映画

この世界が夢だとして、ではこの夢を見ているのは誰か

主人公は海であることを忘れた波、そしてこの波物語を見ているのは海

波物語は夢です、時間も、空間も本当はなく、、それは夢の中だけで存在しています。夢の中では時間も空間も自由自在、ただし夢の登場していない場所、登場人物は夢に登場していない間は存在しません。ですから主人公である「自分」も寝ている間や何に没頭している間、目をつぶっている間は姿をなくしています。海はこの夢を常に見ていますがそれは傍観者として高みから見ているのではありません。海は主人公(波)の五感+感情+思考を使ってこの夢を体験しています。

全ては幻想だが夢での体験は確実にある

夢ですから幻想です、ですがその夢の中で恐怖心、歓喜、安堵、幸福、、、湧いてくる感情は間違いなくあります。経験も確実にあるのです、夢として。夢ですがこの夢は海が投影したもの、海自身の投影を土台にしています。海が監督をし、海が海を使って舞台を作り、海が海自身を使って登場人物を登壇させ、海が海自身を使って(波)主人公を作る。海が変幻自在に変化してトータルでネットフリックス波物語を制作しています。

この夢から覚めるのは波ではない、海

マトリックスという映画では主人公のネオがこの夢から覚めるためにエージェントと戦い続けていきますが、、実際に眠っているのは海であり、、起きるのはやはり海です。主人公のネオ(波)ではありません。ただし波も海ですから正確には波を通じて海が目覚めるのです。ネオを通じてマトリックス映画全体が目覚めます。人間を通じて見えている世界全体が目覚めます。

夢から覚める

こんな緻密で巧妙な夢はない

生まれてから死ぬまで続くこの夢の完成度の高さはハリウッド映画やネットフリックスとは比較にならないものがあります。毎日気候が変わり、社会情勢も変わりつづけ、さらに自身の体も変化していきます。1日として同じ日はないようにこの夢は変化し続けます。毎日毎日変化していくこの夢に多くの方はこれが夢だという疑いなど一切持たずに生活し続けていくのです。99%以上の人は死ぬまでこれが夢だったということに気づきません。

もしかしたらこれが夢かもと一度でも疑問に持つと

ですがもしもこれが夢なのでは?と疑問に持つことができるようになると人生は大きな変化を起こします。夢だという可能性に日々気づいていくことになります。例えばこの物理次元と呼ばれる社会は有限の世界とも呼ばれますが、、、物があるという大前提で理論を構築していきますと、、日本の外には地球があり、地球の外には太陽系があり、太陽系の外には銀河系が、、銀河系の外には宇宙が、、宇宙の外には、、と延々と続く無限ループであることに気づきます。つまり人間が思っているようなこの物理次元は辻褄が合わないのです。ここだけとってもこの見えている世界は見えているようにはなっていないということがわかります。

触ればもちろんそこに人がいるが

この物理社会が夢だとして、、ですが当然人に触れればそこにしっかりと人はいます。触覚はこの夢のデフォルトです。匂いを嗅げば匂いがあります。嗅覚もデフォルトです。五感+思考+感情がデフォルトで設定されたこの夢を我々は実は生きています。映画マトリックスではないですが、、この夢を夢と見抜き夢から覚めるという決断をいつするか、、この夢の隣人は誰もそのタイミングを教えてくれません。

明晰夢とは

夢の途中でこれが夢であると気づくこと

明晰夢という言葉があります。これは夢を見ている最中にこれが夢だと気づくことです。この感覚をこの人間ゲームの最中に気づくこと。これが悟り、目覚め、一瞥体験です。そしてそれに気づくのは誰か、それはこの夢の主人公ではありません、夢を創造している存在、つまり本当の自分、我あり、です。

無我夢中の時、それでも意識があるのはなぜ?

無我夢中の状態、ゲームに没頭する、仕事に没頭する、映画に没頭する、、、このような状態にいる時意識はなくなっているでしょうか、無くなっているわけがありません。むしろ明晰、むしろ鋭敏な状態。決して朦朧ではなく意識そのものです。無我夢中なのに意識があるのはなぜでしょうか、無我なのだから自分はいないのになぜ意識はあるのか?それは自我こそが後付け、自我こそが錯覚、無意識状態だからです。自我がなくなればそこには意識だけが残るのです。この意識そのものの感覚を思い出すことこそが神、ワンネス、大いなる一つの状態です。至福の状態です。この感覚を思い出したならばこの意識で日々を送ることです、これがワンネスがこの夢を夢と理解した状態での生活、つまり明晰夢です。

何かに集中できる人はその瞬間神になっている

マイケルジョーダンが試合中に神になったとよく形容されますがこれは実は本当です。神がかったプレーと称されるその瞬間、実はそこには自我が消えていて無我だけが残ります。自我の勘違いが抜け落ちそこにが無我、神が残っています。神が意識が直接人間を動かしているのです。自我が払い退けられて状態、この状態を人はゾーンに入ると言いますがそのゾーンは意識の状態です。無意識ではなく意識しかない状態、自我が自分でプレーしているという勘違いをしていない状態です。この瞬間に意識的に入れる人は達人、仙人、悟り人、マスターと呼ばれます。神が人間ゲームを遊んでいる状態です。