映画

虚という抜け道

現実は苦しいから、、、

現実は苦しいから、、AKBにハマる、韓国アイドルにハマる、、スポーツ観戦にハマる、映画にハマる、小説にハマる、、、、これは、、、虚に逃げる方法です、、、、虚に逃げ続ける方法です、、、擬似体験に逃げる方法です、、、虚とは、、、虚しい、、、、虚しいに逃げているのです、、、刺激的だから、、、安全だから、、、虚の世界は安全なのです、、、、安全だから虚に逃げる、、だが虚は、、、、虚しいのです。

恐れという感情を壊す

虚に逃げる一番大きなポイントは安全だからです、、、、映画、小説、ゲーム、ネットフリックス、、、全部安全の塊、、、その中で擬似体験をして、、、、経験を積む、、、、だかそこは五感という、、、、絶対的な経験が欠落している、、、、だからそこは虚の世界、、、虚の世界は虚しいのです、、、どこまでも、、、、ならば、、恐れの感情を、、、、シンプルに削除してしまう、、、体を徹底的に動かして、、、恐れという感情を、、、手放す、、成仏させる、、、、すると自然と、、、虚の世界ではなく、、、この現実(幻想)の世界で五感を使った体験を始めます。

東洋医学では、、、

東洋医学では恐れの感情は腎膀胱経絡に溜まります、、、、これは体の前後中央のラインに走っている経絡です、、、このラインを通すことで、、、恐れの感情自体を解体できます、、、すると自然と、、、経験したいが湧いてくる、、、自然と五感を使って経験したいが湧いてくる、、、、虚の世界の中で、、、実が増えていく、、実が増えてくる、、、、実が増えれば充実、満足になる、、、、

虚の世界で虚を描く

思考とは虚への逃避

この世界は虚構です、幻想です、、、これはハッキリしています、、、完全なる虚です、、、虚と書いて虚しいと呼びます、、、虚しい世界です、、、、虚しい、、、、でも小さな子供たちは虚しそうにしていませんよね、、、満足して遊んでいますよね、、、サッカーボールを蹴っているだけで、、、楽しそうにしてる、大満足している、、、、なぜ??????五感を使って遊んでいるからです、、五感です、、、五感を使って遊ぶと楽しいのです、、、、

五感だけは実

この虚の世界で唯一の実とは何か????五感です、、、五感のみです、、、五感だけが真実です、、、この五感を使って使いまくると、、、実が重なっていき、、、実が重なっていき、、、充実が生まれます、、、、、虚しさが消えていきます、、、虚しいという感覚が薄れていきます、、、、小説が楽しい、映画が楽しい、、これは、、、虚構の世界で五感を使わずにする遊びです、、、、だから、、、、虚しいのです、、、擬似体験です、、、擬似体験は、、、自らの体験のアイデアぐらいでいい、、、、擬似体験が面白いから、、、擬似体験を重ねていても、、、、虚しいが続く、、、

五感の究極

悟りとは究極の五感体験です、、、、我々は勘違いした、、、、思考が作った概念の中で活動をしています、、、「私」も居ませんし、、、相手もいません、、、これは思考が作り出した幻想です、、、幻想は言葉で生まれていますから、、、、擬似体験中なのです、、、今擬似体験中なのです、、、、だから虚しいのです、、、、私が、、何かを体験する、、、という擬似体験の中に住むと、、、それは幻想ですから虚しいのです、、、、真実に中で生きますと、、、見える世界は幻想ですが、、、体験は真実になります、、、五感が作り出した真実の世界です、、、そして最後に五感すらもなかったという気づきが起きます、、、真実はあるがままで「五感」という言葉にもならない経験がそこで起こっていることに気づきます。

この体はなぜ体験ができるのか???

意識のフォーカス

映画に夢中になっている時、主人公にどっぷり意識が集中し、、、殴られたら本当に痛い、、、という感覚が湧く時があります、、、、意識は意識をそこに集中していくと、、感覚を作り出すことができるのです。。。。人間とは意識が最大限体に意識を集中させ、、、五感を感じるまでに感覚が作られた状態なのです、、、本来体は幻想です、、、幻想にも関わらず五感が働くのは意識のなせる技です。

熟睡とは

熟睡とは、、体向いていた意識が、、、意識を止め、、、意識が意識に意識している状態です、、、悟りと同じです、、、意識のベクトルをこの体ではなく、、、意識そのものに戻します、、、、意識が意識していない状態に戻します、、、するとこの体での五感体験が終わり、、意識が意識上で起こる幻想をそのままに気づくという状態が始まるのです。

体が在るという絶対的盲信

この体の五感は絶対的過ぎて、、我々はこの体の存在を絶対的に盲信します、、、本当は意識がこの体にフォーカスすることで五感が生まれました、、、、逆なのです、、、幻想はどこまでいっても五感体験など出来ません、、幻想に意識が意識した時だけ五感体験が生まれるのです。。。。全てが幻想であることが分かったら、、体に意識を向けるのを辞め、、、全現象をそのままに受け入れる時に、、、、この幻想の素晴らしさに気づきます。

事実と違う解釈を前提にした世界

「私がした」は事実ではない

なぜ浮気をしたんですか???なぜ不倫したんですか???なぜ覚醒剤に手を出したんですか????この質問は「全責任を個人が取ることができる」という前提で話が進んでいます、、、、、ですが実際にはその行動が起きたときに「個人」という存在は実在していません。個人が不在の状態の行動をなぜ責任を取ることができるのでしょうか????この大前提が、、この社会の常識になっているために「生き辛い」という感情が湧くのです。

「私」は何もできないし、、存在すらしない

「私」が本当に実在するならば、、、全行動に置いてこの「私」が確実に認識されていないといけません、、、マリオゲームをやるときに、、、マリオは確実に認識し続けています、、、居ない時は絶対にないのです。だとするならば、、、この幻想のゲーム上でも「私」が消えていい時などあってはならないのです、、ではどうですか??????美味しいビールを飲んでいる時、、「私」を忘れますね、、、感動する映画を観る時「私」を忘れますよね!!!!、、、居ない時間が確実にありますよね!!!!おかしい!!!!

つまり「私」は都合が良い時現れる思考

つまり、つまり、つまり、、、「私」とはたまに現れる思考に過ぎないのです、、、思考の産物です、、全行動、全思考、全感情を作り出すなどの偉業を達成できるような代物ではないのです。これが大前提です、新しい時代の大前提です。「私」など全く存在していなかった、、、です。この新しい大前提をベースに生きるがスタートしますと、、、とにかく楽です、、、だってそれが真実だからです。無理くりこねくり回して作り出した「私」物語が終わります。

本質が常に感じる

マッサージ

マッサージをすれば気持ちが良いを感じます、、誰が感じているのか????この私ではありません、絶対に、、なぜならば私は思考だからです、、、では誰だ???本質です、、本質がこの気持ちが良いを感じます、、、場所が移る、足の裏、、手、背中、、、、全部の場所で本質がその瞬間にこれを感じます、、、顔もやってほしいなーという思考が私ではなく、、その場で起こり、、それを本質が感じる、、、

映画

映画館に行く、、映画が上映されます、、、これを見ているのは誰でしょうか????「私」では絶対にありませんよ、、私は概念でしかないのでそれは不可能、、じゃあ誰が観ているのでしょうか???視界そのものが見ているのです、、、今映っている映像、、そのものの本質がこの映像に気づいているのです。「私」が存在していない以上、、本質が映像そのものに気づく以外ないじゃないですか。。楽しいが起こる、、、誰から「私」では絶対にないですよ、、、するとその場で楽しいが起こり、、、その瞬間に本質がこれに気づきます。

木に触る

木に触れる、、、感触、、、この感触は誰が感じているのか????私では絶対にないです、、私は概念ですから、、すると、、、この感触はその場で勝手に起きている、、、その場所こそがその場でこの感触を感じている、、、葉っぱを見る、この葉っぱを見ているのは誰か????私では絶対にない、、なぜならば「私」は思考です、、するとこの視覚に映る映像は、、映像そのものを作り出した本質が気づいている、、、

全ての経験はその場

全ての経験をしっかりと観察してみてください、、そして「私」という存在が全く居ないという前提で観察してみてください。するとその経験はその場でその場が直接作り出し感じていることが分かります、、、我々はどこまでいってもこん現象の背景であり、、背景がこの現象に気づき続けるということをやっています。そして背景と現象の関係には時間は全く必要なく、、、ただ経験、気づきが起き続けていることが分かります、、、今のこの「分かった」もこの場で起こり、、この場が回収します。

究極の静寂

自我が緩み始めると

自我が緩み始めますと、、静寂が日常生活の中に入り込んできます、、音が明晰に聞こえるようになります、、音を聞く自分の存在はなくなります、、音が音のまま聞こえます、、人が人のまま見えるようになります、、、植物が植物のまま感じることができます、、、何もしていなくても、、なんとなく幸せ、、周囲からどう見られたいとか、、その感覚も無くなっていく、、、周囲の反応そのものが自分のものというなんとも言えない感覚になります。

この場所で起こっていない情報

この場所で起きていないこと、、海外のニュース、海外のエンタメ、日本のエンタメ、芸能ニュース、経済ニュース、、、、そこに興味が向かなくなります、、なぜならばそれが実際には起きていないことを知っているからです。この場所以外では何も起きていないことを知っています、、、だから見る必要性がない、、私の知らないところでは事件が実は起きていない、、

あのニュースを知っておけば

あのニュースを知っていれば良かったのに、、、それがないのです、、起きていないのですから、、この場所以外では何も起きていないのです、、実際には。起きていないことをなぜ知る必要があるのか???ということです。事件は現場で起きているんだ、、、は映画の有名な言葉ですが、、、事件はこの場所でしか起きません。

究極の静寂

この場所以外では何も起きず、、ゆえになんの心配もしなくていい、、私の言動も全て、、、勝手に起こっていて何一つこの私は決めることができない、、ゆえになんの心配もしなくていい、、、本当はこレは夢物語で本当はこの奥に真実が隠れている、、だから何もしなければならないことはなく、ただここに居ればいい、、、ゆえに何の心配もしなくていい、、、これが徐々に分かってきますと、、究極の静寂を感じ始めます。

ストーリーの半ばまできてますが、、、

充分ストーリー背負ってますが何か????

いきなり「私」はイメージで、、この人生は夢の中の物語に過ぎない、、、て言われてしまっても、、、もうストーリーはかなり進んでいますから、、、どうすりゃいいんですか????という話です、、、、、何も問題はありません、、、このストーリーをストーリーと見抜いて生きていくだけです、、、これを漫画だと気づいて漫画を読んでいきます、、、、これを映画だと気づいて映画を観ていきます、、、

ワンネスの中でストーリーを敢えて生きる

ワンネスの中で、、、ストーリーを敢えて生きていくしか道はありません、、、分離を分離と見抜き、、分離の世界を生きていきます。。。この私をイメージと見抜き、私を生きます、、、、、何が変わるのか???深刻さが抜けます、、湧いてくる思考、行動が確実に変わります。。。。ストーリーを現実と勘違いしていた時の思考や感情が激変します。。。一度本当の現実を知ってしまったら、、もうストーリーを現実とは思うことはできません。

超現実

我々が生きる世界を現実と呼ぶならば、、超現実という場所があり、、その超現実の中で現実社会が広がっているという見方もあります。この現実は超現実から浮かび上がった世界、、、超現実を言語で分断し、、イメージ化し、、作り上げた世界こそが現実の世界です。。。今現実世界は超現実から湧く幻想ですから、、そこに居ることになっている人々はいつか超現実に戻りたいと切望します。。。

ストーリーを求めなくなる

映画が面白くない

本質はしっかりと分かっています、ストーリーはイメージで幻想、、本質はストーリーではないことを、、ですから本質に触れる時間が長くなっていきますとドラマ、映画、などなどストーリーに関心が無くなっていきます、なぜならば本質はストーリーではないから、、、ストーリーとは本質の中で作り出された想像物に過ぎません。本質は今この瞬間のみです。

ストーリーの中での喜怒哀楽に共感できない

ストーリーの中で主人公が喜怒哀楽を経験していく、、ですがこれはイメージの世界、、本質ではない、、本質に触れることが多くなりますと、、ストーリー内の喜怒哀楽に共感できなくなります。なぜならばそこに価値を見出せないから。。そしてストーリー内の喜怒哀楽は大勘違いが巻き起こしていますから、、ただの勘違いに見えてしまう、、、本当は全く深刻に考える必要がないのに、、と冷めてしまうのです。

ストーリーの中で幸福になれない

本当はストーリー内では絶対に幸福になれないことを知ってしまったらもう本気になって映画が観れません、、最初はこのストーリー内で幸福になれるのでは??と思い映画がそのまま学びになっていました、ですが今はそれがないことを知っています、、ハッピーエンドは全部嘘です、、、このストーリーがイメージに過ぎず、、このイメージの中に居る限り苦しみが続くことを今は分かっています。そうなりますと、、、ストーリーを本気で追いかけるなど無理です。

TVとは別の思考へのフォーカス

TV中毒

TVを見るのがストレス発散になるのは、、、自分という存在を忘れることができるからです、、、この自分ストーリーから一瞬外れることができます、、、、映画もこれと同じ、、、見ている期間は、、、見かけ上の私ではなく、、映画の主人公になりきり、、そのイメージに同化できます、、、だから多くの人は一日中TVを見たりするのです、、、ですがこれが苦しみを根本から解決できないのは、、、私の人生というイメージへのフォーカスから他人の人生へのフォーカスに一時的に移り変わっただけだからです。。夢の世界に居るという意味では何も変わっていないのです。

映画の世界に逃げる

映画に夢中でいれるのは、、、見ている間、、、この私の人生という映画から目を逸らすことができるからです。映画が終わればまた私の人生がリスタートします。。。そしてそのことを知っているからずっと映画を観続けようが、、、起こるのです。。ですがこれはどこまで行っても、、、イメージの世界です。。このイメージの世界には絶対幸福は存在しません。

映画の主人公がピンチに

映画の主人公が絶対的ピンチに、、、でも楽しい、、、これが映画の良いところです。。これが映画であって幻想であってイメージであることに気づいています。。。。これが答えです。。。この世界、現実の世界も言葉というラベルを貼ったイメージの世界です、、つまりこの見かけ上の私もイメージなのです。。これが分かるともう焦りがなくなる、、怖さがなくなる、、どうでもいい、、、だってイメージですから。。。イメージ上のキャラとしてのこの私は、、、このストーリーの中では絶対に幸福になれない、、、という気づきが起きます。

下北沢

この言葉にイメージを作る

見かけ上の私は下北沢という街に住んでいますが、、やはり見かけ上の他人にそれを話しますと、、「下北沢って古着の街ですよね」「下北沢ってオシャレですね」「下北沢って汚いですよね」「下北沢って若者の街ですよね」「下北沢って美容院ばっかりの街ですよね」と各々のイメージを話してきます、、この下北沢という言葉に全員がイメージを持っている、、つまり言葉とはイメージなのです。

イメージとイメージの擦り合わせ

下北沢にできた「ターリーズ」行きました????広いですよね!、、なんか明るすぎじゃないですか?店員さんがまだ慣れていないですよね、、、各々が「ターリーズ」というイメージを伝え合い、、すり合わせをしています。これが言葉の力です。。。。そしてそのイメージをしながらそのお店に行くと、、、そう見える、、これが言葉の威力です、、イメージ力、、、

イメージの世界に居るのが苦しい

世界中に対して良いイメージを想像し、、その想像の中で生きていようと、、、例えば「私は世界一運は良い」というイメージを持っていきていようとも、、、この「私」をイメージしている時点で本当は苦しいのです、、なぜならば「私」はイメージであって本質ではないからです。。この本質の世界の中にイメージのストーリーを作り上げ経験を作るのが苦しいのです、、本質でしかない絶対幸福(神)がイメージの世界に閉じ込められています。

トムクルーズがミッションインポッシブルをやり続ける

トムクルーズがミッションインポッシブルの映画の役をやり続けるのは大変です、、、あの役ができるのはトムクルーズ本人があの役に成り切れるからなのですが、、、これは大変なこと、、、イメージの世界に居続けるのは大変なのです、、、、これは神も同じで、、、神がイメージの世界に入り込むと、、苦しいが同時に湧いてきます、、これを感じるのは勿論神です。。。この苦しいを終わらせたいという衝動も湧いてきます、神から。この衝動を感じるのは勿論神です。