自分

なぜ自分が好きなのか??

それは当たり前、、気づきの意識だから

多くの人が自分を大切にしようと思うのはこの私の中に閉じ込められてしまった気づきの意識に対する思いです。いつもこの全てを観察する存在、気づきの意識は、、、、いかなるときも気づき続けます、、、この存在がただこの体の中に入っているという錯覚が起きているだけで本当は気づきの意識の中で全部起こっています、それゆえ、、自分はこの自分が好きなのです。

どんなに役割に閉じ込められても

どんなに役割に閉じ込められても、、、父親、係長、男性、社会人、息子、、あらゆる役割がこの私にはついて回りますから、、気づきの意識もこの役割の中に閉じ込められていきます、、、ですが実際には閉じ込められるわけがなく、、、ただその錯覚だけが起きます、気づきの意識の中で。そしてこの錯覚が苦しみを増やしていきます。完全なる自業自得、気づきの意識の自業自得です。そしてだからこそこれは悲劇ではないのです、喜劇です、神の遊び。

気づきの意識として役割を演じる

全部は気づきの意識の中で起きている、、だからこの役割もただの現象です、、その役割をこなさなくてはこの現象界では生きていけないこともある、、、例えば車に乗れば、、ドライバーの役割を担わなくては死んでしまいます。。ということで気づきの意識は意識的にドラバーを担います、一時的に、、、そして私になります、それは一時的、、係長にもなります、、一時的に。。気づきの意識として、、このスタンスが崩れると、、役割に閉じ込められ苦しくなります。

自分がやっていると思い込む大人

緊張感

自分がやっている、、と思い込む大人には緊張感があります、、自由意志をフルに発揮している、、と思い込む大人には緊張感が走っています、、、一生懸命余裕をぶっこいているようにも見えますが、、ただそう見えるだけ、、なぜならば結果は自由意志とは全く関係なく、、起こるからです、、しかも自由意志も実はない、、地獄、、本当はこの自分は何も分かっていない、、因果関係など、、

ただ揺れ動く現象

ただ揺れ動く現象をコントロールできる存在など誰もいません、、この個人はこの現象に一因を与えるのみでしょう、、しかもその一因すら、、自由意志ではできない、、、にも関わらず個人はこの現象をコントロールしているという誤解を持つ場合が起こります、、、大人です、、、苦しい、、緊張感、、、知られたくない、、、

子供はこれに気づく

子供はこれに気づきます、、、この大人は何を緊張しているのか?と、、、何に怯えているのか???と、、、全部をコントロールしているかのように振る舞う大人の奥に凄まじい緊張感を感じるのです。覚者は全部が全部なすがまま、あるがままに気づきた人です、、この自分すらいない、、ただ現象そのものがる、それだけ、、だがそこには静寂があり、、至福、、全部の責任から解放される、、

今意識がある、、この意識が「自分」を意識することで苦しみが生まれる

自分という名詞を意識する気づきの意識

私を意識する気づきの意識、、自分を意識する気づきの意識、、〇〇○太を意識する気づきの意識、、、気づきの意識はたった一個しか意識を向けることができません、、、私に意識をすればそこにのみ意識が向きます、、、あらゆる経験は本当は気づきの意識がしていますが、、その経験の全てはこの私に意識が向いていきます。。。経験をしたことになった、、、私に意識が向くのです、、、

本当は経験しかないことに気づきの意識に気づかせる

目を閉じてコーヒーを飲めば分かります、、そこには飲む自分もコーヒーカップも存在せず、、、何かを何かが「感じる」しか存在しません、、何かは実はなく、、感じるしかないのです、、、どの辺り、、口になりますが、、それもないのです。口は名詞です、、、感じるは動詞です、、、感じるもない、、、経験しかないのです。。。経験も名詞、、経験という名前をついていない、、気づきがあるだけです。気づきの意識の気づきしかないのです。

これしか常にない

目を閉じて歩けば、、、足のアスファルトを踏み締める感覚だけがあります、、ですが足というのは名詞です、、アスファルトも名詞です、、ただ踏み締めるだけがあります、、、踏み締めるは動詞です、、ただこれがあります、、、、自分があらゆる物、人に囲まれてあらゆる経験を積んでいると思っていますが事実はこれしかありません、、気づきの意識がこれに気づいているだけです。気づきの意識がこれに気づくだけ、この世界に苦しみが湧きようがないのです。

上手くいくことでストーリー上の自分は勘違いする

自由意思万歳

ストーリー上私が上手くいくことは当然あります、、この時私は自身の自由意志に圧倒的な自信を持ちます、ストーリー上、、、私の自由意志に対しです。ですがなぜか苦しい、なぜか緊張感が走る、、、上手く行っているにも関わらず苦しいのです。上手くいけばいくほどに上手くいかせた「自分」に意識が向くわけです、自分に気づきの意識の意識が向くようになります、自分に焦点が合ってしまいます、、結果苦しみが湧き出します。

気づきの意識をどこに意識させるか

気づきの意識が気づきの意識そのものとして経験を意識しますと、、、至福に包まれます。気づきの意識が見かけ上の自分として経験を積むと、、苦しみが湧きます。。。自分の存在を忘れるぐらいに行為に意識が向くと至福が生まれます。幻想であるこの体の中の自分に意識が向けば行為に意識が向きませんから集中できません。何かに集中できるというのは自分を解脱してでこそです。気づきの意識そのものとして行為に意識が向くことを全集中、無我と呼びます。

苦しみのメカニズムを腹落ちさせる

後天的に発達した「自分」とは気づきの意識をこの名前に意識を向けさせるトレーニングの賜物です。何度も名前を呼ばれることで気づきの意識がここの意識します。するとこの自分としての視界が広がり、、そこには名前が付けられた独立分離した世界が広がります。花があり、コップがあり、PCがあり、TVがあります、、全部名前を覚えた物達です。ここに入ると苦しみが湧くのです。このメカニズムに気づく視点が湧いてきますともうここに取り込まれることができなくなります、、自分に取り込まれているに気づきの意識が気づくが起きるのです。

悟りとは苦しみのメカニズムの完全解明

苦しいのはなぜか???それは苦しみのメカニズムに気づいていないからです、気づきの意識が。。。。悟りとは苦しみのメカニズムの完全解明が起きることです、気づきの意識に。この自分が見て、触って、飲んで、歌っって、聞いて、味わっているという錯覚が起こることでこの苦しみが起こりました、、この事実をどこまで見破れるかです。気づきの意識がどこまでこのメカニズム解明に気づくかです。自分ではなく気づきの意識に気づきが起きるかですからどこまでいってもこの自分は無力なのです。

自分の存在を全く疑わない現代人

自我を作るのに三年がかりにも関わらず

生まれてきた子供に三年がかりで自我を形成させる、、自分という存在を認識させるにも関わらず、、我々はこの自我が絶対的な存在、実在だといつの間にか信じ切っています。。おかしい、、、元々そんなものは絶対に無いことを両親は知っています、、、なぜこの後天的存在に全権力を持たせるのか????自我の形成に伴って湧いてくる思考、、行動も一緒にして「その人の言動」となっていきます、そしてそれを赤の他人から評価される、さらにこの自分も人を評価する、、、

自我を否定すると、、、拒絶反応???うそやん

三年がかりで自我を形成しといて、、、あとでそんものは無いんですよ、、、と言われると、、拒絶反応が起きる、、、何かがおかしい、、、、この拒絶反応は、、、、無いことを知っている、、実は分かっている、、確信犯の反応、、、そうです、、、確信犯なのです、、、誰が、、、全体です。全体から起きた架空の存在「私」は架空ゆえにその存在を否定されると、、、激情が起きます。

架空の存在であることを知っている全体

全体からこの自我は湧き出しています、、そしてその架空の存在を起こし続けています、、、そしてこの存在を起こし続けるのは苦しいのです、、、ですから全体は苦しいに気づき続けている、、、、だがここで「自我ってないよね」という発言が起こると、、、「パニック」が全体か起きます。鼻を触り続ける友人に、、さっきから鼻を1時間触っているよ、、と言えばパニックが起こる、、、自我の存在を否定されると「パニック」がす自然現象として起きるのです。

自我がなくても何も問題なく毎日が進む

もともと存在していなかった自我、、ですからこの存在を無視しても何も問題は起きません、、、そしてそもそも自分が自由意志で言動を決めていたというこの不文律が実は幻想であったという気づきが起きますと、、、さらに問題が起きず進んでいきます、、、いや、、、自分が居ないが腹落ちすると、、、この人生そのものが消えてなくなり、、、ただこれがある、、に変わる、、ただ経験だけがあるに変わる、、、何もない、、、全部が現象、、、空足是色、色即是空が腹落ちします、、腹は幻想ですが、、、

自分が自由になることはできない

自分が居ないという気づきこそが自由

自分は自由を求めます、、、自由最高、、、ですが自分は自由になれない、、なぜか?この自分こそが自由を制限する存在だからです。自由とはなすがまま、、ですがこの自分は常に損得感情で生きる存在ですからなすがままと正反対の存在なのです。自由を憧れる自分こそがこの自由を遠ざける存在なのです。自分を大切にすればするほどに自由が遠ざかっていきます。

自分を自覚しながら自由になれない

自由最高、、それは本当です、、、ですが自分が自由になるはできない、、、この自分という世界と自らを分けた存在こそが全体(自由)を遠ざける存在そのものなのです。アメリカは自由、違います、、、この個人こそが自由を遠ざけているのです。自由とはなすがまま、ありのまま、自然無為、現象そのもの、、その中に自分をこしらえることで、、現象界に判断、分別を作り上げ自由がなくなるのです。

自分が自由になるのではない

本当の自由とは自分が自由になるのではなく、、自分が存在せず、、ただ全体の揺らぎだけがあることを悟ることです、自分が自由を獲得するのではなく、、、自由しか無かったことを悟ることです、、、個人が自由に憧れるのは、、、そもそも自由、全体、現象しかなかったからです、、、そこに自分をこしらえることで(これも自由)この体に自分が閉じ込められ自由への渇望が生まれたのです。

コンサートに夢中になって行くのは自分を忘れるため

目の前のアイドルに自分を奪ってもらう

コンサートに熱狂的になって行く人はアイドルに自分を奪ってもらいに行くのです。その瞬間好きなアイドルしか見えなくなり、、自分が消滅します、、、自我が消え去り、無我に入り至福に包まれるのです、至福そのものになるのです。そしてアイドルは目の前の熱狂的なファンを喜ばせようと、、自分を忘れ去り、無我に入ります。至福の共演です。

ファンの興奮を永続させる

ジャニーズ事務所がなぜ凄いのか????ファンの期待を裏切らない、、、ファンの心を奪ってあげることに忠実なのです、、定期的にコンサートを必ず開き、定期的に音楽を発表する、、定期的にファンミーティングを開き、定期的にドラマで主演をする、、、、こうやってファンの心を奪い続けてくれるのです。

そうか、、、無我になればいつでも至福に入れるのか???

ですがどこかで人に頼って無我に入ることを諦めなくてはならなくなります、、、なぜならばその興奮が永続するとは限らないからです、、無我に入る対象を仕事に変えればその場で無我に入れます、、もしくはこの事実を徹底的に理解し、、、思考の観察者(無我)になってしまう、、、アイドルに夢中になった状態を覚え、、何にでも集中することで毎日無我に入るトレーニングになります。

自分探しの旅とは

自分が居なかった、、

自分探しの旅に出る、、、、決して珍しい話ではありません、、、、何が幸福で何が不幸なのか???何にも分からなくなったから自分探しの旅にでよう、、、、気持ちは本当に分かります、、、ですがその答えが出ることはない、、なぜならば、、自分が居ないから、、、、アベシ、、、本当はいない自分を探す旅ほど辛いことはないのです、、、、

色々な経験をしたら、、、

色々な経験をしたら、、、自分が分かるのでは、、、、残念!!!!色々な経験をする自分が居ないのです、、、経験を積めば積むほどに、、自称自分は、、、大きくなっていきますが、、、実は居ない、、、あらゆる経験を積んでいるのは自分ではなく気づきの意識、意識そのもの、全体です。。。

自分が居ないという気づき、、

あれ、、この自分を無視したような行動をしている方が幸福では???大正解!!!そうです、この自分が居ないのでは???という前提で行動すると楽しいのです、嬉しいのです、至福なのです、、、自分なんかを探すよりも自分なんて居ないと思って気軽に行動のすると至福に囲まれます。なんのこっちゃです。これだけ重視し大切にしてきたこの自分を無視した方が至福に包まれる、、、えらいこっちゃです。

自分のゲームでは、見える世界は変わっていく

これはあくまでゲーム

このゲームは現象です、3Dです、五感で感じる蜃気楼です。このゲームの性質上、、観念が変わると見え方が変わります。見かけ上の私の価値観が変わるとそのフィルターを通じてこの現象を見ますから、、見え方が変わります。例えば子育て中は、、街を歩けば子供が沢山登場します、、例えばポルシェを買いたい、、そう思うと、、ポルシェが街中で登場します、、、エアージョーダン1がどうしても欲しい、、、街を歩くとエアージョーダン1が登場します、、現象を捉えるフィルター(価値観)が変わると現象の見え方が変わります。

事実を知ると当然価値観が変わる

頑張らない人間を見れば、、あつはなんて怠惰な奴なんだ、、、これが多くの日本人が持つ価値観でしょう、、ですが事実を知ってしまうともうそう思えない、、、事実はただそれが起こっているだけです、、そう見える現象が起こっているだけです。自分の意思で行動できる存在は居ません、全部全体からの起こりです。価値観ではなく、、事実に変わっていきます。。究極の事実を知る者、、、それが覚者ですが、、、これも実は嘘で究極の事実を知ると、、、知る自分が存在しないことを知るのです。

価値観が無くなる

価値観とはあくまでこの現象界での見方のことですね、、そうすると、、これが現象であること、これがただ全体からの起こりであること、そこにはどんな自己の介在も起きていないことが分かってしまうと、、見方がなくなります、、先ず見る「自分」が居ないのです。価値観とは「自分」とセットになっていることに気づきます。そうなると価値観が壊滅します、価値観が粉砕します、価値観が火炙りにされます。そこにはただ事実(全体)が残ります。

自分とは記憶に依存した存在

記憶はこの現象界に存在しない

この現象界はどこまでいっても在るように見える世界です、、この現象界に「何か」が在ることは絶対にないのです。すると記憶はどこに在るのか???記憶は空(サーバー)にあります。そして会話のたびにこのサーバー(空)から記憶が湧き出し会話は成り立っているのです。そしてこの記憶を受け取る場所こそが脳です、、脳も見かけ上の物、実態はありません、あくまで見かけ上、ゲーム上、、脳が記憶を受け取ります。

自分の存在を絶対視できるのは記憶があるから

見かけ上のこの体を通じて得た経験の全ては空(サーバー)に記憶されており、、、ゆえにこの体の存在を絶対視するという思考が起こります。そしてこの体の行動を全て決める存在「自分」が居るという感覚が起こるのです、全体(空)から。この体は自由意思で(見かけ上)動きますからこの自分がこに体の言動の全てを牛耳っているという思考が起こります。事実からみればこれは勘違いですが、、「勘違いだ」が起こらない限りこの「自分ゲーム」は何の問題もなく進みます。ただし全体(空)がこの体が私だという成り切り(起こる)は、、、同時に閉塞感を生み出しこれが「苦しい」を土台としたこの人生ゲームになるのです。

釈迦は悟り「人生とは苦である」と語った

人生とは苦なのです、、人生が無くなると絶対幸福になります。人生がない瞬間は熟睡と死です。もしくはこの自我、自分のメカニムを完全腹落ちし、、全体としてこの体を操るという全体主体のゲームに戻すほかありません。見える現象は全て蜃気楼、3D画像でありそこには中身はなく、、ゆえにそこには思考も感情もない、、これを虚無と捉えるか、、面白いと捉えるか、、、それすらも全体から湧いてきます。