自我

既知(波物語)の中から未知(海)は発見できない

私たちが思考を使う時、それは波としての記憶からなる

なぜ思考で海を見つけることができないか、なぜマインドで全存在、ワンネスを発見することができなか、、それはその思考、マインドは海ではなく波として蓄積した記憶をベースに構築されるからです。そもそもが勘違いの初期設定の中で育まれた経験、記憶をベースに沸き起こった思考、マインドで真我を発見することはできません。自我は真我を発見できないのは自我そのものが勘違い、錯覚でありその存在が真我を発見できないのは当然です。既知の中から未知を発見できないとは自我が真我を発見できないと同意です。

心はなぜいつも間違えるのか

心が真我、真理、海、ワンネスを絶対に見つけることができないのは心とは波の記憶からなりその記憶は勘違いの集積だからです。勘違いの集積から生まれた感情、思考が真理を発見できるはずがありません。故に心は常に不安、不快、恐れ、不足に満ちそれゆえ常に新しい経験、安堵を探し続けることになりますが結果見つけることはできません。見つけようとするのは海で在ることを忘れた波であり分離した自我だからです。勘違いした存在(涙、自我)のままで真実を発見することはできないのです。故に人間は至福には至れないということになります。

思考はなぜいつも間違えるのか

思考は真理、真我、ワンネス、全存在を見つけることはできません。それは思考とは波であり、分離した自我であり、分離している勘違いしている人間の記憶をベースに沸き起こるからです。波物語、人間物語の中では真我は発見できません。真我とはこういうものだよ、ワンネスとはこういうものだよと聞いてもそれを思考は波物語人間物語の中で発見しようとしますがそこには真我はありません。真我とは夢から覚めた時に出現するものだからです。夢の外に存在するものを夢の中で探してもそこにはありません。

自分を意識しながら何かを経験することは不可能

所作に入り込むのが有効な理由

何かに没入しながら自分を意識するという同時進行は実質不可能です。茶道の所作に集中しながら自分を意識することは不可能です。人間は対象に没入する時は自分を忘れます。この感覚は自身を波ではなく海で在るということを思い出せるチャンスなのです。その証拠に所作に没入する時の無心感、安堵感、安定感は他に得ることができない感覚で在ることを知っています。

没入することをで得られる安堵感を知らない人間はお金を払ってそれをしてもらう

優秀な役者さんの舞台を見に行く、優秀な歌手のコンサートに行く、優秀な芸術家の古典を見に行く。これらの行為がなぜ起こるかといえばそこに行けば努力なしにその作品、芸術に集中できるからです。集中すれば無心になり安堵感、平和、歓喜が自然に訪れます。お金を払うことで自然と集中できるきっかけを貰っているのです。美味しい料理を高額を払って食べに行くのも味に集中している時に無心になれ結果無我に入り安堵、平和、歓喜そのものに一瞬なれているのです。人間の形をしながらもその瞬間だけは波ではなく海、安堵そのものになっているのです。

お金を払わなくても安堵そのものになれるならば、、

達人よ呼ばれる人々はお金を払うのではなく、自身の行為、所作に集中仕切ることで無心になり、無我になり、思考を排除して自我を取り去り、そのまま海になる、つまり安堵、平和、歓喜そのものに瞬時になれてしまう人々です。どのような条件にも関わらず所作に無心になることでその場で安堵そのものになってしまいます。それは仕事だけでなく掃除、会話、食事あらゆる人間活動の中からそこに入ります。そして最終的には自我のメカニズムを俯瞰し常に純粋意識、無我、海の状態でいられるようになります。

悟りに人格や準備が一切関係ない理由

悟りに人格や風貌、容姿が関係していると説くのは自我の策略

悟りとは自分がいないという絶対的感覚のみであって自分という存在の人格、風貌、年齢、能力は一切関係ありません。いなくなる存在の人格、タレント性、風貌が悟りと関係しているとしたら理論として破綻しています。海であることを忘れた波が消滅しそこに海だけが在る状態が覚醒、解脱ですから波の形状、質、温度は何も関係アありません。あまりに多くの誤った情報が氾濫しているのは悟りも準備が必要、選ばれし者だけが悟れるといういかにもこの人間社会に蔓延ったビジネスライクな香りがプンプンする世界ならではです。自我は人間は悟りすらも自我の向上、進化に使ってしまうのです。こういう条件が揃えば幸福、至福に至るという考え方は、こういうエクササイズをすれば体型が変わるという考え方に似ています。そしてそのような理論は自我に好かれます。

これは個人のことではない

世の中の多くの情報は個人の幸福の話です。最新のファッションを取り入れると個人が魅力的になる、、最新の髪型にすると個人がモテる、、この香水をつけると個人が人気者になる、、、全て個人がいかに今よりも良くなるかの情報で溢れています。ところが今回の覚醒、解脱、ノンディアリティーはその個人がいない、錯覚、誤解だという内容のメッセージです。個人を相手にしないのです、読んでいる個人に向かってあなたの存在は錯覚で本当はいないと断言する内容です。そしてその内容の本を個人が読んで腹落ちさせるという意味がわからない内容なのです。ですが個人と思い込んでいる存在は個人ではありませんからその内容を読んでも何も違和感はないのです。最初から読書する個人(波)は存在していなかったのです。個人に見える全体がその本を読んだというだけです。

それでも個人はいない

ガリレオはそれでも「地球は回っている」という言葉を残して裁判で負けたと言われています。これは今回の話と同じ、、この地球上で個人はいないんですよと大声で叫んでも賛同してくれる人はほぼいないでしょう。ですからこのことが議論になっても圧倒的多数決で負けるはずです。ですがやっぱり「それでも個人はいない」これが本当です。その証拠に個人がいるという証明は実質的にできないはずです。

海であることを忘れた波はマイノリティーを排除する

マイノリティーは多数波の餌食になる

集団的自我、自我は集団を作ってときにマウントを取ろうとします。自我そのものが不足感、欠乏感、飢餓感ですから他人との比較で少しでも優位に立とうとします。優位に立つことで少しでも自身が大きなった、豊かになったと勘違いしたいのです。それが集団としても機能するのが多数波の少数派への排除です。例えば関西へ行けば標準語は格好のネタにされますし、ヨーロッパに行けばアジア人は差別の対象になります。体育系の学校に行けばオタク系の学生はネタにされます。自我は人と自身を比較して少しでも優位に立つことで大きなったを実感し続けたいのです。

自分は本当は存在しないのでは?という恐れを常に抱いて生きている

海であることを忘れ波として生きる人間は、実は自身の存在が本当は存在していないのでは?という恐れを抱いています。実際に本当に存在していないのですから当然なのですがこの恐れは強烈にあります。海と波を区切る明確なラインはないにも関わらず人間は見た目が独立しているという理由で分離を表層的には疑っていないのですがとはいえこの心身の扱いに関しては誰もが手を焼いていることから何年経っても自分との関係をしっかりと気づくことができません。どんなに偉そうにしている大人も実は自分のことがよく分かっていないというのが真実です。だからこそ少しでも人よりも優位に立って一時でもいいから安心して生きていたいのです。

存在していないことを認めた方が楽

私はノンディアリティー、悟りについて学ぶにしたがって非常に楽になりました。自分の向上、自分の進化にほとほと疲れ果てていたこともあり、またこの先どこまで精神的満足、経済的満足を追い求めれば楽になるのかという終わりのない旅に不安を覚えていました。そんな自身にとって「自分はいない」という内容のメッセージは最後のウィーサルウェポン、核爆弾なみの破壊力とともに安心感を与えてくれるものだったのです。一生懸命自分と向き合い、努力し、諦めたら終わりを噛み締めながら生きてきた自分にとってこんな安心感は初めてのものでした。フルマラソンのゴールを教えてくれるようなものです。

海であることを忘れた波は悟りに興味を持たない

矛盾するようだが波は海に戻りたくない

私自身スピリチュアルに興味を持つようになって15年以上経ちますが驚くべきことに最初の13年間は本当の意味で悟りに興味を持てませんでした。スピリチュアルと悟り、二つは近い関係のようでいて実は全く異なります、異なるというよりも真逆と言っても良いかもしれません。今でこそはっきりと違いが理解できますが15年間もスピリチュアルを学んできてそこに気づきませんでした、かなり近いことを学んでいるような気になっていたという事実がいかに自我は悟りすらも活用して存続しようとするかの証明です。

スピリチュアルの多くは精神的欲求を満たすための道具になっている

人よりも多くのことを知っているという自覚は自我の大好物です。自我は人より知識を持っているという事実が自我の拡大、自我のマウンティングを強くします。私は優秀である、他人よりも多くの知識を理解する優秀な存在だ。このように自我は知識を利用するわけですがその中でもスピリチュアルに精通することはよりその傾向を強めます。多くの方は目に見える世界しか知らず自身は目に見えない世界にまで造詣が深いのだ、、これは自我にはたまらない喜びなのです。誰も知らない世界を我輩は知っているぞと。そしてこのスピリチュアルの世界の多くはどんなに複雑怪奇で摩訶不思議の世界であってもこの自我の存続にあっては寛容なのが特徴です。自我を肯定し、なんなら輪廻転生と呼んだ他の惑星ですらこの魂は移住して生き抜くという自我の存続には大変都合の良い話の展開になっているのです。この世で体が滅びてもまだ違う惑星、違う時代にこの魂という自我の別称は存続できるのだと。これで自我は胸を撫で下ろしてぐっすりと寝れるわけです。

悟りを正しく表記している本はなぜか読み進めることができなかった

悟り、解放、解脱、、これらを正しく説く本に出会ったことはこれまでも何度もあったのですがなぜか不思議にも興味を持てないのです。スピと悟りは兄弟であると捉えているにも関わらず読もうとすると強烈な無関心が襲ってきます。なんか読みにくいし説明も周りくどく不親切な本ばかりだと真剣に考えていました。読みたくなるのは精神世界でなおかつ自身(自我)が同時に豊かになる本ばかり。幸福になったり経済的に豊かになれると詠う本ばかりです。結局のところ悟りもスピもいかにこの自我が豊かになれるかを説いていると真剣に考えていました。だからこそ悟り系の本を読み進めていくと頭が混乱していつの間にか辞めてしまうという展開がほとんどに。

あなたは実はいないのだ、、

自我の終焉、自我の消滅、、悟りの本質はそこにある。本のタイトルでこのような言葉を徐々に目にし始め私は少しずつですがそこに興味を持ち始めました。これだけ経済的も精神的にも豊かになるための努力をし続けてきたにも関わらず気づけばまた貪るように次の本を読み進めている自分に気づきました。この戦いはどうやら終わりがないなと、、、。そこで私は覚悟を決め「悟り」「解放」「解脱」「ノンデュアリティー」を掲げる本に真剣に向き合うようになったのです。幸福になるあなたはいない、あなたがいなくなれば全てがOKになる、、至福とはあなたの欠落だ、、、、世の中の常識、成功哲学、スピリチュアルの内容はあなたの進化、あなたの努力、あなたのバイブスの上昇、これが当たり前ですが、、、悟り系だけが、、あなたがいなくなればいい、、、これは真逆、正反対の内容です。ですが今ではよく分かります。自我の存続は人類の興味でありそれ以外の情報はこの世では先ずまともに取り扱われないということが。

海であることを忘れた波がどれほど苦しんでいようと海はその姿を見続けている

波が生死を彷徨うような苦しみの中にいても海はその姿をただ見守る

波が生死を彷徨うぐらいに悩み苦しんでいる時、海はその姿をただ見守っています。波にとっての地獄は海にとっては波物語最大のチャンス、クライマックス、自身が実は海であったことに気づく最重要ポイントです。波が意気揚々と波自体の物語を楽しんでいる時、その楽しいがどこから生まれているかに気づくチャンスです。なぜ目標を達成した瞬間安堵感に包まれるのか、絶体絶命の事故に巻き込まれたときに思考が鋭敏になるのはなぜか、、過去には楽しかったゲームは毎日のように楽しくなくなっていくのはなぜか?全てこれは波と海の関係で説明がつきます。波が繰り広げる波物語の中には自身が実は海であったことに気づくチャンスに溢れているのです。

苦しい時は自我は苦しみに執着しないから自我が弱まる

禅の修行などかなり厳しい修行が悟りに用意されている話などたまに聞きますが、苦しみは自我を弱めます。例えば禅の修行が金銭的な豊かさや精神的豊かさを与えるようなものであったら自我は肥大化し続けていくでしょうかこれは成り立ちません。ですが修行が厳しければそこで自我が肥大化することはありません、なぜなら自我はその苦しみにしがみ付くことはないからです。俗世間では自我が肥大化するチャンスに溢れています。評価されること、称賛されること、他人との競争、経済的に恵まれること、、これらは全て自我が自身を大きくなったと錯覚するパターンです。ところが厳しいこと、苦しいこと、、これらで自我が肥大化することはありません。むしろ苦しみは自我の存在を海が見つけ出し、波(自我)が海に吸収される可能性を秘めます。

無我夢中とは

そもそも苦しいという感覚は海であることを忘れ自身を波と捉えることからスタートします。突然自身がちっぽけな存在になってしまったことで苦しみが自然発生的に生まれるのです、自我ができることはこの苦しみをできる限り直視しないで日々の生活の中に楽しみを探しこれを忘れることぐらいです。無我夢中という言葉は自分を忘れ夢の中にいることを指しますが実際はこの世こそ夢の中ですから夢の中ら無我とは夢の外へ出る行為なのです。夢の外とはつまり海になっているということです。無我夢中はその瞬間悟っている、波から海になっている、人間から全存在に戻っていることです。

海であることを忘れた波は生にしがみつく

海は生そのものあり、波は幻想であるが故に生にしがみつく

海が海(生)にしがみつくことはありません、自らが生そのものであるのに生にしがみつくのはあり得ません。ところが波は生の一部であるのは間違いないのですが完結した個別の波という実態は全くないのでその存在にしがみつくわけです。勿論波も生の表現であることは間違いないのですがこれを個別の分離した存在であると言うのは間違っています。どこからが波でどこからが海なのかという線は本来引けないわけですから個別の波と断言するのは滑稽な話なのです。ところが人間は私とはこの体、であり思考であると断言しようとします。結果逆にこの身体、心にしがみつくという衝動が生まれるのです。

個人がしがみつくのは生ではなく自我

これが私だという思考、これが自我ですがこれは後付けのものでありゆえに実態はありません。一度この実態のない私が誕生するとその存在が危ういゆえにこの存在、錯覚を守ろうとする力が生まれます。人が人を殺したり、人が人の命に危害を加えることに対しどの国でも最も罪が重くなっている理由はそれだけこの自我は生に執着している証拠でもあります。死ぬということを圧倒的に恐れているのは自我であり、ゆえに輪廻転生や魂、オーバーソウル、過去生、来世などの存在は自我にとって魅力的に映ります。この思考そのものもエネルギーですからこれらの思考は体が死んだ後も海、存在、生に吸収され存続する場合も多いのです。

輪廻転生や過去生、来世はアイデアでありエネルギー

波がいずれかの段階で海に再吸収された後も自我のエネルギーが存続する場合、また違った波となって波物語を継続します。その際には過去生の記憶を持った波として波物語を続けていく場合もあるのです。ですが輪廻転生や過去生の大前提である時間というものは海ではなく波の世界でしか存在しません。海の世界には時間も空間も存在せず時間と空間があるのは波の世界だけの話です。よってこの幻想、波物語が自我が作り出した幻想であると腹落ちした瞬間に自我も欠落し、輪廻転生も欠落します。海と時間は共存できないのです。仏教ではこれを解脱と言い、禅では見性などと言ったりします。

海であることを忘れた波は他人を攻撃する

他人を攻撃することで自分が大きくなったように感じたい

海であることを忘れた波は自身が非常にちっぽけな存在に感じますから人を攻撃することで大きくなったような感覚を手に入れようとします。ネットなどで芸能人を誹謗中傷するのを日常にしている人々は他人を攻撃することで一時的に自分(自我)が大きくなったと喜んでいるのです。ですがそれは錯覚ですからいずれ元の大きさに戻ります。そうなりますとまた他人を攻撃して自分を大きくしたいという衝動に駆られていきます。

他人を攻撃して撃ちまかせた瞬間に自分が大きくなったように感じるメカニズム

他人を攻撃して相手をコテンパに打ちまかせた瞬間自身の自我は大きくなったような感覚を覚えます。相手の自我よりも自身の方が大きい、強いと錯覚をすることができます。ですがそもそもが広大無辺な海である存在が相手に勝ったぐらいでその大きさには到底及ばないですからその大きくなった感覚はやがて虚しさにとって変わるわけです。なぜこれまで戦争が世界中に溢れていたかと言えばこのような集団的自我の働きによるものです。

人間がギャンブルや勝負事が好きな理由は自我の衝動

ギャンブルがこれほどまでに人間から人気があるかと言えば人間の勝負欲求にはこのような自我の働きが隠れているからです。そしてギャンブルはさらに勝負に自然と熱中できることで無心になれるという特典があります。そのため人はより無心になれるようによりハイレートなギャンブルにハマっていくのです。より綺麗な女性に勝負を挑む、よりハイスペックな男性を落とそうとする、、、など人間の勝負欲求は自我の巧妙な仕掛けによって成り立っているのです。

海であることを忘れた波は必ずいずれ海に戻る

波だと勘違いしようと何だろうと波の最終形態は海に戻るのみ

自身を広大な海ではなく極小の波だと勘違いすることからこの波物語はスタートするわけですが波の運命はすでに決まっていていずれは必ず海に戻ります。海に戻らない波はありません、なぜならば波とはいずれ消滅することが約束されているからです。太平洋のど真ん中で発生した波は何ヶ月もしないうちに必ず陸地にぶつかりそこで消滅します。この消滅を悟り、目覚め、覚醒と呼ぶのです。目が覚めるのは波ではなく勘違いしていた海が波が消滅することで我に帰るだけです。

どんなに苦しそうにしている人間がいても気にする必要はない

人生が最高にハッピーでいつまでも長生きしていたい、このような波として生きている人はいるでしょうしそれはそれで何の問題もありません。いずれは海に戻ります。一方で人生は悲惨で最悪でいち早くこの人生を終わりにしたいという波がいるかもしれません、ですがこれも全く問題ないのです。なぜならばそのような波はなるべき早く消滅し海に戻るだけだからです。最高にハッピーと宣っても、最悪にアンハッピーと宣う波も海の安心感、安堵感、歓喜に比べればどれも目糞鼻糞の世界、五十歩百歩の世界です。人間は所詮他人との比較でしか自分の幸福度を決めれないという稚拙な尺度しか持ち得ない生命体です。他人との比較で決め込んだ幸福度など海の幸福、安堵、平和とは次元が違うものです。つまり所詮は一時的な快楽でしかないのです。

真の幸福(海)は波の幸福度を超えたところにある

金メダリストや成功者のインタビューで結果を出せたときの喜びを聞きますが決して騙されてはいけません。波として何かを得てもそれは全て一時的な快楽、その快楽は一瞬で終わりを告げます。ですが何かを成し遂げたときにこみ上げてくるこの達成感と称される感情とは実は一瞬だけ海になったときの感覚なのです。だからこそ笑顔から安堵感や幸福感、至福が見えるのです。海を垣間見た人の表情を見せます。ところが自我(波)はすぐにその経験を自身の自我拡大に使ったりするから騙されてしまうのです。波が対象と一体になる瞬間だけ実は波が消え去り海に戻るわけですがこの海に戻った感覚こそが覚醒のヒント、海に戻るヒントです。

海であることを忘れた波は好奇心旺盛

波であることは素晴らしいアイデア

これまで自身を波だと勘違いすることの苦しみについて散々お伝えしてきましたが決してこれは悪いことばかりではありません。そもそも全存在である海が自身を勘違いすることがミスから起こるなどあるわけがないのです、これはこれで素晴らしい海の大冒険、好奇心から起こるミステリーなのです。ただそこには苦しみが伴います、それはこの初期設定上避けては通れないものです。自身がこの小さな波であると勘違いできれば出会う波、景色は最高にエキサイティングになります。自分以外に他の存在がいるなど海としては絶対に経験できないことだからです。自分じゃない存在(波)に出会う、自分じゃない存在(波)と会話する、、どれもが最高のエンタメ、海にとっては計り知れない感動があります。

波の大冒険は世界(海が形を変えたもの)は自分しか信じられないということからスタートする

生まれてきてからあなたは海ではなく波なのだという洗脳を受け続けることで海は次第に自身を波だと勘違いするようになっていきます。この洗脳の凄いところはそう信じれば信じるほどにこの世界が世知辛く、悲惨で、非常で、残酷で、信用できない世界に見えてくるということです。残虐無人、七転八倒、四面楚歌、、とにかく自分以外は信用できないと本気で思えてくるのです。これが波物語のスタート、オープニング、入り口です。海が海としては絶対に味わえない経験、感情、思考が滝のように湧いてきます。

子供(海)にとって大人(波)が怖いのは大人は洗脳されているから

子供は広大無辺な海として生きていますが大人は極小な波として生きています。子供にとって大人とは何か欠落してしまった存在、何か洗脳されてしまった存在、自分を見失っている存在そのものです。尊敬ではなく哀れみの対象ですらあります。ですが同時に最高にエキサイティングな存在(波)でもあります、海として体験できないことを毎日体験している存在(波)でもあるのです。ここで重要なのは本当は波という独立した存在は存在し得ないということです、波の範囲を明確に言い得ることは絶対にできません、ここからが波でここからが波以外など説明できないはずです、ですが自我(思考)はそこを曖昧にしながらも確実に存在するかのようにあらゆる説明をしていきます。だからこそ自我は常に不安でいっぱいなのです。この曖昧な盲点に気づかれてしまったら自身は即消去されてしまいます。