真理

真理は信念ではない

信念の中に真実はない

真理は信念ではありません、信念こそが人間を人間たらしめている存在です。信念が今見える世界を構築します、そしてそこに人間は閉じ込められているのです。真理とはその信念による閉じ込め行為が嘘なのだということを露わにすることです。真理がこの信念のメカニズムを壊すのです。真理は信念ではないのです。過去の偉大な偉人たちが、、、生前に何かしらの信念を残していきますが、、、これはまだ真理に行き着いていない証拠なのです。

信念こそが我々をこの幻想の世界に閉じ込める

信念とは間違いなくその人の人生に基づいて打ち立てられます。その人が歩んできたことをベースに作り上げられていきます。これこそが実は見える世界、本質の世界の脳の解釈を構築します。脳がその信念をベースに本質のエネルギー、本質の世界を変化させるのです。本質のエネルギーはただそれだけです。それを信念が脳内で書き換えるのです、デフォルメします。

大きなことを成し遂げた人には信念がある

信念とはこの人間社会では大人が持つようなモノと称されます、ですが信念とはこの個人が確実に居てその個人が歩んできた人生が確実にあるという大誤解がベースになっているのです。ただしこの誤解が悪いということではありません、大誤解こそを真理がむしろやりたかったのですから。真理が大誤解のメカニズムを作り遊んでいるのが事実です。

ノンデュアリティの革命

金森将さんはノンデュアリティの革命家

私は日本人の非二元スピーカーを何人か注目していますが金森将さんはその中の一人です。彼の理論はとてつもなくシンプルでありながら誰でも実践できる理論を打ち上げています。この日常生活から非二元に触れるというモノです。瞑想をするでもなく思考観察をするでもなく花道など何かに集中するでもなく、、、日常生活にただシンプルに触れていくという画期的なメッセージです。ですがこれは真理を突いており素晴らしいアイデアです。

非二元を日常で触れ続けることで非二元を理解する

日常生活において非二元とは何か??それはこの体が五感で感じる瞬間です、朝起きてコーヒーを飲む、音楽が耳に入る、小鳥の声を聞く、青空を眺める、、シャワーが肌に触れる、、、、この全てが非二元です。つまりこの体に在るということ、体の感覚に今この瞬間在るということを実感する、、、この体の感覚こそが今ここに在るということ、非二元です。思考を放置してこの体に在り続ける、、、そして非二元に触れ続けることでそのまま非二元に馴染んでいく。。。禅などはこの手法をとるのかと思いますがこれを日常生活のあれこれで実践できるということが素晴らしい。

思考を放置

思考が湧いてきてもただ放置する、、、そこに関わらない、、無視を決め込むのでもなく、、、ただ放置する、、そして再び五感での体感に注力する、、、そこから非二元を感じる、、、非二元の素晴らしさが分かってくる、、、非二元になる、、、周りくどい説明は一切抜きにしてただ非二元に近づいていく、、、言葉や概念から非二元を理解するのではなくあくまで感じていく、、、ノンデュアリティの革命です。

探求をやめない限り全体は見えない

先ずは探求をやめる

自分とはこの居心地の悪さを常に解消すべく動き回る存在です。自分とは孤独感、喪失感の根本を見ようとはせず常に何かしらの行為でこれを解消しようとする存在です。自分に行動、探求を許せば自分はひたすらにこの行動を続けていくことになります。なぜならば今というここにただ居るのは非常に苦しいからです。だかこそ先ずは探求、行動を辞めなくてはなりません。いかに苦しくても先ず行動を止めること、ここがスタートです。

行動の先に真実がない

先ずは動け、、、これを人間は真理のように言います。ですが全体は自分の行動の中では絶対に見えないようになっています。なぜならば自分が動けるのは時空間の中だけだからです。目を見開いて全開で行動すればそこから時間、空間が生まれ出し、、幻想の世界にどっぷりと浸かることになるのです。そこには全体、神は居ません。

全体は個人が動くのを辞め、個人を解体すると現れる

全体とは個人が動くことを諦め、個人という構造を解体することでそこから現れます。個人という存在が全体を隠しているのであってその個人が全力で存在を探すのがギャグになります。個人という存在が抜け落ちた時こそ全体が出現します。個人が実は幻想であることを見抜くことで見える世界も幻想であり、、ゆえに動くことでは何も掴むことはできず、そしてそこに気づくしかありません。

自我の欠落こそ真のアイデンティティー

真のアイデンティティーは自我の欠落である

自我は本当の自分は誰か?本当の自分とはより崇高な自分ではないか、、と自身の向上に努めます。魅力ある自分、崇高な自分、霊的向上を果たした自分、バイブレーションが高い自分、、、、とこのように自分というものを大前提としてどこかに真の自分になれる機会を常に探していきます。ですが実際には皮肉にもこの自分の欠落こそが真のアイデンティティー、真の自分です。これは分離世界の消滅であり、全体の現れでもあります。

分離世界とは全く違う場所に真のアイデンティティーがあるわけではない

神はどこか遠くにいるのではなく、ノンデュアリティーもどこか遠くに在るのでもない、非二元も。そうです、自我が神、非二元、ノンデュアリティーを隠しているだけであって今ここにそれは存在しています。人間の脳が自分を作り、世界中に分離したあらゆる物、人を創造しました。これは全部人間の思考が作り出した幻想です。この魔法が溶けれ今ここに神、全存在、非二元が現れます。

自我はこれまで自助努力を尽くしてきた

自我はこれまで最大の努力をして人生をなんとか幸福に近づける努力をしてきました。ですがこのラットレースは尽きることがない地獄です、いかに早くこれは地獄だと悟ことが重要になります。そしてこの自我ベースの人生には限界がありこれを死ぬまで続けても至福には至れないことをいかに早く気づくかです。そして今再び自分に問うのです、自分とは何か?この探求が始まるといつかどこかでこの世の真理にぶち当たります。この自分こそが幻想であり、自分が見る世界もやはり脳が作り出した幻想である、、それを見抜くとそこに真実が広がります。

この世に真理を求める無駄

この世は個人個人全く違う

この世界は個人個人の価値観で構成されています、人口70億人全員が違う世界を生きているのです、ですからこの世界には真理は存在しません。それが答えです。ですが人はこの真理を求めます、とっておきの真実、とっておきの共通事項を求めるのです。ですがそんなものはないというのが真実です。これを聞いて困るという人はまだまだケツが青いということになります。真実を追い求めてきて疲れ果ててきた人にとってはこの言葉は救いなのです。

真理を求める理由は楽をしたい

とっておきのコツをこの人生に求めるのは当然のことです、もしもそれを得ることができれば一気に人生は楽になる気がします。ですから探究心が強い方はこの世の真理を追い求めるのは当然です。ですがそんなものはあり得ません、もしもあるならば早い段階でそれは発見され共有されているでしょう。これだけ幸福を追い求め幸福に飢えている人間が共有しないわけがないのです。ですが実際にはそれが共有されていないという事実がこれを証明しています。

唯一真理があるとすれば自分とは幻想であるということ

唯一真理なるものがあるとすればこの自分という存在、体、心、思考を自分と決めている取り決め、これが幻想であるということです。私はこの体、思考、感情であるというこの大前提が錯覚であるということこれだけです。この大前提が崩れますと歓喜、平和、安堵が押し寄せてくるということ、これだけが真実です。自分という存在がこの世界の中で発見したことは全てその方の価値観です。どこまで行っても幻想の域を出ません。

既知(波物語)の中から未知(海)は発見できない

私たちが思考を使う時、それは波としての記憶からなる

なぜ思考で海を見つけることができないか、なぜマインドで全存在、ワンネスを発見することができなか、、それはその思考、マインドは海ではなく波として蓄積した記憶をベースに構築されるからです。そもそもが勘違いの初期設定の中で育まれた経験、記憶をベースに沸き起こった思考、マインドで真我を発見することはできません。自我は真我を発見できないのは自我そのものが勘違い、錯覚でありその存在が真我を発見できないのは当然です。既知の中から未知を発見できないとは自我が真我を発見できないと同意です。

心はなぜいつも間違えるのか

心が真我、真理、海、ワンネスを絶対に見つけることができないのは心とは波の記憶からなりその記憶は勘違いの集積だからです。勘違いの集積から生まれた感情、思考が真理を発見できるはずがありません。故に心は常に不安、不快、恐れ、不足に満ちそれゆえ常に新しい経験、安堵を探し続けることになりますが結果見つけることはできません。見つけようとするのは海で在ることを忘れた波であり分離した自我だからです。勘違いした存在(涙、自我)のままで真実を発見することはできないのです。故に人間は至福には至れないということになります。

思考はなぜいつも間違えるのか

思考は真理、真我、ワンネス、全存在を見つけることはできません。それは思考とは波であり、分離した自我であり、分離している勘違いしている人間の記憶をベースに沸き起こるからです。波物語、人間物語の中では真我は発見できません。真我とはこういうものだよ、ワンネスとはこういうものだよと聞いてもそれを思考は波物語人間物語の中で発見しようとしますがそこには真我はありません。真我とは夢から覚めた時に出現するものだからです。夢の外に存在するものを夢の中で探してもそこにはありません。

真理は思考ではない

真理の場所はどこにある?

真理、存在を探してもどこにもありません。それは個人が探求して探すことで逆に真理、存在は隠れてしまうからです。探すという行為が真理を隠します。探すということは主体客体の世界、どこかに見つかる世界があるという矛盾を生みます。この二元の世界こそが分離の世界、この分離の世界に真理、存在はありません。分離の世界に存在するのは時間と空間という幻想がただあります。夢が広がるだけです。

真理は夢から覚めること

真理、存在は個人が存在するこの夢から覚めることを意味します。夢から醒めればただ存在だけがあります。そして夢から覚める張本人は個人ではなく存在自体です。個人の欠落、自我の欠落が存在です。存在を覆い隠してきた個人が欠落することで存在が存在を見つけるのです。個人とは存在を隠すための隠蓑です。自我とそしてそこから繰り広げられる夢舞台は存在が創造する夢です。

キリストも釈迦も夢の登場人物

キリストも釈迦も夢舞台の登場人物であることは間違いありません。つまり個人ではなくただの生命現象、存在の顕現でしかありません。ですが彼らが説いた内容は真理を説明していました。人間という誤解、錯覚を解いた先に真理、存在、大いなる一つがあると説きました。人間としていかに生きるか、何が正しいか、何を正義に生きるかを説いたとされる諸説は全て嘘です。どのような生き方が清く美しく、どのような生き方が不純で卑しいかという考え方は観念でありその観念に縛られている限り解放はありません。