思い出すしかないのです。マトリックスの中でNEOは徐々にこの気づきを得ていきます、現象(エージェントスミス)に何度も取り込まれそうになりますが、、その中でも徐々に真実を発見していくのです。

判断が無くなるまでエンドレスに現象が続く

いつまでこの現象は続くのか???

判断が無くなるまでです、分別が無くなるまでです、差別が無くまるまでです、、、自分という存在が居て、その自分がこの全体からの現象に判断を加え続ける限りこの現象は次々に続いていきます。だからこの自分人生は苦しいのです、、、自分が解体され、価値観が解体され、判断が解体されるまでこの現象は続くのです。

例えば旦那の浮気は絶対に許せないという価値観を持っていると

男性の浮気は絶対に許すべき行為ではない、、、、という価値観、判断を持っていると、、この価値観が壊されるような現象が起きます、、旦那さんのポケットから女の影が、、、だが証拠は掴めていない、、、どうしよう、、ああしよう、、直接聞くべきか、、探偵を付けるべきか、、、もしも浮気が発覚したら別れるべきか、、、とこの苦しみの思考がエンドレスに続き悩み果てるでしょう、、、、

違う、、ただその現象が起こっただけ

事実だけを伝えれば、、、女の影という現象がただ起きました、、浮気という事実は100%起きていません、そして旦那を問い詰めることで浮気という現象が発覚するという次の現象が起きるかもしれません、問い詰めなければ浮気も、発覚も起きません。もしくはその翌週に旦那さんから実は浮気をしてしまったという発言が現象化するかもしれません、、、ですがそれも旦那さんの自由意志で起こってはいないのです、全体が旦那さんを通じて浮気をしたという発言を起こしたのです。これが事実です。この事実に対し、、判断を下せますか???

観念を火炙りにする

観念火炙りは面白い、最高

あの人にこんな悪口を言われてしまって、、、どう思いますか??、、、ただそれが起こったんですね、、、ヒデー、、、、彼氏が全く働かなくなり、、愚痴ばかり言っている、、どう思いますか???、、、その現象が起きたんですね、、、ヒデブー、、、、社長が無駄使いばかりする人で社員のことを何も考えていないんですよ、、、、その現象が社長を通じて起きたんですね、、、、アベシ、、、となります。多くの方はそれに対し意見を求めます、、、ですがそれへの意見はただ一つ、、、、ただそれが起こった、、、そこに自己の介在はゼロ、、、それを起こすことができる人格はゼロです。

悩みが完全に無くなる

ろくでもない彼氏も、浮気ばかりする彼女も、、ぐーたらな息子も、、、全部本人の意思でそれをしていない、、、全部全体から起こっている、、、、するとこれについて悩むことができないのです。何か解決策があると信じているから悩むわけです、、、、勿論ぐーたらな彼氏に意見を言うのは良いでしょう、そしてそれによってぐーたらが勤勉になることもあるでしょう、、、、ただしそこには彼氏の意思は全く関わっていません、、、全体がたまたまそれを起こしました。

他人に興味が無くなる、、、大正解!!

相手に自由意志がないなら人と関わるって意味なくないですか?????大正解です!!!彼氏に自由意志がないなら浮気を止める方法なんてないじゃないですか????大正解!!!です。全体は常に何かを起こしますからアクションが無意味ということは断じてありません、、、重要なことは相手の中に自由意志が無いことを悟ることです。ここ最重要ポイントです。人間たるものこうあるべき、こう成長すべき、こう大人になるべき、こう自立すべき、、、全部自由意志があるという前提の価値観です。価値観は事実の前では火炙りにされます。

人を判断するという罠

人を判断するとしっかりとこのファンタジーに取り込まれる

友人との食事会、、友人が1時間遅刻をしてきた、、、頭に来てしまい、、、1時間遅刻するのは失礼だ、大人がやるべきではない、、、この発想が頭から離れなくなります。家に帰ってもあれは失礼だ、、、、二度と会うべきではないのでは???思考の渦にがっつりと取り込まれていきます、、、この状態をほくそ笑んでいるのは誰でしょうか???全体です、全体がこの起こりをほくそ笑んでいるのです。面白い、面白いと、、、全体総指揮人間泥沼劇場です。

では友人の遅刻1時間をどう捉えればいいか

答えは上記のみになってしまいますが、、、つまり友人の行動、1時間の大遅刻は、、、友人(蜃気楼)が起こしているのではなく全体が友人(蜃気楼)を通して起こしているのです。1時間遅刻した友人(蜃気楼)が居るというのは100%事実です。ですがそれが起こったのであって、それを起こした友人(蜃気楼)は居ません。友人にはその日の行動をコントロールする力はないのです。力とは全部全体の所有物です。全体のものではない力は存在しません、全体の知らないところで勝手に友人が1時間遅刻という大決断をしてしまったら全体は全体ではなくなってしまう、、、全体風全体になってしまう、全体っぽい全体になってしまいます、全体を気取る全体になってします。

では友人の1時間遅刻を許せばいいのか????

違います、、友人にしっかりと次は遅刻しないで欲しいと伝えます。ですが真の犯人は全体であることをしっかりと認識した上でです。友人にしっかりと遅刻しないで欲しいと伝えれば、、、遅刻の可能性は減っていくかもしれません。ですから一応伝えるのです。ですが次に友人が遅刻するかしないかは全体が決めます。ですから真の犯人をしっかりと認識した上で伝えるのです。そして一般的出てくる「怒り」が湧いてこなくなることに気付いてください、、真の犯人を分かった上でなぜ目の前の友人に対し真剣に怒れるのでしょうか、、

テロリストすらも

残虐なテロリスト、、、絶対に許してはいけない、、、その通りです、、、ですがここでも真の犯人を見抜くのです。真の犯人は全体です、、、、全体が誰か(蜃気楼)を使ってテロ行為を起こしたのです。ここが最重要ポイントです。それが理解できますとそれに対して感情が湧いてこないのです。なぜなぜ????が湧いてこない、、これも先ずは受け入れなくては、、に変わります、そして真の犯人が全体であることを把握した上でテロ防止を図るのです。

真の犯人が誰かが腹落ちすると、、、怒れない

飼い猫が大好きな洋服をグチャグチャに引き裂いてしまった、、、、この時に怒りが湧いてくるでしょうか、、、あまり湧きませんね、、、、なぜか???飼い猫に悪意が全くないからです、、、というより善意もありません。自由意志がないのです。猫はただ意味もなく洋服で遊んだだけなのです。そこに真犯人がいないのです、といよりも猫の動きも全部全体が起こしただけです。実は全体は人間を困らせようなどの悪意もありません、ただ全体は動きているのです、この動きが人間にとって都合が悪い場合があるということです。

津波もただ全体が起こした

津波もただ全体が起こしました、、この際に人間をこらしめてやろうなどの意思はありません、、ただ全体(自然)が動いたのです、、ただそれだけ、、それを人間は二度とこんな惨事は起こしてはいけない、、と捉えます。人間も自然現象ですから、、人間の行動の全てはただ起こったのです。これを個人は都合が良い、悪いで判断を起こします(全体)、、、全体が動けば、、個人はファンタジーに取り込まれていきます(それも全体の起こり)

幻想に取り込まれて何が悪い????

全体の動きに個人が反応しファンタジー幻想に取り込まれることは悪いことなのか???そんなことはありません、、、それすらも全体の起こりですから悪いわけがない、、、悪いならば、、最初からファンタジーなど作るわけがないのです、全体が。このブログはただ淡々とどういう事実が起こっているかを解説しています。幻想上の「私」が事実を整理するためにただ淡々と日々の気づきを書き綴っています。

神にうっかりは100%ない

神がうっかり自分になった??

神がうっかりこの体を自分と思い込み、、、あるわけがありません。神がこの体を自分と勘違いしてしまい、、全部嘘です。神にうっかりも勘違いも全くありません。全知全能の神にミスはないのです、するこの自分思い込みゲームは完全犯罪、計画犯罪に決まっています。悟りは完璧なタイミングで完璧な形で閉まったのです。すると悟りが開くのはいつか??それも神が完璧なタイミングで起こします。ですが何も努力なく、何の苦労もなく確かなタイミングで悟りは開くのです。

悟りを自分の努力の延長上にしない

悟りが閉じたのは、、、周囲からの呼びかけ反応です。名前をエンドレスに呼びかけられ、、この体に自分が居るという錯覚が起こりました。ここに自分の努力は全くありません。自然に悟りが閉じたのです。では悟りが開くには何が必要なのか???ここも自分の存在など完全に無力です。悟りの開閉に個人は完全に無力なのです。神、全体が、、完璧なタイミング悟りを閉ざし、完璧なタイミングで悟りを開きます。

川を流れる葉っぱは勝手に悟りを閉じ、勝手に悟りを開く

川を流れる葉っぱは、、川の流れ初めは完全に川の流れに委ねてきました、、葉っぱには自由意志などなくただ川の流れに身を任せてきました、、川と葉っぱの境目などそもそもなく葉っぱは川の模様の一部のようなものです。これは幼少期の感覚です。ところが葉っぱに脳が発達し、、葉っぱ(自分)が川の中で自由に動いているのだ、、という錯覚が起きました。これが大人になるということです。自由意志があるはずなのに自由に行かないこともある、上手くいく時もあれば上手くいかないことがある、なぜだ??です。あれどうも葉っぱには自由意思なんてなくてただ川の流れに従っているのでは???という疑問が起きます、、そして最後に川と自分(葉っぱ)には境目などないのでは???あれ川も葉っぱもただの名前であって全体しかなかった、(悟りが開く)が起きるのです。

マリオには自由意志も自由行動も一切ない

マリオを通じてただ思考、行動が起きている

マリオは3D画像です、そしてこの3D画像には五感が備わり、、このマリオゲームに臨場感が加わります。そしてこのマリオの中からは思考や行動がわき起こっていきます。マリオ自身には一切思考を生み出す力も行動を生み出す力もありませんからただ全体を通じてこれが起こっているのです。全体から思考も行動も浮かび上がり、、失敗すれば今度は悔しいが湧き上がりこれを全体が全部回収していきます。全体から全てが湧き上がり全体が全てを回収します。マリオは3D映像に過ぎず、、そこが最重要ポイントになります。

全体から思考、行動、感情がわき起こり全体が回収する

マリオ(私)のゲームの中で感情思考が湧き上がっているのがマリオだけという理由は、、、全体から思考感情が湧き上がり、、全体がそれを回収していますから、、、視界に何人のキャラクター(他人)が居ても、、もしもキャラクター(他人)から思考感情が湧いているならば全体が全回収しますから今ここで全部を感じることができるはずです、マリオの同様に。ところがそれは起きない、、つまり、、、マリオしか感情、思考が起きていないということになるのです。

全員の感情を今全体が回収しているが、、マリオののみを感じているようにしているだけでは??

この理論は最もな意見なのですが、、そうすると、、、ピーチ姫、クッパ、ノコノコの感情はどこに行ってしまったのでしょうか???全体は全部であるから全体なのであってここに全体があるのならば、、全体が回収する感情も全部ここにあります。ここ以外に感情が存在してしまったらここは全体では無くなってしまうのです。これが答えです。ここが完璧なのはここに全部があるから完璧なのです。ここ以外に感情の存在が確認されてしまたらここは全体、至福では無くなってしまいます。だとするならばここでは絶対に全体(至福)は見つからないことになります。ですが我々は毎日熟睡時に至福に戻っています、それがここに全体(至福)がある証拠です。だからこそ今起きている思考、感情が全体の全てなのです。

自由意志の延長線上に悟りはない

なんとか頑張って悟りたい、、の罠

自由意志の延長線上に悟りはありません、自由意志がなかったという気づきこそが悟りです。自由意志で切り開く人生の先に悟りがあるのではありません、切り開く人生が幻想であったことに気づくことが悟りです。自分という存在とは何も関係がなくただその気づきが起こります、というよりも自分という存在が明らかに無いことの気づきが起こるのです。

見える世界は映像

見える世界は映像です、PCもカーテンも、TVもやかんも、そしてこの体も、、なぜ映像と言い切れるか、、逆に言えばなぜ見える物が実在していると言い切れるのでしょうか??恐らくそれができないはずです。では何なのか??映像であるならばそれを証明できます。なぜならばしっかりとそれが見えるからです。見えるというのは事実です。香るというのも事実です。触れるというのも事実です。この事実だけが証明できる世界こそがこの世界です。五感を使った経験だけを寄せ集めると経験が在ったという事実に集約されます。だからこの世は何もないに繋がるわけです。朝起きて寝るまで経験しかしていません、経験以外何もないのです。

今日も俺は物理空間で頑張って働いたなーは嘘

残念ながらそのような事実は全く起きていません、俺という物質は存在していませんし、会社という物質も存在していません、同僚という物質も存在していません、電車という物質も存在していません、PCという物質も存在していません、、、五感を通じて映像を見て、手の感触で何かを触り続け、足の感触で何かを感じ続け、聴覚で何かを聞き続け、味覚で何かを感じ続けただけです、、、経験だけが起き続けたのです、、、これが事実です。経験=事実=根元です。これだけが確実に在りました。この世界は経験という事実、根源だけが在る場所です。そこに自分という物体は居ません。経験(根源)だけがあります。