自我

海であることを忘れた波は心配性

広大無辺な海が自身を極小の波だと勘違いすれば将来は不安だらけ

将来不安がいつまでもどこまでも解消しない理由はそれは将来がそれだけ不安定だからではなく人間の構造的な欠陥から起こります。本来広大無辺な大海原である存在が自身を極小な波だと勘違いすることからこの波物語、人間物語はスタートします。安心、安堵、平和そのものである海という存在から、極小の波だと勘違いしている状態は安心、安堵、平和を無限に追い求めることになります。これが人間という存在の構造的メカニズムです。このメカニズムを理解しないと延々と将来不安に困り果てていくことになります。

では何も心配しないのが正解なのか?

そうなると人間から必ず出てくる質問があります。それはだったら心配をしないで生きるのが正解なのか?ということです。これはもう理論として破綻しています。心配は次から次から湧いてくるのであって人間がこれを止めることはできません。自身を全存在であることを忘れ極小のこの体と勘違いしている限り延々と不安が湧いてきますよと言っているのです。ですからこの勘違いを完璧に解消する以外に問題解決はないのです。私が推奨するのは、もしも不安が湧いてきたらそこから無心に入るということです。不安を解消するために無心になってそこに向き合いそこから無我、無心を体験してしまうということです。自身から我が抜け落ち全存在(無我)になったときにそこには安心感しかありません。安心、安全、安堵は条件が作り出すのではなく自身の状態によって決まることが理解できます。そこに勘違いした自分がいては不安は絶対に取り除くことはできません。大いなる勘違いこそが不安を湧き起こしているからです。不安をありのままに見てそしてその解決に向かって無心になれば突然安堵感に包まれます。それは自我が求める安堵が手に入るのではなく自身(全存在)が実は安堵そのものだったと気づくことです。

不安症は欠乏感、不足感が形を変えたもの

広大無辺な海が自身を極小の波と勘違いしたことからこのあなたの世界はスタートするわけですが、あなたの見ている世界は勘違いをベースに構成されていますからどこまで行っても真実は見つかりません。勘違いした波が真実を発見することはないのです。なぜならば自身の存在(波)こそがこの物語を作っているのですからその物語の中に真実は発見できないのです。私たちに用意されたここから抜け出す方法はこの物語から自分(波)を消滅させてしまうことぐらいです。日本では昔から書道、剣道、茶道、禅といった文化がありここでは結果ではなくまさに所作そのものから悟りを開くことを説いてきました。所作に無心になって取り組むことでそこから邪念、思考、自我を取り除きその場で無我、全存在、海になってしまうということです。座禅では目をつぶり視界を消して直接無我に入っていきます。書道、茶道では行為と一つになることで自身の体、思考をこの世から落としてしまいます。そこで感じる無我の世界、全存在の世界、仏性の世界が安堵、安心、平和そのものです。

海であることを忘れた波は嫉妬心が強い

波=嫉妬心である

自分は嫉妬心が少ないという人間が現れたらその人間は嘘つきと思ってまず間違いありません。なぜならば分離した人間=欠落感=嫉妬心だからです。自身を分離した人間であると錯覚した瞬間、強烈な不足感を味わいます。これは構造上仕方がないことです、そうなれば自身よりもより多く富を所有する人間に対しては嫉妬心を抱かずにはいられないのです。いやそんなことはない、今持っている家、お金、人気、家具、車で十分であるとその人間は宣うかもしれませんがそれは大嘘つき、そもそもが海であった存在が波に成り下がっている時点でどんんなに富を得ても満足するわけではないのです。もしも万が一今の状態で満足しているという人間が現れたならばそれはそこで満足しているのではなくより多くを求めても満足できないことを知って絶望している人間ということです。

お金なんかいらない、女なんていらない、名誉なんていらないは全て嘘

海であることを忘れた波は、常に不足感、欠乏感が湧いてきます。それはそのはず広大無辺な海がたった一個の波と自身を錯覚して欠乏感が湧かないはずがないのです。ですからお金、異性、名誉、地位、全てを求めるのが波、人間の本来の姿です。もしもそれを求めていないと心の底から言える人間はそれを手に入れても満たされないことを腹の底から知った一部の人間だけです。手に入れなければそのような境地に至るはずがないのです。それは人間=欠乏感だからです。

芸能人が常に羨望、非難の的になるのは当然

人間社会には芸能人、タレント、著名人といった人々が常に出現し常にニュースの話題になり続けます。芸能人が今年は一回もニュースになりませんでした、とは絶対にならないのはその存在が人々の羨望であり非難の的になり続けるからです。自我は常に比較対象の中で生きていますから自分よりも豊かな人間を尊敬する一方で嫉妬します。自分よりも貧しい人間に同情する一方で優越感に浸ります。こうして自我は関係性の中で自身の幸福度を決めるという行為を続けます。もしも関係性とは全く関係なく自身の幸福度を決めれる人間がいるとすればそれは自身の意思で無心、無我に入れる人間だけです。無心、無我に入れる人間は他人との比較を超越した部分で至福を感じることができます。人間ゲームの外に至福を感じることができます、その時は比較は意味を持ちません。

海であることを忘れた波は自分の存在を過度に認めてもらおうとする

海であるにも関わらず波に成り下がった成れの果て

元来は海であったにも関わらず、自身を波だと勘違いしてしまった波は自身を根本で過小評価しています。それはそのはず海であるにも関わらず波でしかないと錯覚すれば自分は小さくて取るに足らない存在であると思うに決まっているからです。過小評価するに決まっているのです、ですが同時に本来は海であったわけですからもっと過大評価されるべきだという相矛盾する感覚を常に持っているのが波であり人間の姿です。自分で勝手に過小評価しておいてもっと評価して欲しいと常に思ってるのです。ですから男性はクラブに高いお金を払ってでも褒めてもらいに行きます。褒めてもらうためだったらどんな苦労も厭わない男性も女性もいるわけです。

ところがどんなに認めてもらっても満足できない波でもある

あらゆる功績を重ねあらゆる場所で褒めてもらったにも関わらずなぜかこの波は満足できません。紅白歌合戦に10年以上選出されたにも関わらず一度落選しただけでNHKに文句を言う和田あきこさんはその分かりやすい例でしょう。歌手としては最高権威である紅白歌合戦に10年以上連続で選出してもらったのに一度落とされただけでNHKに文句を言いたくなってしまうその心理はどこまで認めらても満足できない波、自我の存在を認めざるを得ないのです。要はこの波、自我にとって認められることが嬉しいのは間違いないとして満足するなどあり得ないということです。それはもともとが海という広大無辺な存在であったものが波と自身を勘違いする行為の構造不良でしかありません。波としてどんなに評価されようと自身が元々は海であったことをはっきりと覚えている限り満足などできようがないのです。

一度評価されると評価を落とすことが地獄のように苦しくなる

人間は一度何かしら分野で評価を高く受けると、次に評価を落とした時に地獄を見ます。一度評価を得た自我、波はそこで自身が大きくなったような錯覚を起こし一時的ですが喜ぶことができます。ですが次に評価を落とした際には自分自身が小さくなったような錯覚を起こしますからこれは死ぬほどの耐えがたいことになるのです。こうして一度高評価を得た人間はその後の人生を非常に危険な状態で生きることになるのです。評価を上げ続けても満足はできない、評価が下がれば自身が小さくなったような気がして自信を無くすという無限地獄に陥るのです。

無心になって取り組んでいたら時間があっという間に経っていた

無心=全存在=時間はなくなる

無心になって物事に取り組んでいたらいつの間にか2時間以上経っていた、、これは何が起こったか?それは無心になることで自我が消えてなくなりその瞬間に全存在になっていた、結果時間がなくなったということです。無我夢中になっていると時間が経つことを忘れると言いますがこれは間違い、時間がなくなったのです。海、全存在には時間がありません、時間があるのは分離意識の世界、海ではなく波、全存在ではなく分離した人間の状態の時です。分離するとそこには空間、距離が生まれます、すると空間から空間まで移動するために時間が生まれます。ですがこれは海の世界、全存在の世界では空間、時間はありません。移動がないからです。

やりたくないことを嫌々やっていると時間が経つのが異常に長い

やりたくないことを嫌々やっている時、時間が経つのが異常に長く感じた経験はないでしょうか。これも当然のこと、思考全開、感情全開、自我全開の世界は無我、ワンネス、全存在であることを最も忘れている状態、、これは不足感、欠乏感、飢餓感全開の状態なのです。究極の時間、空間の世界が広がります。

何かを成し遂げた達人がエゴまみれ、自我まみれに陥るケース

有名ミュージシャンである小室哲哉さんが借金を重ね最終的には詐欺で捕まった事件がありました。あれだけでの音楽家ですから音楽の制作過程においては無心になって無我夢中になってつまり究極の至高状態で作品を制作し続けたはずです。何よりも音楽活動自体を楽しめ活動に専念すればするほどに無欲なっていくはずなのに彼の場合は結果逆の状態にお金を湯水のように使いさらに借金、詐欺と無限地獄に陥りました。これを自我・無我理論で説明すれば簡単、無我夢中、無心で作った音楽活動で得た成果を自我が悪用した結果になります。莫大な収入、地位、名誉を自我が不足感解消に使い続けたわけです、ですがこの自我の不足感が解消することは絶対にありません、つまりどこまでも使い切り最後は無限地獄に陥りました。彼は音楽活動以外の活動時は自我全開、不足感全開状態になってしまったということです。音楽活動で得たはずであろう無心の境地、無我の境地をその他の生活に応用できず、圧倒的に分離した人間活動に利用されてしまったことになります。

条件が揃ったら無心に入れるのではなく、無心に入ることで条件を揃えていく

目の前の問題の山を先ずは無視して無心、無我に入る

分離意識全開、自身を海ではなく波であると認識する波の前にはおそらくは問題点で満載です。自身を全体から分離した人間であると捉える人間の前には問題点が山のように転がっているはずです。そうなると多くの分離意識はこう考えます、先ずはこれらの問題の山が解消できたら無心、無我に入って行こうと。集中して仕事に取り掛かろうと。ですが問題はその問題と称される山々は自我、波が無理くり作り出したものだといくことです。不足感の塊である分離意識、自我は不足感を問題に置き換えていきますからこれは強制的に問題にすり替えられてしまった事象なのです。ですからこの問題点に焦点を合わせても解決しようがないのです。先ずはこの問題点を解決することに無心になる、もしくは問題点以外のことでもいいから無心になって取り組むようになると全存在が、即海に切り替わり問題点が消えてなくなります。問題が問題でなくなってしまうのです。

波、自我が錯覚ならば問題も錯覚

海ではなく分離した波である、全存在ではなく分離した人間であるという錯覚を持つ分離意識は不足感の塊です。この不足感が解消されますとそれまで問題と捉えていた事象が突然問題ではなくなってしまいます。波、自我=問題所有ですから、、海、全存在=問題所有できずです。海は問題を所有できないのです。ですから我々は全ての機会、掃除、洗濯、エクササイズ、仕事、子育てを無心で入り込みその場で海、全存在に切り替わってしまうことで問題を問題でなくしてしまうということができるのです。もちろんどうしても無心になれないこともありますからそれは横に置いておいて基本的にはそこから無心に入る、無我夢中に入る、、この癖をつけることが重要になります。

そこから悟りに入る、これは日本人の得意分野

茶道、書道、柔道、剣道にはこれが重要でこれは重要ではない、、という概念がありません。最初から最後まで全て重要、合理的、非合理的を超えたところにあります。つまりどの所作からでも悟りに入る、どの所作からでも無心、無我に入りなさいという教えです。無心になって邪念を払って無我に入り込むことを茶道、剣道、柔道では教えているのです。最も簡単に言えばどの所作からでも海、神、全存在になってしまいなさいということです。そしてこの動きを生活の全てに応用することが真の目的です。

自身が海であることを忘れた波は問題点を探す

自身のことを波と捉えれば世界は問題だらけになる

問題など全くない、悩みも何もない、課題も何もない、、という人間がいたら嘘つきと思ってください。もしくは自身の問題を見てみないふりをしている人です。自分が海であることを忘れた波(人間)は不足感にさらされているのが構造的に当たり前なのでこれを無視することはできません。自身を世界と分離している人間と認識している時点で基本構造として不足感が生まれてきます、この得体のしれない不足感を人は世界の問題点として置き換えるのです。例えば付き合っているパートナーの問題点、会社の問題点、結婚相手の問題点、住居の問題点、経済の問題点、収入の問題点として必ずそこから問題点を見つけてきます。そしてそれが解決したらまた必ず次の問題点を探し出すのです、それは自身が人間であるというこの錯覚、誤解が作り出す必然のメカニズムです。

自身のことを波と捉えれば職場は問題だらけになる

多くの方にとって会社はストレスの場所です。上司、部下、給料、勤務時間、残業、会社の将来性、、、全てが問題化します。自分を全存在から分離した人間であると認識した瞬間から不足感が生まれだしこの不足感は会社への不満へとシフトするのです。会社勤めは非常に楽しいと断言できる人がいればそれは仕事を無我夢中になれる道具に使えている人です。仕事を通じて、人間関係を通じて無我夢中に没入し自我を忘れることができる人です。どこに居てもどんな場所でもそこから悟りに入りなさい、と言うマスターがいますがまさにそうその行為に没入する、集中してしまうことで逆にそこから無我に入ることで自身を海、存在に変えてしまう以外に不足感を解除する方法はありません。

仕事の向き不向き、好き嫌いが実は全くどうでもいい理由

本当のことを言えば海であることを忘れてしまった波や、自身を全体から分離してしまった人間と捉えている人にとって仕事の向き不向き、好き嫌いは実はどうでもいい問題なのです。基本不足感の塊ですからその不足感はいついかなる場所でも不満に置き換わりその人を襲うのです。ですからこれからいかにそこに没入するか、無心になって取り組むかに焦点を絞ってみましょう。無心になって取り組めばその時は自我が引っ込みますから即無我、ワンネス、全存在になれます。そこは至高、安堵、歓喜です。勘違いしてはいけないのは波、人間が至高、安堵、歓喜を感じるのではなく分離した波、分離した人間が居なくなることで(無心)至高、安堵、歓喜そのものになるということです。無我、全存在、ワンネス=至高、安堵、歓喜であって、、、人間、波が至高、安堵、歓喜を味わうのではないということを重ねて伝えておきます。

自身が海だったと気づいた時に生まれてきた時はそうだったと気づく

海だった時を忘れているだけ

自身を海ではなく波だと勘違いし続けていてもいずれは自身が海であることを再認識する時は訪れます。本当は海であるわけだから勘違いし続ける方が無理があるのです。もちろんこの勘違い自体を海が行なっているわけですから無理がないと言えばないのですが。どちらにしてもこの大いなるジョークが解けた時に海に戻るわけです、海が海に戻るわけですからそれは感動であると同時に当たり前の感覚に戻ると言うことになります。

海上の波と同様に止まれば波は消えてしまう

波が自身を海であると再認識するために物理的に行うべきことがあるとしたら止まることです。波は止まってしまえば海に戻ります。これは人間も同じで止まってしまえば大いなる一つに戻ります、人間が止まるのは何を止めるのか、それが思考です。思考を止めるとそこには海が広がっています。思考、行動を止めた時に広がる世界それは海、大いなる一つ、存在です。

人間がこの幻想ゲームの中で動き続ける理由

人間がこの幻想ゲームの中で日々慌ただしく動き続ける理由は、このゲームに留まり続けるためです。止まってしまったら波が海に戻るように、人間もワンネス、存在に戻ります。思考を使い続けなければ人間は存在に戻ります。無我で居続ければ自我は無我に戻ります、無我が自我を解体します。自我は自我を存続し続けるために次から次へと思考を必要する行動を取り続けるのです。波が波であり続けるためには動き続け、人間も自我が自我であり続けるために思考し続けます。

植物は存在があるがままに顕現した姿

なぜ人は花や植物に魅せられるのか

人は植物や花、木々に魅せられます。そこには存在があるがままに顕現した姿があります。本当は全ての物、生命体は存在の顕現です。人間も勿論その一つです。存在の多様性こそがこの世です。それ以外はありません。ですから花も人間も植物も存在の顕現の多様性そのもの。人間が花や木々に魅せられるのは花や木々は存在の顕現をより美しく見せてくれているからです。自身が分離した存在ではなく存在の顕現であることを思い出させてくれるヒントになるのです。

なぜ人は子犬や赤ちゃんに魅せられるのか

なぜ人は子犬や赤ちゃんに魅せられるのか?それはそこに存在を強く感じるからです。個別の存在ではなくそこに無限の存在の顕れを感じるからです。そもそもそこには分離した存在はなく全ては存在の多様性であると。大いなる一つが自由に顕現しているだけだと本質が感じているのです。人間だけが自身を分離した存在であると錯覚しそれゆえに孤独、不足、欠乏を感じています。

なぜ人はピカソの絵に魅せられるのか

なぜ人はピカソ、ゴッホの絵に魅せられるのか、モーツワルト、ベートーベンの音楽に魅せられるのか。。それはそこに存在の顕を見るからです。大いなる一つの表現を感じるからです。そこには個別の個人が描いたただの作品ではなく大いなる一つが顕現した作品を見るからです。個別の自我がその絵や音楽に触れた時にその奥にある存在が存在に触れる、、そこに自我の介在が消える。だからこそ人は大金を払ってでもそれを手に入れようとするわけです。存在が存在に気づく出会いです。

真理は思考ではない

真理の場所はどこにある?

真理、存在を探してもどこにもありません。それは個人が探求して探すことで逆に真理、存在は隠れてしまうからです。探すという行為が真理を隠します。探すということは主体客体の世界、どこかに見つかる世界があるという矛盾を生みます。この二元の世界こそが分離の世界、この分離の世界に真理、存在はありません。分離の世界に存在するのは時間と空間という幻想がただあります。夢が広がるだけです。

真理は夢から覚めること

真理、存在は個人が存在するこの夢から覚めることを意味します。夢から醒めればただ存在だけがあります。そして夢から覚める張本人は個人ではなく存在自体です。個人の欠落、自我の欠落が存在です。存在を覆い隠してきた個人が欠落することで存在が存在を見つけるのです。個人とは存在を隠すための隠蓑です。自我とそしてそこから繰り広げられる夢舞台は存在が創造する夢です。

キリストも釈迦も夢の登場人物

キリストも釈迦も夢舞台の登場人物であることは間違いありません。つまり個人ではなくただの生命現象、存在の顕現でしかありません。ですが彼らが説いた内容は真理を説明していました。人間という誤解、錯覚を解いた先に真理、存在、大いなる一つがあると説きました。人間としていかに生きるか、何が正しいか、何を正義に生きるかを説いたとされる諸説は全て嘘です。どのような生き方が清く美しく、どのような生き方が不純で卑しいかという考え方は観念でありその観念に縛られている限り解放はありません。

五感は夢を夢たらしむためにある

見える、聞こえる、匂う、触れる、、、これらは夢の世界に没入するツール

夢から覚めずに夢を見続けるためには夢にリアリティーがなくてはなりません、そのために生まれたのが視覚、味覚、嗅覚、触覚、聴覚といった五感です。これらの感覚があるからこそこの夢にリアリティーが存在するわけです。この夢にどっぷり浸って入れるわけです、この苦しい現実から目覚めずにやっていけるわけです。ですがこの五感を駆使した夢の世界にほとほと疲れ果てなたならば逆にこの五感を使って夢から覚めることができるのです。行為に没入する、無我夢中になることで無我の境地を感じることができます。そこから悟りに入れます。

夢を楽しむためにある五感

人間の五感がなければこの夢を楽しむことはできません、夢にリアリティーがない、夢に没入できないわけです。この五感は夢に没入するための重要なツールになります。この五感が夢を継続するためにあるとすればもうこの五感に振り回される必要はありません、五感をそこまで信用しないことです。所詮はこの夢にリアリティーを与えるためにあるわけですから。むしろこの五感を使って、利用して無我に入るチャンスに使いましょう。そこから無我に入る、そこから無我夢中に入る、そこから自我を捨てて無我に入ります。

五感を使って欲を満たし続けても無限地獄が続く

自我の存続に五感は欠かせません。五感があるからこそ自我の存在を信じることができます。人間の体がそこに在るということに疑いを持たずに済みます。ですがこの五感を使って人間の欲求を満たし続けても満足ありません。不足感を解消し続けてもどこまで行ってもこの不足感が消えてなくなることはないのです。それはなぜか?人間の体があるというこの体こそが自分であるという五感をベースにした自覚は錯覚だからです。この錯覚を信じ続けている限りこれは事実とは違いますから違うという誤解が苦しみとなって生じ続けるわけです。そうです、苦しみとは誤解が生み出した感情でしかありません。