それは当たり前、、気づきの意識だから
多くの人が自分を大切にしようと思うのはこの私の中に閉じ込められてしまった気づきの意識に対する思いです。いつもこの全てを観察する存在、気づきの意識は、、、、いかなるときも気づき続けます、、、この存在がただこの体の中に入っているという錯覚が起きているだけで本当は気づきの意識の中で全部起こっています、それゆえ、、自分はこの自分が好きなのです。
どんなに役割に閉じ込められても
どんなに役割に閉じ込められても、、、父親、係長、男性、社会人、息子、、あらゆる役割がこの私にはついて回りますから、、気づきの意識もこの役割の中に閉じ込められていきます、、、ですが実際には閉じ込められるわけがなく、、、ただその錯覚だけが起きます、気づきの意識の中で。そしてこの錯覚が苦しみを増やしていきます。完全なる自業自得、気づきの意識の自業自得です。そしてだからこそこれは悲劇ではないのです、喜劇です、神の遊び。
気づきの意識として役割を演じる
全部は気づきの意識の中で起きている、、だからこの役割もただの現象です、、その役割をこなさなくてはこの現象界では生きていけないこともある、、、例えば車に乗れば、、ドライバーの役割を担わなくては死んでしまいます。。ということで気づきの意識は意識的にドラバーを担います、一時的に、、、そして私になります、それは一時的、、係長にもなります、、一時的に。。気づきの意識として、、このスタンスが崩れると、、役割に閉じ込められ苦しくなります。